人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(公演キャンセル・インタビュー編) 2020年 ホセ・クーラ ウィーンでサムソンとデリラに出演

2020-04-24 | オペラの舞台ーサムソンとデリラ

 *画像は2010年クーラ演出・主演「サムソンとデリラ」の動画より

 

 

新型ウイルス感染の世界的な拡大のために、2020年の3月以降、世界各地の劇場が閉鎖されています。ホセ・クーラ主演、ライブ中継も予定されていた、3月末~4月のウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラも、残念なことにキャンセルされてしまいました。

クーラにとっても、2016年9月に西部の娘で出演して以来のウィーンは、とても楽しみにしていた公演だったと思います。ウィーン国立歌劇場の広報誌にも、クーラのインタビューが掲載されていました。今回はこのインタビューを紹介します。原文はドイツ語のようですが、クーラ自身が、フェイスブックで英文を紹介してくれました。

いつものように不十分な翻訳ですので、ぜひ原文、クーラの英文テキストをご参照ください。

 

 


 

 

●クーラのFBより

 

”ウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラのキャンセルで私たちが失ったものの中に、この国立歌劇場の広報誌「プロローグ」のために行ったインタビュー記事がある。読んで分析するために、私の元の英語テキストをここに。非常に徹底したインタビューであり、この素晴らしいオペラにたいするあなたのビジョンを広げるのに役立つことを願っている。”

 

 

 

 

≪危険なカクテル≫

『プロローグ』 2020年3月

 

 

 

 

KS(ウィーン宮廷歌手の称号)ホセ・クーラは、ウィーン国立歌劇場で多くの重要な役を演じてきた。有名な役柄だけでなく、珍しい演目の主役としても。「彼の」サムソンは、ウィーンではまだ登場していなかったが、3、4月にこのギャップは埋められる。

 

Q、なぜ、少数のオペラハウスだけが、サムソンとデリラをプログラムに入れている?

A、(ホセ・クーラ) 必要な声は別として、この作品はもともとはオラトリオ(宗教的な合唱曲など)として構想されたものであり、そのためペースが静的な面がある。そこから魅力的なショーを作るためには、非常にカリスマ的なアーティストを必要とする。さもなければ失敗のリスクは巨大だ。 プロダクションがどれほど壮大であっても、退屈が待ち構えている可能性がある…...もちろん、それらを一種の増強剤として使用し、よりダイナミックなものに到達するために必要な速度に追いつくことで、明らかに遅い瞬間の一部を引き出すことができる。火山の噴火のように。つまり「暗さ」を利用して「明るさ」を強化する。それが優れたディレクターの仕事だ。しかし、作品のスタイルに抗して、オラトリオからノンストップの「アクションムービー」を作成しようとするのは間違いだ。したがって、演者の舞台上での存在感は必須であり、それが制限にもなりうる。

 

Q、サン=サーンスは折衷的な作曲家だった? 彼の音楽の特徴は?

A、彼の作品カタログを考慮すると、彼の時代はかなり折衷的であったと言える。一般的に、彼の音楽はフレージングが「ゆったり」で、ハーモニーが「厚い」。全般においてこれら2つの効果的な組み合わせに依存している。マスネ―やビゼーと同時代に生き、19世紀のフランス音楽の主要なトリオの一部となったのは不思議ではない。

 

Q、評論家はかつて、「サン=サーンスの音楽からは、彼が親切だったのか、愛していたか、苦しんでいたか、わからない」と言ったが?

A、作品を分析してその作家の個性を説明しようとするのは危険な冒険だ。主にこれは、ファンタジーの本質そのものを破壊する危険を冒すことになる。

 

Q、歌手としてのあなたは、サムソンとダリラの何から刺激を受ける? 指揮者、作曲家としては?

