人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2018年 ホセ・クーラ 母国を去った理由、写真について、サッカーについて・・ クロアチア・ザグレブでインタビュー

2018-07-22 | 芸術・人生・社会について①




ホセ・クーラは、クロアチアの首都ザグレブの夏の音楽フェスティバル、ザグレブ・クラシック2018に出演しました。その様子は、前回の記事で、他の7月のコンサートと一緒に紹介しています。

その時のインタビュー記事が掲載されましたので、今回はそこから抜粋して紹介したいと思います。
比較的短い記事で、回答も簡潔なものです。これまでインタビューで語ってきた内容と共通する内容が多いですが、現在の若手歌手の育成をめぐる問題、欧州移住の選択、多面的な活動について、写真についてなど、クーラのこれまでの歩みや考え方がよくわかります。

またちょうど、サッカーのワールドカップでクロアチアが大活躍していた時期で、サッカーとクロアチアチームについて、ホットな話題もあります。

クロアチア語からなので、例によって誤訳直訳、あるかと思いますが、ご容赦ください。

→ 元の記事をご覧ください。








≪クロアチアのチームには世界最高のサッカー選手がいる。幸運を!≫



1970年、ホセ・クーラが8歳の時、ピアノ教授は両親にメッセージを送った。「リトル・ホセは音楽に興味がなく、彼には他の趣味を見つけるほうがよい」と伝えている。その教師の判断とは対照的に、アルゼンチン人であるホセ・クーラは、世界で最も有名なテノールのひとりとなっている。それだけでなく、彼は指揮者、作曲家、演出家、シナリオ作家でもあり、趣味としての写真も見いだした。
彼は1991年に故郷のアルゼンチンを去り、ヨーロッパでプロフェッショナルとしての運を求めて成功した。1993年にヴェローナでデビューし、1997年にはミラノ・スカラ座に出演した。
ザグレブ・クラシック2018で今夜はクロアチアのEvelin Novakと一緒にコンサートを行う。同時に、アートパビリオンで写真展が開かれた。
"ホセ・クーラ――著名なテノールがレンズを通して見た人生"
7月15日まで開催。



Q、これは初めてのクロアチア訪問ではなく、あなたはザグレブ、ドゥブロヴニク、リエカに?

A(クーラ)、クロアチアは、私がこれまで見たなかで、最も美しい海辺の景色を持つ楽園のような国。そしてとりわけ、トップアスリートとミュージシャンの国だ。
私は最近、非常に才能のあるクロアチアのソプラノ、クリスティーナ・コラーと仕事をする栄誉ももっていた(プラハでのクーラ演出のナブッコ)。
リエカでは特別な記念すべき作品として、11年前のオペラ "La commedia e finita"(オペラ道化師からクーラが再構成した作品)がある。それは私の最も素晴らしいキャリア上の経験の1つだった。


――若手歌手に過酷な時代、真のアーティストになるためには

Q、あなたの背後には30年のキャリアがある。今日オペラ歌手への要求は、あなたが始めたときよりも大きい?

多くの才能のある歌手がいるが、現在のシステムでは彼らを成長させることができない。彼らはこのハードワークの要件に対処するために成熟する前に、「収穫」されてしまう。その結果、彼らの多くは、優秀になる機会を得る前に「翼を燃やしてしまう」ということだ。非常に若い歌手は、瞬間的に名声を得てしまうことで、その負荷に対処する方法を知らない。過酷なインターネットがもたらした現象でもある。
優れたシステムにおいては、本当のアーティストになるために十分な長さの時間が準備されるようでなければならない。


Q、デジタル時代では、短いビデオ、YouTubeで、たった2分でストーリーを伝える。3時間続くオペラが、若い一般の視聴者を魅了し、生き残るためには、オペラにどういう挑戦が必要か?

A、生き残りの問題は常に存在していた。私たちが、ファースト・フードか、それともきちんと調理された食事を選択するのか、どうか。それは私たち次第だ。







――母国から去った理由、ひろがる多面的な活動と充実

Q、なぜあなたは1991年に母国のアルゼンチンを去った?

A、どんな移民とも同じように、私は、母国が好きでないから去ったわけではない。アルゼンチンでは、私にとって指揮者または作曲家としての未来がなかったからだ。
当時は我々の歴史の中で画期的な瞬間だったが、軍事政権と戦争の恐怖から回復していた若い民主主義の時代だった...こうしたすべては、バルカン半島においてあなたたちもよく知っているだろう。
私はヨーロッパで幸福を試すために、文字通り世界の半分を旅した。 そして実現した。


Q、あなたはオペラ歌手、指揮者、作曲家、演出家、写真家...。どうやってこれらのバランスをとる?

A、私のルール上では稀だが、より多くの楽しみのために、指揮し、同時に歌うことはある。
すべての私の芸術的な取り組みは補完的なものであり、良い指揮者になることで、私はより良い歌手になったことに気づく。良い歌手の本来のあり方を知ることで、私は良い指揮者になる。
私は歌手のニーズを理解しているので、うまくやれる。そして指揮者と歌手としての長いキャリアをもっているので、よりよい作曲家にも...。すべて一緒にやることは大変なハードワークだが、結果は非常に充実している。


――写真について

Q、いつから写真を?

A、写真は10代からの私の趣味。
私は専門家ではなく、自分の作品を公開するつもりはなかった。
しかし、私の写真を見たスイスの出版社が、私の聴衆は「私は毎日見ているもの」を知ることに興味をもつだろうと考え、それらを出版するように提案した。2008年に、写真集「Espontáneas」が公開され、高く評価を受けた。


――クロアチアチームには最高の選手がいる、才能、ライフスタイルと姿勢

Q、あなたには少年時代、指揮者とサッカー選手になるという2つの夢があったと読んだが、その後、何が起きた?

A、誤解があるが、私はサッカーをやったことはない。私は非常に良いラグビー選手であり、スポーツでキャリアを実現するチャンスがあったことは事実だ。しかし私は、スポーツよりも、音楽教育を優先させた。私の教授が「指や手をつかって(スポーツの)練習をしているなら、あなたの音楽キャリアは終わる」と言ったとき、私の判断は簡単だった。

サッカーに関しては、クロアチアのチームには世界でも最高の選手がいる。才能の点だけでなく、モドリッチ(クロアチア主将)のような選手たちは、完全なプレーヤーの真の実例だからだ。彼らはスポーツを素晴らしいものにするすべてを持っている。それは、お金の面だけでなく、彼らのライフスタイルと姿勢だ。クロアチアに、世界チャンピオンになるにふさわしい幸運を願う。

(「www.vecernji.hr」)






*画像はザグレブフィルハーモニー管弦楽団FBなどからお借りしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015年 ホセ・クーラ ハンガリーでのインタビュー / Jose Cura / Interview in Hungary

2016-08-19 | 芸術・人生・社会について①


今回は、2015年の4月に掲載された、ホセ・クーラのハンガリーでのインタビューを紹介したいと思います。
クラシック音楽にたいするアプローチや、自らの多面的な活動への批判について、かつて第4のテノールなどと呼ばれたことについて、など、みずからの芸術的信念にもとづいて、とても率直に語っています。

クーラは近年、ハンガリーで毎年のようにコンサートやオペラに出演しています。2015年は2月に、ハンガリー国立歌劇場でオテロ、マホ・アンドレアとのコンサート、そして5月には、ジュールでロスト・アンドレアとのオペラ・コンサートなど、出演が相次ぎました。このインタビューは、5月のジュールでのコンサートに向けた企画だったようです。

さらにこの後も、2016年4月のシェイクスピア没後400年の記念日に、ジュール・フィルハーモニー管弦楽団とともに、ヴェルディのオテロを指揮するなど、ハンガリーとの関係はさらに深まっているようです。

このインタビューの原文はハンガリー語のため、十分理解できない部分があります。概要と発言の大意をくみとっていただければということで、訳は不十分ですが、紹介したいと思います。

******************************************************************************************************************




――ハンガリーの魅力
Q、1997年のオテロのデビューは多くの人々に最も記憶に残っている。その後、何十年もの間に、このオペラとの関係は変わった?

オテロは、タイトルロールを200回歌った。しかし、それぞれ、パフォーマンスは異なっており、最も記憶に残るもの、最も重要な転換になったというものはない。

ブダペストでのオテロの2公演は、幸運の星の下につくられたと言える。オペラチームとは、ゆっくりと15年かけて取り組んでおり、素晴らしい歌手、ミュージシャン、そして指揮者によって構成されている。

Q、毎年、ハンガリーに戻っている理由は?

私はプロフェッショナルだ。呼ばれたところに行き、出演料を受け取り、私の仕事をする。あなたも出演料を受け取ったら、同じことをするだろう?
もちろん、これには別の面がある。私は、すべてが揃ったハンガリーで仕事をするのが好きだ。労働条件、プロフェッショナリズム、そして我々は毎年、素晴らしいプロダクションをつくってきた。だから私はここにいる。




――欲求不満を抱えて生きるより、満足のために死ぬほうが良い
Q、歌、指揮、演出、舞台デザインと、多彩なアーティストだが、どうやって、それらすべてに対処することができるのか?

私のように、多くのことをやろうとする者に対して、確かに、非常にナーバスになる人々がいる。彼らは、理解せず、妬み、問いただす。「どうやって、これらすべてのことを行うことができるのか?」――実は、その問いは続いている・・「なぜあなた5つのことをやるのか?私は1つだけだ!」と。

私が、すべてのことで最高になれるとは思わない。しかし成功のためには、非常な忍耐力、勤勉さと才能が必要となる。それが大切なことだ。
欲求不満を抱えて、不幸せなまま生きるより、幸福と満足のために死ぬ方がより良いと、私は確信している。また、みんなにアピールする何かをなすことができないならば、決して勝者になることはできない。




Q、あなたは勝者だが?

