少し前にベネズエラの大統領が亡くなったけど、
中南米の政治家が亡くなったり、政権交代のニュースに触れるたびに、いつも思う。
多くの国では、スペイン語が公用語とされ、
多くの人は、スペイン人と古くからその土地にいた人たちの混血。
小学生の頃、インカ帝国の歴史にハマって、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパが話していたケチュア語はいったいどんなふうで、
当時のケチュア人はどんな人たちだったんだろう、と想像していた。
いまでもケチュア語はペルー等で公用語とされているけれど、
スペインと共存している間に、多くが変化しただろう。
私たちの使う日本語の中にも、たくさんの外来語がある。
そして中国語の中には、日本が戦前に使っていた名詞を
そのまま中国語として取り入れたものもある。
新しい文化に接した時、それを名を付けて、自分たちの一部とする。
言葉が、モノやコトに、ありかを与える。
日本がアメリカに負けたとき、米語を押し付けられなくてよかった。
中国では、少数民族の言葉がどんどん忘れられている。
忘れられるというよりも、使える場所が減り、生きるために使わなくなっている、というべきか。
そして500年も経つと、いまの中南米が公用語をスペイン語としているように、
共産党による一党独裁がくずれたあとも、
ユーラシアの東半分では中国語が公用語とされるのだろうか。
そのとき、日本語は残っているんだろうか。
でもきっと、クスコの建物の基礎やサクサイワマンの城壁がインカ時代の名残をとどめるように、
そこに息づく文化の土台として、名を失いかけながら遺されて行く。
私は、ある時まで、アメリカに反旗を翻す国なり勢力は「悪」と信じ込んでいた。
これには左翼教師も一役買っていたと思う部分があって、
彼らが戦前の日本を批判すればするほど、アメリカへの反抗は悪だという公式に
親和性をもってしまう。戦後教育のなかでは。
でも、中南米の政治家たちが、
自分たちの先祖が多くの血を流し、せっかく勝ち取った独立を守るために、
いま新たにアメリカに意見を述べるとき、
その意志をスペイン語で伝えるなんて、なんという悲しみだろうと思う。
母が元気で、私が高校生だった頃は、こんな話をよく2人でしていた。
当時、私に同世代の友人が少なかったのは、母との会話が楽しすぎたからだろう。
いまも、そんなに友人は多くないけど、行動範囲が広がったおかげで、かなり楽になった。
中南米の政治家が亡くなったり、政権交代のニュースに触れるたびに、いつも思う。
多くの国では、スペイン語が公用語とされ、
多くの人は、スペイン人と古くからその土地にいた人たちの混血。
小学生の頃、インカ帝国の歴史にハマって、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパが話していたケチュア語はいったいどんなふうで、
当時のケチュア人はどんな人たちだったんだろう、と想像していた。
いまでもケチュア語はペルー等で公用語とされているけれど、
スペインと共存している間に、多くが変化しただろう。
私たちの使う日本語の中にも、たくさんの外来語がある。
そして中国語の中には、日本が戦前に使っていた名詞を
そのまま中国語として取り入れたものもある。
新しい文化に接した時、それを名を付けて、自分たちの一部とする。
言葉が、モノやコトに、ありかを与える。
日本がアメリカに負けたとき、米語を押し付けられなくてよかった。
中国では、少数民族の言葉がどんどん忘れられている。
忘れられるというよりも、使える場所が減り、生きるために使わなくなっている、というべきか。
そして500年も経つと、いまの中南米が公用語をスペイン語としているように、
共産党による一党独裁がくずれたあとも、
ユーラシアの東半分では中国語が公用語とされるのだろうか。
そのとき、日本語は残っているんだろうか。
でもきっと、クスコの建物の基礎やサクサイワマンの城壁がインカ時代の名残をとどめるように、
そこに息づく文化の土台として、名を失いかけながら遺されて行く。
私は、ある時まで、アメリカに反旗を翻す国なり勢力は「悪」と信じ込んでいた。
これには左翼教師も一役買っていたと思う部分があって、
彼らが戦前の日本を批判すればするほど、アメリカへの反抗は悪だという公式に
親和性をもってしまう。戦後教育のなかでは。
でも、中南米の政治家たちが、
自分たちの先祖が多くの血を流し、せっかく勝ち取った独立を守るために、
いま新たにアメリカに意見を述べるとき、
その意志をスペイン語で伝えるなんて、なんという悲しみだろうと思う。
母が元気で、私が高校生だった頃は、こんな話をよく2人でしていた。
当時、私に同世代の友人が少なかったのは、母との会話が楽しすぎたからだろう。
いまも、そんなに友人は多くないけど、行動範囲が広がったおかげで、かなり楽になった。