A、歌手としては、ボーカルラインと私自身のインストゥルメントとの完璧なフィット感。声のリソースとの「フィット」について言及する際、これが何を意味しているか、歌手だけが完全に理解できる。自分が歌うと決めたあらゆる役柄の課題に対処することは、プロの歌手の仕事だが、私たちにとって本当に自分の肌の下にいると言えるのは、ほんの一握りの役柄だ。

指揮者としての最大の課題は、宗教音楽ならではのスローテンポに屈服しないようにすることだ。そうでないと、楽曲のゆったりした音楽は退屈になってしまう。また、正当な火花によって引き起こされた動揺の感情が、革命、裏切り、そして大虐殺に変わっていく、この作品の精神的なパッセージを伝えることも不可欠だ。

通常陥る罠の1つは、最後の合唱の音楽「Dagon serevèle」を陳腐なものとして扱うことだ。サン=サーンスがインスピレーションを使い果たし、すぐに作品を完成させて小切手に換金するためこの「安っぽい」パッセージを書いたのだと言って…。たぶん作曲家は、ダゴンの神をサムソンの神と比べて二次的なものにするために、意図的にダゴンの音楽を新鮮味がないようにしたのではないだろうか。

しかし、サムソンとダリラにとって、最大の課題は演出家だ。私は25年の間にこの役柄で数え切れないほどのプロダクションに参加した。そして、そのスタイルに関係なく、失敗したプロダクションは、作品の精神的な内容を否定し、基本的に信仰と宗教の対立の上に成り立っている作品に、他の「存在理由」を 投影しようとするものだった。このことは、他の種類の審美的な改作を拒否すべきという意味ではない。これは良い演出家にとっての特権だが、ただし最終的なスタイルの逸脱が、台本の内容から切り離されていない場合に限る。絵画の特定の側面を強調し、よりよい判断をする方法として、ダ・ヴィンチのジョコンダに光を当てることはありうるが、見栄えをよくしようと考えて、そのふくよかな顔に口ひげを塗る権限はない。

 

Q、このオペラは、歌手にとってどの程度、優しいといえる?

A、声も技術も持っていないなら、歌手に優しいオペラはない。そして逆もまた同様だ。

 

Q、オペラは暗い色のなかで生きている?

A、人間の相互の関係を含む作品は、暗い色合いを暗示する必要がある。その上に、セクシュアリティを宗教と混ぜ合わせると、非常に危険なカクテルになる。

しかし最大の問いの1つは、サムソンは最初の自爆的な「テロリスト」であったのだろうかということだ。つまり、彼の理由づけに関係なく、ストーリーの避けられない事実の1つは、サムソンが彼の力の回復を願ったのは、彼が教訓を学んで、新たに獲得した知恵でそれを使用するためではなく、敵を一挙に殺害できるようになるためだったということだ。

 

Q、なぜオペラはサムソンと呼ばれない?なぜダリラと同等?

A、なぜオペラはダリラと呼ばれない?

 いわゆる「ラブ・デュエット」(2重唱「あなたの声に私の心は開く」)は、愛についての場面ではなく、正反対のものだ。それが脚本のドラマチックな推進力の中心にある。第3幕のサムソンの独白においては、そのカタルシスとダリラのサディスティックな嘲笑が、罰のサイクルを完全に閉じるために不可欠な屈辱であり、双方の名前で作品を呼ぶことは必須だ。

私は、この「名前」の問題と、カーテンコールで発生する可能性のある競合に関して、とても感動的なエピソードを持っている。誰が最後に拍手を受けるのか、テノール(サムソン)か、メゾ・ソプラノ(デリラ)か? 私たちは女性の主役が最終のカーテンコールを受けることでこの問題を解決していたが、1998年にワシントンで偉大なデニス・グレイブスと一緒にこの作品を演じた際、私がいつものように、彼女の直前に、拍手を受けるため出ていこうとしたとき、彼女が問答無用のジェスチャーで私を止めて、こう言った。「今夜、あなたがやったことは、最後の人に値する」と。それ以来の私とデニスとの友情は別としても、オペラのタイトルに関して、このことは、少なくとも感情的には、議論がまだ開かれていることを示している。

 

Q、サムソンを特別にするものとは? サムソンは英雄か?彼は肉体的な能力より精神的な能力が低い?彼はアンチヒーロー?ダリラは彼より強い? 少なくとも賢いのか?

A、古代ギリシャの定義によると、英雄とは、個人の最高の資質を体現する人間であり、彼が住んでいる社会のためにその資質・能力を使う者である。誰もがヒーローになることができる。しかし、「スーパーヒーロー」とは、特別な能力によって一段上の人物であり、この意味で、サムソンからスーパーマンまで、歴史上の記録は同じ精神でアニメーション化されているーー正義のために使われる超物理的なパワー。サムソンが裁判官とされている(「旧約聖書」の裁判官の章が元になっている)のも不思議ではない…。

彼はアンチヒーローではない。アンチヒーローとは、「普通」と同義語なので、それは彼にとっては容易かっただろう。彼の過ちが普通に判断できないものであったのは、彼が普通ではなかったからだ。彼は物理的な意味において、失敗したスーパーヒーローだった。彼の民と彼の神にとっての深い精神的な幻滅という点で。ダリラは彼ほど強くはなかった。内面の信念のためではなく、彼女が金のために彼を裏切った瞬間以来。しかし、そう、彼女はもっと賢かった。一般的に、そして特に性的に盲目の男性を扱う場合、どの女性も、男性より賢いのではないだろうか?

