さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

なみの亜子『「ロフ」と言うとき』

2018年02月04日 | 現代短歌
白洲正子の小林秀雄について書いた文章で、小林が骨董に打ち込み始めた頃、いいものを見ると、たびたびある「感じが来る」ということがあって、それが直接鑑定にはつながらないというところが、骨董を見る修行になるのだと、骨董指南の青山二郎に小林ともども教えられたということを書いていた。

古典詩歌を読むことにおいても、突然あるものがいいと思えたりする時というのはあって、これはもうほとんど勘のようなものだから、いいも悪いもないのであるが、ここ最近では、中世歌人のある集にそういう感じを受けて、その感じをずっとあたため続けているのだが、現代の歌集や近代短歌の場合は、いつその感じが「来る」かわからないので、時々取り出してめくって見ていることが必要である。さて近刊の話を。

〇なみの亜子『「ロフ」と言うとき』より

あたらしき歩行にひとの動くとき犬の二頭は杖に即きゆく

 ※「即」に「つ」と振り仮名。

「ロフ」というのは、手術の影響で歩行に困難をきたした夫の使う杖の名前である。「ロフストランドクラッチ」というらしい。作者は十年以上前に吉野の山中に移住して、確か雑誌にも写真入りで紹介されていた記事をみたような記憶が私にはうっすらとある。それが今は夫の故郷の岸和田に移っていると「あとがき」にある。人生というのは、本当に思いもよらぬことがあるものだ。田舎の自然に浸りながら、犬と暮らす。それはひとつの夢の実現であったはずだ。

腹底よりごおっと出でくるひとの声ああ歩きたい歩きたいんや

まっくらな息溜まりゆく待合所朝のこころはそっとしておく

 体が思うにまかせぬ夫を思いやる歌は痛切である。なみの亜子の作品には、どこかぶ厚い印象を受けるところがあって、私はそれを変な表現かもしれないが、「肉身の持つ実体感が厚い」とメモしたことがあって、その直接のきっかけは忘れてしまったが、過去の歌集のどれかをみれば思い出すかもしれない。

なにものも渡らぬ鉄橋このようにさびしきものを渡す山合い

 こういう歌が、最初みた時は何とも思わなかったのだが、あとになってもう一度見るといいと思った。そういう歌がけっこうあるのだ。詩歌の集を読むことのむずかしさは、そこにある。これも夫のことを思う一連の歌のひとつで、夫のことを思うからこそ、こういう「ないものをない」と言う事が、歌になるのだ。がらんと開いた空間を埋めるのは、私の淋しい感情だ。

どんぐりの帽子拾いつつ山をゆく人だって失いたくないものを失う

冬雨に朝は濡れおり 床ふかく沈めるわれを引き上げよわれは

 ※「床」に「とこ」と振り仮名。

 この本には、冬の山住みの厳しさが感じられる。私より適任の読者がいるにちがいないが、寸感を記してみた。