人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2016年ホセ・クーラ インタビュー (1) キャリアについて、ネット、クラシック音楽の未来、若い世代に / Jose Cura interview in Gyor

2016-06-28 | 芸術・人生・社会について①


2016年4月23日、シェークスピア没後400年の記念日に、ハンガリーのジュールで、ジュールフィルハーモニー管弦楽団とともに、ヴェルディのオテロを指揮しました。
その際に、ハンガリーで記者会見やインタビューに応じて、オテロについて、自分のキャリア、指揮者として、携帯電話などの問題、クラシック音楽の未来について、そして若い世代へのメッセージなど、さまざまな話題で語っています。いくつかの記事からまとめて訳してみました。長くなったので、(1)(2)の2回に分けて掲載します。 
ハンガリー語からなので、いつものように、誤訳直訳、さまざまな問題があると思いますが、大意をくみとっていただいて、どうかご容赦ください。

なお、クーラが指揮したオテロのコンサートそのものについては、すでに2回の投稿で紹介しています。ユニークなリハーサルなどを収録したニュース動画なども紹介してます。
  2016 オテロを指揮 ジュールフィル (本番編)   (告知編)
 


●2015年のジュールでのコンサートについて
Q、あなたは昨年の公演が愛の夜のようだったと語った。指揮者として今回の共同に何を期待する?

*2015年5月のコンサートは、別の投稿で紹介しています ↓ 
 ホセ・クーラ & ロスト・アンドレア コンサート / Rost Andrea & Jose Cura in Gyor

昨年のコンサートは、ジュール・フィルハーモニー管弦楽団との非常に重要、かつ自発的な“communion”(ラテン語「相互感応」=魂の交流というような意味か)だった。それは考えるほど簡単なことではない。両当事者のプロフェッショナリズムと協力に依存する。

オテロと比較して、アリーナでの昨年のコンサートは、観客が吸収するうえでは、はるかに簡単な経験だった。そして、それは大成功し、爆発した。

私は指揮者として、歌手である時と比べて、全く異なる音楽の感触を得る。私は今、歌手として一緒に活動した時と比べて、まったく異なるオーケストラを感じる。私は発見し、多くの新しいものを感じる。作品の現代性とメッセージ、それが私にとって非常に重要だ。そして、私はそれが多くの人に達するだろうと信じている。

Q、昨年のセッション以降の変化は?

たくさんのことがある。おそらく最も重要なのは、私は、より年をとり、正確に言うなら、私は成熟している。私は、自分の場所をもち、私の存在、限界、知識、そして私の不足しているところを認識している。これは非常に心強いことだ。

30年間続けてきた仕事はいま成熟している。そして、それは無駄にはならなかった。これは自分自身のための確認だ。

しかし私は、はるかに感情的になってきている。私は私の国と私と私の家族の存在を必要としている。これまで、私は、自分の目標を達成するために、それらなしで多くの時間を費やしたので。



●長年テノールとして歌ってきたオテロを指揮
Q、指揮者から歌手へ、そして指揮者として?

初めて15歳で指揮者デビューした。もともと作曲と指揮が専門だったが、27歳の時に、歌手としてのキャリアを始めた。その時は、1999年まで、指揮台に復帰する計画はなかった。

当時のアルゼンチンは、ちょうど軍事独裁政権の恐怖から回復し始めていて、若い民主主義の時代だった。その頃の困難な経済状況では、指揮者や作曲家としての仕事を見つけることはほぼ絶望的だった。

しかし声があった。合唱団で歌い始め、慎重にソリストとしての活動を開始した。28歳で家族と一緒に渡欧した。スペインやイタリアで合唱団でも、と考えた。しかし居住許可がないと合唱団では採用されなかった。

この規則はソリストには適用されなかった。だから声を聴いてくれるエージェントを探した。最初に小さな役、その後、突然爆発した。すぐ主要な役。突然、正面に押しだされた。まだ私は準備ができていなかった。

