ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

2013-03-17 14:32:46 | Weblog
少し前にベネズエラの大統領が亡くなったけど、
中南米の政治家が亡くなったり、政権交代のニュースに触れるたびに、いつも思う。

多くの国では、スペイン語が公用語とされ、
多くの人は、スペイン人と古くからその土地にいた人たちの混血。

小学生の頃、インカ帝国の歴史にハマって、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパが話していたケチュア語はいったいどんなふうで、
当時のケチュア人はどんな人たちだったんだろう、と想像していた。

いまでもケチュア語はペルー等で公用語とされているけれど、
スペインと共存している間に、多くが変化しただろう。

私たちの使う日本語の中にも、たくさんの外来語がある。
そして中国語の中には、日本が戦前に使っていた名詞を
そのまま中国語として取り入れたものもある。

新しい文化に接した時、それを名を付けて、自分たちの一部とする。
言葉が、モノやコトに、ありかを与える。

日本がアメリカに負けたとき、米語を押し付けられなくてよかった。
中国では、少数民族の言葉がどんどん忘れられている。
忘れられるというよりも、使える場所が減り、生きるために使わなくなっている、というべきか。
そして500年も経つと、いまの中南米が公用語をスペイン語としているように、
共産党による一党独裁がくずれたあとも、
ユーラシアの東半分では中国語が公用語とされるのだろうか。
そのとき、日本語は残っているんだろうか。

でもきっと、クスコの建物の基礎やサクサイワマンの城壁がインカ時代の名残をとどめるように、
そこに息づく文化の土台として、名を失いかけながら遺されて行く。

私は、ある時まで、アメリカに反旗を翻す国なり勢力は「悪」と信じ込んでいた。
これには左翼教師も一役買っていたと思う部分があって、
彼らが戦前の日本を批判すればするほど、アメリカへの反抗は悪だという公式に
親和性をもってしまう。戦後教育のなかでは。

でも、中南米の政治家たちが、
自分たちの先祖が多くの血を流し、せっかく勝ち取った独立を守るために、
いま新たにアメリカに意見を述べるとき、
その意志をスペイン語で伝えるなんて、なんという悲しみだろうと思う。

母が元気で、私が高校生だった頃は、こんな話をよく2人でしていた。
当時、私に同世代の友人が少なかったのは、母との会話が楽しすぎたからだろう。
いまも、そんなに友人は多くないけど、行動範囲が広がったおかげで、かなり楽になった。

誇り

2013-03-17 01:20:10 | Weblog
たまにiTunes Storeなどをのぞきたくなり、
たまたま中国からのアクセスもよかったりすると、
これは罠だ!陰謀だ!と言いたくなる。

最近は、むかしのアルバムもどんどんダウンロード販売が始まっていて、
高校時代、つまり25年くらい前に好きだった曲に再開できたりする。

当時は、友人からCDを借りて、カセットテープにダビングしていたから、
すでに失われた音も多く、再開するとついつい購入してしまう。

クレジット決済できる魅力は強く、そして、手元から日本円が減っていくじゃないか。
本日の衝動買いはジョージ・マイケルのアルバム「Faith」(1987年)。
「Monkey」から「Kissing a Fool」という曲の繋がりが高校のとき大好きだった。

あの頃、英語を毎日勉強していたはずだけど、
今のほうが歌詞を聞き取れるのは、
毎日、中国語に接しているおかげで
外国語アンテナの感度がよくなったからなのだろう。

そして、今日のJリーグの結果を見ていたら、写真に釘付け。
横浜FMにドゥトラが復帰している!
私と生年が一緒だったはずだから、もう横浜FMに復帰することはないと思ってた。

若かったころ、歴史は一方通行で、未来に向かって進んで行くと思っていた。

でも今は、
むかしやったことをもう一度やったり、
やり残したことを取り返したり、
同じ失敗を繰り返したり、
幾重にも重なっていくのが歴史だと思えてきた。

そう。考古学と同じ。
土は幾重にも重なり、その上に今の生活がある。

サマルカンドに行ったときのことを思い出す。
いまのサマルカンドではなく、チンギス・ハンが攻めたサマルカンド。
芥子の花が咲き、ヤブ蚊が飛び、
土の下からは美しいタイルの破片が出てくる。
ゾロアスターの祭壇があって、
ソグド人を描いた壁画からは、遠く血がつながっているような気がする。

高校時代、日本はバブルだった。
そして大学を卒業するときバブルは終わっていた。
バブルにはバブルのよさがある。
あの頃の音楽や映画にふれるとそう思う。

無駄を抱え込めること。
それがなかったら、何も生まれない。
それを一握りの豪族ではなく、日本という社会全体でできたのなら、
これは世界に対して胸をはれること。

中国なんて、バブルの恩恵を受けている人は、ほんの一握り。
でも、日本は、日本という国全体でその気分を味わった。

これってすごいことだ。
バブルがあったことを誇りに思おう。
たとえそれを実感していなかったとしても、
実生活に還元された実感がなかったとしても、
そういった日本を、日本の歴史を、誇りに思おう。

やっぱり、日本ってすごいよ。