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Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

最後のキャンプ旅行ーマテーラ(Matera)

2016-06-25 18:08:09 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 マテーラはアルベロベッロの町から70kmほど離れたユネスコ世界遺産の町で、キャンパーをお城の脇道に停め、小雨の降る中を観光に出かけた。ここは教会の多い街で街角のいたるところに大きな教会がある。

 

 

 聖フランチェスコ教会は巨大なうえ内部もなかなか凝っていた。しかし色彩がほとんどない。この教会の前のスクエアで2組の観光団体に会い、彼らの後をついていけば観光地につける。観光案内所ではこの町全体が観光地で・・・・と言われてあまり漠然としていたから。

 

 この町は全体に巨大な建物が多く,聖フランチェスコ教会からしばらく歩いたところで着いたのが巨大な大聖堂ドゥオモ(Duomo)でこの内部は絢爛豪華、天井画のすばらしさは目を見張るものがある。

 

 大聖堂の外観は石造りの堂々たるもの建物上部のガーゴイルは赤ん坊の頭をくわえこんでいる架空の動物。キリスト教はあまり優しい思想を持っているとは思えない。これって日本でいう閻魔のようなものだろうか?それにしては無垢な赤ん坊がこんな目に合うわけがない。

 

 U字型の深い谷間を埋め尽くす岩を掘って作られた家屋はフランス抽象画を思い出させる。もしかしてここで描いた絵も有名になっているのかもしれない。

この町は紀元前3世紀にローマ人によって作られ、その後この谷間はキリスト教の各宗派の修験場として岩場の住居が作られた。

 

 時代を経て1950年政府はこの岩間に住む住人(貧しい人たちがおおかった)を全員追い出し、空き家にしたが1980年代にここは観光名所として有名になり1993年にはユネスコ世界遺産に登録された。

 

 町を囲む谷間は非常に深く、水はほとんど流れていない。

 

 U字型の対岸に立つとドゥオモの尖塔の周りが岩の住居で埋め尽くされている。聖アゴスティーノ教会はドゥオモの対岸にあり内部はシンプル。

 

 祭壇横のドアから聖グイリアーノ教会の洞窟に入っていき、17世紀のフレスコ画を見ることができる。

 

午後1時過ぎまでU字型の端から端までを歩いて写真を撮りまくり、キャンパーにかえって昼食、そのままイタリア東海岸を北上する。キャンパーの前を走っている大きなトラックをよく見れば、アラブの文字に英語でイランと書いてあった。ヨーロッパを走っているといろいろな国の車やナンバープレートを見るがイランは初めて見た。

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最後のキャンプ旅行ーアルベロベッロ(Alberobello) イタリア

2016-06-24 16:52:42 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

 一晩中ほとんど眠れずへとへとに疲れてバリーの港から約70㎞程離れたアルベロベッロの町へ向かったのは朝の9時過ぎ、キャンピングプラッツが町の真ん中にあり、プラッツの管理人に聞くとここを右に曲がってまた右に行くとあたりは全部と言われて半信半疑、行ってみて本当に驚いた。あっちにもこっちにも面白いキノコのお化けのような屋根が見える。この町に入る前にところどころに同じような屋根の家?小屋?が見えたのでこの地域一帯なのが分かる。

 

 アルベロベッロは美しい木という意味だそうだがこの黒っぽい石の板を積み上げて作られた屋根は木には見えない。

 

 この石の板はこの地域で採れるものらしく、英国でみられるスレートとは厚さが違う。煙突の上の風車がローマの軍人みたいで気に入った。

 

 お土産店があちこちにあり観光客は住民の何倍もいそうだ。インターネットで見ると16世紀40家族がここに土地を得て農耕に従事し、この石積みの家屋には税金がかからないことから、地域一帯が同じようなつくりの家になったとのこと。

 

 観光用に一軒の家を解放していて、入ってみたがベッドルームとリビングルーム、キチンはどこにもドアがなくトイレ・風呂だけがカーテンで仕切られていた。壁の厚さも相当なもので、夏は涼しく冬はあたたかだろうと思われる。

 

 シンプルなリビングルーム。ここアルベロベッロは1996年にユネスコに指定された。

 

 

 

 教会の屋根も同じつくりの巨大な丸天井で、祭壇がカラフルだった。右の写真は雪景色の写真看板を映したもの、こんなにイタリアの南でも雪が積もるのに驚いた。

 

 木曜日はストリート・マーケットの日で、町の大通りいたるところに食べ物の屋台やたくさんの靴の店、衣類の店が並んでいたが午後1時過ぎに閉まりだした。おいしそうなキノコやオリーヴの漬物、いろいろな種類のキノコが売られていた。