 

Q、ダリラはサムソンを愛している?

A、ハート(感情)とマインド(理性)との間の闘い?最終的に勝つのは何だろうか? オペラが上手く終る可能性はほとんどないのでは? もちろん、エンディングをひねることは可能だが、それはまったく別の話だ。

この言葉の意味を探ろうとする時、個人の感情的な不安定さ、さらには政治的課題に合わせるために、それを歪める必要はない。旧約聖書『士師記』のサムソンの物語は、おそらく、官能の網とその姉であるセクシュアリティに屈服する危険性について教えるために、当時の宗教教育者によって教育目的で作成された寓話だ。男性と女性の間の本当の愛は、この寓話には何の関係もない。

 

Q、何がダリラをサムソンにとって興味を引くものにしている?彼女は禁断の果実だと?

A、サムソンの性格に不可欠な要素の1つは、つまり教育目的に必要という意味だが、彼の略奪的な性格だ。それは、肉体的強さの本来の目的を完全に誤解したことによって補強されている。

ヴェルディのオテロと同じで、オペラの台本にはシェイクスピアの第1幕が欠如しているため、原作の全文を研究しない限り、ドラマの展開上の線に危険な誤解を招いてしまう。サムソンとデリラでは、オペラが始まる前に起こったことについて全く触れられていないため、テキストを綿密に調べないと、サムソンの心理を理解するのが非常に難しくなる。

サムソンは強く、きまぐれで、望んだものを手に入れるため、常に戦闘の準備ができていた。彼は、ほとんどの場合、ありふれた理由によって敵対する者なら誰でも簡単に殺すことができた。彼が特に怒りを爆発させた日は、1日に1千人までも。また「ライオンの殺害」の逸話は、ギリシャ神話に見られるように、彼の地位を半神に昇格させるために必要なものであり、彼のエゴがいかに制御不能であったかを我々が理解するうえで重要だ。

ダリラが、大祭司の愛人でもあったことは言うまでもない。それは、サムソンが彼女を欲しがった理由、明白な肉体的な魅力とは別に、その理由を非常に興味深いものにしている。彼女は魅惑的なトロフィーだったのだ。望んだものを得るために、サムソンに性的な力を使うようにダリラに頼むのは、司祭自身だ。この世界で新しいことは何もない。特にショービジネスにおいて。そこは、セックスとパワーが依然として非常に複雑に関連しているところだ。

プロローグ』 2020年3月

 

 

 

 


 

サムソンとデリラのキャラクターとオペラに対するクーラの解釈、なかなか読み応えのある記事だったと思います。

クーラは、オテロでも、このサムソンでも、またトゥーランドットや蝶々夫人、カルメンなど、有名で人気のあるオペラに関しても、つねに一般的な解釈にとどまることなく、原作やそれ以前の物語にさかのぼり、また周辺の歴史的事実なども綿密に調べ、キャラクターとドラマの解釈を掘りすすめ、探求する姿勢をつらぬいてきました。特に、現代の視点で、社会的な観点を踏まえ、合理的で、現代に生きる解釈をめざすという点では、クーラの姿勢には非常に共感できると思っています。とりわけ、歌手、出演者、指揮者、作曲家、演出家として、それぞれの経験を積んできていることから、非常に専門的な蓄積を持ちながら、決して難解にはしないで、誰もがわかりやすい形で問題提起してくれていると思います。

このブログでも、そういうクーラの姿勢と解釈をこれまでも紹介してきましたので、ぜひ興味のお持ちの方にお読みいただければうれしいです。

クーラの久しぶりのウィーン出演、そしてライブビューイングによる鑑賞が幻となったことは、非常に残念でした。とはいえ、この世界的なコロナ禍のなか、いつ劇場の再開が可能なのか、まだまだ見通せない状況が続いているもとでは、とにかくアーティストと劇場関係者、オケ、合唱団などの文化・芸術の支え手の方々が、健康で、生計を維持しつつ、この時期を無事に乗り越えてくださることを願うばかりです。先進的な支援策をとっている国にならって、文化政策として、思い切った助成をしていただきたいと思います。また音楽ファンのひとりとして、できることがあれば何らかの形で応援したいと思います。