作曲と指揮をわきに置いて、私は仕事をしなければならなかった。しかし運命はやはり運命だった。1998年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのレコーディングセッションの間のことだった。

コンサートマスターが「あなたは天性の指揮者だ。必ずいつかこの仕事に戻ってくるだろう」と私に言った。そして、彼は私にバトンを手渡した。これはお世辞だったとしても、とても経験のあるミュージシャンの言葉だった。そして一年後、私は慎重に、再び指揮を始めた。

2000年にワルシャワのコンサートの後、メニューインによって創立されたオーケストラから客演指揮者として招かれた。そしてそれが私が指揮台に戻り、再び動きだした経過のすべてだ。そこには本当に計画はなく、まだ美しいアクシデントでしかなかった。しかしこれは将来につながる可能性があった。声は永遠に続かない。私が歌をやめた時、フルタイムの指揮者になることを願っている。



Q、指揮者のアプローチは?

それぞれの歌手の独自のアプローチを尊重しながら、人間的な経験における大きな違いを、すべての歌手に伝えることができる。今回、私は、彼らが望むように、私にできる限りの多くのことを与えたいと思う。

私自身の解釈を押しつけたクローンは必要ない。私が経験し、動作することを知っているものを提供する。少なくとも、描いた理論ではなく、実際に自分の肌で感じ取ったことを実行しようとしていると感じるだろう。

このオテロで、 全体において、私が求めてきたドラマや音楽の解釈に焦点を当てることを実現したい。歌手は、基本的に指揮者に適応する。問題はない。それはプロフェッショナリズムだ。

Q、キャリアのうえで、オテロはあなたにとって何を意味する?

私が歌い始めた時、もちろん、他のテノールの役柄と同様、オテロを歌うことを願っていた。しかしこれほどの緊密な関係になるとは考えたことがなかった。オテロは私にとって、もはや単なる役柄ではない。もっとそれ以上の、「仲間」だ。
私は20年間、彼と一緒に働いてきたし、すべての役柄をはるかに超えて、それは本当のパートナーシップだ。

もちろん、オテロはネガティブなキャラクターであるため、難しい面がある。特に、連日、彼とともに働いている時、明確なラインを引くことなしに、自分の人生のなかで彼を見出そうとすることだ。私は単なる役柄であることを自分自身に明確にし、可能な限り自分から切り離そうとしている。

そしてそれはうまくいっている。トラブルに巻き込まれやすい人物として彼を識別しようとしている。自分自身を他者に近づけることを可能にする微妙なバランス、しかし決して一線を超えないように注意深くなければならない。



●クラシック音楽の未来
Q、作曲家として、あなたはクラシック音楽の未来をどう考えている?すべてが書かれている。新しいものを創りだすことは可能だろうか?

モーツァルトは、バッハの後、誰も新しい音楽を書くことはできないと述べた。自分自身を含めて。そして、いま我々は、モーツァルトについて話す。これは非常に古い問題だ。

ある意味では、偉大な天才たちは、音楽の未来を”台無し”にした。または危機にさらしたともいえる。

バッハの「フーガの技法」の中の記念碑的作品のいくつかにおいては、音符のハーモニックな組み合わせの結果が、 多くのシェーンベルクの作品よりも、より大胆で、さらに「前衛的」であることを暗示している。

だが大丈夫だ。我々は何をするのか?将来は? ただ一つの選択肢がある。芸術全体にとっての唯一の可能性と真実は、知的な誠実さだ。

残念ながら、今日、クリエイターのほとんどは、誠実(正直)であるためにたたかおうとせず、聴衆と異なろうとする。したがって、結果として彼らは無関心になった。

現代音楽が風変わりであることは問題ではない。多くの天才は、仲間から変わり者と思われていた。しかし作曲家が心から書いた時、その難易度に関わらず、彼の感情が伝わってきて、私たちは彼の心を理解する。

作曲家が、他と異なるためだけに書いたとき(新しさだけを求めてという意味か?)、このようなノートは心には届かない。ここに境界線がある。


→ 後半 につづきます。



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