ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

窮屈

2011-04-04 01:20:59 | Weblog
わざわざ深夜に書くことではないのだけれど、
なんとなく夢に見そうなので、吐き出しておく。

昼間、近くの駅前に行ったら、
地元の女子大生たちが、被災地におくる街頭募金を集めていた。

10人くらいはいただろうか。
すごくはっきりとした大きな声だ。気合いが入っている。
「おねがいします!」の声がそろっていて、なかなか気持ちがいい。
部活の声出しっぽくて、なつかしい気もする。

もちろん私は、よけて歩いた。
あの勢いの前を通り過ぎるほど度胸がない。
募金しないのは罪ではないのに、なんだか自分が恥ずかしくなるからイヤだ。

そして、もしあの勢いにおされて・・・、
ふだんはしない街頭募金の箱に、ちゃりんとお金を入れた自分の姿を想像する。

「ありがとうございました!」と、あの大声で、
しかも声をそろえて女子大生たちに叫ばれたら、
それこそ、穴があったら入りたい気持ちになることは間違いない。

だから「さりげなさどこへいったかいまの日本」など、
くだらなくて、誰に対してでもない負け惜しみを小さい声で言いながら、
でも、ほかで寄付してるもん!と自分をかばってみたりする。

負けているのは、自分のなにかに対してだ。

いろんな気持ちの表し方があっていい。
もちろん、そんなことはわかっている。

でも、なんだか歩きづらい。ふらりと立ち寄りがたい。
どこへ行っても、寄付金の箱があって、
ニュースを見ると、スポーツイベントで寄付を募っていたり、
飲みにいくと、トイレの中に貼り紙がしてあったり、
もう、人が集まるところはぜんぶそんな感じな気がしてくる。

アホな自分にひたる時間と余裕がさ、
買い物のことで頭がいっぱいだったり、花に見とれて歩いたり、
先端恐怖症だったり、
そんなことを感じながら、街を歩きたい。

なんだか「いまは、このモードでいなさい!」って強制されているような
窮屈な感じがしてしまう。

プランター農園 仕掛けおわり

2011-04-03 20:21:36 | Weblog
日常が戻りつつある。
と思いながら、午後、MacBookを持ち上げたとたん、きゅーきゅーと緊急メールが鳴った。
最初、Macが鳴り始めたのだと思って、びっくりしたけれど、
すぐ後ろにある携帯電話が鳴ったのだった。

あの音、どうにかならないものだろうか。本当にこわい。
受信設定を切ればいいのだが、
というのも、メールが来たときはたいていあまり揺れないので、いつも迷う。
電車の中で波のように鳴り始める受信音に、参加したい気持ちもある。

イチゴがすくすくと育っている。



それにしても、粒がそろっていない。

昨日、家の周りをぶらぶらした。
隣の家の水草が美しい。



どうやら、桜も咲いたようだ。



ぐるりと歩くと、桜のカーテンになっているところもある。



夕陽が桜の花びらを通してさし込む。
なんてやわらかい光だろう。

どんどん空の色が変わっていく。



この週末で、ひととおりプランター農園の仕掛けが終わった。
イチゴ、トウガラシ、青じそ、ゴーヤ、ズッキーニ、プチトマト、茶豆。
あとは、花のグラジオラス。蕾が少しずつ大きくなってきている。
スノードロップは、花が終わり実になったのだけれど、
このあと、どうしたらいいのだろう。

ひとつだけあいていた小さな植木鉢に、
実の部分を食べ終わった後のオリーブの種を、冗談で埋めてみた。
漬けられていたし、これで芽が出たらかえってどうすべきか悩む。

そして、ずらり並べてみて思った。
ベランダのスペースが足りない。
うーむ。これ以上を求めるのなら、家庭菜園用の農地を借りるべきなんだよな。
むむ~。

参加しない

2011-04-02 15:43:11 | Weblog
きっといまこんなことを書くと「人」と言われるのだろうけれど、
私は、のらないなあ、と思う。
会社での義援金集め。

確かに、個人からの寄付が殺到して、銀行のシステムがダウンしたり、
欲しいものかどうかもわからない物資を送って、ミスマッチになったりしている。
私は、神戸の震災のとき友人が言った言葉のとおり、
こういうことがあると、きちんと使ってくれそうな団体にお金を寄付している。
今回も、寄付した。
そのために、銀行のシステムダウンの遠因となったかもしれない。

いまいる会社で義援金を集めている。
「これだけ寄付します」と金額だけ言ったら、給料から天引きになるらしい。
あとは、いま購入していただくと、売上の一部を寄付します、と、うたっている企業もある。
大きいところから小さいところまで、なんだか右へならえでやっている。
たしかに、個人で小さいお金をちまちまと寄付するよりも、
集めてある程度の金額にして渡した方が、受け取る方も楽だろうな、とも思う。