最後に、一番最近のクーラのサムソンの動画である、2018年5月、ロシアのマリインスキー劇場での舞台を、劇場の公式チャンネルのリンクで紹介します。

 

 

●2018年5月、ロシア・マリインスキー劇場でのオリガ・ボロディナとのサムソンとデリラ(コンサート形式・全編動画)

 

 

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(告知編) 2020年 ホセ・クーラ ウィーンでサムソンとデリラに出演

2019-04-04 | オペラの舞台ーサムソンとデリラ

※2020年3月21日追加

大変残念なことになりました。欧州でも急速に拡大する感染症への対策のため、ウィーン国立歌劇場は、公演キャンセルを延長し、4月13日までとすることを公表しました。これによって、4月4日のクーラのサムソンのライブ放送もキャンセルになります。

 

※2020年3月10日追加

なんと、新型コロナウイルス対策のため、ウィーン国立歌劇場は3月末までの全公演をキャンセルという情報が入ってきました。オーストリア政府が屋内では100人以上のイベント中止を求めたことによるそうです。4月から再開されるのかどうか、4月4日のクーラのサムソンのライブ放送がどうなるのか、今後の推移によると思われますか、早く事態が改善されることを願うばかりです。

 

 ※  ※  ※  ※  ※

 

ホセ・クーラが、来年2020年の3~4月、ウィーン国立歌劇場でサン=サーンスの「サムソンとデリラ」に出演することが、劇場の2019/20シーズンプログラム発表でわかりました。

クーラのウィーンへの出演は、2016年12月のプッチーニ「西部の娘」以来、3年半ぶりです。1996年にトスカのカヴァラドッシでハウスデビューしてから、20年間、ほぼ毎年のようにウィーン国立歌劇場に出演し、KS(宮廷歌手)の称号も得ています。

 → クーラのウィーンデビューから20年の歩みは以前の記事で紹介しています。

久しぶりのウィーン出演、サムソンはクーラの18番というべき役柄のひとつですが、手元の記録では、ウィーンでは、このサムソンに出演したことがないように思います。間違いかもしれませんが、もしそうなら、ウィーンでのロールデビューになります。クーラのサムソンのオペラ出演は、2018年5月のサンクトペテルブルク以来。トップの画像は、その時のコンサート形式の舞台中継からのものです。

そして本当に嬉しいことに、このサムソンもライブ・ストリーミングが予定されています!楽しみです。

 

 

 

 

≪日程・キャスト≫

Camille Saint-Saëns
SAMSON ET DALILA
CONDUCTOR Frédéric Chaslin

DIRECTOR Alexandra Liedtke
SET DESIGN Raimund Orfeo Voigt
COSTUMES Su Bühler
CHOREOGRAPHY Lukas Gaudernak
LIGHTING Gerrit Jurda

Dalila Anita Rachvelishvili
Samson José Cura
Oberpriester des Dagon Clemens Unterreiner
Abimélech Sorin Coliban

 

2020年3月29日、4月1日、4日、7日

  • サムソン:ホセ・クーラ  
  • デリラ:アニタ・ラチヴェリシュヴィリ    
  • 指揮:フレデリック・シャスラン

アニタ・ラチヴェリシュヴィリは、黒海に面したジョージア出身34歳のメゾソプラノ。クーラとは、ベルリンのカルメンで共演したことがあります。指揮者のフレデリック・シャスラン氏はフランス出身、新国立劇場には何回も登場したことがあるようです。

このプロダクションは、昨年2018年、サムソンをロベルト・アラーニャ、デリラをエリーナ・ガランチャで初演されたようです。クーラとアラーニャ、ラチヴェリシュヴィリとガランチャとでは、個性も雰囲気も、正反対といっていいほど違い、観客の好みも分かれるところだと思います。パワーと迫力では圧倒的な、このクーラ、ラチヴェリシュヴィリの2人、どんな舞台になるでしょうか。

 

――ウィーン国立歌劇場2019/20シーズンプログラム(PDF)より。画像をクリックするとプログラム全体にリンクしています。

 

 

≪ライブストリーミングの予定≫

 

