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さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

柴田典昭『猪鼻坂』

2017年12月23日 | 現代短歌
 黙想する歩行者のうた。やって来る真新しい出来事が良いことばかりではないなかで、日常の時間のなかに聖別されたもの、うつくしいものを見出してゆこうとする志はますます確かである。二〇一一年に始まり、二〇一六年までの作品を編年順に並べている。ということは、どうしてもあの東日本の大地震以降の時間、ということを意識せざるを得ない。作者は浜松市の人だから、直接的にかかわりのある歌は多くないが、この間に自身も知命の歳となって、よりいっそう生きる時間や死者とのかかわりというものに対する意識が鋭くなっている。「一世」ということが、振り返るものになって見えてきて、だんだん追憶の歌が多くなって来る。そこにおいて、百歳の祖母の存在はなにか心の支えのようなものとなっているのである。

 百歳の盲目となりたる祖母の日の射す方へ向きて微笑む
 
  ※「盲目」に「めしひ」、「祖母」に「おほはは」と振り仮名。

 曾祖母と握り合ふとき子らの手にしづかに水は流れてをらむ

 百歳の祖母ゆつくり素麺の光る一条ひとすじを食ぶ

  ※「祖母」に「おほはは」、「一条」に「ひとすじ」、「食」に「たう」と振り仮名。

一首目は、歌集巻頭の歌である。三首目は、別の一連から引いた。フェルメールの画面のような静かな気配を湛えた絵が、百歳の「祖母(おほはは)」を詠んだ歌には見える。それは和語の響きと旧仮名のなだらかな曲線によってもたらされる快さと溶け合いながら見えて来る絵である。「素麺の光る一条ひとすじ」は、この上なく美しい。

 工場に勤しみ詩魂を磨きゐし隆明を思はむよき歌詠まむ

  ※「勤」しみ、に「いそ」しみ、と振り仮名。

隆明は逝き除染の山残り〈まぼろし〉共に夢見む日は来ぬ

「装ひせよ、わが魂よ」といふこころざし示しし髙橋たか子も逝きぬ

コラールの厳しき響きの彼方にてバッハがたか子が見据ゑし現実

  ※「現実」に「うつつ」と平仮名。「高橋」の「高」の活字は、はしご「高」。

思想家の吉本隆明への挽歌。作者は昭和三十一(一九五六)年生れだが、大学にはまだ吉本隆明を読んで談論風発する学生たちが残っていただろう。西欧思想というものを正面から受け止めてそれと格闘しようとする姿勢が、あの頃までの若者にはあった。理念ということを若者たちが考えた。一つの世代には、ひとつの世代の課題のようなものがあるので、そこはきちんと言っておく、確かめるということでもある。髙橋たか子の名前もそれを象徴する名前のひとつである。ほかに、

冬の日の狐の嫁入り降り残し榛名貢の葬儀は果てぬ

文庫本『極光のかげに』を取り出だす師走の寒波近づくゆふべ

お人好し静岡人の澱として石原吉郎、高杉一郎

  ※「澱」に「おり」と振り仮名。

続けて、地名の出て来る作品がおもしろいので引いてみたい。

  中田島砂丘の横腹洗はれて高度成長の塵芥食み出づ

  ※「塵芥」に「あくた」と振り仮名。

 浜松の松にざざんざの伝へあり永遠なるときのざざんざざざんざ

  ※「永遠」に「とは」と振り仮名。

渦巻きて鴉の群れの舞ひ上がる源太物見の松の木のうへ

西山の夕映え湖へと移りゆき朱泥の中を龍はぬたうつ

 ※「湖」に「うみ」と振り仮名。