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さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

萩岡良博『周老王』

2017年12月09日 | 現代短歌 文学 文化
私は前の職場にいた地域の人たちを対象にした短歌の勉強会をずっと続けている。そこでは月々の詠草の批評と、新歌集の紹介を行っている。その際に、この頃は全員で声を合わせて五、六ページ、コピーしたものを読むことにしている。読んでいるうちに、笑い声があがったり、ほぅ、とか、はぁ、という感嘆の声が聞こえたり、「どういう意味かしら」というようなざわめきが起きたりして、時々私はそれに合の手を入れる。時間がない時は、よむだけでもよい。みな共感的な読者だから、作品もちゃんと成仏するのである。
 
 今日は萩岡良博氏の『周老王』の冒頭の何ページかを読んだ。読み終わってから、わかりやすいし、いいねぇ、というような声が聞こえた。

  蕗の薹天麩羅にして食べをり身過ぎのにがさも春の香に立つ
  
    ※「食」べ、に「たう」べ、と振り仮名。「ふきのとう てんぷらにして
とうべおり」と読む。

  支払ひに札ばかり出しし母の財布あまたの小銭にふくらみてをり

  粗相して神妙に侘びしことも母は忘れてしまふ一時間のち
 
  大坂で空襲に遭ひ「こはかつた」と真夜中に泣く二十歳の母は
  
  母ほうけ少年は老ゆたまかぎる昭和の家族はろかなりけり

途中で、「かなしいわね」と小さな声が聞こえる。一人で読んでいると、かなしくても「かなしいわね」という反応や反響を自分のなかにとどめないで、そのまま読んでいってしまうということがある。ここで読んでいる十数人は、みなそれなりに人生の年輪を重ねてきて、自分の近親や知人の老いる姿に接しながら、こうした生活の諸相を見聞きして、よく知っている方々である。思い当たる、のみならず、わが事のように感じて読んでいる。

  雪の森に雪けむり立つきらきらと時間はときに見ゆることあり

  雪折れの葉につきをりし山繭は地に積もりたる雪にともれり

  雪山の樹樹しづかなり聞こゆるはおのれの息の音ばかりなる

  淡雪の降りてはや消ぬ鉄檻の罠にかかりしゐのししのゐて

音と意味とが清冽な響きとなって円熟した歌境を伝えている。山の歌を引いてみたい。どれを引いてもいいように思う。
  
  朝なさなうちあふぐなり劫初の火しづめてあをき貝ヶ平山
  
  双つ峰は夜空にあをく息づけり銀河の愛撫しづかに受けて
 
  ※「峰」に「ね」と振り仮名。
 
  あきらめし夢めぶく日よなだらかな山のなだりを目でなぞりつつ
 
作者には『前登志夫論』というすぐれた論考がある。どうしても師の歌業を継承するものと人は見がちであるが、言うならば師の言葉は身の内に入ってしまっているものなので、ここには前登志夫が作者とともに生きているのだ。そうして、どの歌も独自のやさしい、やわらかな響きを持っており、それは師の鋭角のまっしぐらに孤絶の峰を渡ってゆく感性とはまたちがった、包容力の大きさのようなものを保持している。それが、母との日々によってもたらされていることもよくわかり、「たまかぎる昭和の家族はろかなりけり」という感慨を共有する人は多いだろうと思う。