ライブ・ストリーミングは、2020年4月4日の公演です。事前に登録して1公演だと14ユーロのチケット購入が必要です。もちろんウィーンとは時差がありますが、あらかじめ自分の見やすい時間帯を指定して視聴できます。

私は、前回クーラのストリーミングがあった2016年の西部の娘の際に、初めて登録して視聴しましたが、スムーズに、比較的良い画質で観ることができました。

 → 2016年ウィーン「西部の娘」ライブ中継についてのブログ記事

 → 初めての方は、劇場のライブストリーミング説明ページを(日本語)

 

 

≪ホセ・クーラのサムソン≫

クーラは1996年にサムソンでロールデビューしていますが、その後、世界各地で歌うとともに、2010年にはドイツ・カールスルーエで、クーラが演出・舞台デザインを行い、主演したプロダクションを大きく成功させています。DVDにもなりました。

その作品に関して、クーラが作品解釈を語ったインタビューや動画などを以前の記事で紹介しています。

 

ーーいくつかクーラの言葉を

●セックスと権力、宗教の名による殺りく

セックスと権力との関係は、このオペラの心理的な構造だ。サムソンは全男性と同様に、本能に従い、動物のように行動する。これが全体を非常に普遍的にしている。彼がなんらかの内省を示す唯一の場所は、第3幕冒頭のアリアだけだ。

サムソンは内省するが、しかし回復した後、再び強くなる。そして彼は、自分が神の代理として行動していることを信じて、他の人々を殺す。この点において、世界は、残念ながら今日も何ら変わっていない。

●強欲さと富への渇望の象徴
演出にあたって、私は放棄された油田のキャンプに全体の舞台を置いた。現在は留置施設として使用されている。オイルは強欲さと富への渇望を示す。これらは現実に、民族間の紛争の背後にあるものだ。人々は特定せずに、単に2つの民族としてのみ示した。

●子どもたちに希望を
課題はメッセージをもたらすことだ。神の名による殺人――特定の宗教に関わりなく、野蛮な時代錯誤だ。
私は子どもたちに、愛と希望のメッセージを託す。紛争に関与する2つの民族の子どもたち。彼らは、民族や宗教に関係なく、一緒に遊び、そして友人を守る。

 

――サンクトペテルブルクのサムソン

2018年、コンサート形式ですが、サンクトペテルブルクでオリガ・ボロディナと出演したサムソンの舞台を。ありがたいことに劇場の公式チャンネルに全編がアップされています。現在も視聴可能です。

 


 

久しぶりのウィーン国立歌劇場への出演、そしてライブ・ストリーミング、とても楽しみです。

サンクトペテルブルクでクーラのサムソンを鑑賞した記事にも書きましたが、クーラの声は年々重くなっています。現在、56歳、このライブ放送の頃には57歳になっているわけですから、若い頃に比べれば、やはり体力も声のコンディションが変化していくのは当然だと思います。

しかしマリインスキー劇場で生のクーラのサムソンを鑑賞した実感としては、この物語において、神から授けられた巨大な力をもつサムソンの、そのカリスマ性、エネルギー、存在感を存分に表現できるのは、まさにクーラだ、と思います。コンサート形式だったにもかかわらず、クーラが登場しただけで舞台上の空気が一変したように感じました。

もちろん他にも、多くの歌手がサムソンを歌っていますし、より滑らかな歌唱、美しい歌唱、きれいな声という点では、他にたくさんの選択肢があるでしょう。しかし、サムソンのキャラクターを舞台上に再現し、その圧倒的なパワーとエネルギーを感じさせるという点では、クーラは過去も現在も、抜きんでた存在だと確信しています。

ぜひ多くの方がライブストリーミングをご視聴いただけるとありがたいです。また、もし現地でご鑑賞されましたら、ご感想など教えていただければうれしいです。キャンセルなく、良いコンディションを保ってくれることを願っています。

 

 

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(DVD編)2015年 北京・国家大劇院にデビュー サムソンとデリラ Jose Cura / Samson Et Dalila / Beijing

2017-11-01 | オペラの舞台ーサムソンとデリラ




2015年の9月に、ホセ・クーラは中国の北京国家大劇院のサムソンとデリラに出演し、劇場デビューしました。この時のインタビューや舞台の画像などは、以前の投稿にまとめました。 → 2015年 北京・国家大劇院にデビュー サムソンとデリラ

