日本から出張で来た友人に、気管支の薬を分けてもらった。
私が以前、日本の病院で処方してもらっていたのと同じ薬だったので、
飲んでからすごく楽になってきた気がする。
「病は気から」とは、まさにこのことだ。
それでも、回復が遅いようなら、火曜日あたりに病院に行こう。
日本人のお医者さんがいて、日本語が通じる病院。
保険も使える。
中国の一般の病院に行く気は、さらさらない。
私の部下くんのお父さんは、来週検査と手術があるかも、と言っていた。
検査のために弟が並び、入院のために兄が並ぶと言う。
手術があるからと言って、前後の過程を病院がぜんぶやってくれるわけではない。
家族総出で「権利」を勝ち取らなければならない。
そのために会社も休むし、朝から晩まで戦いづくしだから、
家族のみんなも疲れ果てる。
中国で体調を悪くするというのは、本当に恐ろしいことだ。
中国人の金持ちが、子どもを外国で産んで外国籍にし、
将来、福祉が必要になったときに国外に行くことができるようにと考えるのも
もっともなことだと思う。
一人っ子だったり、子どもがいなかったりして、
自分の代わりに並んで戦ってくれる家族がいなければ、病院も利用できないなんて、
文明国からはまだ遠い。
戸籍があれば、医療費はほとんど無料で医療機関を利用できると言っても、
まず利用するまでが大変なのだから、政府としては、
「みんな、なるべく来るな」ということなんだろうな、と思ってる。
今日は、もういい加減ノドを治そうと思って、1日中引きこもり読書だった。
かなり疲れていたようで、少し読んでは寝てしまう。
なかなか読み進まなかった。
1冊目。『もうひとつの満洲』(澤地久枝著、文藝春秋)
友人に借りた本で、文革直後に、作家である澤地さんが
故郷「満洲」を取材旅行した時のお話だ。
五族協和と王道楽土。
満洲建国の理念と現実の差異を思うとき、
最近は、現在、仕事上で起きている協業の問題を考えることが多い。
「日本式と中国式」。
日本人は、日本式にやったらある程度の結果が出ることがわかっているから、そうしたい。
でも、中国人はそんなプロセスを望んでいない。
同じ結果を求めるとしても、プロセスは多様で、
中国人はあまりに何も考えていないような気がして、日本人には歯がゆい。
その繰り返し。
中国人に、自分たちのいいようにやらせて、失敗させてみたらいい。
そうしたら、こちらの言っていることの正当性が理解できるだろう、という人もいる。
でも、そもそも日本人から見ると「失敗」でも、
中国人は、それを失敗とは考えないのだったら・・・。
日本が満洲をつくったから、中国人は初めて団結することができた、という人もいる。
だからいまでも、国をまとめる必要がでてきたとき、「抗日」を利用するのだ、と。
でも、何かが根本的にずれているような気がする。
それにしても、文革終了直後の真夏に、東北を旅するなんて、
かなり大変な旅だったろうなあ、と思う。
いくら中国側が全部手配してくれたとはいえ、
当時はお金を払ってサービスを享受しようにも、
そもそも何もなかったのだから。
2冊目。『官僚たちの反逆』(中野剛志著、幻冬舎文庫)
私が心の中で漠然と感じていたことを、論理的に文章にしてくれてありがとう、
という1冊だった。
中国に来ると、日本よりは世界に近くなるので、
「グローバル化」について考える機会が増える。
私が大好きなApple製品を作っている下請け工場の動向を見るだけでも、
グローバル化というのは、人の痛みを踏み台にするものだ、と思えてくる。
人は、不満があればストをするし、
自殺するかもしれないし(理由が失恋であっても、地方から一族が出てきて賠償金と騒ぐし)、
ミスもするし、それに賃金上昇してるし、
やっぱりこれからは産業ロボットの時代だよね!というのが
フォックスコンが打ち出した方針だ。
つまり、中国の安い労働力は、すでに以前のような魅力を失い、
産業ロボットのほうが魅力的になった。
代替可能な、装置。
グローバル化というのは、代替可能だということで、
会社から望まれた定量化できる仕事を、言われた通りにやるのが役目。
ということで、日本での留学時代にファストフードやコンビニのアルバイトをした経験をもつ中国人が、
面接で「わたしは日本で仕事をしたことがあります!」と自信をもって答える時、
私はその人を採用しないようにしている。
必ずしも定量化できないのが、これからやってもらいたい仕事だから。
確かに、日本の職人のような人を、海外で育てるのは難しい。
職人がいいとも思わない。
でも、いま言われている「グローバル化」って、何なんだろうと思う。
「グローバル」というカタカナでごまかしているから、
日本人のなかで、定義があいまいになってるんじゃないだろうか。
私たちが意図している「グローバル」と世界が言うところの「グローバル」って、
もしかしてズレているんじゃないだろうか。
だって、グローバルって、フォックスコンの「女工哀史」に帰結するんじゃない?
