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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡に獅子が舞う秋。

2017年09月16日 09時41分02秒 | 日記
毎年このタイミングで投稿しているとおり、本日・9月16日と、翌・17日は「秋季大祭」。
津幡中心部四町…清水、庄、津幡、加賀爪に獅子が出る。

旧盆過ぎから、それぞれの拠点で稽古を重ね、それぞれの町で舞を披露して回る。
由来、特徴については「津幡町観光ガイド」に詳しい。
また、拙ブログでも何度か紹介しているため、そちらに譲る。
検索・閲覧の一手間をお許し下さい。

さて、獅子舞披露はチームプレーだ。
獅子担当は、頭持ち、蚊帳持ち、尾持ちを合わせ10人は下らない。
薙刀で獅子を退治する棒振り担当は、1つの演武に1人。

何十人もの子供たちが、入れ代わり立ち代わりしながら担う。
他には、先導役、配置と割り振り役、交通整理役などが、
円滑な進行を助けながら動くのである。

彼らの後にはお囃子部隊が続く。
紅白幕をあしらったリヤカーに積んだ大太鼓、小太鼓を叩き、
笛を鳴らしながら獅子舞を盛り上げるのだ。

拠点から鎮守まで行進する時は「宮参り」。
演舞の際は「舞バヤシ」。
家から家への行進には「ノーエ節」。
シーンに応じてリズムとメロディを変化させる。
かつては、蚊帳の中で芸者さんが三味線を奏でていたとか。
…見てみたかった。

一幕が終われば、次の場所まで小走りで移動。
何しろ2日間で1,000戸以上を回らねばならないから忙しい。
ガンバレ!


獅子舞見物を終えた帰り道、僕と愛犬は「住吉神社」に立ち寄った。

普段は固く閉ざされた本殿の扉が開き、神社幕で飾られている。
お世話係らしき人の姿も見受けられた。

列島に台風18号が近づいている。
影響は免れないだろうが、祭りの無事を願い手を合わせた。
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家亀、野亀。

2017年09月10日 23時08分26秒 | 自然
今朝は、津幡小学校の向かい「学童保育つばたっ子」に立ち寄った。

昼間、仕事または病気などで、保護者が家庭にいない小学生を、
放課後や春・夏・冬休みなどの期間、預かる施設。
働きながら子育てをする町民を支援するのが目的だ。
…おそらく、待機児童たちを慰めるペットなのだろう。
その軒先では、何種類かの「生きもの」が飼育されている。
大きな青いポリ容器を覗き込むと、亀がこちらを仰ぎ見ていた。

俗に「鶴は千年、亀は万年」という。
亀は長寿の象徴だが、実際も長生きである。
平均でも30年以上、ギネス認定された最高齢は188歳を越えるんだとか。
比較的運動量が少なく、代謝が穏やかで、ゆっくり生きる事が理由とされる。
確かに動きは緩慢に思えるが、自然界では案外素早い。

事実、津幡川へ注ぐ支流「総門川」にて目撃した亀は、
水の浮力を得つつ、鋭い鉤爪で川底を捉え、
やや首を伸ばし加減にバランスを取りながらスタスタと移動していた。
実に軽快なのである。

昭和生まれなら、亀を飼った経験がある方は少なくないと思う。
僕も津幡川で捕獲したイシガメを育てた事がある。
モシャモシャと小松菜を食べる様子、
甲羅から四肢や首を出し入れする様子、
仰向けの状態から首を支点にブリッジで裏返る様子などを観察して楽しんだものだ。
人間側の勝手な心情では「可愛がっていた」。

しかし、ある日、学校から帰宅してみると、彼の姿は忽然と消えていた。
自分で水槽の蓋を外し、玄関の引き戸を開けて屋外へ脱走したのである。
僕は哀しみを覚えながら、野の亀の逞しさに舌を巻いた。
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秋が来て、夏は堕ちた。

2017年09月09日 10時19分55秒 | 自然
午前6時前、散歩へ出発した僕は少し後悔した。
Tシャツ1枚の身支度では不十分なほど、涼しかったからだ。
あれほど喧かった蝉たちは鳴りを潜め、
代わって野の主役を張るのは、コオロギやササキリ、ウマオイ、ツユムシなど。
津幡町は、すっかり秋の装いである。

愛犬を伴った道すがら出会った、季節を象徴する景観の1つがコレだ。

庄町交差点近くの「刈田(かりた)」である。
およそ3週間前に頭を垂れ始めた早稲は、既に収穫を終えた。
別の場所…北中条では、ガードレールを利用した「藁干し」も行われている。

思えば僕たち日本人は、余すことなく稲の恩恵を享受してきた。
実は、食料に。
糠は、洗剤に。
籾は、緩衝材、除湿剤に。
茎は、草履や靴、蓑や縄に。
燃した後の灰は、肥料に。
稲は、命をつなぐために必要な多くを頼ってきた運命共同体である。
その縁が絶えないよう、米を喰おう。

