「今日の一枚」は、津幡川に架かる橋の上からシャッターを切った。
夏の強烈な日差しを受けて、僕の影が映っている。
輪郭がやや霞み、水の程よい濁りによって薄くセピアに色付いて、
古いフィルムに感光した様な仕上がりが、なかなかいい。
結構気に入っている。
きのうの投稿は、津幡町を走る鉄道の魅力に起因した内容だったが、
中心部を川が流れている事も、やはりこの町の魅力の1つだと思う。
時間帯によって水辺に落ちる影や色が変化する。
季節によって川面を渡る風の強さや体感温度も変化する。
川のお陰で景色に表情が出るからだ。
…さて、今回の撮影場所は、度々登場する「おやど橋」。
以下に「津幡町史」を引用しながら、そのプロフィールを記録したい。
『おやど橋は、旧北国街道で津幡川に架かる橋で傍らにあった御旅屋が
(※注「御旅屋」の読みは「おたや」。江戸期の本陣だった旅館の事)
「おやど」となまって呼ばれたことから名付けられたものであろう。
往時の川巾や橋の長さについては確かな記録に乏しいが、
元禄時代の浅加久敬の道中記によると、川巾五・六間(約11㍍)。
上流、下流には跳び越えられる所もあり、
橋の長さは八間(約14・5㍍)であったと記されている。
橋の名前は書いてないが多分おやどばしのことであろう。
明治三十一年(1898)
津幡川下流の掘替工事に反対した井上村の上申書によると
「以前川巾八間アリシト伝フルモノ、今ヤ二間斗リニ狭メ、
アタカモ瓢ノ如クニナリタルカ為、一朝大雨ニ際セハ水流ハ
此ノ狭所ニセバメラレ、水害ヲ為スモノニシテ云々」
とあり、この頃のおやどばし付近の状況がわかる。』
…やはり橋の名前から受ける印象の通り、
宿場町らしく、大きな「旅籠」に由来しているようだ。
またコンクリートで護岸される以前の川の姿、
暴れ川だった当時も偲ばれ、興味深い。
引用を続ける。
『明治後期~大正初期にかかっていた橋は木橋で、
四つ柱は丸型で銅の擬宝珠がかぶせられており、
橋の名も平仮名で「おやどばし」と書かれていた。
昭和七年、二十三年にも改築を行い、昭和二十九年の大改築で
鉄筋無脚橋、巾員六㍍、長さ二〇㍍、耐重量二〇トン、
工費八〇〇万円(全額国庫負担)で完成した。
しかし、毎年の如く襲ってくる大洪水と、段々大型化する自動車は
おやどばしを度々架替えさせる原因となった。』
…およそ一世紀前のおやど橋には儀宝珠(ぎぼし)があった。
木の橋や欄干の柱の上に設けられている伝統的な飾りである。
昭和29年の800万円は、平成現在の貨幣価値に換算すれば7倍は下らない。
つまり5~6千万円の大工事であるが橋の変遷は続いた。
但しゴールは間近である。
『そして町民の念願であった津幡川の大改修が
三年の歳月と十五億五千万円を投じて完成し、
その最後の工事としておやど橋が昭和四十二年十月二十七日に着工され
翌昭和四十三年六月十五日に竣工した。
工費七一一〇万円、橋巾員一一.五㍍、長さ四〇.五㍍、
鋼弦コンクリート造りの永久橋である。』

…現在の「おやど橋」である。
ここに至るまでは、色々とあったのだ。
日本の片田舎の小さな橋にもそれなりのドラマがあった。
ここまで引用してきた「津幡町史」には、橋の項のまとめが記されている。
編纂を担当したお役所らしい文面だ。
『この一帯は町の中心部であったため、
家屋の立退きや土地所有者と借地者との問題もあって難航したが、
関係者の努力によって解決したのである。』
(※『 』内、原典:津幡町史、原文ママ)
夏の強烈な日差しを受けて、僕の影が映っている。
輪郭がやや霞み、水の程よい濁りによって薄くセピアに色付いて、
古いフィルムに感光した様な仕上がりが、なかなかいい。
結構気に入っている。
きのうの投稿は、津幡町を走る鉄道の魅力に起因した内容だったが、
中心部を川が流れている事も、やはりこの町の魅力の1つだと思う。
時間帯によって水辺に落ちる影や色が変化する。
季節によって川面を渡る風の強さや体感温度も変化する。
川のお陰で景色に表情が出るからだ。
…さて、今回の撮影場所は、度々登場する「おやど橋」。
以下に「津幡町史」を引用しながら、そのプロフィールを記録したい。
『おやど橋は、旧北国街道で津幡川に架かる橋で傍らにあった御旅屋が
(※注「御旅屋」の読みは「おたや」。江戸期の本陣だった旅館の事)
「おやど」となまって呼ばれたことから名付けられたものであろう。
往時の川巾や橋の長さについては確かな記録に乏しいが、
元禄時代の浅加久敬の道中記によると、川巾五・六間(約11㍍)。
上流、下流には跳び越えられる所もあり、
橋の長さは八間(約14・5㍍)であったと記されている。
橋の名前は書いてないが多分おやどばしのことであろう。
明治三十一年(1898)
津幡川下流の掘替工事に反対した井上村の上申書によると
「以前川巾八間アリシト伝フルモノ、今ヤ二間斗リニ狭メ、
アタカモ瓢ノ如クニナリタルカ為、一朝大雨ニ際セハ水流ハ
此ノ狭所ニセバメラレ、水害ヲ為スモノニシテ云々」
とあり、この頃のおやどばし付近の状況がわかる。』
…やはり橋の名前から受ける印象の通り、
宿場町らしく、大きな「旅籠」に由来しているようだ。
またコンクリートで護岸される以前の川の姿、
暴れ川だった当時も偲ばれ、興味深い。
引用を続ける。
『明治後期~大正初期にかかっていた橋は木橋で、
四つ柱は丸型で銅の擬宝珠がかぶせられており、
橋の名も平仮名で「おやどばし」と書かれていた。
昭和七年、二十三年にも改築を行い、昭和二十九年の大改築で
鉄筋無脚橋、巾員六㍍、長さ二〇㍍、耐重量二〇トン、
工費八〇〇万円(全額国庫負担)で完成した。
しかし、毎年の如く襲ってくる大洪水と、段々大型化する自動車は
おやどばしを度々架替えさせる原因となった。』
…およそ一世紀前のおやど橋には儀宝珠(ぎぼし)があった。
木の橋や欄干の柱の上に設けられている伝統的な飾りである。
昭和29年の800万円は、平成現在の貨幣価値に換算すれば7倍は下らない。
つまり5~6千万円の大工事であるが橋の変遷は続いた。
但しゴールは間近である。
『そして町民の念願であった津幡川の大改修が
三年の歳月と十五億五千万円を投じて完成し、
その最後の工事としておやど橋が昭和四十二年十月二十七日に着工され
翌昭和四十三年六月十五日に竣工した。
工費七一一〇万円、橋巾員一一.五㍍、長さ四〇.五㍍、
鋼弦コンクリート造りの永久橋である。』

…現在の「おやど橋」である。
ここに至るまでは、色々とあったのだ。
日本の片田舎の小さな橋にもそれなりのドラマがあった。
ここまで引用してきた「津幡町史」には、橋の項のまとめが記されている。
編纂を担当したお役所らしい文面だ。
『この一帯は町の中心部であったため、
家屋の立退きや土地所有者と借地者との問題もあって難航したが、
関係者の努力によって解決したのである。』
(※『 』内、原典:津幡町史、原文ママ)