ところで、この時の舞台映像がDVDになっているらしいことが、ファンサイトの情報でわかりました。 Thank you Nicky!!
ネットで販売していないかどうか調べてみたのですが、私が見た範囲では、入手するには北京国家大劇院内の売店に行くしかないようなのです。大劇院はNCPA classicsというレーベルで、公演のDVDを沢山リリースしているようなのですが、そのほとんどは売店でのみ販売しているみたいです。

FBを通じて問い合わせしてみましたが、現在のところ返答はまだありません。 
 → 11/2返信がありました!担当者から回答するよう手配してくれるそうです。親切でありがたいです。入手可能であるよう願います。
もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。



さてDVDですが、なんと2種類、公演自体のもの(2017年6月リリース)と、メイキングビデオ(同年7月)があることがわかりました。
下のDVDの画像をクリックすると、中国語の紹介ページにリンクしています。


こちらは公演のもの。サムソンとデリラは中国語では"参孙与达丽拉"、ホセ・クーラは"何塞·库拉"となるようです。




こちらがメイキングビデオの方です。




このプロダクションは、北京国家大劇院とイタリアのトリノ王立歌劇場との共同制作で、2015年9月に北京で初演、その後、トリノでもグレゴリー・クンデのサムソンで2016年11月に上演されています。
演出は、クーラと同郷のウーゴ・デ・アナ。巨大な大劇院にふさわしく、非常に大掛かりで、メタリックに輝く抽象的なセット、スペクタル的な舞台だったようです。

大劇院の合唱はとても迫力があったようで、クーラも高く評価して、ぜひ大劇院で今度は演出をしてみたいと語っていました。


 

 

 

 


こちらは中国でアップされたらしい動画の一部を。サムソンが目をつぶされ、石うすに縛り付けられて後悔の念を歌うアリアです。

Samson et Dalila (Camille Saint-Saëns) Act3 "Vois ma misère, hélas!"
Jose Cura (Samson) Beijing 2015








*画像は劇場サイトや報道などからお借りしました。
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2015年 北京・国家大劇院にデビュー サムソンとデリラ Jose Cura / Samson Et Dalila / Beijing

2016-05-14 | オペラの舞台ーサムソンとデリラ


2015年9月9、11、13日、ホセ・クーラは、中国の北京にある国家大劇院の新制作サンサーンスの「サムソンとデリラ」に出演しました。トリノ歌劇場との共同制作だそうです。
国家大劇院は3年前から、サムソンとデリラの新制作のためにクーラを招待、これが北京でのクーラのデビューとなりました。これ以前に中国では、2007年、上海でプッチーニの「トゥーランドット」のカラフで出演しています。

それにしても中国だけあって、国家大劇院のすごいスケールとロケーションには驚かされます。


  

指揮ジャン=イヴ・オッソンス 、演出・セット・衣装はクーラと同じアルゼンチン出身のウーゴ・デ・アナ。デ・アナ演出のオペラにはクーラは何回も出演しています。96年の(びっくり白塗りの)イリスとか、99年スカラ座の運命の力など。豪華で緻密、美しい舞台・衣装で定評があります。
キャストはダブルキャストでした。
Samson=Jose Cura / Mario Zhang 
Dalila=Nadia Krasteva / Oksana Volkova
指揮 Jean-Yves Ossonce


リハーサルや本番の舞台の写真が劇場のHPやFBに掲載されました。とても幻想的な雰囲気の舞台です。残念ながら、映像や録音はありません。大劇院がDVDで発売してくれることを願いたいです。
初日を2日後にひかえた9月7日に、クーラの記者会見が行われました。サムソンの解釈、北京の印象、プロダクションの評価などに加えて、これまでの自分のキャリアなどについても語っています。この会見と、現地の新聞に掲載されたインタビューなどから、主な内容を紹介します。
また後半の、自分の声についての話は、他のインタビューではあまり読んだことがない内容です。自身の声に対する批判にこたえたかのような、興味深い内容です。



●大劇院 次は演出家として仕事をしたい
指揮者のJean-Yves Ossonceとは初めての共演だが、良いスタートになっている。中国国家大劇院のコーラスの破壊力は称賛すべきものだ。大劇院と合唱団のチームは非常に有望だ。私は演出・監督として、北京で彼らと仕事ができることをつよく願う。彼らに一緒にいる時、私はとても強い力が出るし、また彼らも同様に火山のようにエネルギーが爆発する。キャリアの多くでオペラを歌い、その後、演出、監督をした。それによってアイデンティティの変化はないが、互いを補完し、自分のキャリアをより完全にしている。チームでやるのが好きなので、監督でありたい。

