つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

夢は枯野をかけ廻る~関ヶ原にて~

2024年04月14日 21時45分45秒 | 旅行
                          
岐阜県西南部「西美濃の旅」続篇。

大垣市で一泊した僕は、隣接する「関ヶ原町」へ向けハンドルを切った。
関ケ原町は人口6000あまり。
岐阜県の西端に位置し、北は伊吹山地、南は鈴鹿山脈に囲まれている。
平野部でも海抜100m~200mの高低差があり、変化の多い地形が特徴。



ここでは、天下分け目の戦いが二度行われた。
一度目は古代日本最大の内戦「壬申の乱」。
二度目が、かの「関ケ原合戦」である。
取り分け後者は有名だからご存じの向きも多いだろうが、
簡潔にあらましを振り返るところから、筆を起こそう。

<戦場>
主戦場は、美濃国関ヶ原(現:岐阜県関ケ原町)。
東西およそ4km、南北2km、標高130メートルの関ヶ原台地で展開された。
岐阜と滋賀の県境に近く、現在も東海道新幹線や名神高速道路などが通るここは、
古くから北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わる「交通の要衝」。
周囲を大小の山に囲まれた盆地で、小さな集落と田畑や荒野が広がっていた。



<戦の背景>
戦いは、慶長5年(1600年)9月15日に行われた。
(※但し日付は「旧暦」。今の暦に直すと10月21日にあたる)
端的にいえば、天下人・豊臣秀吉死去に伴う「徳川家康」と「石田三成」との主導権争い。

<戦の全体像>
「東軍」---総大将「徳川家康」。
主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政など総勢7万4000。
「西軍」---総大将「毛利輝元」、実権「石田三成」。
西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。

合わせて16万(20万説アリ)の将兵と、
2万5000挺あまりの鉄砲・大砲が配備され、激しい戦いを繰り広げた。
日本史上最大の野戦、世界史上初の大規模近代野戦といわれる。


(※関ヶ原七武将 ウォーキングマップを撮影/掲載)

<戦の推移>
西軍は、鶴が翼を広げたような陣形「鶴翼(かくよく)の陣」。
中央に位置する本陣が後ろに、左翼と右翼が最前線に立ち、
敵軍を両翼の二軍が挟み込んで戦うスタイル。
敵よりも兵力で勝り、敵を包囲する際に有利とされる。

東軍は、魚の鱗のように配置された陣形から名前が付いた「魚鱗(ぎょりん)の陣」。
寡兵で多くの敵と戦う際に用いられ、三角形のピラミッドの形に部隊を配置するのが特徴。
最前線で刃を交えた部隊を一定時間で引き、後続と入れ替えながら戦闘を継続する。
敵軍の中央突破に有効と言われる。

「三成」の巧妙な采配により、合戦当日は西軍が有利に布陣。
東軍は西軍に囲まれる立ち位置になり苦しい戦いを余儀なくされた。
戦端が開いた当初は、一進一退。
むしろ西軍が押し気味だったが、西軍には家康と内通してか傍観を決め込む大名も多く、
やがて、松尾山に布陣する小早川秀秋の「裏切り」によって均衡が破られる。
形勢は一気に東軍へ傾き、わずか1日で東軍の勝利に終わった。 



今回、関ヶ原観光をするにあたり、
同地観光協会の「せきがはら史跡ガイド」に申し込んだ。
土地勘がないうえに徒歩移動をするなら、
「分かる人」に連れて行ってもらうのが賢明と判断。
正解だった。
赤い陣羽織を着た方がガイドさん。
隣を歩くのはもう一人の同行者。
勿論お2人とは初対面で、2時間余りの道連れ。
名前も名乗らなかったが「歴史という共通言語」を解する者同士。
会話には困らず、楽しく充実したひと時を過ごすことができた。





やはり、自分の足で歩いてみたからこそ分かることがある。
地名にある文字「原」を辞書で引くと『草などが生えた平らで広い土地』と記載されるが、
実際は小さくない起伏が連なる「丘陵」に近い趣き。
歩兵の移動はまさに悪戦苦闘だっただろう。
合戦当日の地面は、前夜までの雨の影響で泥濘(ぬかるみ)。
陣笠、胴鎧、槍・刀剣、旗指物、携行食を身に着けて、草鞋履き。
大変さは想像に難くない。