でも、それには、参加したくない。
買うのをやめて、その分全額、個人で勝手に寄付しようと思う。
確かに、ひどい災害だから胸が痛む。
なにか力になれることはないか、とも思う。

だから、ずっと企業での義援金集めに、なんで参加したくないのかを考えていた。
で、なんとなくだけれど、
他人を介すことによって、美談にされるのがイヤなんだ、と思った。

まず、会社は「寄付者」の欄に名前をのこしたいのでは、と思ってしまう。
社会貢献している会社です。イメージアップ!のような感じ。
うへ~と思う。

「こんな贅沢しちゃったけれど、でも売上の一部が寄付になったからいい買い物だったんだよ」
と、自分を甘やかしたい「消費者」の気持ちは、よ~くわかる。
「こんなときだから、みんな助け合いましょう」と、
企業がスローガンをうちたくなる気持ちもわかる。
ただ、そんなのと関係なく、お金や労力や物を動かすこと、
いつもどおり働いて、いつもどおり消費することをしたい。

私の生活は、震災があったから特別な買い物をするわけでもなんでもない。
震災があったことをふくめて、すでに私にとっては「日常」なんだから、
自分で必要なものを買い、自分の身の丈にあった寄付をする。
その時々で、寄付する先は、日本国内のこともあれば、海外のこともある。
何も、企業様の好意に甘える必要はない。
一部利益を寄付するなら、その分安くしてくれ、自分で寄付するわい、と思う。

どうしても罪悪感がつのり、「私もやってる!」と言いたいのなら、
もともと税金を払わなくてもいいように利益操作している会社だったら、
さっさと税金が優遇される寄付をしてしまえばいい。
本当に利益がない会社は、無理して寄付する必要はない。
まずは健全な会社にして、誰か1人でも多く雇えるようにしたらいい。

なぜ企業が「寄付」をうたいたくなるのかが、ま~ったくわからない。
そうやって「寄付」に走っている人も、
災害支援のために消費税を上げることは、反対なのかなあ。

連想

2011-04-02 01:34:17 | Weblog
今日というか昨日、仕事で、ある作家さんにメールをした。
非常に事務的な内容だったのだけれど、
偶然にもその人の本を読み始めようとしていたところだったので、
勢いで「これこれの本を、今日から読み始めます!」とメールの追伸に書いた。

私はその人のナルシストっぷりと、
それを文章にしちゃうセンスが大好きなのだけれど、
帰り道に読み始めて、ふと思った。
きっとシャイな作家さんとしては、
私のコメントを見て、「僕の本を読んでくれるんだ」という喜びより、
「やばい。読まれちゃうんだ」が先に立ったのではないかと思う。
そしてまた、勝手にファンになった。

こんなもん垂れ流してていいんだろうか、
でも、僕、自分が嫌いでやっぱり好きなんです、くらいの人のほうが、
面白いものを出す。
ねえねえ見て見て、僕ってスゴいでしょ、と言われると、
反射的に「どこが?」と冷たく言い放ちたくなる。
この意地悪な気持ちは、どこから来るのだろう。
嫉妬のようなものではない。
それは、その無邪気さに対する怒りのようなものだ。

震災の影響とか、まあ、自分を甘やかしたい気持ちなどがあって、
ここのところ、読書が進んでいなかった。
久しぶりに読み終わった一冊。『ブッダとそのダンマ』光文社新書(アンベードカル著)

一言で言うと、こりゃすげえ、という本だった。
お釈迦様のお言葉はありがたい、仏教に帰依しなさい、ではなくて、
人間ゴータマはこんな人、という内容。比較的、客観的。
そして、人間だからこそ、この人すごい、と、ひしひしと感じる。

リトル・ブッダのキアヌ・リーブスは美しかったけれど、
本物は、もっとスゴくて美しかったに違いない!と、確信をもちつつ、
今日、とても久しぶりに会った友人は、ネパールにも行ってみたい、と言っていた。
リトル・ブッダのロケ地になったあそこ、地名を忘れたけど、あそこ行ってくれ。
というか、私もまた行きたい。

ネパールのバスに乗って、
カタコトの英語で運転手さんに、着いたら教えて、とお願いしたら、そこが終点だった。

ネパールで、初めてその土地の火葬を見た。
薪を積み上げ、その上に遺体を安置し、最後灰になると、前の川にさっと掃いて流した。
そしてそんな火葬を、白とオレンジに顔を塗った、見知らぬ現地のおじさんと並んで眺めた。
いろんなことが思い出される。

そして、何年かぶりに会って、普通に話が再開できる友人。
歳をとったせいか、最近、そんな友人だけがのこってきた。