なんだか思っていたのと違うな、と思うこと。
上海に来る前は、北京のころの延長線上でイメージしていたんだけれど、
どうも印象が違う。
北京の人は、天下国家を論じるのが好きで、
「大漢民族主義」という印象を受けることも多いんだけど、
中国全土を見ているような雰囲気があった。
でも、上海の人は、上海という大きくて小さい都市の経済力だけを見ていて、
なんとなく、日本とは違った意味で、でも、すごく似たような雰囲気で、
島国根性だと思う。
「大上海主義」というか。
はじめは環境、つまり留学と仕事の違いかと思ったけれど、
いまは、そうでもない気がする。
外国人は多いし、生活水準も高いのに、
なんですごく、上海という土地が鎖国しているような印象を受けるんだろう。
住んでいる人の気質のせいかなあ・・・。
北京の人のほうがおおらかで、上海の人のほうがねちっこい感じもする。
北京のように、大々的に討論をして、最後に「算了」の一言で、あとくされない、
という雰囲気ではなくて、いつまでも、じとじとと反発しあう感じ。
時代の違いかもしれない。
かれこれ20年近く経つし、中国の社会もそれだけ複雑になったのかもしれない。
むかしよく、漢民族以外の人が、民族衣裳を着て列車で北京に来て、
天安門広場で記念写真を撮っていたけれど、いまもそうなのだろうか。
数年前にちらりと寄った天安門広場では、ウイグルの白い帽子以外は、
民族がわかるものを身につけている人がいなかったように思う。
いま、民族衣裳を着ている人、どのくらい残っているのだろう。
今日は、『ダライ・ラマ こころの自伝』(春秋社)を読んだ。
こういう本を読むと、学ぶべき言語を間違ったと思う。
中国語ではなくて、フランス語を学び、フランスに留学してから、
アジアに戻ってくるべきであった。
私がチベットへ行ったのは、2000年の1回きり。
あの時も漢民族の移住が進んでいて、チベット人は肩身がせまそうだった。
私におずおずと英語で書かれた文章を見せてきたラマの彼は、
いまも無事だろうか。
あの紙には、「チベットは中国によって蹂躙されています。
わたしたちラマは、仏教徒として学び、平和に生活するという基本的な権利さえ、
訴えることができません。あなたの救いを求めています」
そんなようなことが書かれていた。
きっと誰か、英語圏の旅行者が、彼らのために書いてあげたのだろう。
物乞いなのか、本物のラマなのか、わからなかったけれど、
すごく真剣な瞳だった。
日本人に、あんな目をした子はいないだろう。
そのときに持っていたみかんをあげたら、彼はものすごく喜んで、
たぶんチベット人にとって、最も丁寧なお礼を述べてくれた。
言葉は通じなかったけれど、その気持ちは伝わった。
その後、彼は、少し離れたところに駆けて行って、
大切そうにみかんをむき、年下の仲間に渡した。
私にその紙を見せたのは一番年長らしい、10歳くらいの子どもだったけれど、
独り占めしないで、まず年下の子どもにあげていたのが印象的だった。
本当はお金をあげたかったけれど、
ジョカン寺の近くで人も多く、どこで誰が見ているかわからない。
みかんなら、私も彼もとがめられることはないだろうと思った。
でも、あんなに仲間がいるのなら、もっとたくさんあげればよかった。
あの時は短い旅行だったけれど、お金にとりつかれたようなチベット人にも会った。
遠くから、ラサに巡礼に来ていた一家にも会った。
漢民族の下で働くチベット人もいた。
みんな、生活のために、いろいろな選択をしていたけれど、
自然に対する畏敬の念は、チベット人がもっている根本的なこころだと思う。
モンゴルやウイグル、チベット、どこも駆け足でしか回ったことはないけれど、
どこでも、代々その土地に暮らしてきた人たちは、すごく自然を愛し、大切にしていた。
宗教とは関係なく、私が彼らと似ていると思ったところだ。
そして、その自然に対する心の距離が、
一番、私と漢民族が遠いと思うところかもしれない。
そうはいえ、便利な東京で暮らして、
汚いものや危ないものは地方に押し付けているわけだから、