 

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最後のキャンプ旅行ードブロヴニック2日目

2016-06-22 17:53:31 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

 翌日水曜日、天気予報では大雨というのに素晴らしい晴天になった。昨日歴史博物館へ入ったときに入場料100クーナを払い写真撮影不可と言われて膨れて帰ってきたのに、チケットをよく見るとこの博物館だけでなくほかに8か所の博物館や美術館がみられるという。二人でバスで出かけたが、私は壁の内部のあらゆる館なるものを見ようとし、亭主はフェリーのチケットとキャンパーの停車地を調べに港へ行った。2時間の自由時間をフルに使おうと大急ぎで民族博物館へ。右上の像は聖ヴラホでこの町の守護神としてうやまれている。左手に持つのはこの町のモデル。

 

 この民族博物館は階段をたくさん上った高台にあり、内部の写真はやっぱり撮影不可だったが、博物館の2-3階の窓からドブロヴニックの町が眼下に見える。堅固な壁の上を歩いているたくさんの観光客やテラコッタ色の屋根が整然と並んでいる下町、

 

大聖堂のドームなどこのほうが博物館内よりも格段に素晴らしかった。

 

 

 港に突き出ている巨大な建物は海洋博物館で、船に積んでいたであろう大砲や

 

 16-17世紀の港の絵など面白い。右上はこの港や街を描いた油絵で、お土産屋さんで売っていた。

 

 歴史博物館の玄関口、過去には宮殿だったらしいが2階建てのきれいな建築物。民族衣装を着て土産物の刺繍をしている女性。

 

 このドブロヴニックの要塞は城塞でなく(王は存在しなかったしお城もなかった。)ここは7世紀に町の基本が築かれ、中世を経て12世紀には自由都市として内政、外交,海運交易、建築などの法規が制定され、市民は自由と独立を謳歌していたという。

現在では世界中から押し寄せる観光客がこの小さな都市を豊かにしている。クロアチアで一番観光客の訪れる町として知られる。

  

 夕方5時までキャンパーをキャンプサイトに預けていたが、夜10時出航前には港へ行かねばならぬ。港を見下ろす対岸の駐車場で時間待ち、夕食も終えて、夜8時には港の前の大きなスーパーで食料を買い込み持っていた現金を全部使い終えた。足りない分はカードで支払った。これが外貨を無駄にしない最良の手段。

 

 

9時にはフェリーに積み込まれたが、この2週間の間にフェリーの客席は満杯で、カフェーの椅子で一夜を明かすことになった。オフィスではリクライニングの椅子があるということだったが、そこは鍵がかかって入れず、カフェーのソファーは2席ごとに木の板で仕切りがされて横になれないようになっている。いかにも寝るなと言わんばかり、こんなに不親切な不愉快な目にあったことはない。ちなみにベットのある客席は全部中国人団体に予約されていた。

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最後のキャンプ旅行ードブロヴニック(Dubrovnik)

2016-06-21 08:32:53 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

 ドブロヴニックにあと15kmというところの小さなキャンプサイトには3泊した。このサイトの片隅には野生のシクラメンが咲いている。ギリシャのメテオラでこの野生のシクラメンが一面に咲いていたのを思い出した。

 

 

 月曜日は雷を伴う雨が激しく観光は諦め、火曜日の朝バスでドブロヴニックの港へ向かった。水曜日の夜この港からイタリアへフェリーで出航するためにチケットを手に入れなければならない。残念ながらパスポートを忘れていったので無駄足だった。この紫いろの野の花は草むらには咲かないが岩山やコンクリートの塀の上などで見事に満開になる。

 

 

 港に駐車していた小型バスにはGame of Thronesとあるがこれは何作目かにこの地で撮影されたもので皆商魂たくましい。港に停泊していた大型クルーズシップはオランダの船だった。こんな巨大な船の乗客がこぞって観光に降りてきたのだもの、小さなドブロヴニックの町が人々であふれるのは仕方のないことだ。

 

 

 

 町の一角の塔から山頂までケーブルカーが通じていて一人130クーナ(16ポンドくらい)街を取り囲む要塞の上を歩くのも130クーナだった。44年前にここに来たときはほとんど観光客はいなくて要塞の上を歩くのもフリーだったのに。右上はインペリアル・グランド・ホテル。

 

 

 

  

 メイン道路から脇道は狭く奥へ行けば行くほど無数の階段で手足の不自由な人達はどうするのだろう。

 

 44年前はこの狭い通りのどこにも無数に洗濯物が翻っていたのに、申し合わせたように変わっていた。

 

 

 町の中は中世の教会が数軒あり宮殿、会議所などがある。

 