私を信じてくれる人々によって支えられている。25年を経て、私を支持してくれる聴衆、コンサートのチケットを買ってくれる人々。彼らは、そのお金によって何を得ることができるのか知っている。それがクーラのブランドだ。

最高のミュージシャンたちは彼らの楽器をうまく弾きこなすが、他の人のコンサートに行くのかどうか、あなたは疑問をもつだろうか?彼らは、美術館や劇場にいくのか?音楽祭に行って、楽しむ?ミュージシャンや歌手、そして、あなたは、これまでの人生のなかで、パラシュートジャンプに挑戦したいと思ったことはあるだろうか?

私は、あなたも「生きる」ことを願う。私たちは、ほとんどの時間を費やして、継続的に観客にサービスするアーティストだが、ステージだけに自分を閉じ込めて生きることはできない。




――クラシック音楽は楽しいもの、生きて脈打っている

Q、「クーラのブランド」とは?

それはマーケティングのためのものではない。シンプルに、私自身の、すべてのポジションのことだ。いま私たちがここで話しているように、また私が妻と食事している時のように。それが私のステージの上でのやり方だ。

私は情熱をもって人生を生きている。結局、退屈するには人生は短すぎる。

あなたは私のことを、真面目で尊敬されるマエストロと思っているかもしれない。私は、アーティストとして世界で名を知られるようになったが、申しわけないが私はあえて言う。その真面目と退屈は、同義ではないか。

世界的に有名な作品だからと、あまりに真面目に恐ろしく退屈なやり方でアプローチすることは、クラシック音楽から若い人たちを追い払っている。クラシック音楽は価値ある芸術だが、楽しいものだ。それは、死んでいない。生きて、脈打っている。私たちがいま話し合っているように。




――誰もが、自分自身の道を歩む必要がある
Q、若い人たちにどうやって伝える?

若い人たちに問題はない。彼らは素晴らしく、才能豊かだ。問題は私たちの方にある。
私はそれを、世界中でマスタークラスを行ってきた経験から知っている。

私は芸術的な側面を彼らに示すことはできる。しかし、どうやって成功し、満足できるアーティストになるのか、そのレシピはない。 誰もが、自分自身の道を歩む必要がある。そこから逃れることはできない。キーメッセージは、「自分自身であれ ("be yourself")」だ。

今日では、最も簡単に有名になるには、面白い動画をインターネットにアップすること。そうすれば一日であなたはスターだ。評判を得ることは簡単だが、私たちアーティストは、卓越性のために努力しなければならない。

Q、ヨーロッパのオーケストラにとって、その存続のため、観客の若返りが最大の問題だが?

私が参加したコンサートでは、どこでも若い人たちがたくさん参加している。ショーの終りには、私がこのジャンルを扱う方法について熱心に語りあっている。それは彼らにとっては、新鮮さに満ちていると言う。

これには、彼らが時代錯誤と感じる燕尾服を着ていないという、外観も関係している。なぜ21世紀のステージで、ジーンズを着ることが許されない?

一方で、外観については、別の典型的な例がある。マエストロと呼ばれる方法を知っているだろうか?とてもおかしいことだが。私は15年前からメガネをかけるようになった。それまでは、私はただのテノールだった。しかし今では、確かにとても真面目なマエストロだ。ばかげているだろう?



――偉大な天才音楽家たちの背後に、普通の人間の姿、現代につながる人間性をみることが大事
Q、アンドレア・ロストとのジュールのコンサートは?

ジュールでは、アンドレア・ロスト、カールマン・ベルケシュ(指揮者・クラリネット奏者)、ジュールフィルハーモニー管弦楽団と私、4者によるコンサートだ。複合的な効果は非常に良く、ポジティブな意志を私は確信している。カールマン・ベルケシュは素晴らしいユーモアのセンスの持ち主で、これは非常に重要なことだ。このようなコンサートは、ポジティブなエネルギーを与える。

私は、誰かが亡くなりでもしたかのような表情でステージに登場するのを嫌う。こんなやり方では、モーツァルトは演奏できない。バロック時代、最も偉大なバッハもそうだ。バッハは21人の子どもを持っていた。あとは想像してみて・・。シューベルトは、片手にビールを飲みながらスコアを書いた。これは非常にシリアスな話だ。

これは彼らに対して失礼なことではなく、私は、すべての偉大な天才の背後に、人間としての彼自身、普通の人間の姿があるということを言っている。このことを認識するのがなぜ重要なのか?彼ら天才たちを人間として見る時、私たちは彼らの弱さを認識する。それによって、彼らが達成した奇跡を、私たちはよりいっそう称えることができる。彼らの人間性によって、常に今日とつながっており、だからこそ、彼らの仕事は永遠に生きる。私は、これが、連日、ステージにあがるアーティストの感覚であり、聴衆に伝わっていくものだと思う。

こうした関係に光を当てることは、私の使命だと思っている。20年前、英国の評論家が、「クーラは、クラシック音楽が、彼のアミューズメントのために書かれていないことを知るべきだ」と書いた。しかし若い世代は、この問題を乗り越えることができるだろう。

25年間、私は、音楽学校の教師たち、そして批評家とたたかってきた。神が私に慈悲深いなら、私は、あと25年間、この戦いを続けることができる。そしてそれから私は、天国、あるいは地獄に向かうだろう。




Q、教え子たちはあなたに従う?

世界中でマスタークラスを行っているが、文字通りの意味での生徒はいない。
マスタークラスで私は、私がプロフェッショナルとしての仕事について考えていることを伝え、それから、彼らが望み、自ら決めた彼らのやり方を認める。

しかし先ほど話したように、一番大切なことは、自分自身であること。偽りの生涯のために、自分自身を演じつづけることはできない。私のキャリアの始まりの時期、常に誰かと比較された。ドミンゴ、カレーラス、そのほかにも。そして私は、自分が誰か有名人の生まれ変わりなどではなく、違っていることを喜んだ。




――長年のハードワーク、忍耐が、真のアーティストをつくる
Q、第4のテノールと呼ばれて?

かつて、キャリアのはじめに、私は、カラヤンか、カルーソーの生まれ変わりなどと言われた。これは、メッシはマラドーナの生まれ変わりだというようなもの。愚かだ。私はただ私ではいられないのか?

3大テノールは、すでに過去の世紀の偉大な音楽家の話だが、これはプレスのための便宜上の分類にすぎない。エージェントはより多くのチケットを売るために、この安上がりのマーケティングの仕掛けを利用した。しかし私は、このような「空っぽの器」は好きではない。私は、長年のハードワークと忍耐による卓越性があることを信じている。

本当のアーティストになるためには、そのような長い道のりがある。それぞれの才能の始まりには、ひとつの種があるだけだ。 私はその種が、ハードワークの30年間の後に、強い、成木となっていることを確信する。人々は、その涼しい木陰を好むか、その果実を好むのか、決めることができる。しかしポイントは、私はすでに単なる種ではなく、木になっていることだ。



(聞き手 Farkas Mónika)

********************************************************************************************************************

今回のインタビューも、また率直で、アーティストとして"我が道"を歩む、クーラの自負と決意が強烈です。
正直なところ、反感を持つ方もいらっしゃるかもしれません。とりわけクーラのこの間の活動やキャリア展開をご存じない方には、"傲慢"と感じられるのではないかと、和訳しながら少し心配してしまいました(いまさらですが・・笑)。

しかしこれがホセ・クーラです。「商業主義の商品にはなりたくない」と、大手エージェントからも、レコードレーベルからも独立して、マスコミにも、大劇場にも媚びることをせず、自立したアーティストの道を歩んできました。またテノールだけに専念すべきという圧倒的な批判を受けながら、本来の志望である作曲や指揮、さらには演出や舞台デザイン、照明、衣装デザインなど、総合的で多面的な活動を開拓しています。

どんなに批判や壁にぶつかろうと、こうした活動につきすすんでいけるのは、芸術の社会的役割に確信をもち、優れたアーティストとして自らを高め、与えられた能力を全面的に発揮させたいという、あくなき向上心と使命感、冒険心、好奇心とに満ちた人物だからこそだと思います。そのためには、いかなる努力もハードワークもいとわない。こういうクーラの人物像は、本当にユニークであり、私にはとても魅力的に感じます。

 *クーラのキャリアに対する考え方や歩みについては、いくつかの投稿で紹介しています。お読みいただければ幸いです。
    → 「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」
      「ホセ・クーラ 音楽への道」
      「ホセ・クーラ 平和への思い、公正な社会への発言」





ロスト・アンドレアとのコンサートより
Jose Cura 2015 "Yesterday"









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年ホセ・クーラ インタビュー (2) キャリアについて、ネット、クラシック音楽の未来、若い世代に / Jose Cura interview in Gyor

2016-06-30 | 芸術・人生・社会について①


2016年4月に、ハンガリーのジュールでヴェルディのオテロを指揮した際の、記者会見、インタビューからの抜粋、つづきです。 → インタビューの前半

 *クーラが指揮したオテロのコンサートそのものについては、すでに2回の投稿で紹介しています。
  2016 オテロを指揮 ジュールフィル (本番編)   (告知編)
 
*****************************************************************************************************

●キャリアとエージェント、劇場について
Q、かつてあなたを拒否した人たちから招待を受けることも?