えらそうなことは言えない。
上海に来る前は、北京のころの延長線上でイメージしていたんだけれど、
どうも印象が違う。
北京の人は、天下国家を論じるのが好きで、
「大漢民族主義」という印象を受けることも多いんだけど、
中国全土を見ているような雰囲気があった。
でも、上海の人は、上海という大きくて小さい都市の経済力だけを見ていて、
なんとなく、日本とは違った意味で、でも、すごく似たような雰囲気で、
島国根性だと思う。
「大上海主義」というか。
はじめは環境、つまり留学と仕事の違いかと思ったけれど、
いまは、そうでもない気がする。
外国人は多いし、生活水準も高いのに、
なんですごく、上海という土地が鎖国しているような印象を受けるんだろう。
住んでいる人の気質のせいかなあ・・・。
北京の人のほうがおおらかで、上海の人のほうがねちっこい感じもする。
北京のように、大々的に討論をして、最後に「算了」の一言で、あとくされない、
という雰囲気ではなくて、いつまでも、じとじとと反発しあう感じ。
時代の違いかもしれない。
かれこれ20年近く経つし、中国の社会もそれだけ複雑になったのかもしれない。
むかしよく、漢民族以外の人が、民族衣裳を着て列車で北京に来て、
天安門広場で記念写真を撮っていたけれど、いまもそうなのだろうか。
数年前にちらりと寄った天安門広場では、ウイグルの白い帽子以外は、
民族がわかるものを身につけている人がいなかったように思う。
いま、民族衣裳を着ている人、どのくらい残っているのだろう。
今日は、『ダライ・ラマ こころの自伝』(春秋社)を読んだ。
こういう本を読むと、学ぶべき言語を間違ったと思う。
中国語ではなくて、フランス語を学び、フランスに留学してから、
アジアに戻ってくるべきであった。
私がチベットへ行ったのは、2000年の1回きり。
あの時も漢民族の移住が進んでいて、チベット人は肩身がせまそうだった。
私におずおずと英語で書かれた文章を見せてきたラマの彼は、
いまも無事だろうか。
あの紙には、「チベットは中国によって蹂躙されています。
わたしたちラマは、仏教徒として学び、平和に生活するという基本的な権利さえ、
訴えることができません。あなたの救いを求めています」
そんなようなことが書かれていた。
きっと誰か、英語圏の旅行者が、彼らのために書いてあげたのだろう。
物乞いなのか、本物のラマなのか、わからなかったけれど、
すごく真剣な瞳だった。
日本人に、あんな目をした子はいないだろう。
そのときに持っていたみかんをあげたら、彼はものすごく喜んで、
たぶんチベット人にとって、最も丁寧なお礼を述べてくれた。
言葉は通じなかったけれど、その気持ちは伝わった。
その後、彼は、少し離れたところに駆けて行って、
大切そうにみかんをむき、年下の仲間に渡した。
私にその紙を見せたのは一番年長らしい、10歳くらいの子どもだったけれど、
独り占めしないで、まず年下の子どもにあげていたのが印象的だった。
本当はお金をあげたかったけれど、
ジョカン寺の近くで人も多く、どこで誰が見ているかわからない。
みかんなら、私も彼もとがめられることはないだろうと思った。
でも、あんなに仲間がいるのなら、もっとたくさんあげればよかった。
あの時は短い旅行だったけれど、お金にとりつかれたようなチベット人にも会った。
遠くから、ラサに巡礼に来ていた一家にも会った。
漢民族の下で働くチベット人もいた。
みんな、生活のために、いろいろな選択をしていたけれど、
自然に対する畏敬の念は、チベット人がもっている根本的なこころだと思う。
モンゴルやウイグル、チベット、どこも駆け足でしか回ったことはないけれど、
どこでも、代々その土地に暮らしてきた人たちは、すごく自然を愛し、大切にしていた。
宗教とは関係なく、私が彼らと似ていると思ったところだ。
そして、その自然に対する心の距離が、
一番、私と漢民族が遠いと思うところかもしれない。
そうはいえ、便利な東京で暮らして、
汚いものや危ないものは地方に押し付けているわけだから、
えらそうなことは言えない。