 町の重要な港からはヨーロッパ諸国へ塩や、鉱石などが輸出された。

 

 

  

 人ごみを避けて街中の静かな通りを行って初めて洗濯物が下がっているのを見かけた。

 

 たくさんある教会の一つ。中は割合質素だった。

  

 44年前と変わらないものは白い大理石の床で当時も今も磨かれ輝いている。

 

 

 この要塞は14-15世紀、外敵から街を守るために築かれたもので,全長約2kM  壁の厚さは陸側で4-6メートル、海側で1.3-3メートルもあるとのこと。高さは最高25メートルもあり、今も完全な姿を保っている。

 

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最後のキャンプ旅行ードブロヴニクへの道

2016-06-20 18:44:12 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

  

 

 スプリットを出た日も素晴らしく良い日だった。海辺に集まるテラコッタ屋根の村は美しく、通り過ぎる街並みはヨーロッパのどこの街並みにも負けないくらい豊かさを感じさせる。

 海岸に平行に横たわる大小の島も望遠で同じような村や町が島のあちこちに存在するのが見える。こんな大きな島にはキャンプ場も多くフェリーで渡らなければならないから、もうイタリアへのフェリーを予約した私たちには時間がない。

  

 

道端に建てられた家は、わがキャンパーではとても登れないほどの急斜面の車道を持っている。今時このような土地に住むには車なしの生活は考えられないだろう。

  

農作物といえばこのような乾燥した岩の多い土地にはブドウ畑が適していると見える。

  

 

内陸に入った場所ではきれいな湖が見えた。このあたりは農作に適した土地らしくみかんを売っている小屋が林立し、岡の上からきれいに整備された畑が見渡せた。

  

 

 

 

このスプリットからドブロヴニックへ行く途中の海岸線にボスニアヘルツェゴビナの海岸線が15Kmほどある。国境でパスポートを見せただけで通過、友達からはビザにお金がかかると聞いていたが何の問題もなくて拍子抜け。この国境の海辺にはホテルやレストランが林立し、ボスニアヘルツェゴビナのただ一か所の海辺だから、国民がここにホリデーでくるのだろうか?

  

15Kmほど行くとまたクロアチアの国境の検閲でパスポートを見せると、Have a nice day ! と愛想の良い声が返ってきた。

  

 

 

その後はますます島の数が多くなりまるでクロアチア版松島のような感じ。

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最後のキャンプ旅行―スプリット(Splet)へ向かう

2016-06-19 18:00:24 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 ザグレブのキャンプサイトで3泊したのち、クロアチアの海岸線の町スプリットを目指して南下する。途中にナショナルパークがありキャンプサイトが2か所あるというから今夜はそこのサイトで一泊しようと計画、途中まで高速道路を走っていたが半ばで高速を降り内陸を南下する。

 

 

 

 

道路下の村に滝が流れ落ちているのを見つけ、駐車場で停めてもらった。カメラを持って後戻りし眼下の村や川を撮りまくった。よく見るとこの村は2つの川の合流点に造られていて、高いほうの川の水は村の中や家屋の下を流れて低い大川に流れ落ちている。

キャンパーに乗って出かけるときにちらっと見た川の水が澄んでいて、もっとのんびりできたら村の中を歩いてみたかった。心残りな名も知らない村だった。

 

 

クロアチアの内陸は真夏は熱暑になるらしく、岩山と平野は不毛の土地といったところ。

ほとんど農作物はなくて牧草と羊の集う牧場が見えるくらい。

 

 

 

 

クロアチアの海岸線は無数の大小の島が連なり、初めにたどり着いた海岸はまるで湖のように波一つない。スタリグラッド(Starigrad)近くのキャンプサイトは内海の海岸線で水の透明度が高く、カキの養殖がいたるところで行われている。

 

町や村はイタリアやスペインと言われても疑えないほど似ており、ブーゲンビリアや夾竹桃が咲いて、ヤシの並木があったりする。

 

 

お昼近くにナショナルパークがあるはずのキャンプサイトに着いたが、誰もいない。まだ開いているのか、もう閉まったのかと思ったが誰にも聞けず、あきらめてそこの駐車場で昼食にした。もう一軒あるというサイトも途中で嫌になりそのまま海辺のサイトへ行くことに決めた。

ザグレブのサイトを出るときに、英語の観光案内書で、ザグレブ周辺というのを手に入れた。この夜何気なく見ていたら、このナショナルパークがクロアチアでは一番素晴らしい観光地だと書いてあり、切歯扼腕。

 

 

