ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

3月10日

2013-03-10 23:57:20 | Weblog
これも私の世代が最後かもしれないと思う。

小さいとき、都心のほうに行くと、ターミナル駅に傷痍軍人さんたちがいて、
物乞いをしていた。
母は「本当に戦争で負傷した軍人さんなら、国が年金を払ってるはずだから、
きっと偽物も多いはず」と言っていたけど、
私はいつも傷痍軍人のそばを通るとき、何とも言えない熱さを感じた。

東京大空襲や広島・長崎の原爆のお話、
私にとっての戦争は、いつも灼熱地獄のイメージだった。

その後、南方戦線の話も聞いたり本で読んだりして、
それにジャングルの暑さが加わった。

私にはどうしても、日中戦争と太平洋戦争が別々のものに思えるのだけど、
それは昭和のあの同じ時にあったことなんだ。
中国で感じる日中戦争の記憶、
そして初めてパラオに行ったときに見た南洋の景色、
おなじ零戦が飛んだところなのに、あまりにも違った。

そして、戦争に行ったのは、私のおじいさんたちだった。
最も、私の祖父は、1人は学徒動員で実戦に入る前に終戦。
もう1人は「アカ」だったので監獄に入っていたらしく、
ついでに会ったこともないので、そういう意味では戦争はやはり遠い。

ただ、ひいおじいさんくらいになると、もう実感がわかないし、
それにおじいさん世代のもっていた、なんとも言えない凄みも、
今の日本人には持つことがない空気だろうと思う。
ほんの少し前のことなのに、物語の中でしか知らない記憶だ。

でも知りたいんだ。あの戦争のこと。
どうして、あんなに多くの人が死ななければならなかったのかを。
日本人は、教育程度も高いし、相手のことを慮るし、こんなにも素晴らしいのに、
組織を作ったとたんに、上に立つ人は驕り、戦略は思いつきになり、
ミスを恐れるばかりに決断は遅くなり、若い人が切り捨てられる。
この構造、まったく変わっていないような気がする。
しかも最近は、変な能力主義のせいで、またまたもっとおかしくなった気がする。

産業革命のあとの大量生と、第一次大戦の大量死のあと、
ヨーロッパは哲学的に大きくあがいたけれど、
日本は戦後の資本主義の発展も、欧米の「大量死」の流れとは
少し違うような気がする。

今日は、『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(ジル・ドゥルーズ)の
下巻をようやく読み終わり、
その後、『永遠のゼロ』(百田尚樹著)を読んだ。
旧海軍パイロットのお話だ。

むかし「ゼロ戦」と言ったら、すごく目上の人に、「ゼロじゃない、零だ」と言われたっけ。
ついでに「太平洋戦争じゃなくて、大東亜戦争だ」とも。
あれは誰だったか・・・。

そして、3月10日は東京大空襲の日。
小学生の頃に焼夷弾が降ってくる映像をテレビで見た。
本当に怖かった。