「それまる! バラ図鑑」の第2・第3巻の掲載品種をほぼ選定しました。
色や香りなど形質の優れた品種や歴史的にも重要な品種をピックアップし、全巻で770品種ほどです。その写真のアーカイブを調べて、50品種ほどを補充撮影したいと思っていますが、掲載したい品種の中でただ一つ、まったく写真の無い品種が見つかりました。オールドローズの殿堂15品種のうち、グロワール・ドゥ・ディジョンの写真がまったくないのです。
検索して、生田緑地のオールドローズ園に植栽されていることが分かりました。公開時期を調べて、今春は必ずそこへ行かなければなりません。良い写真が撮れるといいのですが。
まだアップしていなかったバラの一つ、デュシェス・
ダングレーム Duchesse d'Angouleme
(Gallica /Provins, Hybrid Gallica)。
ライトピンクの優雅な八重咲きで、強香性です。
別名に • The Wax Rose
• Wax Rose (gallica, Vibert 1835)
別名がありますが、あまりワックスをかけたようには見え
ません。
作出者 フランス Jean-Pierre Vibert 1821年。
(千葉県佐倉市 佐倉草笛の丘 2018年5月21日)
(埼玉県上尾市 BARAFAN=移転 2009年5月3日、
2011年5月14日)
作出はフランス復古王政期のルイ18世時代で、ルイ16世&マリー・アントワネットの遺児ダングレーム公爵夫人が王室の有力メンバーとして活動している時期にあたります。
ダングレーム公爵夫人 Marie-Thérèse-Charlotte (以後 マリー・テレーズ、1778.12.19 - 1851.10.19)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女で、のちルイ16世の弟シャルル10世の長男である (従弟) ルイ・アントワーヌ王太子の妃となりました。
「20分間だけの王妃」という異名を持つように、彼女は華やかな王族というイメージとは全く違う、過酷な運命に生きた女性でした。
まだ10才8か月の1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月にはテュイルリー宮殿に軟禁されます。マリー・アントワネット一家は実家オーストリアへの亡命を計画するが失敗してパリに連れ戻されます (ヴァレンヌ事件)。
1792年、対仏大同盟によるフランス革命戦争が勃発すると国王一家はタンプル塔に幽閉され、のちに父、母ともに革命派に処刑されます。マリー・テレーズと弟ルイ・シャルルは2年近く別々に幽閉されました。
1795年 (当時16才) 以降 、オーストリア、ロシア、イギリスなどあちこちに亡命を余儀なくされましたが、ブルボン王政の復活、ナポレオン打倒のために尽力しました。
彼女はオーストリア継承戦争を主導した「女帝」マリア・テレジアの孫にあたり、神聖ローマ皇帝を輩出するオーストリア・ハプスブルク家とブルボン家という父母共に超一流の家系の生まれで、誇り高かったと思われます。祖母マリア・テレジアは何不自由なく育ち政治をまったく知らなかったのに、継承戦争ではハンガリーを説得して味方にするなどして四方の敵と戦い、見事に乗り切りました。心遣いもしっかりしていたと推測されます。
孫のマリー・テレーズは気位高く、しかも幼少のころから革命に遭って流浪し辛酸を舐めたせいもあって、十分な人脈も持たず、質素な身なりで性格円満とはいかなかったらしい。亡命中はブルボン家再興運動を全面的に支援し、念願かなって1814年からフランスで王政が復活し、彼女は王家の重要メンバーとなりました。しかし彼女がもっと王族らしく華やかであれば、国民の人気も高まったであろうと惜しまれます。
1830年7月、復古的なシャルル10世の政府は七月勅令で代議員の解散や出版制限をしましたが、かえって反政府運動を引き起こし、7月30日、ついに国王の廃位が宣言されました。(7月革命)
8月2日、シャルル10世が退位文書に署名してから20分後に王太子のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌが王位継承権を放棄したため、名目上20分間のフランス国王ルイ19世とされることがあり、妻のマリー・テレーズも20分間だけの王妃、と呼ばれることがあるそうです。
このとき、王太子妃の彼女がどう思ったのか、記録は残されていません。
その後、シャルル10世はパリから逃亡し、マリー・テレーズたちも共にイギリスへ亡命しました。
最後はウィーン郊外のフロースドルフ城で1851年10月19日、肺炎のため死去しました。本当に運命は過酷ですが、彼女が天寿を全うしたことも含め全ては神の思し召しだったかもしれません。
上2枚は 佐倉草笛の丘 2018年5月21日。
これは BARAFAN=移転 2009年5月3日。
これは 同 2011年5月14日。
