つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

さまざまの 事おもひ出す 桜かな~大垣紀行~

2024年04月13日 19時19分19秒 | 旅行
                                  
<はじめに>

正直、心身共に疲れを覚えていた。
令和6年能登半島地震に始まり、愛犬の死、災害ゴミ受け入れ業務---。
年が明けてから休まらない日々が続いた。
また先月まで寒さが長引いたことも、気を滅入らせた一因だったかもしれない。
しかし、幸い暖かくなってきた。
僕は、春の陽気に誘われ小旅行に出かけた。
行先は岐阜県南西部「西美濃」。
これから3回シリーズでその記録を掲載したい。

まず訪れた「大垣市」では、散際の桜が出迎えてくれた。



大垣市の位置は、岐阜県の濃尾平野北西部。
県庁所在地の岐阜市に次いで2番目の人口(15,000あまり)を有する。
面積206.57km²のうち「平成の大合併」で編入した旧・上石津町と旧・墨俣町は、
旧・大垣市の面積より大きく、更に飛地となっている。



大垣には「水の都」の異名もある。
かつては河川を利用した舟運(しゅううん)が盛んで、
明治時代に入っても重要な交易ルートとして活用されていた。
大垣〜桑名間を結ぶ「水門川」の船町港跡には灯台が建つ。
寄棟造りの「住吉灯台」は高さ8m。
港の標識・夜間の目印として天保11年(1840年)に建造(現存物は明治の再建)。
最上部の四方には油紙障子をはめ込み中央に燈火を入れた。
明治16年に小型蒸気船の定期航路が開設された折には、
年間1万もの船が行き来していたという。



地下自噴水も豊かで、上水道の水源になっている。
恒常水温13度だから、夏は冷たく冬は温かい。
また、適度な硬水で旨い。
その水を活かした名物菓子をいただいた。





JR大垣駅近く、寛政十年(1798年)創業「金蝶園総本家」。
そこで明治初期から作られている「水まんじゅう」。
たっぷりの氷を浮かべた湧き水に沈む様子は涼しげ。
餡(抹茶と小豆)を、葛、本わらび粉の皮に包んだ逸品。
食感ぷるぷる、つるん。
甘味あっさり。
大変美味しゅうございました。





続いて、城下町・大垣のシンボル大垣城である。

現在の天守は「復元」。
昭和20年(1945年)7月29日未明の「大垣空襲」により焼失。
しかし、国宝に指定されていたお陰か、
戦前に実測図と写真集を作成していたため、往時の容姿に近い形で再建された。
(※鉄筋コンクリート製)
噴水、池、花壇、ホールなどが整備された「大垣公園」は、
面積3.10haにすぎないが、かつては3倍以上の規模。
水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、櫓の数は10を数える。
まさに要塞だったと言っていい。







慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原決戦では「石田三成」の本拠地になった。
当初、西軍は大垣城にて東軍に抵抗しようと考えていたが、
9月14日(新暦:10月20日)夜、主力部隊を関ヶ原に展開させる。
本戦の火蓋が切られる直前、東軍が大垣城を攻撃。
三の丸が落ちた。
翌日、西軍が敗れたことで城は敵地に取り残される格好に。
残る守備隊は引き続き籠城抗戦するも数日後に降伏、開城した。
つまりここは、関ヶ原の前哨戦であり、延長戦の舞台になったのである



