ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

土曜日の読書

2012-02-25 22:29:18 | Weblog
なんだか思っていたのと違うな、と思うこと。
上海に来る前は、北京のころの延長線上でイメージしていたんだけれど、
どうも印象が違う。

北京の人は、天下国家を論じるのが好きで、
「大漢民族主義」という印象を受けることも多いんだけど、
中国全土を見ているような雰囲気があった。

でも、上海の人は、上海という大きくて小さい都市の経済力だけを見ていて、
なんとなく、日本とは違った意味で、でも、すごく似たような雰囲気で、
島国根性だと思う。
「大上海主義」というか。

はじめは環境、つまり留学と仕事の違いかと思ったけれど、
いまは、そうでもない気がする。
外国人は多いし、生活水準も高いのに、
なんですごく、上海という土地が鎖国しているような印象を受けるんだろう。

住んでいる人の気質のせいかなあ・・・。
北京の人のほうがおおらかで、上海の人のほうがねちっこい感じもする。
北京のように、大々的に討論をして、最後に「算了」の一言で、あとくされない、
という雰囲気ではなくて、いつまでも、じとじとと反発しあう感じ。
時代の違いかもしれない。
かれこれ20年近く経つし、中国の社会もそれだけ複雑になったのかもしれない。

むかしよく、漢民族以外の人が、民族衣裳を着て列車で北京に来て、
天安門広場で記念写真を撮っていたけれど、いまもそうなのだろうか。
数年前にちらりと寄った天安門広場では、ウイグルの白い帽子以外は、
民族がわかるものを身につけている人がいなかったように思う。
いま、民族衣裳を着ている人、どのくらい残っているのだろう。

今日は、『ダライ・ラマ こころの自伝』(春秋社)を読んだ。
こういう本を読むと、学ぶべき言語を間違ったと思う。
中国語ではなくて、フランス語を学び、フランスに留学してから、
アジアに戻ってくるべきであった。

私がチベットへ行ったのは、2000年の1回きり。
あの時も漢民族の移住が進んでいて、チベット人は肩身がせまそうだった。
私におずおずと英語で書かれた文章を見せてきたラマの彼は、
いまも無事だろうか。

あの紙には、「チベットは中国によって蹂躙されています。
わたしたちラマは、仏教徒として学び、平和に生活するという基本的な権利さえ、
訴えることができません。あなたの救いを求めています」
そんなようなことが書かれていた。
きっと誰か、英語圏の旅行者が、彼らのために書いてあげたのだろう。

物乞いなのか、本物のラマなのか、わからなかったけれど、
すごく真剣な瞳だった。
日本人に、あんな目をした子はいないだろう。

そのときに持っていたみかんをあげたら、彼はものすごく喜んで、
たぶんチベット人にとって、最も丁寧なお礼を述べてくれた。
言葉は通じなかったけれど、その気持ちは伝わった。
その後、彼は、少し離れたところに駆けて行って、
大切そうにみかんをむき、年下の仲間に渡した。
私にその紙を見せたのは一番年長らしい、10歳くらいの子どもだったけれど、
独り占めしないで、まず年下の子どもにあげていたのが印象的だった。

本当はお金をあげたかったけれど、
ジョカン寺の近くで人も多く、どこで誰が見ているかわからない。
みかんなら、私も彼もとがめられることはないだろうと思った。
でも、あんなに仲間がいるのなら、もっとたくさんあげればよかった。

あの時は短い旅行だったけれど、お金にとりつかれたようなチベット人にも会った。
遠くから、ラサに巡礼に来ていた一家にも会った。
漢民族の下で働くチベット人もいた。

みんな、生活のために、いろいろな選択をしていたけれど、
自然に対する畏敬の念は、チベット人がもっている根本的なこころだと思う。
モンゴルやウイグル、チベット、どこも駆け足でしか回ったことはないけれど、
どこでも、代々その土地に暮らしてきた人たちは、すごく自然を愛し、大切にしていた。
宗教とは関係なく、私が彼らと似ていると思ったところだ。
そして、その自然に対する心の距離が、
一番、私と漢民族が遠いと思うところかもしれない。

そうはいえ、便利な東京で暮らして、
汚いものや危ないものは地方に押し付けているわけだから、
えらそうなことは言えない。

寝よう

2012-02-25 00:05:34 | Weblog
忘れたころに、というか、
予期しないものが出てくることがある。

私の場合、たいていは、亡き両親に関することなんだけれど、
人が1人生きて、そして逝くというのは、
本当にたいへんなことなんだと思う。

こんなことが、何億年も生命が続いてきた間に繰り返され、
そして、この先も続いて行くのだろう。
続いて行くのであれば、この先はよいことが増えればいいと思う。

よいことというのは、名声や財産をのこすということではなくて、
その人のことを思い出したときに、
心の中が穏やかに、やさしく、あたたかくなるきっかけのようなもの。
だから、人は完璧に正しくある必要はない。

とはいえ、ため息も出るわなあ。

びっくりするようなことがあった日は、
あたたかくして、明日が土曜日であることに感謝しながら、
ゆっくり深呼吸して寝るべし。