人は、憤りを抱えて生きることもあるが、それは愚かだ。人生は、それだけで十分複雑であり、ポイントは、いかに人生をステップアップしていくかだ。

若い時、多分、私はまだ十分に良くなかったのだ。かつて自分の可能性を拒否され、私は幻滅を味わった。 指揮者、エージェント、芸術監督には巨大な責任がある。今だけでなく、可能性を判断しなければならない。

確かにロビーやマフィアがいるが、それはまた別の話。意味なく熟練した歌手を排除する興行主があるとは思わない。キャリアの始めは、誰をも脅かすような存在ではないので、ロビーもその歌手をつぶそうとはしない。

かつて私を受け入れなかった事実にもかかわらず、現在、非常に良好な関係をもっているエージェントがある。30年前には想像もできなかった。今ではジョークのようだが、どれほどの機会を逃したことか。

毎日100通の招待状を受け取り、次のパヴァロッティやカラスの誕生だ、といわれる時、それに対処するのは困難だ。しかしこれへの非常に正直な答えは、「申しわけないが、私はあなたを信じることはできない」だ。ただいえるのは、10年たった後から新たな関係がつくられるということだ。スポーツのように人を見下すことは、極めてまずいこと。遅かれ早かれ、あなたは仕返しを受けるだろう。

何年も前、私は小さな劇場のオーディションに行った。しかし彼らは、私が水準に達していないといった。2、3年後に私はなりたかった自分になった。するとその劇場が接触してきた。私は、名前を覚えてくれていたことに感謝を述べたが、しかしその時はもう十分ではなかった。すでに大劇場があるのだと断った。それは非常に丁寧な会話だった。復讐に駆り立てられたのではない。

小劇場はリスクをとり、新人に機会を与えるべきだ。コベントガーデンであるかのように自らをみなすのでなく、若者に投資すべきだ。さもないと、全体が困難になる。これは非常にトリッキーなビジネスだ



●携帯電話、テクノロジーと実生活
Q、あなたは携帯電話が鳴るとショーを止める。テクノロジーには我慢できない?

いやいや、私はそれを憎んでいるわけではない。愛している。

しかしもし、あなたが誰かと恋に落ちた時、2人のベッドの中で、携帯電話にメッセージを書いたり、Facebookに投稿するなら、あなたは深刻な問題を抱えているといえるだろう。

私たちは、感情を共有し、舞台、アーティストと、愛し合うためにコンサートに行く。いまいましい携帯電話を切り、バッグに入れて!重要なメッセージが届くとしても、あなたが終わるまで待ってくれるだろう。

パン焼きを学んだ。熱中している。オーブンの中で膨らんでいくのは、感動的でショッキングだった。急いで何でも電子レンジに投げ込むことはできる。しかしパンを焼くための2時間を惜しまないことが必要だ。電子レンジと本当の料理の間に、バランスをうまく見いだせれば、それは幸せだ。しかし人生においても、電子レンジに頼るだけの人たちについては、私は非常に気の毒に思う。

インターネットはクレイジーだ。それは、アレクサンドリア図書館そのものだ。私も、もちろん利用する。パンを焼くにも何百万ものレシピを借りてきて、バーチャルコミュニティで共有することができる。それでも、何かをシェアするためには、自分で本当にパンを焼く必要がある。我慢できないのは、ネットで検索、クリックするだけで、他人の人生に毒を吐きかけることだ。

私の子どもたちは、私のキャリアについて、家族の生活を稼ぐ方法として見ているが、自分たちの人生の道としては興味をもっていない。私の息子のガールフレンドの両親は、私が誰なのか知らなかった。彼らは1回も、グーグルで私の名前を検索していない。素晴らしい。私たちは、座って、お互いに、最大限、自然に語り合う。
家族は家族、ビジネスは別のことだ。



●仕事以外の時間と音楽
Q、仕事以外に、一番時間をついやすことは?音楽以外?

生活の中で、音楽ではないものがあるだろうか。スポーツ、ガーデニング、読書...良い例は、スポーツだ。リズムによって動いている。

私はスポーツやガーデニングをするが、ガーデニングでトマトの苗を植える時、ピットの中にいるようにリズムをとり、スポーツをする時も、私の足と手で、自分のリズムを整える。だから人生自体が音楽。無音も音楽、すべてのものが声をもち、すべての音が互いに調和して響きあう。

この声を壊すと、この調和が分解され、人間はバランスを破壊する。そして、これが問題を追加する。私たちは、お互いを理解せず、同じことを話さない。内面の精神的な言語を聞くことができないばかりか、互いの相違を理由に、お互いを殺害する。

●若い世代に
Q、いま、25歳のホセ・クーラに何と言う?

私の人生は恵まれていた。私はこう言うだろう。“あなたのやり方で、すべてのことをやりなさい”と。

私はいつも理想主義者だった。これまで多くの経験をし、信じがたいような事も少なくなかった。しかし一方で、今日、シリアの若者のおかれた状況は、私たちが想像することさえできないということも知っている。

だから全体的には、私たちは恵まれた立場にある。ヨーロッパの若者は、おそらく一般的には、本当の闘争の感覚を失っている。インド、アフリカ、南アメリカなどを見て歩くならば、ヨーロッパはまだディズニーランドだ。



多くの人々が私に尋ねる。どうして今、素晴らしい歌手が、世界の特定の地域からヨーロッパに来るのかと。
答えは簡単だ。南米に住む人びとにとって、毎日の生存のための糧を得ることが、彼の成功に依存するからだ。

私たちは、言葉の良い意味での、健全な「生活のための怒り」を失っている。だが、それをやらなければならない。我々は、この強力なエンジンを取り戻す方法を見つける必要がある。新しい世代がより「ソフト」になる前に。

オスカー・ワイルドは、「自分自身であれ」と言う。しかし今の子どもたちは、互いによく似ている。彼らは皆、同じ香水を使い、同じ匂い、似た服、同じ音楽を聴き、同じ物を食べる。頭ひとつ抜けだす者は、傲慢のラベルが貼られる。

若者がリードする必要がある。そして彼らの手に未来はある。
なぜなら世界の混乱の責任は、我々の世代、その親の世代にあるからだ。世界を腐敗させた国のトップを退陣させなければならない。彼らは全員50代、60代だ。

混乱を作りだした者に、それを修正することはできない。古いでたらめの左右の全体主義、ファシストらは消えるべきだ。ゼロからスタートする必要がある。
それから、我々は、新しい地球を手に入れることができるだろう。

*********************************************************************************************************

さまざまなテーマで語っているクーラですが、「コンサートでは携帯電話を切って欲しい」というのは、実際にステージで困ることが多いのでしょう。「愛し合う場では携帯を切って」と、冗談めかしてはいますが、切実な問題なのだと思います。
パン作りの話を引いて、リアルな体験、人と人、人と物との直接のふれあいを大切にしたいというのは、クーラのアーティストとしての信念を感じます。
また、最後の若い世代へのメッセージは、とても熱い内容になっています。社会に対して、平和や社会正義に対して、つねに積極的に発言してきたクーラです。つよい言葉で、新しい社会への探求、若者に未来を託す思いを語っていて、心に響きます。

→ インタビューの前半



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年ホセ・クーラ インタビュー (1) キャリアについて、ネット、クラシック音楽の未来、若い世代に / Jose Cura interview in Gyor

2016-06-28 | 芸術・人生・社会について①


2016年4月23日、シェークスピア没後400年の記念日に、ハンガリーのジュールで、ジュールフィルハーモニー管弦楽団とともに、ヴェルディのオテロを指揮しました。
その際に、ハンガリーで記者会見やインタビューに応じて、オテロについて、自分のキャリア、指揮者として、携帯電話などの問題、クラシック音楽の未来について、そして若い世代へのメッセージなど、さまざまな話題で語っています。いくつかの記事からまとめて訳してみました。長くなったので、(1)(2)の2回に分けて掲載します。 
ハンガリー語からなので、いつものように、誤訳直訳、さまざまな問題があると思いますが、大意をくみとっていただいて、どうかご容赦ください。

なお、クーラが指揮したオテロのコンサートそのものについては、すでに2回の投稿で紹介しています。ユニークなリハーサルなどを収録したニュース動画なども紹介してます。
  2016 オテロを指揮 ジュールフィル (本番編)   (告知編)
 


●2015年のジュールでのコンサートについて
Q、あなたは昨年の公演が愛の夜のようだったと語った。指揮者として今回の共同に何を期待する?

*2015年5月のコンサートは、別の投稿で紹介しています ↓ 
 ホセ・クーラ & ロスト・アンドレア コンサート / Rost Andrea & Jose Cura in Gyor

昨年のコンサートは、ジュール・フィルハーモニー管弦楽団との非常に重要、かつ自発的な“communion”(ラテン語「相互感応」=魂の交流というような意味か)だった。それは考えるほど簡単なことではない。両当事者のプロフェッショナリズムと協力に依存する。

オテロと比較して、アリーナでの昨年のコンサートは、観客が吸収するうえでは、はるかに簡単な経験だった。そして、それは大成功し、爆発した。

私は指揮者として、歌手である時と比べて、全く異なる音楽の感触を得る。私は今、歌手として一緒に活動した時と比べて、まったく異なるオーケストラを感じる。私は発見し、多くの新しいものを感じる。作品の現代性とメッセージ、それが私にとって非常に重要だ。そして、私はそれが多くの人に達するだろうと信じている。

Q、昨年のセッション以降の変化は?