天守内部は、甲冑・火縄銃・槍・弓などの武具類、
戦いの推移を表した地図・パネルなどの資料を展示。
中でも個人的に気になったのは「幻の大垣城決戦」である。



『石田三成が大垣城から関ヶ原に転進せず、もし大垣城決戦が行われていたら、
 どんな戦いになったでしょうか?
 関ヶ原合戦直前の大垣城一帯には、
 関ヶ原に転進した石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜田秀家らの
 約30,000と、石田三成らの転進後も大垣城を守備した約7,500の、
 あわせて4万近くの兵がいました。
 徳川家康率いる東軍の総兵力は10万。
 数の上では東軍が優勢ですが、籠城するのに大垣城には十分すぎる兵がおり、
 また南宮山一帯(※1)には大垣城を後詰する(=後方から支援する)
 毛利秀元・長宗我部盛親ら約25,000の兵が布陣していたので、
 東軍もうかつに攻められなかったと考えられます。
 また、大垣城一帯は低湿地の輪中地帯(※2)で、大小多くの川が流れており、
 東軍は大垣城の水攻めを計画していたともいわれます。
 いずれにしても短期で決着がつくとは考えられません。
 東軍には徳川秀忠の徳川本隊や加賀の前田利長の到着、
 西軍も立花宗茂らの大津城攻撃軍や丹後田辺城攻城軍、
 豊臣秀頼を擁した毛利輝元の来援も全くないとはいえず、
 戦いの帰趨は混とんとしたものになっていたことでしょう。』

(『  』内、展示パネル原文ママ)
※作注1/岐阜県大垣市、垂井町、関ケ原町、養老町にまたがる標高419 mの山)
※作注2/わじゅう、低い土地を水害から守るため堤防で囲んだ集落、濃尾平野に多い)

時間の流れは常に一方通行であり、決して止まらない。
その意味で“歴史のif”は考えても詮無いが、
関ヶ原合戦は間違いなく日本史のターニングポイント。
僕たちが生きる今に影響を与えているからこそ、あえてifを問い、
ありえたかもしれない過去を起点に、現実とは違う現在を探ることは、
未来を描く際の研究になりえる(と思う)。
何より歴史ファンにとっては、実に楽しいひと時なのだ。



---さて、大垣城の石垣はなかなかのレアケース。
大垣一帯は河川の堆積によって形成された沖積地で、石材は産出されない。
そこで美濃の山から石を切出し、水運を利用して輸送した。
その山で産出されるのは、サンゴやウミユリなどの死骸が固まってできた「石灰岩」。
所々「化石」が含まれていることが分かる。
上掲画像は、我々人間など影も形もない遥か太古の海の生き物、
「ベレロフォン」という古生代の巻貝の一種だとか。

先ほど『時間の流れは常に一方通行』などと書いたが、
じっと見つめるうち、僕の脳は5億年の時を遡るかのような錯覚を覚えた。



今投稿ラストは、天守からの眺望。
ビルに隠れて見えないが、その先には「関ヶ原」がある。
次は、天下分け目の決戦場訪問記だ。

<次回へ続く>
                         

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2 コメント

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Unknown (象が転んだ)
2024-04-14 20:57:31
歴史には疎い私ですが
多分、家康は戦いの本質を既に見抜いてたのではと思います。
つまり、小早川や吉川が翻れば勝負は一瞬で決すると・・
それに家康は数理にも明るかったと思います。故に、多勢に無勢の西軍よりも西軍の弱点を知り抜いてた東軍に最初から分があった。
両軍を天秤にかけてた小早川も、どう転んでも東軍が勝つと踏んでたと思います。
翻ったというより、最初からタイミングを見計らい、西軍を攻撃するつもりだったのでは・・・
歴史の面白い所は”タラレバ”で好き勝手に議論ができる事にありますが
タイムトンネルがあったら、この目で確かめてみたいですね。
象が転んだ様へ。 (りくすけ)
2024-04-15 06:31:42
コメント、ありがとうございます。

今投稿の続篇にも書きましたが、
家康は三成より役者が上。
戦国を知らない秀才 対 戦国を生抜いたカリスマでは、
格が違う印象です。
小早川は、豊臣と徳川の両方に恩義がある若者。
東西のどちらに呼応するか悩んだ事でしょう。

--- とまあ、そんなハナシも想像の域を出ません。
確かにタイムトンネルがあったら、
大合戦の現場を見てみたいものですね。

では、また。

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