●北京の印象
街で買い物をした時、北京の人々はとても友好的だった。私は背が高くて体が大きく、さらにひげ面なので、人々はまるで彫像を見るかのよう私に注目した。私はまた劇場でも、北京の観客に驚きを与えたい。
中国に来てショックを受けた。他の国では、オペラの観客の年齢はほとんどが60歳以上だ。しかし中国では、オペラに来るほとんどが若い人たちだ。私は彼らの反応を楽しみにしている。



●サムソンは現代社会への警告
サムソンとデリラのこの物語は、現代世界に警告している。神の名において悪を行うべきではないこと、そして人々は、神の名において憎しみ合うのではなく、ただ愛しあうべきだということを。

演出ウーゴ・デ・アナとは、同じアルゼンチン出身の20年来の友人。しかしサムソンの解釈で完全に同意しているわけではない。舞台では私は演出家のサムソンとして行動する。正確には私の考えるサムソンとは違う。

サムソンは自爆テロリストの歴史の1つといえる。最後のシーンで、彼によって神殿が崩壊し、多くの人びとが一緒に押しつぶされ、神に復元された。だから私の理解では、サムソンは負のヒーローだ。

この物語は、歴史的にも、近代的にも深遠な意味を持つ。神の名によってこのような悪事を行う、それは今日もたくさんある。オペラは私たちに、神の名の下、愛だけがあり、憎しみを持つべきでないことを伝えている。

ダリラはサムソンをテストするために利用されている。3500年前の人々は、性的に魅せられるのは大罪だと信じた。若者が美しさに魅了されないよう教育するために。今この物語はより説得力があるかもしれない。



●少年時代の夢は指揮者とラグビー選手 ゆっくりとオペラに恋におちた
1994年、ドミンゴの声楽コンクール、オペラリアに優勝した。これでキャリアを開いたといわれるが、実際は、人々が考えるような師弟関係というよりも、同僚としての協力関係だ。

少年時代の夢は、1つは指揮者、もう1つはラグビー選手だった。オペラへの興味は遅く、声楽は21歳から学びはじめた。テノールはラッキーヒットだった。

声楽を学び始めた時、よいトレーニング方法を見つけることができず、ほとんど声を台無しにしてしまった。一時断念したが、才能を認め、歌い続けるべきだというまわりの声におされ、26歳で、再び声楽を学びはじめた。
ゆっくりとオペラに恋におちた。人生は常に、前へ、私たちをおしすすめている。歌の教師、オラシオ・アマウリに感謝している。彼とともに、基本的なスキルを開発し、歌う楽しさを知った。

コンテストに勝利した後、「良い歌手」になることが焦点だ。ゲームは単に豪華な人工の花火。光が消え、全てが落ち着いた時、人々がまだあなたを認めるなら、あなたが重要で尊敬されるアーティストであることが証明される。



●ヴェルディのテノールとは (サムソンはヴェルディのオペラではありませんが、インタビューで質問が出たようです)
誰であれ、ヴェルディの描いたテノールの役割に完全に対処することはできない。同様に、ヴェルディのアリアが、すべて同じ声で歌われることを期待することはできない。

単にヴェルディのスコアに従うのでなく、常に、キャラクター間の解釈と精神を形づくる方法を見つけようとしてきた。そして、なぜヴェルディが「盲目でなく、知恵に依存して伝統に従う必要がある」と述べたのか、自問自答する。



●オペラと現代、商業主義、芸術と未来
オペラが過ぎ去った過去の遺産であると思ったことはない。その代わりに、オペラを現代に近づけよう。近代的な心理的、社会的な分析にもとづいて、劇的なキャラクターを創造することが不可欠だ。現代の観客の理解に沿って。
現代の背後にある物語を無視してはならない。現代的な意味でのオペラを探求しなければならない。これは、オペラの未来だ。

私は商業主義の製品になりたくない。必要なのは芸術と尊敬だ。10年前、オペラの演出を始めた。指揮、作曲に加え、フィールドの開発を続ける。舞台セット、振付、衣装デザイン、照明‥。声の維持のために、歌は年50日以内に限定している。



●すべてをするために唯一の方法はハードワーク
私の人生は、仕事、勉強、研究だ。すべてを行うための唯一の方法がハードワーク。誰もが眠っているときも働いている。休暇の時は、私は自宅で、新しいオペラのプロダクションのための準備をしている。

