つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

歴史に耳を傾け、歴史を想い散策する。

2022年10月15日 20時00分00秒 | 日記
                           
きのう(2022/10/15)津幡町文化会館シグナスに於いて、
「津幡町民大学」が開催された。
テーマは“津幡の歴史~宿場町としての役割~”。
大変興味深く聴講した。
--- という事で、今回はその講義レポート風に投稿してみたい。



関ヶ原で天下分け目の大合戦が行われる前年(1599年)、
加賀地方を治める「前田家」から命が下る。
【加賀~能登~越中(富山)三方への中継地である
 津幡村、庄村、清水村、加賀爪村で宿場を運営せよ】
--- これが「津幡宿」のはじまり。

以降、様々なインフラが整備された。
⇒貨客を運ぶ「馬」を常備。
 津幡宿のそれは100~120疋(ひき)を数えたという。
⇒江戸と領地を行き来する大名や、旅人に提供する宿を造成。
 ・参勤交代の大名や公用の幕府役人、公家の宿泊施設「本陣(ほんじん)」。
 ・本陣に次ぐ身分用の宿泊施設「脇本陣(わきほんじん)」。
  (※参勤交代は「行軍」であり宿泊施設は行軍中の「陣営」)
 ・一般用の食事つき宿泊施設「旅籠(はたご)」。
 ・食事なしの宿泊施設「木賃宿(きちんやど)」。
  (※木賃は「薪代/燃料代」のこと。宿に木の賃金を払って煮炊きした)
⇒馬や人の手当、公用文章類を扱う管理事務所「問屋場(といやば)」の設置。
それぞれの人員・組織も含めて形が整ったのは、開幕から数年後と推測される。


(↑当日配布資料:160年前、幕末の町見取り図)

(↑商家「八尾屋(やつおや)」の古民家)

宿場町は、周辺地域と比べ人口も多く商いも盛ん。
それなりに資金も集まったが、負担も軽くない。
大きな厄介事は、主に2つあった。

一つは「参勤交代(さんきんこうたい)」。
ご存じの通り、幕藩体制を維持するための人質政策である。
原則、各藩の藩主を1年おきに江戸に参勤(勤め)させる制度。
加賀藩の場合、金沢から江戸まで500キロ近くの道のりを、
臣下、足軽、医師、職人ら、総勢2000~4000人がお供をした。
諸経費は現代の価値に置き換え、毎回、数億円を要したという。
--- じゃあ、宿場町にとって大名行列は上客じゃないか。
と思えるが、実際は単純ではない。

とにかく旅費の倹約がモットーであるため、
宿代の引き下げを持ちかけるケースは日常茶飯事。
また、輸送用の人馬を常備し続けるのも大変。
苦労してかき集めたが、支払われる賃金は公用のため極めて低かった。
更に、施設も悩みを抱えていた。
「本陣」の利用日数は1年で20日に満たず、稼働率が極めて悪い。
採算が合わず、経営は苦しかったと考えられる。

「参勤交代」は人の往来と物流により経済成長を促した半面、
地方が疲弊していく原因にもなった。


(↑俳人・河合見風(かわい・けんぷう)邸宅跡に建つ「長寿庵(ちょうじゅあん)」

(↑おやど橋と、脇本陣「角屋」跡の石碑)

もう一つの厄介事は「巡検(見)上使(じゅんけんじょうし)」。
武家諸法度・一国一城制は遵守されているか。
生産・物価は安定しているか。
禁教が流布していないかなど、諸々を確かめるべく、
幕府は諸国の監察を行う「国廻り」を派遣した。

この公用使節は、各地の実態を「格付け」した為、
評価が低い、または悪いと幕府の機嫌を損ねかねない。
そこで、宿場を挙げての接待攻勢が展開された。
津幡宿では、毎回、現代の価値で1000~3000万円のコストが掛かったとか。


(↑↓文久2年(1862年)創業「舟田商店」の建物と看板。数年前に暖簾を下ろした)


やがて時代を経て「変化」が訪れた。
ごく簡単に言えば「流れ」が変わった。
海産物の産地・能登、穀倉地帯・越中砺波、
両方向から金沢への物流が、津幡宿を経由しなくなる。
理由はシンプル。
その方が距離が近く効率がよかったから。
また宿場管理外の「個人営業」も横行。
次第に「宿場による輸送の独占」は形骸化してゆき、津幡宿は斜陽の一途。
明治に入り、江戸型宿駅制度が廃止され役目を終えた。


(↑当日配布資料:物流の変化)

(↑天明6年(1786年)創業「久世(くぜ)酒造」酒蔵の板囲い)

常々僕は、津幡に往時の面影がないことを残念に思ってきたが、
その歴史を辿れば致し方ないのかもしれない。
おそらく、終幕間近の津幡宿は疲弊していただろう。
人馬が行き交った賑わいは「今は昔」。
小さくて貧しい田舎町だったと想像する。
                          

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2 コメント

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Unknown (或春の日暮)
2022-10-16 18:51:27
お久しぶりです。
質問:前田家が宿場の一つとして津幡村を選んだのは何故なのでしょう?江戸に上るには都合の良い地理的利点があった?
それにしても、大名だけでなく、地方を疲弊させることも参勤交代の狙いだったのでしょうかね?
あ、すみません。今日訪問させて頂いたのは、以前私がコメントさせて頂いた時のお返事に、「司法書士試験の合格を・・」と有り難い一文がありましたので。結果報告しなければと。だけど不合格でした。情けないことで申し訳ない。
いい加減年なんで、合格しても、その先どれだけ仕事できるかを考えなければならないのですが、もう一年頑張ってみたいと思っています。応援して頂き、ありがとうございました。
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或春の日暮様へ。 (りくすけ)
2022-10-16 19:54:33
コメントありがとうございます。

ご質問への答え。
津幡が宿場に選ばれた理由の主は立地と考えます。
能登半島と富山県へ続く分岐にあたり、
人と物が流通するポイントでした。
参勤交代に於いては金沢からみて、
最初の宿泊・休憩地でした。
また、宿場に指定された当初は、豊臣家が健在。
大坂夏の陣・冬の陣などで「軍隊」が通過する為、
補給基地でもあったようです。

参勤交代は幕藩制度を維持する施策でしたが、
出費が多く、外様大名の財政難を招いた事に加え、
負の副産物として地方の疲弊も生んだと考えます。

司法書士試験の結果、残念でした。
また再挑戦をされるとのこと。
よき未来が訪れることを願っております。

では、また。
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