たくさんのことがある。おそらく最も重要なのは、私は、より年をとり、正確に言うなら、私は成熟している。私は、自分の場所をもち、私の存在、限界、知識、そして私の不足しているところを認識している。これは非常に心強いことだ。

30年間続けてきた仕事はいま成熟している。そして、それは無駄にはならなかった。これは自分自身のための確認だ。

しかし私は、はるかに感情的になってきている。私は私の国と私と私の家族の存在を必要としている。これまで、私は、自分の目標を達成するために、それらなしで多くの時間を費やしたので。



●長年テノールとして歌ってきたオテロを指揮
Q、指揮者から歌手へ、そして指揮者として?

初めて15歳で指揮者デビューした。もともと作曲と指揮が専門だったが、27歳の時に、歌手としてのキャリアを始めた。その時は、1999年まで、指揮台に復帰する計画はなかった。

当時のアルゼンチンは、ちょうど軍事独裁政権の恐怖から回復し始めていて、若い民主主義の時代だった。その頃の困難な経済状況では、指揮者や作曲家としての仕事を見つけることはほぼ絶望的だった。

しかし声があった。合唱団で歌い始め、慎重にソリストとしての活動を開始した。28歳で家族と一緒に渡欧した。スペインやイタリアで合唱団でも、と考えた。しかし居住許可がないと合唱団では採用されなかった。

この規則はソリストには適用されなかった。だから声を聴いてくれるエージェントを探した。最初に小さな役、その後、突然爆発した。すぐ主要な役。突然、正面に押しだされた。まだ私は準備ができていなかった。

作曲と指揮をわきに置いて、私は仕事をしなければならなかった。しかし運命はやはり運命だった。1998年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのレコーディングセッションの間のことだった。

コンサートマスターが「あなたは天性の指揮者だ。必ずいつかこの仕事に戻ってくるだろう」と私に言った。そして、彼は私にバトンを手渡した。これはお世辞だったとしても、とても経験のあるミュージシャンの言葉だった。そして一年後、私は慎重に、再び指揮を始めた。

2000年にワルシャワのコンサートの後、メニューインによって創立されたオーケストラから客演指揮者として招かれた。そしてそれが私が指揮台に戻り、再び動きだした経過のすべてだ。そこには本当に計画はなく、まだ美しいアクシデントでしかなかった。しかしこれは将来につながる可能性があった。声は永遠に続かない。私が歌をやめた時、フルタイムの指揮者になることを願っている。



Q、指揮者のアプローチは?

それぞれの歌手の独自のアプローチを尊重しながら、人間的な経験における大きな違いを、すべての歌手に伝えることができる。今回、私は、彼らが望むように、私にできる限りの多くのことを与えたいと思う。

私自身の解釈を押しつけたクローンは必要ない。私が経験し、動作することを知っているものを提供する。少なくとも、描いた理論ではなく、実際に自分の肌で感じ取ったことを実行しようとしていると感じるだろう。

このオテロで、 全体において、私が求めてきたドラマや音楽の解釈に焦点を当てることを実現したい。歌手は、基本的に指揮者に適応する。問題はない。それはプロフェッショナリズムだ。

Q、キャリアのうえで、オテロはあなたにとって何を意味する?

私が歌い始めた時、もちろん、他のテノールの役柄と同様、オテロを歌うことを願っていた。しかしこれほどの緊密な関係になるとは考えたことがなかった。オテロは私にとって、もはや単なる役柄ではない。もっとそれ以上の、「仲間」だ。
私は20年間、彼と一緒に働いてきたし、すべての役柄をはるかに超えて、それは本当のパートナーシップだ。

もちろん、オテロはネガティブなキャラクターであるため、難しい面がある。特に、連日、彼とともに働いている時、明確なラインを引くことなしに、自分の人生のなかで彼を見出そうとすることだ。私は単なる役柄であることを自分自身に明確にし、可能な限り自分から切り離そうとしている。

そしてそれはうまくいっている。トラブルに巻き込まれやすい人物として彼を識別しようとしている。自分自身を他者に近づけることを可能にする微妙なバランス、しかし決して一線を超えないように注意深くなければならない。



●クラシック音楽の未来
Q、作曲家として、あなたはクラシック音楽の未来をどう考えている?すべてが書かれている。新しいものを創りだすことは可能だろうか?

モーツァルトは、バッハの後、誰も新しい音楽を書くことはできないと述べた。自分自身を含めて。そして、いま我々は、モーツァルトについて話す。これは非常に古い問題だ。

ある意味では、偉大な天才たちは、音楽の未来を”台無し”にした。または危機にさらしたともいえる。

バッハの「フーガの技法」の中の記念碑的作品のいくつかにおいては、音符のハーモニックな組み合わせの結果が、 多くのシェーンベルクの作品よりも、より大胆で、さらに「前衛的」であることを暗示している。

だが大丈夫だ。我々は何をするのか?将来は? ただ一つの選択肢がある。芸術全体にとっての唯一の可能性と真実は、知的な誠実さだ。

残念ながら、今日、クリエイターのほとんどは、誠実(正直)であるためにたたかおうとせず、聴衆と異なろうとする。したがって、結果として彼らは無関心になった。

現代音楽が風変わりであることは問題ではない。多くの天才は、仲間から変わり者と思われていた。しかし作曲家が心から書いた時、その難易度に関わらず、彼の感情が伝わってきて、私たちは彼の心を理解する。

作曲家が、他と異なるためだけに書いたとき(新しさだけを求めてという意味か?)、このようなノートは心には届かない。ここに境界線がある。


→ 後半 につづきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インタビュー 私にとってミラノは、壮大な都市であり、成功へのハードな闘争の象徴 / Jose Cura in Miran

2016-05-29 | 芸術・人生・社会について①


2015年3月に、クーラはミラノのスカラ座で、ビゼーのカルメンに出演しました。カルメンはエリーナ・ガランチャ、ミカエラはエレーナ・モシュクでした。再演でもあり、残念ながら録画も、また録音もほとんど見当たらないのが、いつものことではありますが、残念です。

この出演の際に取材したのだと思いますが、2015年5月16日付でイタリア語のインタビューが掲載されました。 → 記事のHP
クーラ自身のキャリアの出発と成功への道のりのなかで、ミラノがひときわ特別な位置にあったこと、ミラノの街、スカラ座、ブーイングについてなど、インタビューのなかで語ってます。イタリア語からの翻訳が不十分ですが、大意をくみとっていただくということで、概略を紹介したいと思います。

*******************************************************************************************************************



――私にとってミラノは、歴史的で壮大な街、そして挑戦、自分自身を確立するための闘争・・そこには、雨、交流、素材に対処するうえでの組織的困難があった。

●ミラノで国際的なキャリアに弾みがついた
1991年、私は2つの目的をもってイタリアに到着した。1つは、私自身のルーツを再発見するため。母方の祖母はイタリアのクーネオ県サント・ステーファノ・ベルボ Santo Stefano Belbo の出身だった。
もう1つは、仕事を探すことだった。

私はオーディションを探し、エージェントをまわった。しかし、誰も私を評価してはくれなかった。私の最後のカードを使うことに決めた。テアトロ・コロンの歌の教師からもらった電話番号にかけた。テノールのフェルナンド・バンデラだった。彼は電話にでて、ミラノで会う約束をしてくれた。この街に着いたのは4月で、重い雨が降っていた。

●困難に挑み、物語が始まる
そこからが私の叙事詩の始まりだった。バンデラ氏は私の歌を聞き、こう言った。「ブラボー、あなたは重要な声をもっている」。
それから彼は、私の今後の計画を聞いた。私はアルゼンチンに帰国する予定であり、何も計画はないと言った。
彼は「あなたはどこにも行かない!」といい、初めてのエージェントを紹介してくれた。アルフレード・ロード Alfredo Road だ。



●歌の教師、ヴィットリオ・テラノバとの出会い
仕事は、まだなかった。アルフレードは、私の声には、まだ、主にスタイルの上での微調整が必要だと語り、歌の先生を紹介してくれた。
ヴィットリオ・テラノバ――彼は1991年から1992年の半ばまで、私に無料でレッスンしてくれた。上にいくための力を私に与えてくれた、本当に寛大な行為だった。

●テノールへの道
自分がオペラを歌えることを発見したのは、20歳の時だった。アルゼンチンでオーケストラの指揮と作曲を学んでいた。歌はそれらを補うためのものだった。大学の学長が私の声を聞いて、「声を育成しなさい。そうすれば指揮者としてのスキルももっと洗練される」と私に言ってくれた。そのアドバイスによって、自分がテノールになれるということを見いだした。



●ミラノに戻って
ミラノは仕事を通じて知ることになった街。私にとってはまだ、大部分が未知のままの場所だ。ミラノは探求しようとする者だけに、トリッキーにも、その深い懐を明らかにする。カンペリオハウスから100メートルのところに、サン・マウリツィオ教会や考古学博物館などの本物の美しさを発見できる。

2011年にスカラ座でレオンカヴァッロのオペラ「道化師」を歌った時、新改装のホテルに泊まった。初めての部屋を割り当てられた。それ以来、ミラノに来るたびに、毎回同じホテルの同じ部屋をとる。カンペリオホテルにそって歩き、小さな路地を横切る時、まるで過去のミラノに戻っているようだ。そして、1982年に道化師が初演されたダルヴェルメ劇場にも近いことが、私に親密感を抱かせる。



●スカラ座でのブーイングについて
これは全ての観客に関係することではない。また私だけにあることでもない。これらの人々は、個性あるアーティストをターゲットにして否定し、ブーイングの恐ろしさに対して何も配慮することがない。スカラでは多くのアーティスト、カラスでさえその対象にされた。口笛は、設計者ピエル・マリーニの時代以来、劇場の歴史の一部だ。今では、反対の意思表示以上のものになっている。

●次にミラノに戻る時

何も考えていない。20年以上のキャリアを経て、私は、アーティストに敬意を示してくれる場所で観客の前に行き、演奏する喜びを感じている。
非常に残念なことだ。オペラ劇場としてのスカラ座は、オーケストラ、合唱団、技術設備、もっとも優れたものを兼ね備えており、本当に驚くべき素晴らしさであるのに。



***************************************************************************************************************

クーラが出演したカルメンでは、初日、主に指揮者や演出、クーラやモシュクら出演者に対するブーイングと口笛があったということですが、ネット上の観客の反応や海外のクーラファンのレポートによれば、一部から執拗なブーイングがあったが、それを超える拍手と喝さいがあったようです。長く続く拍手とブラボーが聞えるカーテンコールの動画も、アップされていました。

最近、スカラ座では、ツイッターやインスタで、当日の舞台をリアルタイムに発信してくれて、そういう面でも素晴らしいです。
また動画もアップされていますので紹介します。   *写真はスカラ座のツイッター等から

ガランチャのハバネラ
Carmen - L'amour est un oiseau rebelle (Teatro alla Scala)


予告編 Trailer Camen (Teatro alla Scala)


                          








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年齢と役柄について、コレッリ、カルーソー、パヴァロッティ・・ / Jose Cura/ about Corelli,Caruso etc..

