ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

ホメロス

2008-11-05 22:59:35 | Weblog
約1ヶ月かけて、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を読みました。
岩波文庫、松平千秋訳。

神々と人間の世界が渾然一体となった世界。
もともとは語り聞かせるために紡がれた物語は、文字を目で追っていても、
自然に発語のペースになっていき、いつもとは違う速さで読書の時間が流れました。

『イリアス』は、とにかく登場する人物が多かった。
正直なところ、物語にひたるよりも、カタカナの固有名詞を覚え、
人間(&神々)関係を覚えることに終始してしまった感があります。
登場する神々は、みなが全知全能の神なのに、それぞれ弱点があったり、
階級があるのがおもしろい。

『イリアス』に比べて『オデュッセイア』は、読みやすく、
物語として面白く思いました。
トロイア戦争が終結した後、英雄オデュッセウスが故国イタケへ帰るまでの冒険譚は、
昔、子ども向けの本で読んだときのことを思い出しました。
セイレンの話は、確か幼稚園生だったときに、母が読み聞かせてくれました。

この物語の登場人物たちは、神々の世界を思い描くことを通じて、
人よりも豊かで強力な自然界を理解していたばかりでなく、
自分を客観視し、身の丈を知っていたのだと思います。

それは、運命に流されるというような受動的な生き方ではなく、
神々の世界があるからこそ、自分に与えられたことを精一杯全うする、
という満ち足りた人生だったのだと思います。

「我思う、ゆえに我あり」は素晴らしい言葉だけれども、
ギリシア的な「天啓」のほうが、私にはぴったりくるような気がしました。

それにしても、精興社書体はグッときます。

哲学者の密室

2008-11-05 00:05:12 | Weblog
昨日少しふれた『哲学者の密室』について。

笠井潔さんの矢吹駆シリーズは、どの作品もいろいろな刺激をくれるのですが、
『哲学者の密室』では、特に「死」について考えさせられました。

マルティン・ハイデガーと、エマニュエル・レヴィナス、
『哲学者の密室』をとおしてこの2人の思想に出会ったとき、
私はちょうど、植物状態にある、1人の家族と向き合っていました。

ハイデガーの言う、死の可能性に先駆したことから生きられる今。
死を、たった一瞬の区切りとし、そこから現在に立ち返り、
本来的な生き方を可能にしようという考え方は、
それまでの私がもっていた「死」と「生」のイメージ、そのものでした。

しかし、病院の中で、10年以上も植物状態にある人間は、
ハイデガーの言う死の先駆性を剥奪された存在でした。
それは、レヴィナスの言う「存在の夜」。
死は、はじまりも終わりもない不気味な過程として、そこにありました。

そして、「愛情」はあるのに、どうしても心に忍び込んで来て離れない、
「存在のおぞましさ」に対する恐怖や嫌悪感。
「自分らしく生きること」「個性を発揮すること」といった価値観は、
どんな意味も持ち得ないように思える無力感。

そんな生活も、数年前に終わりました。
小さい頃から読書は好きだったけれど、
いま、心の底から本を読むのが楽しく思えるのは、
きっとあの時期に、出会うべき本に出会えたからなのでしょう。