二日目にサイトを出た時から夕方まで、小雨の降る暗い一日だった。

道路わきのレストランで子豚一匹を丸焼きにしていた。道路わきに桔梗に似た紫いろの花が咲いていて見たくてたまらない。コーヒーの休憩時にうろうろ探し回りやっと花が終わりかけのを見つけた。高さ50センチくらいに花がびっしり咲いているのは見事だけれど、走っている車からは写真は撮れない。

 

 細長く伸びた海岸に家々が隙間なく建っているのは素敵な被写体だが、これもアドリア海の荒波が直接襲ってこれないように連なる島々が防波堤の役目をしているからだろう。

 

 

  

 もっと感激したのが陸続きの小さな島全体が教会を中心に建物で覆われていてよくぞ沈没しないものだと思わせる。ここはたぶん有名な観光地なのだろうが、亭主は止まらず走り続けて、全体が見える丘の上でやっと止まって写真を撮らせてくれた。この島の近く大型観光船が停まっていた。

 

 

いろいろな村や町を通り過ぎ山道も走っていると何度もイノシシに注意の立看板を見かけた。

北欧だとトナカイ注意、英国だと鹿に注意だけどヨーロッパでイノシシ注意はここクロアチアが初めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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最後のキャンプ旅行ースプリット(Splet)

2016-06-19 10:01:47 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

  

キャンプサイトはスプリットの郊外で、岬一帯がキャンプサイトになっている広大なもの、

サイトの水辺から向かいの町スプリットのベッドタウンが見え、夜間のきらびやかな明かりが素敵。

 

晴天の暑い日は土曜日で、バスはキャンプサイトまで来ないからメイン道路まで歩くようにとのことで歩いて5分、バス停で待つ。

  

 

港の繁華街がバスの降車場所、そこからは観光客と土曜市場へ行く人で、ものすごい賑わい。やっと観光案内所へ着き、ユネスコ指定のディオクレチアン(Diocletian)皇帝の宮殿の行き方を聞いた。この案内所から50メーター先の門をくぐるとその一角、3世紀のローマ皇帝の宮殿はほとんどが崩壊し,地下や厚い壁にその面影を残すのみとなっている。

 

 

 

 

  

ものすごい観光客の間を縫って宮殿の中心地へ行くと高い塔を持つ大聖堂、

 

25クーナ(3ポンド)払って聖堂内へ入ってみたが普通の教会より狭いところで、小さなパイプオルガンがあり調教中。あまり見るものや写すものがなくて5分で出てきて、大聖堂の向かいの細道をいったところにあるジュピターを祭ったテンプル(寺社)これはローマ時代のものらしく完全な姿を残していた。

 

 

 

この宮殿の中央北の門の外に巨大な像が立っている。10世紀のスプリット大僧正で彼の巨大な足の親指を触ると幸せになるとの言い伝えで、親指だけが金色に光っていた。私の足のサイズと比べてみた。

 

この像の近くにある高い塔はベニス共和国が権勢を誇っていたころの塔。

ここスプリットは3世紀にローマ皇帝によって開発されたところで、現在に至るまで各国の権力にもまれ淘汰されて、町として発展していった。

 

中央の円形ドームの中で4人の男性グループが合唱していてそのハーモニーに魅せられてしまった。早速彼らのCDを買った。ここスプリットの記念になる。

 

 

お昼ころに昨日充電を怠ったカメラのバッテリーが上がってしまい、スペアーを忘れてきたので、写真はあきらめ、町のレストランで昼食を食べて午後早めに帰ってきた。

 

44年前にこの地を訪れたときは、町の散策よりもきれいな海で泳ぐことしか念頭になくて、ポールがダイビングでホタテ貝を2個採ってきて食べたことしか覚えていない。

海水のきれいなこと、娘に来年夏のホリディーはスロベニアにとめ勧めている。

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最後のキャンプ旅行ーザグレブ2日目

2016-06-18 16:32:14 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

ミロゴユ墓地から再びバスでアッパータウンに戻ってきたのは1時過ぎ、歩道いっぱいにテーブルを出しているレストランのメニューを見ているうちに、客引きのお姉さんにつかまり、このレストランで昼食を食べることになった。私はコイワシのフライ、亭主はチキンのグリルを頼んで、テーブルに着いたが日陰で風が冷たく、レストランの中へ逃げ込んだ。ところがこのレストラン、間口3メーターの中にカウンターと小さなテーブル2つ椅子が3脚、戸外に広げたテーブル椅子とは何と言う差、出てきた食事も大したことなく昨日とは雲泥の差で料金も高くぼられた。

まだ帰りの電車には1時間半はあるからと、アッパータウンの坂道を上り、道の真ん中に立派なナイトが馬にまたがっている銅像を見つけた。その足元にはなんと巨大なナマズの像、このナイトはナマズを退治して有名になったと見える。