色や香りなど形質の優れた品種や歴史的にも重要な品種をピックアップし、全巻で770品種ほどです。その写真のアーカイブを調べて、50品種ほどを補充撮影したいと思っていますが、掲載したい品種の中でただ一つ、まったく写真の無い品種が見つかりました。オールドローズの殿堂15品種のうち、グロワール・ドゥ・ディジョンの写真がまったくないのです。
検索して、生田緑地のオールドローズ園に植栽されていることが分かりました。公開時期を調べて、今春は必ずそこへ行かなければなりません。良い写真が撮れるといいのですが。
まだアップしていなかったバラの一つ、デュシェス・
ダングレーム Duchesse d'Angouleme
(Gallica /Provins, Hybrid Gallica)。
ライトピンクの優雅な八重咲きで、強香性です。
別名に • The Wax Rose
• Wax Rose (gallica, Vibert 1835)
別名がありますが、あまりワックスをかけたようには見え
ません。
作出者 フランス Jean-Pierre Vibert 1821年。
(千葉県佐倉市 佐倉草笛の丘 2018年5月21日)
(埼玉県上尾市 BARAFAN=移転 2009年5月3日、
2011年5月14日)
作出はフランス復古王政期のルイ18世時代で、ルイ16世&マリー・アントワネットの遺児ダングレーム公爵夫人が王室の有力メンバーとして活動している時期にあたります。
ダングレーム公爵夫人 Marie-Thérèse-Charlotte (以後 マリー・テレーズ、1778.12.19 - 1851.10.19)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女で、のちルイ16世の弟シャルル10世の長男である (従弟) ルイ・アントワーヌ王太子の妃となりました。
「20分間だけの王妃」という異名を持つように、彼女は華やかな王族というイメージとは全く違う、過酷な運命に生きた女性でした。
まだ10才8か月の1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月にはテュイルリー宮殿に軟禁されます。マリー・アントワネット一家は実家オーストリアへの亡命を計画するが失敗してパリに連れ戻されます (ヴァレンヌ事件)。
1792年、対仏大同盟によるフランス革命戦争が勃発すると国王一家はタンプル塔に幽閉され、のちに父、母ともに革命派に処刑されます。マリー・テレーズと弟ルイ・シャルルは2年近く別々に幽閉されました。
1795年 (当時16才) 以降 、オーストリア、ロシア、イギリスなどあちこちに亡命を余儀なくされましたが、ブルボン王政の復活、ナポレオン打倒のために尽力しました。
彼女はオーストリア継承戦争を主導した「女帝」マリア・テレジアの孫にあたり、神聖ローマ皇帝を輩出するオーストリア・ハプスブルク家とブルボン家という父母共に超一流の家系の生まれで、誇り高かったと思われます。祖母マリア・テレジアは何不自由なく育ち政治をまったく知らなかったのに、継承戦争ではハンガリーを説得して味方にするなどして四方の敵と戦い、見事に乗り切りました。心遣いもしっかりしていたと推測されます。
孫のマリー・テレーズは気位高く、しかも幼少のころから革命に遭って流浪し辛酸を舐めたせいもあって、十分な人脈も持たず、質素な身なりで性格円満とはいかなかったらしい。亡命中はブルボン家再興運動を全面的に支援し、念願かなって1814年からフランスで王政が復活し、彼女は王家の重要メンバーとなりました。しかし彼女がもっと王族らしく華やかであれば、国民の人気も高まったであろうと惜しまれます。
1830年7月、復古的なシャルル10世の政府は七月勅令で代議員の解散や出版制限をしましたが、かえって反政府運動を引き起こし、7月30日、ついに国王の廃位が宣言されました。(7月革命)
8月2日、シャルル10世が退位文書に署名してから20分後に王太子のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌが王位継承権を放棄したため、名目上20分間のフランス国王ルイ19世とされることがあり、妻のマリー・テレーズも20分間だけの王妃、と呼ばれることがあるそうです。
このとき、王太子妃の彼女がどう思ったのか、記録は残されていません。
その後、シャルル10世はパリから逃亡し、マリー・テレーズたちも共にイギリスへ亡命しました。
最後はウィーン郊外のフロースドルフ城で1851年10月19日、肺炎のため死去しました。本当に運命は過酷ですが、彼女が天寿を全うしたことも含め全ては神の思し召しだったかもしれません。
上2枚は 佐倉草笛の丘 2018年5月21日。
これは BARAFAN=移転 2009年5月3日。
これは 同 2011年5月14日。
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