本日(2023/03/18)は、朝早めから仕事に従事。
勤めを終えて津幡町に戻ってきたのは、日が暮れかかり始めた頃。
帰宅前に「倶利伽羅駅(くりからえき)」を訪問しようと思い立ち、
ハンドルを切ったのは午後5時を小半時ほど過ぎていた。
倶利伽羅駅は山の中の小さな無人駅。
平成27年(2015年)3月、北陸新幹線・長野駅⇔金沢駅間の延伸開業に伴い、
JR西日本から経営分離された「IRいしかわ鉄道(株)」に所属。
元々は、富山県・石動(いするぎ)-石川県・津幡間の信号所として、
明治41年(1908年)に開設。
以来、一世紀以上の歴史を積み重ねてきた。
また、この駅がある「倶利伽羅峠」は「治承・寿永の乱」の舞台でもある。
<石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠は、
1183(寿永2)年の源氏と平家が興亡の明暗を分けた
倶利伽羅源平合戦の舞台となったところです。
中でも、『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に記された
木曽義仲(きそ・よしなか)による「火牛の計(かぎゅうのけい)」はあまりにも有名です。
1183(寿永2)年5月11日、平家軍の総大将、
平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)は、
倶利伽羅山中の猿ヶ馬場(さるがばば)に本陣を敷いて、
7万余騎の軍勢とともに木曽義仲率いる源氏軍を待ち構えていました。
一方、義仲は埴生八幡宮(はにゅうはちまんぐう)で戦勝祈願を行った後、
平家の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていました。
夜半に北側の黒谷の方角から、400から500頭もの牛の角に松明(たいまつ)を付け、
4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入しました。
昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、
何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされました。>
(※津幡町観光ガイドより引用抜粋)
駅構内には、ご当地ならではの倶利伽羅源平合戦モニュメント。
『源平盛衰記』や『平家物語』などに基づく合戦「火牛の計」は、
中国の春秋戦国時代の「田単の火牛の計」を参考にしたフィクションとも言われる。
--- まあしかし、わが津幡町の歴史ロマンとして許容したいもの。
それが、町民の偽らざる心情だ。
さて、ひとしきり倶利伽羅駅を鑑賞した後、
駅の傍で、染井吉野より一足早く花を咲かせた山桜の老木に出会った。
俳聖「松尾芭蕉」の句にこうある。
さまざまの 事おもひ出す 桜かな
旅からふるさとに帰り昔と変わらず咲いている桜を見ると、
この桜の下で過ごした若かりし自分など様々なことが思い出されてならない。
そんな哀惜を詠んだとされる一句だ。
山桜は、桜の中では長寿とされ2~300年くらいが標準。
さすがに源平合戦は目撃はしていないだろうが、
倶利伽羅駅の変遷と乗降客の悲喜交々を見つめ続けてきたと考えれば、
言い知れぬ感慨が湧きあがってくるのだ。