 

 

 ここから坂道を左に上っていくところ、あらゆる観光見どころが掲示板に張られている。

  

アッパータウンの入り口の石の門は中世からのもので、中には聖母マリアの礼拝堂がある、行きも帰りも通った時は熱心に祈る人たちが数人づついた。聖母マリアはザグレブの守護聖人として人々からあがめられている。

 

石の門からすぐ近くのマルコ広場には素晴らしい屋根を持つ聖マルコ教会がある。この教会は13世紀に建設されたが、19世紀末に修復された際、屋根にはクロアチア、ダルマチア、スラボニア、ザグレブの紋章が色タイルで施された。塔のてっぺんに1841年の数字がみえる。

 この教会は内部が古く派手な飾りが一切なかった。ドアが開いていなくてガラス戸からかろうじて中を映すことができた。

 

マルコ広場の右手の建物は首相官邸でポリスが玄関で警備していた。右上は国会議事堂、たいして大きくなくて見逃しそうな建物。

  

 

 もうあまり時間がないとせかされて、急いで帰る道で見つけた聖フラニョ教会はステンドグラスが美しく、気高いマリア像があった。周囲はカラフルなステンドグラスが並んでいたがこのステンドグラスが面白い。イカやエビの絵が描かれている。

 

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最後のキャンプ旅行ーミロゴユ墓地 (

2016-06-17 21:34:24 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

ザグレブ初日にシャトルバスで知り合ったオランダ人夫妻が、ぜひおすすめとバスのチケットもくれて、2日目の朝9時のバスと電車でザグレブへ行き市バスに乗ってザグレブ郊外へ行った。

 

 バス停が墓地の正面門の前で止まり、門の両側のタワーの数の多いこと。ここはヨーロッパで最も美しい墓地の1つと言われているとの案内書。

 

 

 

 

門を入ると壁に沿って回廊になっていてすべての壁になくなった人々の名前やキリスト像、天使などが飾られている。この回廊の長いこと奥が見えない。

 

 

 墓地もいろいろな形の墓石で整然とならんでいる。

 

通路は背の高い木々が遠くまで並木になっていて、遠くが見えない。

 

 

 壁と回廊が途切れたところから壁の外へ出てみてまた驚いた。見渡す限りの墓石で背の高い十字架の周りもびっしり墓石が並んでいる。

 

 スタンダードな墓石は左の写真にあるような長い石の蓋が上を覆うようになっている。クロアチアはカソリックがほとんどでカソリックは死体を焼却せず、埋葬にするため遺体を長い墓石の穴へ入れて上から石の蓋をするだけらしい。右のウルトラモダンな墓石は17歳で亡くなったエドワード君のもの、ご両親の悲しみが心に沁みる。

 

 行けども行けども墓石の行列、それなりに家族が墓地を大切にしているらしく墓石を洗っている人たちや枯れたお花を取り換えている家族連れを何度も見かけた。丘の上の墓地の終わりかと崖下を見るとこれまたお墓がいっぱい。

 墓地の見取り図でこの墓地の大きさが少しはわかるかもしれない。左側の小さな図の黄色の部分が右側の図面全部に相当する。

 

珍しいお墓といえばこのプロペラがついている古いお墓で死者は元パイロットだと一目でわかる。ツタが這って文字を覆い隠しているが1896年生まれ1931年に亡くなっている人で37歳では事故死に違いない。それにしても家族がもういないのか墓守が来ていないようだ。右の立派なお墓はイスラエルのヒーブル語で書かれてある。ドクターホセア・ジェコブはユダヤ人だ。

 

 

 墓石に等身大のきれいな天使が寄り添って、遺族の心が和むであろう。右の像は第一次世界大戦で亡くなった人たちのメモリアル像で心打たれる。

 

 お金持ちの家族の墓石と言おうかお墓の家というのか、家族の名前が中の壁に彫り込まれている。右の小さな墓石は戦死者のお墓で遺体は埋まっていない。

 

 面白い字体の墓石でここだけでしか見られなかった。巨大な石のモニュメントは第2次大戦時の戦死者のモニュメントで永遠の火が燃えていた。壁にはアルファベット順に戦死者の名前が彫ってあった。

 

 クロアチアの初代プレジデント ドクター・フラニョ・トッドマン(Dr Franjo Tudman)1922-1999 のお墓が一番立派でここでも永遠の火が燃えていた。

 

 

墓地の向かい側の道路沿いに墓石を作る石屋が並んでいて、死はお金がかかるものだと判らせてくれる。墓地の木々や墓石の手入れをする人々などここでは多くの人たちが働いていた。これも残された人たちの出費になるに違いない。