2016-05-22 | 芸術・人生・社会について①


ホセ・クーラは、オペラ歌手としても、アーティストとして、また生き方においても、我が道をゆく人ですが、記者会見やインタビューなどでも、自分の考えを非常に率直に発言し続けています。それらを読むのは、私にとって、いつもとても面白く、いろんなことを考えさせられます。
今回は、オペラ歌手としての役柄と年齢について、また、コレッリやカルーソー、パヴァロッティ、ドミンゴなど偉大な先輩たちについてと、彼らとは違う現代のオペラ、自分自身のスタイルについて、などのテーマで語った内容を、いくつかのインタビューから抜粋して紹介します。
オペラやキャラクター、音楽と芸術に対する考え、オペラのあり方についての問題提起など、アーティストとしてのクーラの個性、ユニークさ、人間性がわかるように思います。
前回の投稿で紹介した、テアトロ・コロンでのカヴァレリア・ルスティカーナと道化師では、クーラはカヴァレリアのトゥリッドウを歌わず、道化師のカニオだけを演じました。そこには、以下に紹介するような思いがあったようです。

*********************************************************************************************************



――2015年5月のスペインのインタビューより
●最愛のトゥリッドゥから去る時
私の最愛のトゥリッドゥ(マスカーニのオペラ、カヴァレリア・ルスティカーナの主人公)は、私が20年間ともに歩んできた役柄だが、私は去ろうとしている。声が理由なのではなく、年齢のために。

私は老人でないが、男の子のような人間でもない。私は皮膚感覚で、少しトゥリッドゥがぴったりしなくなったと感じている。この点で、知的な正直さと自己検証がアーティストにとっては不可欠だと思っている。

マノン・レスコーのデ・グリュー、ラ・ボエームのロドルフォ、椿姫のアルフレードでも同じことが起こる。これら子どもたちのドラマは、若者の未熟な心理に合うが、50代の「オーラ」がある時、それを20歳と信じるのは難しい。

●オペラはパラドックス
オペラがパラドックスであることは事実だ。偉大なパヴァロッティ(世紀で恐らく最も美しい声)は、人生のほぼ最後まで、ラ・ボエームのロドルフォを演じた。しかし彼が歌うかどうかにこだわらない人は、素晴らしい音を楽しむだけだ。

今日、すべてはとても急進的に変わった、良くも悪くも。18や20歳の男の子になりきろうと奮闘する70歳の男性に与えられる喝采を想像してみてほしい。コミックとの境界。そこが問題だ。

●年を重ねたテノールの役は少ない
問題は、年を重ねたリアルな役柄、若いロマンチストではないテノールの役柄は、きわめて少ないことだ。オテロ、カニオ、サムソン‥ごくひと握りしかない。私の年齢の歌手に性格がマッチする役は、一般的にはバリトンだ。

女性の場合、多くのソプラノが、最後はメゾを歌う。しかし我々には素晴らしいドミンゴがいる。バリトン・ロールで経歴を広げている。
(このあとは以下のような英文が続きます)and all are tearing their hair ...(ちょっと訳しにくいです‥直訳すると「みんな髪をかきむしっている」ですが・・苦笑)



――2004年のインタビューより
●私はコレッリの大ファン
私はフランコ・コレッリの歌唱のスタイルの大ファンだ。コレッリ、デル・モナコ、カルロ・ベルゴンツィ・・驚くべき器官だった。今、誰も彼らのように歌えるとは思わない。
また、もし今、彼らのように歌うならば、ブーイングされるだろう。もしくは、傲慢のラベルを張られる。
カルーソーも、今日では、かつて彼が歌ったように歌うことはできない。これが良いことか悪いことか、私は知らない。

●歌うように指揮し、指揮するように歌う
私はいつも、歌っているように指揮をする。そして指揮しているように歌う。それは、私が指揮する時、音楽のフレージングが歌手のフレージングと同じ呼吸をもっているのが好きだからだ。
私は、音楽を杓子定規に指揮することが好きではない。私にとって、それは音楽の死を意味する。私の考えでは、歌手は楽譜上の別の五線譜だ。彼は楽譜につるされているわけでも、ピットから必死に引っぱられているわけでもない。

それは音楽的でないだけでなく、オーケストラの音楽家に対する敬意の欠如を示す。歌手は音楽家であるべきだ。バイオリニストがバイオリンを弾く音楽家であるように、歌手は咽頭を使う音楽家だ。
歌手もまた音楽家であり、そこには個々のフレージングがあり、カラーがあり‥。しかしそれは、まるで規則がないように音楽を演奏することとは無関係だ。



――2003年のインタビューより
●クーラは真面目な歌手じゃない?

Q、オペラファンの中には”ホセ・クーラは真面目な歌手ではない”と言っているが知っているか?
A、聞いている。
しかし本物のオペラファンがそう考えているとは信じていない。単に保守的な人々のいうことだ。彼らは、ステージ上で楽しみ、笑い、良いムードをつくる人は真面目な音楽家とみなすことができない。
歌う時には、常に苦しみ、ハイノートの前には冷や汗をかき、葬式にでもいるかのようにふるまわなければならない‥。
全くナンセンスだ。

私はこういう人間。他人の好みのために変えるつもりはない。しかしクラシック音楽への私のアプローチが、全員に受けるわけではないことを私は理解し、完全に受け入れる。これが人生。全ての人に受ける必要はない。

Q、あなたはドミンゴのような服装をしないが?
A、彼らは伝説的歌手であり、尊敬しているが、彼らの世代は私の父と同じ年齢。別の考え方をするのは自然だ。父はスーツとネクタイで旅行する。彼らの世代の感覚だ。

Q、しかしオペラはむしろ古い世代のエンターテインメントでは?
A、オペラに行く人の誤解だ。クラシック音楽を聴くことは、年齢に関係なくすばらしい。
状況によってはドレススーツも着るが、自分らしくないので、いつもそうすることはできない。偽善とコミュニケーションは両立しない。

Q、あなたな楽天家と思われているが?
A、バレエ・ダンサーが跳躍する時、全ての筋肉は緊張しているが、顔は笑顔だ。観客は簡単なことなのだと思うが、実は違う。アーティストの任務は、観客を楽しませ、良い時間をもつことだ。



●私にとって、指揮は、オペラ歌手のルーチンから脱出する重要な機会を与えてくれる。好む好まざるにかかわらず、80年間のオペラ公演中、75%が同じレパートリーだ。だからルーチンに陥りやすく、新鮮さを失いかねない。

●日頃の私は、とても思案がちで、平和的な人間だ。51歳になった(当時=1962年生まれ)。年老いてはいないが、もう若くはない一定の年齢になった時、思慮深く、知恵をもつことは、人生において到達すべき、最も美しいことの1つだと思う。



*********************************************************************************************************************

役柄と年齢、オペラのパラドックスについてのクーラの意見には、いろいろ異論反論があることと思います。特にオペラの場合は、役柄には、何よりも、それに合った声とテクニックが優先だという考え方があるでしょうし、役の年齢設定と同じ年齢の歌手ではとても歌いこなせない役柄も多いのだと思います。でも、ヴェルディが椿姫のキャスティングに、ベテランではなく若い歌手をつよく希望したという話を聞いたことがありますが、舞台芸術であるオペラにおいては、当然、視覚的要素がますます必要とされてきているのは、最近の動向でも明白です。

同時にクーラが主張しているのは、単なる年齢、単なる視覚的要素ではなく、キャラクターの心理的リアリズムなのだと思います。
前の投稿の「カヴァレリア・ルスティカーナと道化師の演出」を読んでいただいた方には、クーラが、主人公の心情と社会背景を掘り下げて演じ続けてきたことがわかると思います。

リアリズムにもとづき、現代社会に生きる、知的に誠実なオペラをつくる。先人たちをリスペクトしつつ、自分らしく、堅苦しくなく、観客とともに、自分自身もクラシック音楽を楽しむ――クーラの音楽と人生へのアプローチは、一貫しているように思います。

最後に、コレッリのファンだというクーラが、1997年にウィーンでコレッリを囲むコンサートに出演した際の動画をYoutubeから紹介します。

ジョコンダより
JOSE CURA "Cielo e mare" La Gioconda (Ponchielli)