みたいなことを、
今後誰かと話す機会があったときに、日本の官僚制度もふまえ、
アメリカの金融界や世界銀行がやってきたことを交えながら、
ちょっとした理論武装しながら話せそうな気持ちにさせてくれた本書は、
週末にぐるぐる考えるには、なかなかいい本だった。
私が以前、日本の病院で処方してもらっていたのと同じ薬だったので、
飲んでからすごく楽になってきた気がする。
「病は気から」とは、まさにこのことだ。
それでも、回復が遅いようなら、火曜日あたりに病院に行こう。
日本人のお医者さんがいて、日本語が通じる病院。
保険も使える。
中国の一般の病院に行く気は、さらさらない。
私の部下くんのお父さんは、来週検査と手術があるかも、と言っていた。
検査のために弟が並び、入院のために兄が並ぶと言う。
手術があるからと言って、前後の過程を病院がぜんぶやってくれるわけではない。
家族総出で「権利」を勝ち取らなければならない。
そのために会社も休むし、朝から晩まで戦いづくしだから、
家族のみんなも疲れ果てる。
中国で体調を悪くするというのは、本当に恐ろしいことだ。
中国人の金持ちが、子どもを外国で産んで外国籍にし、
将来、福祉が必要になったときに国外に行くことができるようにと考えるのも
もっともなことだと思う。
一人っ子だったり、子どもがいなかったりして、
自分の代わりに並んで戦ってくれる家族がいなければ、病院も利用できないなんて、
文明国からはまだ遠い。
戸籍があれば、医療費はほとんど無料で医療機関を利用できると言っても、
まず利用するまでが大変なのだから、政府としては、
「みんな、なるべく来るな」ということなんだろうな、と思ってる。
今日は、もういい加減ノドを治そうと思って、1日中引きこもり読書だった。
かなり疲れていたようで、少し読んでは寝てしまう。
なかなか読み進まなかった。
1冊目。『もうひとつの満洲』(澤地久枝著、文藝春秋)
友人に借りた本で、文革直後に、作家である澤地さんが
故郷「満洲」を取材旅行した時のお話だ。
五族協和と王道楽土。
満洲建国の理念と現実の差異を思うとき、
最近は、現在、仕事上で起きている協業の問題を考えることが多い。
「日本式と中国式」。
日本人は、日本式にやったらある程度の結果が出ることがわかっているから、そうしたい。
でも、中国人はそんなプロセスを望んでいない。
同じ結果を求めるとしても、プロセスは多様で、
中国人はあまりに何も考えていないような気がして、日本人には歯がゆい。
その繰り返し。
中国人に、自分たちのいいようにやらせて、失敗させてみたらいい。
そうしたら、こちらの言っていることの正当性が理解できるだろう、という人もいる。
でも、そもそも日本人から見ると「失敗」でも、
中国人は、それを失敗とは考えないのだったら・・・。
日本が満洲をつくったから、中国人は初めて団結することができた、という人もいる。
だからいまでも、国をまとめる必要がでてきたとき、「抗日」を利用するのだ、と。
でも、何かが根本的にずれているような気がする。
それにしても、文革終了直後の真夏に、東北を旅するなんて、
かなり大変な旅だったろうなあ、と思う。
いくら中国側が全部手配してくれたとはいえ、
当時はお金を払ってサービスを享受しようにも、
そもそも何もなかったのだから。
2冊目。『官僚たちの反逆』(中野剛志著、幻冬舎文庫)
私が心の中で漠然と感じていたことを、論理的に文章にしてくれてありがとう、
という1冊だった。
中国に来ると、日本よりは世界に近くなるので、
「グローバル化」について考える機会が増える。
私が大好きなApple製品を作っている下請け工場の動向を見るだけでも、
グローバル化というのは、人の痛みを踏み台にするものだ、と思えてくる。
人は、不満があればストをするし、
自殺するかもしれないし(理由が失恋であっても、地方から一族が出てきて賠償金と騒ぐし)、
ミスもするし、それに賃金上昇してるし、
やっぱりこれからは産業ロボットの時代だよね!というのが
フォックスコンが打ち出した方針だ。
つまり、中国の安い労働力は、すでに以前のような魅力を失い、
産業ロボットのほうが魅力的になった。
代替可能な、装置。
グローバル化というのは、代替可能だということで、
会社から望まれた定量化できる仕事を、言われた通りにやるのが役目。
ということで、日本での留学時代にファストフードやコンビニのアルバイトをした経験をもつ中国人が、
面接で「わたしは日本で仕事をしたことがあります!」と自信をもって答える時、
私はその人を採用しないようにしている。
必ずしも定量化できないのが、これからやってもらいたい仕事だから。
確かに、日本の職人のような人を、海外で育てるのは難しい。
職人がいいとも思わない。
でも、いま言われている「グローバル化」って、何なんだろうと思う。
「グローバル」というカタカナでごまかしているから、
日本人のなかで、定義があいまいになってるんじゃないだろうか。
私たちが意図している「グローバル」と世界が言うところの「グローバル」って、
もしかしてズレているんじゃないだろうか。
だって、グローバルって、フォックスコンの「女工哀史」に帰結するんじゃない?
みたいなことを、
今後誰かと話す機会があったときに、日本の官僚制度もふまえ、
アメリカの金融界や世界銀行がやってきたことを交えながら、
ちょっとした理論武装しながら話せそうな気持ちにさせてくれた本書は、
週末にぐるぐる考えるには、なかなかいい本だった。