時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百六十五)

2007-09-11 06:05:04 | 蒲殿春秋
鎌倉も残暑の頃が終わろうとしていた。
海から入ってくる夜風が心地よい。
その風を拒むかのように二人の男が締め切った一室でひそやかなる話をしていた。

「これで都の方々もわれらの上洛を信じたであろうな」
「御意」
「我等が上洛とならば、院もわしからの文を無視し続けるわけには行くまい」
「さようにございます」
主従は静かにうなづきあった。

「殿、しかし上総介殿まで上洛を本気にして私に殿をお止めするように
と申してまいりました。」
「ほう。だが、上総介までが本気に信じたとあらばわしの企みも成功したと
いえるのではないか?のう平三」
「御意」
ここ鎌倉大蔵御所の奥まった一室で源頼朝と梶原景時の主従二人の密談
が進む。

「それにしても一条忠頼も駿河にわしの仮屋が建てられては心中穏やかではあるまい」
「確かに、駿河は御自分のものと思うておられるようですからな」
「駿河はまだ誰のものでもない。駿河の住人は甲斐の家人でもあるがわしの郎党でもある」
「それは武蔵も同様にございますが」
「それも困るのよ。武蔵の者はわしの家人で、甲斐の郎党で、しかも木曽殿をも主と仰いでいるものもおる。
一人の住人が二人も三人もの主に仕えておる。」
「しかも、陰で平家や平泉にも誼を通じているものもある、と」
「今はそれでも良いが、いづれ主は一人に決めてもらわねばならぬ」
「そのただ一人の主とは」
「もちろん、わしに決まっておる」
「その為にも」
「院にわしの文を受け取ってもらわねばならぬ」
二人はあらためて見つめあった。

一方ここ三河では範頼が鎌倉行きの是非を逡巡していた。
尾張にいた安田義定は尾張の反平家勢力の惹起を促し終えると
遠江へと戻っていった。
国衙に叔父の源行家がいるが現在は影が薄い。
西三河に滞在する範頼が不在の間に尾張が平家に攻め寄せられればどうなるのか?
今範頼が三河を離れるのは危険であった。

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蒲殿春秋(百六十四)

2007-09-10 05:12:51 | 蒲殿春秋
頼朝に上洛(都へ上ること)の意向がある、
そう伝えると安達盛長は早々に鎌倉へと引き上げた。

兄頼朝の上洛の意を聞いた範頼は半信半疑であった。
━━ 兄はとても上洛などできる状況ではない筈。
南坂東の豪族たちの多くは一応頼朝には従ってはいる。
しかし、その一方では密かに平家や奥州藤原氏と連絡を取っているものもいるという。
また、頼朝に従った者達に滅ぼされた諸勢力の残党の活動も懸念される。
さらに、常陸においては佐竹氏の勢力が未だに無視できないものがあり
その動向が気にかかる。奥州藤原氏がどうでるのかもわからない。
このような状況で頼朝が鎌倉を離れたらどのようなことになるのか・・・

しかし、数日後頼朝の上洛の準備が本当に行なわれているという話が
ここ三河にも伝わってきた。
頼朝の舅北条時政が新しく迎えた若妻の父牧宗親が頼朝の上洛に備えて
仮屋を準備しているという。
牧宗親は駿河の有力者の一人である。

━━ 本気なのか? ━━

範頼は兄の正気を疑った。
今坂東を離れるのは危険ではないのか?

兄に対する疑問が深まった頃、安達盛長が今度は大量の荷駄を抱えて再び三河へとやってきた。
何でも近々上洛する頼朝への協力を在地勢力に頼むための手土産だという。
その手土産の中には、多くの食糧も入っていた。
打ち続く平家との戦いに疲弊し、天候不順の為凶作が心配されているここ三河の人々にとっては
涙が出るほどありがたい手土産であった。
笑顔で手土産を配る盛長。
如才無く頼朝への協力を呼びかける。

手土産を一通り渡し終わると盛長は範頼の元にやってきた。
その盛長に範頼は率直な疑問をぶつけてみた。
「兄上は本当に上洛なさるのですか?」
との問いに
「さようでございます」
と盛長は答える。
「なぜに?」
と再び問うと
「ならば、鎌倉殿にお会いしてじかにそのご存念をお伺いになられてはいかがでしょうか?」
と返された。
「蒲殿、是非一度鎌倉へお越しくださいませぬか?」

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蒲殿春秋(百六十三)

