さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

さいとうなおこ『子規はずっとここにいる 根岸子規庵春秋』

2018年01月01日 | 
 本をひろげて、ただ読んでいる。何も考えずに、活字を追っているということ。これにまさる楽しみはない。それが、いい本ならば。さいとうさんの文章は、引用された子規の言葉や、周辺の人々のエピソードを磁石が砂鉄を引き寄せるみたいに、すいっ、すいっと取り込みながら流れてゆく。実に安らかで、描く対象についての愛情に満ちている。

 子規の散文が、そもそもそういう性格のものだった。自分の日々の経験というものを全身全霊をあげて味わい尽くそうとする執念を持ちながら、恬淡とした筆遣いで冷静に注意深く、観察した事象を書き留めた。細部にこだわり抜く一方で、きっかけがあれば想像の翼を思い切り大きく拡げた。和漢の古典、とりわけ俳書の分類と書き写しによって培った豊かな語彙が、子規の詩嚢を膨らませた。子規はコピペではなく、筆写文化によって生まれ育った人である。

 さいとうさんの文章は、子規の言葉の片々を書き写すところから動きはじめる。これは、ただ引用しているのではない。子規のように文章を見て、観て、触って、筆の字をモノとしての手触りを確かめながら写しているのである。それが楽しくて仕方がないことがわかる。観入しているのである。

 さいとうさんは一度目をいためたことがある。手術をした話を聞いたことがあるが、いまもそんなに良くはないはずだ。無理はできない。その中で、これと決めた子規の文章の一節を引いて、言葉のひとつひとつの持っている響きを確かめながら、惜しむように、つぶやくように書いている。とりわけ子規の家族や周辺の人々に注ぐまなざしがやさしい。子規庵の維持保存活動にかかわりながら、だんだんに高まって来た一種の使命感のようなものに支えられて、一六〇ページの小冊子だけれども、宝物のような本がここにできあがった。

 巻末の年譜は、子規の病歴に焦点を当てて書かれている。これは案外大事なところで、これによって子規の病勢を意識しながら全集その他の文章に当たることが容易になった。