アンドレア・シェニエより
Jose Cura "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


はじめてドイツ語で歌う、といってます。
Jose Cura "Du bist meine Sonne" (Franz Lehár)


最後に、テノール5人でコレッリを囲んで。でも残念ながら、コレッリは歌おうとはしませんでした。
Galouzine,Dvorsky,Saifert,Gedda,Jose Cura And Corelli
Concert with 5 tenors and Corelli 1997






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセ・クーラ ポップスとクラシック音楽 Jose Cura / pop music & classical music

2016-04-11 | 芸術・人生・社会について①


音楽好きの家庭で、ポップス、ジャズ、クラシック・・さまざまな音楽を聴いて育ったというホセ・クーラは、ポップスとクラシックを区別することを嫌い、音楽には、良い音楽とそうでない音楽の2つしかないと語っています。これまでも、さまざまな機会でビートルズの曲をギターで弾き語りをしたり、ポップスのコンサートも実施してきました。

これまでのインタビューなどから、クーラのポップスとクラシックについての考え方、音楽観などを抜粋してみました。またいくつかの動画も紹介します。



2015年ブダペストでのマホ・アンドレアとのコンサートからダイジェスト(音声のみ―約13分)
Jose Cura 2015


●音楽はすべての人々の財産――2000年インタビューより
モーツァルト、プッチーニ、ベートーベンやシューベルトなどの作曲家も、生きていた時は、今日のポップスターのように扱われたことを忘れてはならない。今日では、彼らは不可侵であると考えられている。

(古典音楽の作曲家)彼らは技術的な理由からオペラハウス用の音楽を書いた。当時はマイク、スクリーンなどは知らなかったからだ。彼らも今、生きていたら、野外コンサートに適した音楽を書くだろう。

音楽はすべての人々の財産だ。しかし多くの人はオペラハウスに行くことができない。野外コンサートなどの試みは、クラシック音楽に親しむ人をつくる方法の一つだ。

人々がポップ・ミュージックとクラシック音楽を区別する理由が私にはわからない。良いものと悪いもの:私にとって、音楽には、ただ、2種類があるだけだ。

クラシック音楽にもひどいものはある。ポップ・ミュージックにも素晴らしいものがある。その逆も同様だ。ジョン・レノンの曲は、シューベルトによって書かれた曲と比べても、決して悪くない。



●両方を学ぶことは誰にとっても良い学校――2015年5月、ノヴィ・ソンチでインタビュー
私は誰もがクラシック音楽を聴くよう奨励されるべきだとは思わない。パスタが食べたい人にステーキを渡すようなものだ。ポイントは、人々が特定のアーティストを認識しようとする時、それを助けることだ。

何を演奏するのか、それがビートルズ、クイーン、またはバッハやモーツァルトの曲かどうかに関わりなく、最も重要なのは、あなたがそれを良くやるかどうかだ。そこに鍵がある。

クラシック音楽家はポップ・ミュージックを、ポップ・ミュージシャンもクラシック音楽を演奏する必要がある。誰にとっても良い学校だ。

ポップの世界はクラシック音楽家に柔軟性を与え、クラシック音楽は今度はポップスに規律を与える。ちょうどクラシックの訓練を受けたフレディ・マーキュリーのようなミュージシャンを見るように。



●iPodにはカーペンターズの曲がいっぱい入っている。カレン・カーペンターが亡くなった時は泣いた。

●(クラシックの他に好きな音楽は?)ジャズ、後期ロマン主義、またはポップスなど、ジャンルに関係なく。しかし私にとって、最も美しい音楽は沈黙だ。私の人生は全て音楽とともにある。仕事以外では沈黙を好む。(2011年)

●子どもたちには、クラシック、オペラであろうと、ポップスであろうと、良いパフォーマンスを観賞できるように育てようとした。

●私がポップに染まったのは60年代。若かったとき、ロサリオ(アルゼンチン)の路上でビートルズの歌を歌った。また後に、妻とアルゼンチンからイタリアに移住した時、私はストリート・ミュージシャンとして生活の糧を得ていた。

●私にとって、音楽にポップ、クラシックの区別はない。自分のオペラコンサートは、ポップ・コンサートでもある。プッチーニやヴェルディのアリアも当時のヒット曲だから。

2003年プラハのオペラコンサートのアンコールで、ビートルズのイエスタディ、ギター弾き語り。
José Cura in Prague - Yesterday


同じくイエスタディ、これは最近2015年のハンガリーでのコンサートで、ロスト・アンドレアと。
Jose Cura 2015 "Yesterday"


ポーランドでミリオンセラーになったポップアルバム"Song of love"から、"Tell Me"
Ewa Malas-Godlewska & Jose Cura, Tell Me


同じくポーランドのEwa Malas-Godlewskaとコンサート終了後、会場に入れず極寒の外で待った1万人以上の人たちを前に歌った"Song of Love"
Ewa Malas-Godlewska & Jose Cura, Song of Love - Concert


クーラとサラ・ブライトマンの名曲"Just show me how to love you"のPVから。動画はかつてYoutubeに多くアップされていたが、現在は皆無。
 
 
 

代わりに、同じブライトマンとの"There for me"を(音声のみ)。
José Cura; Sarah Brightman; The London Symphony Orchestra ~ There for me


ポップスとクラシックのジャンルを超えて、プロのミュージシャンとしてコンサートを盛り上げた2015年のハンガリーのホセ・クーラとマホ・アンドレアのコンサート。
Let It Be - részlet - José Cura Budapest Aréna 2015-02-21










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求 / Stardom, art and life / Jose Cura

2016-04-03 | 芸術・人生・社会について①


ザルツブルク復活祭音楽祭2016のティーレマン指揮のオテロに主演し、ひさびさに日本でもTVに登場するホセ・クーラ。久しぶりに情報を目にした方も少なくないのではないでしょうか。
 → ザルツブルクのオテロについて詳しいことは (レビュー編) (放送編) (リハーサル編) (告知編) をどうそ。
また、2016年 ザルツブルクでのインタビュー 「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」も紹介しています。 

1990年代末以降、とりわけ日本では、1998年の新国立劇場会場記念公演「アイーダ」で衝撃的なデビューをかざってから、マスコミなどでも大々的に紹介され、「次世代3大テノール」だの「第4のテノール」「ドミンゴの後継者」など、待望のスター登場という感じの扱いがされたことを覚えている方もいらっしゃると思います。ところが2000年代に入ってしばらくするころから、あまりマスコミにも登場せず、CDも発売されなくなります。何度か来日公演はありましたが、その後、ほとんどクーラに関する情報を日本で目にすることはなく、「クーラは今どうしているの」と思っていたオペラファンの方も少なくないでしょう。

 

なぜ大々的に売り出されたクーラが、突然、消えるように露出が減ったのか。そこには、エージェントやレコード会社による売り出され方に疑問を感じ、自分のすすみたい音楽の方向との違いに苦しむクーラの決断がありました。インタビューなどから、クーラの思いと決断の中身を紹介します。



●エージェントから独立――1999年~2000年

クーラは1990年代の末に、所属していたエージェントとの関係を断ち切り、独立します。世界的に売り出し中に独立を決意したわけですから、その決断も、その後の直面した状況も、並大抵のものではなかったようです。

Q、2001年に自分の会社を設立した理由は?
A、初期のエージェントと広告会社によるばかばかしい経験はもう十分だった。独立は、それが自分自身であるための唯一の方法だった。

エージェントやレコード会社から、本人の意に反して、オペラ界の「セクシー・スター」路線で売り出されたホセ・クーラ。当時の雑誌のいくつかは今でもネットで売られています。さまざまな雑誌の表紙や見出しに、「セクシーオペラ・スター」「テストステロン爆弾」等の文字が躍っていました。
  

自分の意にそわない方向での売り出され方、長年の音楽的努力ではなく表面的な容姿だけに注目したキャンペーン、エージェントによる金銭的搾取など、さまざまな問題が起こっていたようです。

●自ら芸術の旅をナビゲートする決断――2013年ニューヨークでのインタビューより

芸術的な探求に加え、自分のプロダクション(Cuibar)をつくって活動してきた。重要なことは、それが、自分自身にもとづいて、芸術の旅を自らナビゲートすることを可能にしたことだ。

2000年に、私のキャリアは、幸せではない方向に向かっていた。オペラ界のセックス・シンボルとして売り出されていた。そのように販売されるために20年間勉強してきたわけではなかった。だから私は、それまでの関係と決別し、自分自身を再表示することを決意した。

それはいろんな意味で重大な挑戦だった。自分のイメージを変え、なりたい自分になるためには3年かかった。最終的に、私はそれを達成した。しかしそれによって、エージェントや劇場から多くの反発を受けた。

この決断は多くのチャンスを失うコストを払うことになったが、後悔はしていない。友人が私に言った。「あなたは誠実さ(一貫性)を選択した。それを他の利益の上においた。あなたはそれを誇りにするべきだ」と。

1999年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での「カヴァレリア・ルスティカーナ」出演時の写真
 

●自分のボスは自分――2006年イギリスでのインタビューより

私が(エージェントなどとの)関係を破棄した2000年以降、さらにそのうえ、レコードレーベルのエラートが閉じられ、私は砂漠の中で独りぼっちだった。
それは決して簡単なことではなかったが、しかし私にとって非常に有益な時間だった。私は1人だった。そして、それにもかかわらず私は生き残った。

自分自身で完全に責任をとる、それと同時に成功する――われわれの業界の考え方では、この2つは両立しない。この種の自己主張は、ルール破りであり、まさに望ましくないとされているのだ。