騎馬も同様だ。
足元の悪さに加え、上掲画像のような「馬防柵」に行く手を阻まれた。
この頃の軍馬はサラブレッドに非ず。
タフネス、パワフルではあったが体格は大きくない。
更に前述したとおり、数多くの銃が導入され、数万人がひしめく戦場である。
縦横無尽に駆け回るのは難しかっただろう。



関ケ原の戦いから420年の節目にあたる2020年10月22日、
「岐阜県関ケ原古戦場記念館」がオープンした。
(コロナ禍の中、船出は何かと苦労したと察する)
この施設、見応え充分。
僕がアレコレ書くよりも以下リンクからご覧になった方がいい。
記念館公式HP 
記念館PV
おススメである。

少しだけ補足しておくならば「二段構えの体験型映像」は圧巻。
一段目は、大きな床面のスクリーンを見下ろし、
東西陣営の動きを俯瞰できる「グラウンド・ビジョン」。
人気講談師「神田伯山(かんだ・はくざん)」の名調子が気分を盛り上げてくれる。

続く二段目は、縦4.5m、横13mのワイド曲面スクリーンの「シアター」。
作品に合わせ、風や振動、光、音による「4DX」の演出が、
東西両軍激突の戦場に迷い込んだかのような気持ちにさせてくれた。

--- こうして資料を観覧し、古戦場を歩きながら僕は思った。
『やはり役者が違うな』と。
片や、天下人・秀吉の側近として頭角を現した優秀な官僚「三成」。
片や、戦国の辛酸を舐めサバイバルゲームを生抜いた武将「家康」。
2人を比較すると、役者の格は一枚も二枚も「家康」が上。
事前の根回し、攻守切り替えの勘所など卒がない。



しかし、戦いは偶発の連続で、丁半博打・オセロゲームの要素を孕むもの。
開戦まで「三成」による采配は見事で、戦いが彼のシナリオどおりに進み、
小早川秀秋の裏切りがなければ、西軍勝利の可能性は高い。
もしそうなっていたら---。
大坂で「豊臣(秀頼)」を中心に据えた政治が行われたかもしれない。
あるいは再び戦乱の世に逆戻りしたかもしれない。
いずれにしても、合戦の3年後に江戸開幕(かいばく)はなく、
僕たちの知るそれとは「異なる歴史」「異なる日本の姿」があったはずだ。



--- さて「関ケ原古戦場記念館」では“東西文化分け目”の展示も目を引いた。

『日本の東西では同じ食べ物でも、見た目や味が異なることがある。
 日本料理で重要な出汁は、一般的に関西は昆布ベース、関東は鰹ベースといわれる。
 昆布の主産地は北日本だが、海運が盛んになった江戸時代、
 「天下の台所」と称された大阪へ西廻り航路で直接入るようになったため、
 京・大坂の庶民に広まったともいわれる。
 かたや江戸を中心とする関東では、濃い味の鰹出汁が好まれた。
 江戸幕府は政治機能を江戸に移した後も、大阪を流通の集積地とした。
 関ヶ原の戦いの結果は、東西の味の違いにも影響を与えたのかもしれない。』
(『   』内、展示パネル原文ママ)

うどんか蕎麦か、餅は丸か角か、カレー肉、ところてんの味付け、うなぎの裂き方など、
関ヶ原を境にした流儀の違いの代表例に頷く。



そして、当日の昼飯である。
偶然通りかかり看板が目に付いた食堂、
「やまびこ路(じ)」でエンジンを切った僕は暖簾を潜った。



国道21号線沿い、東軍の6武将が陣を張った場所に構えた店内には、
合戦に登場する武将の提灯、陣旗、資料などを展示。
東の鰹出汁の蕎麦を食べようか?
あるいは西の昆布出汁うどんか?
悩んだ末に豆味噌で作るモツ煮込みメニュー、尾張の「どて丼」を注文。



味噌汁も赤だし。
これなら東西の角が立たないだろう?!
美味しゅうございました!

<次回へ続く>
                            

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