正面玄関の反対の大きな教会でちょうどお葬式を行っていた。私たちが帰りのバスを待つ間に霊柩車を先頭に喪服の人々100名ほどがゆっくり墓地に向かっていった。交通整理に警察官が出てきたほど交通が止まってしまっていた。

墓地は観光ではないにしろこんなに巨大で手入れの行き届いた、そしてこれほど芸術的な墓地を見たことがない。3時間歩きまわって墓地の大きさを知った。美術館へは入りたくない亭主はこの墓地がすごい、面白いと興奮して歩き回っていた。

 

 

 

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最後のキャンプ旅行ークロアチア現代美術館

2016-06-16 22:00:47 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

現代美術館には過去から現在までに至るクロアチアの芸術家の絵画や彫刻が2階と3階に集められている。この美術館は宮殿だったらしく石造りの素晴らしい階段が2階へ続いている。

  

2階の入り口の部屋には上の絵が展示されている。この絵は壁の一面を覆う巨大なもので初めて見るとぎょっとする。ローマのセネターたちがバッカスに捧げるいけにえに、クリスチャンの首をはねて楽しんでいるという恐ろしげな絵で説明を聞いて初めて判った。

 

 

 今年71歳のクロアチアの画家ムネル・ヴェイゾヴィッチ(Munir Vejzovic)はクロアチアの現代絵画の第一人者でファンタジーとエロチックな絵でしられる。右上はアダムとイヴ。

 

 どの絵も色彩がきれいで面白いが私の好みではない。この日彼の展覧会を開いていたから否応なしに見る羽目になってしまった。

 

 サーカスという題名にどうしてこんなに裸の女性が出てくるのか?右上の絵だけが何か政治キャンペーンでもありそうな彼の華やかな色彩がない。

 

 1969年生まれのクロアチア画家の作品で2008年作。これはよく見ると面白い。

 

 1975年に亡くなっている画家の作品で On the Draba River (ドラバ河の上で)という題名。面白い夢のような作品。右の写真は白い花という題名だけどいったい何が言いたいのかわからない。絵の描き方がおとぎ話にでも使えそうな。

 

 フクロウという題名の彫刻。よく見ればそれらしきもの。

 

 

 

 これらの絵はそれなりにうまいしさすが美術館に展示されるだけあってプロの絵なのだろうが、なぜか絵本やおとぎ話に使ったほうがいいような作品が多い。

これはひとえに私の好みで選んだ作品ばかり。

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最後のキャンプ旅行ーザグレブ(Zagreb)クロアチア 工芸博物館

2016-06-14 19:38:10 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

まずは3階に上がり古い時計や懐中時計などを見学

   

ここにもピエタ像があった。

 

 もう今では見られない優雅なティポット、これは見るだけでなく欲しいものだ。私はこんなティポットが好きでいつの間にか20個近く集めてしまった。

 

 

 

 モダンな絵のステンドグラス。宗教的でないところがとってもいいし、色彩が素敵。

 

 陶器のコレクションも多数あったがこの花瓶の模様が気に入った。大きさ30センチほどもある鯉は背中が蓋になっていて、面白い容器だ。

 

 精巧に削って作られた祭壇はどこかの教会から持ってきたものであろうか?宗教きらいの亭主が感心していた。

2階のテラスの透かし彫り。

 

 

 階段の手すりのメタルワーク。

 

 

左上の写真は見ても余り解らないが、大きな紙(たぶん和紙であろう)を細かく切り網目のようにしたもので天井の明かりのデコレーションにしてあった。 たった1枚だけ入れた絵はレンブラント作とあったからで、絵の意味が分かればもっと面白いだろう。

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最後のキャンプ旅行ーザグレブ(Zagreb)クロアチア その2

2016-06-13 19:03:23 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

 

 

 ザグレブは1972年私が初めて英国へ来た年に、ポールと旧ユーゴスラヴィアを通ってギリシャまで旅行したことがあり,行きは海岸線を南下し、当時アルバニアは鎖国していたから迂回してギリシャへ向かった。帰る際にザグレブへやってきたが、若くて何も知らない私は、共産圏というだけで暗い印象を持っていた。

ザグレブの駅を出た途端の人込みと明るい広場、行きかうカラフルな路面電車は一瞬にして過去の印象を消すのに十分。

共産国の国力を顕示するに十分な巨大な建築物が目白押しの駅前を左に向かった。町は碁盤の目のようになっているから地図を見ても判りやすい。

 

 

  

 