幸いにも、この段階は終わった。私はいま、まさに自分自身だ。自分の人生でそうであるように、ステージの上においても私は自分自身だ。

危険がないわけではない。しかし良いアーティストであれば、美しく生き残ることができる。譲歩や妥協をしなくても。それは私がこの段階で学んだ最も重要な教訓だ。

幸いにも、スターダムはすぐ去りゆくもの。欠陥あるシステムに囲まれた空騒ぎだ。多くの才能がすぐ消耗する。信じられないほどの約束、素晴らしいオファーが、それは魅力的なものが押し寄せる。彼が最早それに抵抗できなくなるまで。

私の場合も何も違わなかった。ただ、私は同時に、それを理解し、そしてそれに抵抗した。私にとって、抵抗の段階は終わった。今では、私は自分自身のボスであり、自ら責任をとり、自分自身の保証人だ。「もし私が必要なら、私に電話を。そうすればあなたは問題なく良いプロフェッショナルなショーを得ることができる」――ということだ。

興味深いことに私への電話は、皆、同じことを言ってくる。「私たちはあなたが実際に、道を方向転換せずに、すべてを乗り超えて、生き残ってきたことを知っている。もう一度一緒に始めよう」と。



******************************************************************************************************************************

90年代に華々しく登場しながら、2000年代初頭以降、マスコミ登場が減少したクーラ。それどころか、このインタビューではあっさりとしかいっていませんが、一時期は、「堕ちたスター」「声を失った」「傲慢」など、さまざまな誹謗中傷、新聞、雑誌を使ってのネガティブキャンペーンがあったそうです。クーラ自身が、「3年間悪夢を見た」「雇われたライターによる攻撃にさらされた」と語ったこともあります。
こうした困難を乗り越えて、自分自身のプロダクションCuibarを設立、レコード会社も自分で設立して、独立独歩で活動してきました。大手レーベルの販促キャンペーンとは無縁となりましたし、すべてのことを自分でやるのは、財政的にも精神的にもかなり負担が大きいと推察されます。しかし、つねにリスクをとり、挑戦する生き方、誰にも追随せず、自分の主人公として自らの芸術の道をすすむ姿には、潔さを感じます。

ホセ・クーラのモットーは、「今を楽しめ」。Tシャツのロゴ「Carpe Diem」は、ラテン語で「今を全力で生きろ」「今を楽しめ」などの意味。彼の口癖で、50歳の誕生日に子どもたちがプレゼントしたものとのこと。FBで紹介。


ホセ・クーラの魅力というと、その独特の声とドラマティックな表現に定評がありますが、私がとりわけひかれるのは、こうした彼の生き方です。
大劇場やマスコミ、大手レコード会社などにこびたり、遠慮することなく、自ら信じるアーティストとしての道を、自分の力で切り開いてきました。インタビューでもいつも率直で、フランクに自分の考えを述べます。平和のことや社会問題にも積極的に発言をしています。
もちろん批判を受けたり、大劇場からのオファーが激減することもあったようです。でもその困難な道を今日にいたるまで歩みつづけてきました。

やはり音楽産業、商業主義の世界で、大きな組織などの後ろ盾をもたず、しかもマスコミや大劇場にも媚びず、迎合せず、芸術的な面では言いたいことを言い、自らやりたいことをやるクーラのような存在は、ある意味、異色、異端であり、つねに批判にさらされ、クーラといえば「傲慢」というレッテルがついてまわっているように思います。でもインタビューなどを読んだり、直接彼と出会った人の印象によると、非常にフランクで、率直、ユーモアがあり、知的な人物であることがうかがえます。

苦渋の決断と困難を経て、自らの芸術的探求にもとづき、自立精神旺盛に、歌、指揮、演出・舞台デザイン、作曲・・と、多面的探求が、まだまだ続きます。
 → クーラの略歴についてはこちらを 「ホセ・クーラ 略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセ・クーラ 音楽への道 The journey into music / Jose Cura

2016-04-03 | 芸術・人生・社会について①



ホセ・クーラは、音楽好きだがごく普通の家庭に生まれ、子どものころはラグビーに夢中だったそうです。12歳からギターを学び、指揮者・作曲家をめざしていた青年時代。そして彼を世界的なキャリアに導いたのは、テノール歌手としてでした。
クーラが、どんな風にして音楽への道を歩んでいったのか、いくつかのインタビューから抜粋してみました。





●音楽好きの両親のもとで
ホセ・クーラは、1962年12月5日、アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオで誕生しました。
 → 参考 年表風にまとめたものです 「ホセ・クーラ 略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」

母方の祖父母はイタリアとスペイン出身の移民、父方の祖父母はレバノン出身で、父方の祖父は、貧困の中で生まれましたが後に金属産業で成功し、ロサリオの社会に大きく貢献した人だそうです。

クーラの父は会計士、母は主婦。両親とも音楽好きで、シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ベートーベン、モーツァルト、ビリー・ホリデイやサラ・ヴォーンなど、全ての種類の音楽を聴いて育ちました。
毎晩、父とピアノの前に座り、父がホセにピアノを弾いてくれて、音楽を楽しんだそうです。母は、音楽にはポップとクラシックの区別などはなく、良い音楽と悪い音楽があるだけだということを教えてくれたとクーラは語っています。



●作曲、指揮を学ぶ
12歳の時に、最初の歌声とギターのレッスンを受け、15歳でロサリオの合唱コンサートで指揮者デビューしました。その頃、作曲を始めています。それは全く自発的に、自分自身で音楽を楽しむためだったそうです。

1982年にアルゼンチンの国立ロザリオ芸術大学で、指揮と作曲を本格的に学び始めました。大学の合唱団の副指揮者として、合唱指揮も続けました。
そんな時、学長から、歌唱の研究をするように奨励されたのだそうです。クーラが作曲家・指揮者志望であると知ったうえで、「歌を勉強すると、優れた作曲家と指揮者になるだろう」と。

20歳の頃のクーラの声は、まだ自然の状態で、とてもうるさかったそうです。最初の声楽の教師が、西部の娘やトゥーランドットなどの間違ったレパートリーを強制したために、声を痛めてしまいました。「歌がこんな苦しみなら、もう歌いたくない」と考えるまでに追いつめられました。



●転機~アマウリとの出会い
22歳の時に、15歳から付き合っているシルヴィアさんと結婚。指揮者・作曲家をめざしつつも、生活のために、午前中にボディービルのインストラクターとしてジムで働き、午後は食料品店で仕事。夕方はテアトロ・コロンのコーラスで活動して収入を得ていました。

25歳、学校や博物館で行われるローカルオペラグループの音楽監督に招かれました。ある公演でテナーがキャンセル、やむなく代理で「星は光りぬ」を歌います。それを聞いた声楽家が、彼の先生、オラシオ・アマウリをクーラに紹介しました。

オラシオ・アマウリは、クーラの声を聞き、「あなたのような声は30年か40年に1人しかいない」と言い、お金のないクーラに、無料でレッスンを与えることを申し出てくれたそうです。
その後2年間、ほぼ毎日、マエストロ・アマウリとともに歌唱技術の基礎を開発しました。

 

●ヨーロッパへ
オーディションなども受けたものの、アルゼンチンでは認められず、将来の希望を託して、1991年、ブエノスアイレスのアパートを売って渡航費にし、母方の祖先の地イタリアに渡ります。妻シルヴィアさん、そして長男ベンとともに。

イタリアで仕事を探していくつか事務所を回ったものの、誰からも評価を得られませんでした。渡欧後1月でお金は尽き、一度は故郷に戻る決意を固めます。
失意のなか、帰郷の準備中、テアトロ・コロンの教師からもらった連絡先のメモを見つけます。テノールのフェルナンド・バンデラ、最後にその電話番号にかけ、ミラノで会う約束をしました。ミラノの街に着いたのは4月で、雨が降っていたそうです。

バンデラはスタジオにクーラを招待し、クーラの歌を聞き、こう言ったそうです。「ブラボー、あなたは重要な声をしている」。アルゼンチンに帰国する予定だと言うと、「どこにも行ってはならない」といい、初めてのエージェントを紹介してくれました。そして彼は、ヴィットリオ・テラノバに電話をします。「ここに声がある」と。



●転機~テラノバとともに
当時のクーラの声は、まだ大きなノイズにすぎず、プロのスタイルではなかったそうです。テラノバは、故郷のアマウリと同じく、財政的に苦しいクーラに、無償のレッスンを与えてくれました。彼とともに現在のようなクーラの声を開発していきました。
「私の声はまだ開発が必要だった。歌の先生を紹介してくれた。ヴィットリオ・テラノバ――彼は1991年から1992年半ばまで、私に無料でレッスンしてくれた。私に力を与えてくれた本当に寛大な行為だった。」

2015年ミラノにて。スカラ座で「カルメン」に出演時。




*********************************************************************************************************

クーラにとって、偶然のアクシデントといえるテノールへの道。しかし彼の才能を見抜いた、多くの先達の無償の支援が、それを支えてくれたのでした。
テラノバとのレッスンによって、今にいたる強靭で独特の魅力のある声をつくったクーラ、その後、1993年にオペラの主要な役でデビュー、1994年にドミンゴ主宰のオペラリアで優勝し、世界的に活躍の場を広げていきました。
さらに近年、本来の志望である指揮、作曲の活動を再開し、多面的な音楽活動をすすめています。