また、秋らしい人の営みにも出会った。
コレは「Aコープ津幡店」前の路上でお客の集合を待つツアーバス。

秋に冠せられる形容詞の一つは「行楽」。
特に、晴れ渡った今日などは楽しい道行きになると思う。
僕も久しぶりに予定のない休日だ。
ぶらりと近場へ出かけてみようかなとも考えている。

実りが結び、暑熱も緩む秋。
しかし、豊かな季節を堪能する事なく去る者もいる。
冒頭に書いた夏の象徴がそれだ。

樹上から地に堕ち、寿命が尽きようとしているアブラゼミ。
その複眼に映るのは、一体どんな景色なのだろうか。
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悲劇の少女と、悲劇の名手。~ オフィーリアとシェイクスピア。

2017年09月08日 07時06分51秒 | 手すさびにて候。
ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載・第五十六弾は、「オフィーリア」と「ウィリアム・シェイクスピア」。

「ハムレット」は、文豪「シェイクスピア」の4大悲劇のひとつ。
中世のデンマーク王朝を舞台に、愛と憎悪が渦巻く壮大な人間ドラマだ。
だから、あらすじも勢い長くなる。
とても端折って、ごく簡単に紹介したい。

主人公「ハムレット」は、デンマークの王子。
父王が急逝し叔父が王位を継承。王妃(実母)は、新しい王と再婚する。
繊細な「ハムレット」は、父の死から立ち直れない。
母の再婚によって女性不信にも陥ってしまった。
そんな時、城壁に現れた父王の亡霊が、自らの死因を告げる。
『余は、弟に毒を盛られたのだ。』
密かに復讐を誓い、実行する「ハムレット」だったが、
誤って恋人「オフィーリア」の父を殺してしまった。
「オフィーリア」は心を病み、やがて川に落ち溺れ死ぬ。
限りなく自殺に近い事故死だった。
そして、恐ろしい復讐の連鎖が始まる…。

これまで「オフィーリア」の死の場面…見目麗しい少女の悲劇的な最期は、
多くの絵画のモチーフになってきた。
老いさらばえてゆく未来から逃れ、若く美しいまま記憶の中に留まる。
時の流れに抗った永遠の美。
死んで花実は決して咲かないが、
死がフィクションにおいてのみカタルシス足り得る典型だ。

さて、この物語における有名な名台詞は、
「To Be, or Not To Be. That is the Question.」
「オフィーリア」が「ハムレット」の元を訪ねた時に、
恋人が自問していたダイアローグだ。
和訳で有名な言い回しは「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。」
他にも「このままでいいのか、いけないのか。それが重要だ。」
あるいは「いったいどうすればいいのか。問題はそこだ。」などもある。

「To Be」 は、復讐を果たすこと。
「Not To Be」 は、復讐を断念すること。
ならば、主人公の気持ちを反映して…
「進むか、止まるか。迷っているのだ。」でもいいのかもしれない。
いずれにしろ、平易な言葉をリズミカルに並べ、
深い陰影を持たせた構成は心に残る。
「シェイクスピア」は、こうした絶妙な言葉選びに加え、
名詞・形容詞を動詞に変えるなどして、多くの“新語”を創り出した。

例えば、「control:管理、統制」、「hurry:急ぎ」や「lonely:孤独な」など、
今も使われる言葉を考案し、「Love is blind:恋は盲目」や「Make Love」といった
愛のフレーズを作ったのも「シェイクスピア」。
言葉の名手であり、優秀なコピーライターだったのである。
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平成の僕から、昭和の僕へ。

2017年09月03日 06時36分48秒 | これは昭和と言えるだろう。
人は「理性的な生きもの」だという。
ちなみに「理性」を辞書で引くと次のとおり。
@物事の道理を考える能力。
@道理に従って判断したり行動したりする能力。
…確かに、そうでなければ「法」は意味を成さず、社会生活を営む事はできない。

しかし、人はアッサリと理性を捨てる一面も兼ね備えている。
食べ過ぎ、呑み過ぎ、賭け事など、身近な過ちは日常茶飯事。
盗み、殺人といった物騒なニュースにも事欠かない。
頭では「やっちゃイケない」と解っているのに、理性の箍(タガ)を外してしまう。
誤解を恐れずに言うならば「嬉々として」やってのけるのだ。

これも一つの例だろう。

散歩中に見つけた「立ち入り禁止」エリア。
戒めの理由は分からないが、空間を囲う鉄骨の錆び具合から見て、
かなり以前から指定されているのだろう。
小さな告知看板の文字も薄くなっている。

勿論、50歳を過ぎた「今の僕」は足を踏み入れたりしない。
しかし「昭和の僕」なら、理性を捨てて侵入しても不思議ではない。
「あぶないから はいってはいけない」場所には、
「スリルと冒険」が待っている気がしていたのだ。

かつての自分を棚に上げて、敢えて言いたい。
「危ないから、入ってはいけません」(笑)。
コメント (2)
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