時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

歴史の恩人のいい話

2012-09-05 05:41:27 | Weblog
私は高校の日本史の授業で「群書類従」という単語とその編纂者「塙保己一」という人物を習いました。
当時大学受験を控えていた私はその二つの単語を単なる「受験対策」の一つとして覚えていたにすぎませんでした。

それからかなりの年月の後、平安末期から鎌倉初期への歴史に強い興味をもっていろいろと文献を読ませていただくようになったころから
この「群書類従」というもののありがたみを知るようになり、この「群書類従」は単なる受験対策単語でなくなってきました。

というのは、「玉葉」「吉記」などの公家社会に守られた日記でもなく、一冊の本になるような分量でもない「史料」が「群書類従」の中に収められているからです。

たとえば平治の乱直後の源頼朝の逮捕流刑の記録も記されている「清○眼抄」(○=けもの偏+解)や、正史には残されていないものが書かれている(信憑性は低いですが)「保暦間記」など
が収録されています。


この「群書類従」は江戸時代の学者塙保己一によって編纂されました。
そして現在では活字化され一般の人でも図書館で閲覧することができます。
(だから私がいろいろな史料を読むことができるのです。活字化された本の分厚さと本の数に圧倒されました。)

塙保己一はこのまま放っておけばいつかは無くなってしまう貴重な古文書を集めるという大事業をしようと思い立ち、そのやって集めた文献を集めた集大成が「群書類従」です。

この時代のこの事業がなかったら後世に残ることがなかった史料がたくさんあったと推察されます。

日本の古代から江戸にかけての重要な史料の数々。現代において大金を積んでも得ることのできない大切な国の宝。
それを残してくれた塙保己一は日本の歴史学の大恩人と言えるでしょう。

その塙保己一についていい話をこの前伺いました。

それは、海外の偉人が塙保己一を大変尊敬し、人生の目標にされていたということです。
その偉人とはアメリカのヘレン=ケラー女史。
視覚、聴覚、発声の三重の苦しみと共に歩んだヘレン=ケラー女史は
母親から塙保己一の事を聞き、その人生に励まされ、目標にして生きてきたことがあった
とのことです。

実は塙保己一は七歳の頃失明してしまいました。
その後、紆余曲折を経て学者の道を目指してその道で名をあげます。
点字もない時代に、書物を読まねばならない学者を目指すということは大変なことだったと推察されます。

そのような中で学者としての地位を確実に築き、膨大な数の文献を集めて「群書類従」を刊行するにいたったのです。

そのような塙保己一の人生をヘレン=ケラー女史は大変尊敬していたようです。

ヘレン=ケラー女史は来日した際、塙保己一ゆかりの地を訪れて尊敬の念を表されたそうです。

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