歌手として、また本来の志望である作曲家、指揮者として、さらに演出家として、ホセ・クーラの音楽の道、芸術家としての道はまだまだ続きます。

最後に、クーラ自身が始めた動画サイト「Jose Cura TV」にアップされた1991年7月の動画を。
渡欧した年、ヨーロッパでの初めてのコンサートでの「誰も寝てはならぬ」です。テラノバとのレッスンを始めたばかりのころでしょうか。若々しい声、いろんな面でこれからの時を映した貴重な動画です。指揮はマルコ・アルミニアート。2人はこの頃からの友人なんですね。

→ 「Jose Cura TV」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセ・クーラ 平和への思い、公正な社会への発言

2016-02-28 | 芸術・人生・社会について①


ホセ・クーラは、インタビューなどで、紛争と平和、社会的公正の課題など、社会問題について積極的に発言しています。そこには、彼自身が育ってきた背景の影響もあるでしょうし、アーティストとして生きる初心を忘れず、バックボーンとして今も貫いている姿勢が感じられます。

●民族的ルーツと生い立ち
クーラは1962年に南米アルゼンチンで生まれました。父方の祖父母は中東レバノンからの移民です。母方は、祖母はイタリア、祖父はスペインからの移民。まさに「移民の国」アルゼンチンらしい一族のルーツです。欧米中心でない視野をもっている理由のひとつはここにあるのでしょうか。

 

●平和のためのレクイエム(1984)
アルゼンチンでは、1976年にクーデターによって軍事政権の圧政が始まり、1983年まで続きます。クーラの多感な青少年期は、ちょうど軍政下にありました。
軍事政権は1982年、イギリスとの間でフォークランド戦争(マルビナス戦争)を引き起こします。そして徴兵制のもと、当時20歳頃のクーラも予備隊にいたそうです。幸い、戦争は約3カ月で終りますが、もし長引いたら、クーラも前線に送られ、このユニークで多面的なアーティストは誕生しなかったかもしれません。クーラは後に、「戦争が短かったことを神に感謝した」と述べています。
この戦争でアルゼンチン側は多くの犠牲者を出しました。友人も出兵したそうです。大学で指揮と作曲を学んだクーラは、戦争の犠牲者を追悼するレクイエムを作曲しました。



このレクイエムは未発表です。クーラのインタビューによると、2007年に初公開を予定していましたが、残念ながら母国の関係機関のサポートが得られなかったとのことです。クーラはこの犠牲者を悼む曲を、戦争に関与したイギリスとアルゼンチン両国の2つの合唱団で演奏したいと希望していました。しかしその当時は、まだ戦争の傷は癒えたとしても、しこりが残っていたとのことです。
「どこかでステージにあげられることを願っている。死ぬ前に、たとえアルゼンチン国内でなくとも」とクーラは述べていましたが、2015年から3年間のプラハ交響楽団でのレジデントの期間に、実現するかもしれません。



●アーティストとしての原点は平和への願い
アルゼンチンでは、民主化後も、軍政の影響による経済的混乱は続きます。このことが、クーラの少年時代からの夢である指揮者・作曲家としての出発を困難にしたようです。生活のために歌手への道を選んだのでした。
そしてイタリアに移住し、テノール歌手として国際的に活動をひろげるなかで、1997年にはじめて出した2つのCDのうちの1つが、アルゼンチンの曲を集めた「アネーロ」(Anhelo)です。愛と平和をうたったチリの詩人で、ノーベル賞受賞者のパブロ・ネルーダの詩をもとにした曲を多く収録しています。クーラ自身がネルーダの詩に作曲した曲もあります。

「アネーロ」録音風景
  

José Cura - Sonetos de Amor y Muerte ネルーダ「愛のソネット」より「もし私が死んだら」、クーラ作曲


この「アネーロ」のCD付属のパンフレットにクーラはつぎのように書いています。

"But if, on the other hand, my art succeeds in planting the seed of peace within man's heart so that it may grow there, then my life will have had some meaning - but be a star by night."
「もし私の芸術が平和の種を人々の心の中にまくことに成功し、そしてそれがそこで大きく育つことができたなら、私の人生は何らかの意味をもつだろう。一夜にしてスターになることなどではなく。」

クーラはこの言葉を、自らのアーティストとしての初心として、最近もインタビューなどで繰り返し引用しています。



●社会問題への関心と発言
「社会に関与することは、全ての有名人の責務でもある。私はしばしば、他者の問題を自分の肩に背負い、そのためしばしば打撃を受ける。しかし偽善者であることより、私は、そうした打撃に耐えるほうを選ぶ。」

このインタビューで述べたような社会問題への関与のひとつとして、2009年には、国連気候変動首脳会議へ気候問題の正義を求めるキャンペーンに参加しました。その訴えの動画がYoutubeにあがっています。この中でクーラが作っているのは、2010年に演出・主演した「サムソンとデリラ」のセット模型です。
José Cura - Climate Ally


●現代社会への懸念とクラシック音楽の未来
アーティストとして、社会と芸術・音楽の役割、関係についての発言も多いです。

(2015年1月のプラハでのインタビューより)
Q、加速する今日、現代社会にオペラのようなクラシック音楽の将来はあるか?
A、社会の急激な変化について私も懸念する。われわれは一度立ち止まる時間を必要としている。私が懸念するのは、憎悪と暴力、不正と腐敗の現実のエスカレーションだ。それは、社会のルーツを荒廃させている。これらに対して、今、我々が緊急に何かをしないならば、クラシック芸術の将来があるかどうかなど、重要ではなくなってしまうだろう。

Q、現代社会の深刻な問題に芸術家として何ができるか?
A、私はアーティストとして確信している。私たちは美の大使である。可能な限り最高レベルで社会の雰囲気を保つ大きな責任をもっている。
しかし劇場やギャラリーに行った後、ジャーナリストが襲撃されたり、12歳の少女が服の下に隠した爆弾で200人の人々が亡くなるニュースを読む今日、オペラやバレエや絵画の美しさで人々を説得することは難しい。
もし今、我々がやっていることを続けるなら――憎悪、殺りく、戦争――誰も劇場に行く時間をつくったり芸術に関心を持つことはできない。
だから答えは明確だ。現実の外にあるのではなく現実の一部である芸術を創ろう。そうすれば我々は何かを変えるチャンスを持つ。

(2015年7月、ブエノスアイレスでのインタビューより)
Q、欧州の経済危機についてどう考える?
A、私たちが直面する危機は、経済的危機だけでなく道徳的危機、またスペインだけでなく世界の問題だ。それは始まりだ。経済危機は、この危機の結果の一つである。現在直面している道徳的危機、それは、より長く、より多くの痛みと深刻な結果を及ぼす。そして、私はそれをより懸念する。



Q、世界が直面する危機に、芸術は対抗できるか?
A、私は、いま世界は、後戻りできなくなる前に、秩序をもたらすうえで、社会的に非常にデリケートで緊急な瞬間を通過していると思う。
この中で、芸術は大きな役割を担っている。すべての遺産としての芸術。断っておくが、"すべての"とは、人々にアレルギーを起こす、クラシックをとりまくエリート主義やポピュリズムを意味しない。
古典芸術は、すべての人のためのものだ。そのように言うのが政治的に正しいからではない。古典芸術は、人間の不思議さの真髄であり、それは神の息吹を受け止めたときに達成できるものだからだ。
古典芸術の美を再構成し、理解することは、最高の解毒剤だ。そのためには、スローガンではなく実際に、教育を受け、成長することが必要だ。
問題はあらゆるレベルで教育、文化を”買う”こと。それが危険だ。なぜ資本による芸術に接することが人々に多くの恵みをもたらさないのか、ということだ。収縮した地球に秩序をもたらすため始めなければならない。



(2015年9月スロバキアでのインタビューより)
ステージの上でのリアリズムが重要だ。我々は非常に奇妙な世界に住んでいる。テレビをつけると、あるチャンネルは、例えばウォルト・ディズニーの夢の想像の世界を描く。そこではすべてがハッピーエンドに終わる。
しかし他のチャンネルに替えると、アフガニスタンでの爆撃、生活に苦闘する人々、事故、レイプやその他、数々の悲劇がある。それが現実の世界のニュースだ。
我々はその現実の社会を気にしないふりをしている。我々が住んでいる世界に疑いを持たないというメンタリティで、毎日、自慰行為をしているのだ。毎日毎日、我々は架空の世界を体験しているにすぎない。

●文化・芸術予算の削減への抗議
各地で文化予算の削減が深刻な影響を及ぼしています。イタリアでクーラ自身がもっていたいくつかのオペラの計画も「ベルルスコーニの予算削減で全てダメになった」と述べていました。
2015年4月4日と5日、クーラはイタリアのマッシモ・ベリーニ劇場で、ラフマニノフ交響曲第2番などと、世界初演となるクーラ作曲のマニフィカトを指揮しました。第1曲めを指揮した後にクーラは、観客に向かって語りかけました。補助金削減によって、4か月の賃金未払いや雇用継続の保障がない非正規雇用に抗議するオーケストラや劇場スタッフに連帯を表明しました。

 

「私は、この数日間、劇場の教授、合唱団、アーティスト、スタッフとともに、友情の美しい時間を過ごしてきた。私は、家族、子供、日常生活にも影響を与える賃金不払いへの彼らの懸念を共有する。大きな懸念は将来のためだ。我々は未来に約束があるならば、すべての犠牲を払う準備がある。しかしそれが暗黒しかないなら、壊滅的だ。ベリーニ劇場はシチリア島のために文化の灯台に戻ってほしい。」

José Cura esprime solidarietà ai dipendenti del Teatro Massimo "Vincenzo Bellini" - 04/04/2015



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする