梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

人間の値打ち

2014-09-22 15:45:07 | 日記
   それほど大きな事を書こうとしているわけではありませんが・・・。

   先日テレビで、街行く若い女性達に指定した料理を作ってもらい、10人中何人が正しい作り方で料理ができるかを確かめるという企画があった時のことです。恐らくは料理自体出来そうにもない子たちを選んで出演してもらっているのでしょうが、9人までは惨憺たるものでした。手順・味付け、どれをとってもでたらめでした。

   しかし、撮影順から行くと本当は何番目だったのかは知りませんが、最後に紹介した、いかにも今どきのおバカな女の子が、見事に手際良く、何のためらいもなく、それを完成させて見せました。人は見かけによらないものとは、正にこのことだと思いました。

   ところでこの女の子、見た目通り、本当におバカな子で、なんと足し算が出来なかったのです。掛け算や割り算ならともかく、足し算が出来ないのです。一緒にいた友人が楽しそうに出す簡単な問題、小学二年生でもできる問題に、彼女は正解することができません。誰もできなかった料理をいとも簡単にやってのけて見せたくせに、足し算が出来ない!この子の頭の中は一体どうなっているのでしょうか。

   しかし彼女は他の子たちに出来ないことが出来ます。この料理しか作れないことはないと思うので、ほかにも作れる料理が沢山あることでしょう。結婚しても、取りあえずやっていけそうな気がします。

   さて、改めて元教師の目からこの子を見直してみます。足し算が出来ないということは、義務教育は通わせてもらえても、高校の授業にはついていけないということです。いや、高校入試の段階で選別されてしまい、高校自体入学出来ていないかもしれません。

   そんなことを思いながら、かつて自分が在職していた高校のことを思い出しました。高校の数学の先生は、基本無慈悲です。点数が足らなければいともたやすく落第点をつけてしまいます。このあたりの思い切りの良さは、文科系人間である私の思いもよらない潔さがあります。彼らは、人間の価値は多面的であり、数学の出来不出来で人間の価値が決まるわけではないという考え方には立っていません。いや、そんなことはないと彼らはいうでしょうが、現実には点数が足らなければ彼らの思考はそこで停止してしまい、該当する生徒が数学だけのために退学に追い込まれても、胸の痛みを感じたりはしません。本人の努力が足らないか能力が足りないのだから、退学に至るのは当然のことだと考えます。

   私が彼らの思考についていけないのは、私自身は、自分の教科である英語が出来ないからといって、その生徒の将来の芽を無慈悲に潰すことなど考えられないからです。高卒の資格がなければできないことは世の中に沢山あります。他の科目に突出した才能を見せたところで、高卒の資格がなければ大学受験をすることさえかないません。かつ、私立大学文系の入試科目には数学などないのです。このとてつもない矛盾を一体どう考えているのでしょうか。いや、考えてなんかいません。全然。

   数学に限らず、教師の中にはとてつもない発想に立つことができる人もいます。かつてある世界史の教師は、年度当初に、授業中携帯電話の呼び出し音がしたら、その生徒には「1」をつけるといって、その通り実行しました。該当生徒は当然落第し、高校を4年間かけて卒業しました。次の年私が担任を引き受けたのですが、明るくてとても性格の良い女生徒でした。まあ、ダメといったら企画はずれにダメなところもあって、修学旅行先から途中で親に引き取ってもらったりしたこともあった位でしたが、そんなダメさを補って余りある、可愛げのある子でした。

   私はとても怖い先生として知られていましたが、一方では絶対に生徒に「1」をつけたりはしませんでした。どんなにダメな生徒であっても、良く観察していれば、この私よりも優れたところがどこかにあるものです。私より優れたところがある生徒に、私の科目で「1」をつけ、将来の道をはく奪することなど、考えるべきではありません。第一、卒業させてやりさえすれば、その後どういう変貌を遂げるかは、たかが教師風情が決めつけられることではないのです。

   「1」はつけない・・・・。それは教師の仕事として正しいことなのか、間違ったことなのか、人によって、または科目によって、考え方は様々だと思います。たとえば商業高校において、簿記という科目が出来なかったら卒業させない、これは仕方のないことだと思います。しかし、たとえば私の教科である英語などは、出来なくとも生活に特に差し支えはありませんし、世界史を知らなくても問題なく生きて行くことができます。

   学校という場が、もっと人間の多様性を認め、育てる場になることを期待しています。