2007-09-08 05:29:17 | 蒲殿春秋
三河額田郡に滞在する範頼の元に安達藤九郎盛長が現れたのは
養和元年(1181年、七月に治承五年から改元)の夏も終わろうとしていた頃のことであった。
盛長の来訪を、範頼の元に出入りしていた額田郡の豪族たちは快く出迎えた。

三河国額田郡は元々頼朝の母の実家熱田大宮司家の影響が強い。
頼朝の乳母子を妻に持つ盛長も熱田大宮司家との縁は深い。
額田郡の豪族達は盛長とは顔見知りが多いのである。
また、腰が低く丁寧で会うだけで人を安心させる何かを持っている盛長の人徳もあり
額田郡の人々から彼は慕われている。

盛長、範頼を囲んでの宴会は延々と続いた。
人々は踊り、唄い、高らかに笑い終始和やかであった。
額田郡の人々は次々と酒を盛長に進めるのであるが
驚くべきことに盛長はいくら飲んでも全く乱れない。
進められる杯を次々と飲み干しても顔色を全く変えない。
そして穏やかな微笑みをたたえながら相槌を打ち
相手の話を上手く引き出している。
盛長と話をした男達はさらに陽気になり、再び盛長に酒を勧める。
「いやいや、ご勘弁を」
と言いながら結局盛長は杯を飲み干すのであるが、
その後次々と進められる酒を飲んでもまったく乱れない。
逆に「では、それがしからも一献」と屈託のない笑顔の盛長から
返杯を進められた男達は次々と酔いつぶれていく。

かくて宴会のあける頃には二三の人と盛長を除く人々は
酒の席で酔いつぶれてしまうことになる。
勿論範頼は真っ先に酔いつぶれて深い眠りについてしまっていた。

翌朝、男達が帰り、範頼の元には盛長とそれぞれの従者たちのみが残った。
二日酔いで痛む頭を抑えながら起き上がった範頼に盛長は
「お人払いを」と申し出た。
部屋には二人だけが残った。
そして盛長は範頼に次のように告げた。
「鎌倉殿は、近いうちに上洛されるとのご意向です。
東海道を通られるので、道筋にあたる三河の蒲殿にも上洛にご協力いただきたい。」

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頼朝のお引越し

2007-09-07 05:48:55 | 源平時代に関するたわごと
頼朝は伊豆で挙兵してから、石橋山で敗北するものの
その後勢力を盛り返し、治承四年(1180年)十月には鎌倉に入ります。

同年十二月十二日には
「大蔵御所」が完成し、そこへ頼朝が大勢の御家人たちを引き連れて
御移徒(お引越し)の儀式が盛大に行なわれます。

このお引越しの儀式の日を鎌倉幕府の成立の日と唱える説もあるそうです。

ところが、その半年後「吾妻鏡」に気になる記事が再び現れます。

治承五年(1181年)六月十三日
「新所に御移徒なり」
御移徒の意味をどのように捉えるかによりけりだとは思いますが
「御移徒=引越し」と捉えるのならば
前年大蔵御所に盛大に引越しの儀式を執り行った頼朝が
その半年後再びお引越しをしたことになります。

もっとも、その少し前の記事に大姫の屋敷や厩を作る話が出ていますので
それと平行して大蔵御所内に自身の私的な屋敷を作って
私的なお引越しをしたに過ぎないと捉えることができるかも知れませんが、
盛大な大蔵御所のお引越しの半年後に出てくる「御移徒」の三文字が
なにか深い意味を持っているかのような気がして仕方有りません。

(「玉葉」によると治承五年三月頃の坂東は非常に不安定な状況だったようです)

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横田河原の戦いの日付

2007-09-06 05:05:01 | 蒲殿春秋解説
横田河原の合戦の日付は史料によって相違が見られます。

玉葉治承五年(1181年)六月十三日 (治承五年七月一日条)
延慶本平家物語 治承五年(1181年)六月頃(日付は書かれていないが前後の文脈からその時期と推定できる)
語り系平家物語寿永元年(1182年)九月九日
吾妻鏡 寿永元年(1182年)十月九日
この場合リアルタイムで記された史料であることを考えますと 「玉葉」がもっとも信頼できると考えられます。 それにしても何故吾妻鏡は編纂する際合戦の日時を一年以上ずらして記載したのでしょうか? また、語り系平家物語のズレも気になります。

「横田河原の戦い」の前ふりともなる 「城資永の急死」の日時も各史料で異なります。
「延慶本平家物語」治承五年(1181年)(閏?)二月二十四日
「玉葉」治承五年(1181年)三月以前
「語り系平家物語」」治承五年(1181年)六月十六日
「吾妻鏡」養和元年(1181年)九月三日


このあたりの日付の差異の理由も気になります。

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墨股以降横田河原の戦いまで

2007-09-04 05:25:20 | 年表
史料名 (玉)ー玉葉 (吾)ー吾妻鏡

日付 頼朝勢力 信濃 東海道 その他 平家
3月26日         重衡都へ帰る(玉)
3月28日     坂東の勇士三河へ越えてきた(玉)    
4月1日 頼朝鶴岡参拝(吾)        
4月7日 頼朝寝所警護者選任(吾)        
4月9日     坂東の勇士尾張へ越えてきた(玉)    
4月21日 関東の諸国頼朝に従う、佐竹勢三千常陸に引きこもるの報(約40日前の状況)(玉)        
4月22日 武蔵のもの多く頼朝に背く(玉)        
5月1日 頼朝上洛の意向。武蔵のもの頼朝に従わないもの多し(玉)        
5月13日 鶴岡造作の為材木選定(吾)        
5月23日 大姫の家を立てる計画(吾)        
6月13日 頼朝新所に御移徒(吾) 横田河原の戦い(玉)      
7月17日       加賀の国人東国に同意の動き、その動向越前の及ぶ(玉)  
7月18日         平通盛北陸に下向と聞く(玉)
7月21日       播磨国国司に背くものあり(玉)  
7月24日 鶴岡上棟(吾)        


日にちが特定できないものの、この時期起こったと推定される出来事

藤原秀衡、郎党に会津に篭る城助職を追い落とさせようとした。
(「玉葉」治承五年七月一日条)

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蒲殿春秋(百六十二)

2007-09-01 05:22:56 | 蒲殿春秋
横田河原の戦いにおいて勝利した信濃勢は一気に越後へと攻め寄せた。
越後に入った義仲らを止めるものはいなかった。
今まで城氏に従っていた者達はことごとく彼に離反していた。

なんの抵抗も受けずに義仲らはやすやすと越後国府に入った。
一方越後を追われた城助職はひとまず陸奥国会津へと落ち延びた。

しかし、そこも安住の地ではなかった。

藤原秀衡の配下の豪族たちは、会津の地を欲していた。
今まで会津においては城氏の勢力が強大だったためその地に手出しはできなかった。
しかし、城助職が戦に破れ、越後の地を追われた。
奥州の豪族たちは好機と思った。
会津に立てこもっていた助職は奥州の豪族達の襲撃を受けた。
奥州藤原氏は会津を完全に支配下に置いた。
助職は、何処とも無く逃げ去った。

城助職はその後長茂と名を改めて再び歴史上に登場することになるのであるが、
治承五年六月に起こった横田河原の戦い以降
越後で強勢を誇っていた城氏はしばらく息を潜めることになる。

一方、義仲はこの戦いで、信濃における反平家勢力中心人物の座を不動のものにし
越後の実権を手に入れた。
義仲の盟友井上光盛も共に躍進を遂げた
義仲の版図は、信濃、西上野、越後へと拡大し、
南坂東の源頼朝、東海道筋を抑える甲斐源氏と並ぶ、
反平家勢力の首魁の座を手に入れた。

一方城氏の敗北は反平家の勢力を反乱軍とみなす都の人々
とりわけ平家一門にとっては大いなる痛手となった。

平家は奥州藤原氏、越後城氏、そして平家本軍という三者による
東国反乱軍包囲殲滅作戦を立てていた。
だが、包囲殲滅作戦の中心として考えていた城氏の勢力は壊滅、
奥州藤原氏は領土的野心を優先させて助職を攻撃し
城氏壊滅を助長させた。
奥州藤原氏も平家の思惑通りに動いてくれるわけではないことを思い知らされた。
横田河原の戦いは、平家の東国包囲殲滅作戦構想を完全に打ち砕いたのである。

この合戦の余波は北陸各地に及んだ。
以前から、若狭、越前で反平家勢力の動きは見られていたが
この横田河原の戦い以降、越後以外の北陸各地の反平家勢力の動きが
ますます活発になっていったのである。

木曽義仲らが勝利した横田河原の戦いは治承寿永の内乱の流れを
大きく変えることになったのである。

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