初めて指揮をしたのは15歳、中学生の時だった。毎朝5時に起きて、音楽を学んでから登校した。何かをしたい時には、それが可能なものだ。指揮と作曲を専攻、フルート、ドラム等、多くの楽器を学んだ。義務として声楽も学び、合唱団で歌った。

どれかひとつを選ぶなら、間違いなく、指揮者としてのアイデンティティを好む。子ども時代の夢は、指揮者か作曲家。しかし40年前、南米で若い指揮者がキャリアを開くのは困難だった。最終的にテノールとして世に知られるとは思わなかった。もちろん現代は、若い人たちにとって、指揮者への道に乗り出すには、さらに、非常に困難な時代だ。



●人生は短すぎる
(多面的な音楽活動に加えて)自分の家を建てることはできないが、家の内部は全て私自身の手でやった。子供の頃は、野球やラグビー選手になることも考えた。フィットネスを愛し、カンフーや空手を学んだ。25年前は、今より体重は25キロ少なかった。

人生は短すぎる。退屈する暇はない。表面的な事に人生を費やすのは無駄だ。中年の時間は非常に速いペースで走る。限られた時間、できるだけ知識やスキルを得て、人生をより豊かにしたいと願う。テレビの前で過ごす人生はありえない。

家ではオペラは聞かない。オペラは私の職業だ。家では沈黙を好む。カーペンターズは一番好きな歌手。音楽の話というより、カレンの声。彼女のピュアなサウンドと音色は、特に暖かく、ユニークだ。



●自分の声について
30年のキャリアを経た今、若く新鮮で美しい声を持っているとはいえない。劇場での私の歌は完璧ではない。しかし私のエネルギー、強さとカリスマを聞くことができる。年を経て、これはアーティストとして重要なことだ。

オペラにおいて、私の声は、様々な情報が統合されて含まれている。音は材料であり、その材料を利用して、私は、人々の心の中に別のものをつくりだすことができる。人々は、声にそうした様々な要素を含まない人の歌を聞いた時に、それが完璧だと感じる。しかし、それは私たちに必要な情報を伝えていないのだ。

時には、私たちは表面上において、完璧ではない。しかし、その人のキャラクターの個性や人格の特性は、あなたに深い影響を与えるだろう。そしてあなたは、この人が美しいことを知る。音も同じ理由だ。ある人がとても良い音だとしても、もし良いキャラクターと魅力的な個性をつくりだすことができないならば、意味がない。

専門家は私の公演を聞き、完璧でないと言うだろう。しかしあなたは、ステージで私のエネルギーを聞くことができる。強さとカリスマが公演の私の声にある。これがアーティストとしての私の最も重要なポイントだ。

●一番の栄光
私の栄誉は私の家族だ。15歳から知っている今の妻と、私たちは3人の子どもをもっている。それが私の最大の栄光だ。



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北京大劇院のサムソンは、SF風大スペクタクルのようでしたが、会見で本人も述べているように、クーラ自身のこのオペラの解釈は、社会的批判的視野をもつものです。石油利権、富と権力、愛と策略、対立と希望を描いた、クーラ演出のカールスルーエの作品はDVDにもなっています。
以前の投稿で紹介しています。動画もあります → 2010年 カールスルーエのサムソンとデリラ

初日の報道は、「世界的に有名なテノール歌手、ホセ・クーラのサムソンのパフォーマンスが特に目を引いた。彼の偉大な劇的緊張の完全な栄光の声...」「衝撃のデビュー、ヘラクレスの完璧な解釈」「クーラのサムソンは『神』だった」「北京デビューに観客熱狂」など、絶賛しているものが多かったようです。ネット上の観客の声に「なじみのないこの演目が、ホセ・クーラの解釈によって、観る価値あるものとなった」というのもありました。北京デビューは大成功といえるようです。次回は、クーラの希望では演出・監督として・・ということですが、できればまだまだ歌手としても出演して、さらにあと一歩、日本まで足をのばしてほしいと切に願います。

クーラのFBに掲載された、サムソンで共演した子役ユー君との写真。ユー君は自筆の書(達筆でビックリ!)をクーラにプレゼント。「芸、人間性共に優れる」の意。
「すべての愛と感謝の気持ちを、賢く強いリトル・ユーに!」とクーラはコメントを添えていました。


                                   

ポスターとHP用バナー
 





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