ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

読書と法話

2011-04-30 12:12:13 | Weblog
『アンナ・カレーニナ』トルストイ著、木村浩訳、新潮文庫
ようやく、上中下読み終わった。

なかなかロシア人の名前が覚えられないながらも
一気に読み進めることができたのは、
それぞれの登場人物を見事に描きられていたからだと思う。
さすが世界の名著。

トルストイは、名前の語感からしても、いかめしい男性のような印象を受けるけど、
登場するアンナ、ドリイ、キチイなど女性の細かい心情に対する洞察力は、たぶん女性以上。
でも、だからといって、本人が女性との付き合いがうまかったかというと、それは別問題だろう。
「見える」ことと、それに対するアプローチは違うから。

美しく魅力的で聡明だけれど、ものすごく嫉妬深いアンナは、
夫以外の男性と恋に落ちたとき、人生が大きく変わった。
でも、彼女が最終的に自分を保てなくなるのは、夫との間にうまれた息子と離ればなれになったとき。
そして、恋人との間にうまれた女の子を愛せない自分を知ったとき。

男性側の主人公っぽいリョービンは、妻との間に男の子がうまれる。
そのあたりで物語は終わるけれど、
さて、この先、愛する妻が、ほとんど息子にかかりきりになったとき、
彼はどんな心の変遷をたどるのかと思う。

言い古されたことではあるけれども、
本を読むと、違う時代に生きた違う国の人たちの世界に行くことができる。
それが、事実を記したものでも、虚構でも同じ。
ある違う世界に行き、そこにいる人たちに出会うこと。
そして、その世界に入り込み、自分との共通点や相違点を見つめ、
自分では生きることのなかった人生にふれること。

例えば私の場合は、ある実際の人物の虚栄心が気になると、
ただひたすらその虚栄心が鼻につくようになる。
その人物は、友人の場合もあれば、自分自身であることもある。

でも、本を読むと、ネクラでひたすらネガティブな虚栄心もあれば、
子どものように無邪気で、だからこそ罪を感じる虚栄心もある。
一言で虚栄心と言っても、いろいろな背景があって、そのときどきの心情があって、
ポロリと出てきてしまうものだ。

実際に虚栄心にぶちあたると、まず好悪が先に走り、もう冷静に見つめるなんてできない。
でも本の中だと、他の登場人物の切り返しやその後の展開などで、落ち着いて消化していける。
世界に入り込んでるとはいえ、私は傍観者だから、安心して心の整理ができる。
だから、次に、現実で似たようなことがあったときに、
比較的スムーズに平常心に戻ることができる。

昨日、護国寺であったダライ・ラマ法王の法要において、読経のあとの法話で、
法王が「日本人はもっと英語を学ぶべきだ」とおっしゃった。
広い世界を見ている方、そして、多くの誤解にもとりまかれている方だからこそ、
言葉をもって、相手に自分の真の心を伝える大切さを痛感しておられる。

自国チベットを中共に占領され、50年にわたる亡命生活。
中共に極悪人と名指しされて、いまでも多くのチベット人が迫害に遭い、
心を痛めていらっしゃる。
そして、宗教的指導者として、超能力を持っているような幻想を抱いて近寄ってくる人もいる。
いろいろな人生も見て、多くの人と出会ってきた宗教的な指導者が勧めるのが言語による伝達。
下手でもいいから、自分で言葉を駆使して伝えることの大切さ。
上手な通訳さんをつけてもらえる人が、そうおっしゃる。

私は人に会うと、本が読みたくなる。
本を読むと、人に会う勇気が出てくる。
私は英語が苦手だけれど、いまいきなり外国人と会っても大丈夫!
特に英語が母語ではない外国人なら、なおさらOK!という気持ちになってくる。
そこが、私にとっては本とゲームとの違い。
そして、法王様のお話を聞きにいきたくなる理由。