歩いてほどなく左手に植物園があり、入ってみた。木の葉の露が朝日に輝き、人気のない細道を歩き回る。高さ10メーターもある大きな木に直径10センチ以上はありそうな緑の玉がたくさんついていた。初めて見たもので木の幹の小さなインフォメーションカードには北アメリカ原産Maclura Pomiferaまたの名をOsage Orangeとある。

どんな植物園でもいつも珍しい植物に会えてうれしい。右上の写真はカボチャかヒョウタンの種類であろうか。

 

 

 植物園の道路を挟んだ反対側には屋根の上の飾りが面白く望遠で写してみた。4羽のフクロウが地球を支えている。この建物はクロアチア国立古文書館でクロアチアで一番美しい建築物と言われているそうだ。

 

 古文書館の前のスクエアにある大きな銅像はクロアチア文学の父と呼ばれるマルコ・マルリッチ(1450-1524)。この街には有名人の銅像が多い。チトー将軍広場の一辺にある工芸博物館は1880年に建設され,2階3階にはあらゆる工芸品とデザインの展示が見られ、二人で40クーナ(5ポンド)払って見学してきた。

 

 

 チトー将軍広場の真ん中に建つのは国立劇場で正面玄関の上にマダムバタフライの宣伝がみられる。

 

ペタル・プレラドヴィッチ広場は花の広場と呼ばれる。

 

 

広場に面した小さな教会の華麗さには驚いた。クロアチア大聖堂よりもずっと素晴らしい。 

 

 

 ペタル・プレラドヴィッチはクロアチアと愛をテーマにした詩を書き将軍でもあった人で、広場の名前は広場に立つ像と彼の名前に由来している。

 

イェラチチ総督広場は過去には共産国広場と呼ばれたこともあったそうで、この総督は19世紀の軍人で奴隷解放、独立の闘士として国民的英雄と評価されている。この広場はザグレブの中心地として19世紀初めには優美な建築物が建設された。

 

 ドラツ市場は大聖堂の近く毎日野菜果物が売られ、横の屋根付き魚市場では新鮮な魚がうられている。トマトとリンゴを買ったけど安くておいしく、亭主が喜んでいた。ザグレブは海からは遠く新鮮な魚は毎日海岸から運ばれてくるのだろう。この日近くのレストランでイカのフライを食べたがとてもおいしかった。

  

 

  

 カプトルと呼ばれる大聖堂は町の高台に建てられその2つの塔はザグレブのあらゆるところから見えるという。観光客がいつもあふれていて、聖堂の前の広場に立つ聖マリアと4人の天使は太陽に輝いている。

 

 

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最後のキャンプ旅行ーザグレブ(Zagreb)クロアチア その1

2016-06-12 17:41:00 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

 キャンプサイトはザグレブから電車で17分それに送迎バスで10分の田舎の湖のそば。キャンパーはトイレ、シャワー、洗濯室などの建物を中心に放射状に停車するようになっていて、車が走る地面は大小の丸太を10センチくらいに切ったものがモザイク状に埋め込まれている。ずいぶん手の込んだサイトで今までで初めて見た。朝9時にサイトのバスが駅まで送ってくれ午後4時に迎えのバスが駅で待っている。

 

朝夕はものすごく寒いが、毎朝素晴らしい天気で湖の水面にもやがただよっている。

 

 9時10分の電車はウルトラモダーンなそしてきれいな新しい電車で、往復の電車代も安い。

 

 電車の窓から見える建物や駅の掲示板など落書きがひどくて、これは西洋自由主義の結果でなかろうかと疑ってしまう。

 

ザグレブの駅で電車を待つ間見ていると落書きにまみれて見られないような電車から

 

 

 

 

 ウルトラモダーンな新型車、ディーゼルエンジンの旧型まで様々。夕方4時近くに帰ってくるときはまだラッシュアワーには1時間はありそうなのに電車は満杯。座席とり競争が激しい。

 

 

ザグレブの市内は路面電車が縦横に走り郊外に向かっては1または2両のバスが走っている。

 

 

 

 

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最後のキャンプ旅行ールビヤーナ美術館

2016-06-11 18:00:17 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

ルビヤーナの繁華街を離れたアメリカ大使館の近くにあるルビヤーナ美術館はスロベニアのアーティストの作品を一堂に集めてある。世界的に有名なというアーティストは一人も見かけなかったが一回りしてみて私の好きな絵を主に写真に写してきた。 

 

 

 

上4枚の彫刻は全部ピエタという題名のもので高さが30-40センチほどの木彫りのもの。ピエタといえばシスティナーチャペルのピエタがあまりにも有名で、あれは大理石を彫ったもので見上げるような巨大なものだし、作品の完成度が全く違う。これらのちゃちな彫刻はほとんど各教会や美術館で1つはあるが4体もあるのは初めて。

 

 

 ピエタの絵も一枚だけあった。この題材はよほどアーティストを刺激するらしい。

この美術館の素晴らしい天井。昔の宮殿かお金持ちのお屋敷だったか?

 

このかわいい女の子の絵はエリザベス・ルイーズ・ヴィギー・レ・ブルンというフランス人女流画家の作品で1797年作。この時代にこんな生き生きした女のこの絵を描いた人って珍しいと思う。18世紀はまだ宗教画が主流だったはず。

右上の絵は有名なシャガールの絵に似ているが、この画家はルビヤーナの19世紀の人で1842年の作品。

 

 

 

 

 

上4枚の絵は同じルビヤーナ出身の女流画家の作品で1886-1892年の間に描かれている。とってもうまいと思うのは私だけだろうか?

 

 

 

クリスマスカードにしたらよいような絵3枚は同じルビヤーナ出身の画家(1881-1963年)でやや漫画的なところなど20世紀だったから世間に受け入れられたのだろう。私は16-17世紀の死んだような肖像画と宗教画はあまり興味がなく19世紀からの絵の変転を見るのが好き。

 

 

 

この絵もルビヤーナ出身のイヴァン・グロバー(1867年ー1911年)の作品で遠くから見ないと絵の主題がよくわからない。近寄ってみて細かい筆遣いと色彩の多さに驚かされる。

 

 

 

この色彩や抽象画的なところなど有名な誰かの絵に似ているがやはりルビヤーナ出身のスタン・クレガー(1905-1973年)のファンタジー・オン・エ・テラスという題名。戦前まだユーゴースラヴィアの時代でも人々は時代ともに変わってきたのがわかる。

 

 

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最後のキャンプ旅行ールビヤーナ(Ljubljana) スロベニア

2016-06-10 22:17:58 | キャンピングヨーロッパ2016-2017

 

スロベニアの国境は今までのヨーロッパの国境とは違って関所が設けられているが,停められることもなく通り過ぎた。入国した最初のガレージで15ユーロの Vignetteを買った。キャンプサイトには午前11時に着いたので、お昼にはサイトの前のバス停から市中へ観光に出かけた。

右上の写真は通りのお茶屋さん、窓に張られたメッセージが気が利いていて面白い。訳せば ”人生とはいっぱいのお茶みたいなものだ、すべては君がいかに創るかによる” 。

 

 

旧市街には大きくてきれいな建物が多い。

 

 

 

お城の真下の通りにあるセント・ニコラス教会の青銅製の正面ドアと脇ドアはこの教会の一番の見どころで教会内の案内書の表紙になっている。

 

 

 

  

教会内部も絢爛豪華でずいぶんお金がかかっていると思われるが、窓のステンドグラスがモダンで天井がの時代とは相当違うように思われる。

 

  

 

 

 土曜日のマーケットスクエアーは野菜、果物のオンパレードの上、観光客が路上のテーブルいっぱいに昼食を食べていてにぎやかでせわしい。ルビヤーナの守護神ドラゴンは観光マスコットでお土産になっているがこのドラゴンブリッジには4か所の青銅ドラゴンが威嚇している。

 

 おいしそうなお菓子、この辺りではヨーロッパともギリシャ、トルコからのお菓子が多く甘くて太りそう。

 

 

  

 

 

教会の前で結婚式のお祝いダンスの輪がにぎやかだった。真ん中にアコーデオンの奏者が楽しそうな音楽をならし、二重のダンスの輪が楽しそうにステップを踏んでいた。こんなに楽しそうな結婚式のお祝いを見たのは初めて、ビデオでしっかり撮った。

ダンスが終わってすぐお客の一人、年配の男性がピストルを空に向け6連発ならして驚いた。それでその場を離れ100メーターほど行ったところのアメリカ大使館の建物をみていたら、パトカーがサイレンを鳴らしてきてすぐ近くで止まり、警官2人が防弾チョッキを着だした。誰かがピストルの音で警察に通報したらしい。

そのあとはどうなったことやら、本当に人騒がせなことだ。

 

 

 古くて気品のあるアメリカ大使館は1897年にスロベニアの画家のためにオーストリア人の設計で建てられ、いろいろな手を経て1994年アメリカ大使館が購入、5年間の改築改装のあと1999年開館になった。

  

岡の上にあるルビアナ城はもう6,7年前この地を訪れた時に登ったもので、そこで日本人観光団体に出会ったからよく覚えているが、町がこんなにきれいだったとは全然覚えていない。もしかして当時より観光に力を入れてきれいにしたのかもしれない。

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