Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

ポルトガルで思うことー福井

2018-11-27 21:38:26 | 思い出

先日これもNHKWorldで福井県について、外国人に知られていないのは何故かという特集をやっていた。番組では福井県は味覚も冬のカニやとろろ昆布、和紙作りや鯖江市の眼鏡のつる、勝山市の平成大仏や永平寺など見所いっぱいという。

私は18歳から21歳までの3年間、福井日赤病院の看護学院で過ごした。当時の看護学院は全寮制で、一部屋に5-6人の学生が寝起きし、勉強していた。

私の年齢昭和19年生まれは、戦時中で出生率も最低だったから、田舎の中学では一学級のみで34人、高校生でも輪島周辺からの全生徒で5学級250人(200人かも?)しかいなかった。

看護学生もご多分に漏れず16人だけだった。 私が看護学生3年生の時の1年生(昭和21年生まれ)は急激な戦後のベビーブームの走りで生徒数も急激に増えた。

私ともう一人奥能登出身のKさんは金沢赤十字病院からの委託生で、卒業後金沢赤十字病院で最低1年は働くべく義務付けられていた。

当時の寮の一部屋は15畳の和室で真ん中に小さな囲炉裏があり、寒い冬など囲炉裏の周りに布団を敷いて炬燵にして眠っていた。部屋の一方は小さな机と扉のついた棚が人数分だけ並び、反対側は布団と私物を入れる押し入れが並んでいた。

今思い出してみるとあの冬の寒い中でも、白衣の下の白のセーターと白い毛糸編の膝までのパッチで寒い冬を乗り越えてきたのは、我ながらすごいと思う。特に風邪をひいて寝込んだなどということもなかったから、若いということは環境に適応できるものだ。

看護学生も3年生になると、一日の半分は実習と称して病室や、外来患者との接触が始まる。そして午前中は教室での勉強に、一週間に一度毎週木曜日は試験があった。

それで水曜日の夜は全員徹夜で復習することになる。だから毎週水曜日だけは消灯時間がなかったが、1年生、2年生の時は消灯10時と決められていて、3年生の週番が見回りに来たものだった。

この毎週水曜日も徹夜と言っても机に向かって居眠りしている時間の方が多かったかもしれない。

ただ水曜夜だけは誰も布団を敷いて眠るということがなかった。

ある水曜日の夜、あまりの眠さに私たち一部屋の学生全員ひと眠りすることにした。両隣の同級生の部屋ではもちろん誰も寝ないで、机にしがみついている。両隣に明け方5時には起こしてもらうよう頼んで5人とも布団に潜り込んで寝てしまった。

はっと目を覚ましたのは朝の7時、誰も起こしてくれなかったのだ。

試験が始まる9時までもう必死。誰も一言もしゃべらず、動かず、ノートや教科書とにらめっこ。

この日は産科学の試験だった。当時の先生は産科の主任医師で、非常に教育熱心な田中先生だった。

試験は日ごろの成果?が上がって20分で全部書き終えた。もう何もすることがない。書き終えてすぐ教室を出ていくとの発想はそのころにはなかったから、じっと試験用紙を眺めているのも飽きた。それで試験用紙の下の空白に昨夜の同級生の裏切りや、いかに2時間を過ごしたかを書き綴った。空白の足りない部分は裏を参照と書いて、裏一面にその夜のことを書いて時間つぶし。

その田中先生は私の作文を大いに楽しんだらしい。それ以降試験には別に白紙を添付し、なんでも感想を書くようにとのお達しだった。

卒業後も田中先生とは何度か連絡し、ご自宅まで伺ったこともあった。もう20年ほど前消息を探してもらった時に他界されているのを知った。たった16人の同級生ももう3人も他界し、一番親しくしているただ一人の友達は椎間板ヘルニアで4月から寝込んでいたという。やっと最近両手に杖を突いて歩けるようになったと聞き、私たちもおばあさんになったものだとひとしきり感慨にふけった。

 

 

 

 

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