人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ 音楽への道 The journey into music / Jose Cura

2016-04-03 | 芸術・人生・社会について①



ホセ・クーラは、音楽好きだがごく普通の家庭に生まれ、子どものころはラグビーに夢中だったそうです。12歳からギターを学び、指揮者・作曲家をめざしていた青年時代。そして彼を世界的なキャリアに導いたのは、テノール歌手としてでした。
クーラが、どんな風にして音楽への道を歩んでいったのか、いくつかのインタビューから抜粋してみました。





●音楽好きの両親のもとで
ホセ・クーラは、1962年12月5日、アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオで誕生しました。
 → 参考 年表風にまとめたものです 「ホセ・クーラ 略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」

母方の祖父母はイタリアとスペイン出身の移民、父方の祖父母はレバノン出身で、父方の祖父は、貧困の中で生まれましたが後に金属産業で成功し、ロサリオの社会に大きく貢献した人だそうです。

クーラの父は会計士、母は主婦。両親とも音楽好きで、シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ベートーベン、モーツァルト、ビリー・ホリデイやサラ・ヴォーンなど、全ての種類の音楽を聴いて育ちました。
毎晩、父とピアノの前に座り、父がホセにピアノを弾いてくれて、音楽を楽しんだそうです。母は、音楽にはポップとクラシックの区別などはなく、良い音楽と悪い音楽があるだけだということを教えてくれたとクーラは語っています。



●作曲、指揮を学ぶ
12歳の時に、最初の歌声とギターのレッスンを受け、15歳でロサリオの合唱コンサートで指揮者デビューしました。その頃、作曲を始めています。それは全く自発的に、自分自身で音楽を楽しむためだったそうです。

1982年にアルゼンチンの国立ロザリオ芸術大学で、指揮と作曲を本格的に学び始めました。大学の合唱団の副指揮者として、合唱指揮も続けました。
そんな時、学長から、歌唱の研究をするように奨励されたのだそうです。クーラが作曲家・指揮者志望であると知ったうえで、「歌を勉強すると、優れた作曲家と指揮者になるだろう」と。

20歳の頃のクーラの声は、まだ自然の状態で、とてもうるさかったそうです。最初の声楽の教師が、西部の娘やトゥーランドットなどの間違ったレパートリーを強制したために、声を痛めてしまいました。「歌がこんな苦しみなら、もう歌いたくない」と考えるまでに追いつめられました。



●転機~アマウリとの出会い
22歳の時に、15歳から付き合っているシルヴィアさんと結婚。指揮者・作曲家をめざしつつも、生活のために、午前中にボディービルのインストラクターとしてジムで働き、午後は食料品店で仕事。夕方はテアトロ・コロンのコーラスで活動して収入を得ていました。

25歳、学校や博物館で行われるローカルオペラグループの音楽監督に招かれました。ある公演でテナーがキャンセル、やむなく代理で「星は光りぬ」を歌います。それを聞いた声楽家が、彼の先生、オラシオ・アマウリをクーラに紹介しました。

オラシオ・アマウリは、クーラの声を聞き、「あなたのような声は30年か40年に1人しかいない」と言い、お金のないクーラに、無料でレッスンを与えることを申し出てくれたそうです。
その後2年間、ほぼ毎日、マエストロ・アマウリとともに歌唱技術の基礎を開発しました。

 

●ヨーロッパへ
オーディションなども受けたものの、アルゼンチンでは認められず、将来の希望を託して、1991年、ブエノスアイレスのアパートを売って渡航費にし、母方の祖先の地イタリアに渡ります。妻シルヴィアさん、そして長男ベンとともに。

イタリアで仕事を探していくつか事務所を回ったものの、誰からも評価を得られませんでした。渡欧後1月でお金は尽き、一度は故郷に戻る決意を固めます。
失意のなか、帰郷の準備中、テアトロ・コロンの教師からもらった連絡先のメモを見つけます。テノールのフェルナンド・バンデラ、最後にその電話番号にかけ、ミラノで会う約束をしました。ミラノの街に着いたのは4月で、雨が降っていたそうです。

バンデラはスタジオにクーラを招待し、クーラの歌を聞き、こう言ったそうです。「ブラボー、あなたは重要な声をしている」。アルゼンチンに帰国する予定だと言うと、「どこにも行ってはならない」といい、初めてのエージェントを紹介してくれました。そして彼は、ヴィットリオ・テラノバに電話をします。「ここに声がある」と。



●転機~テラノバとともに
当時のクーラの声は、まだ大きなノイズにすぎず、プロのスタイルではなかったそうです。テラノバは、故郷のアマウリと同じく、財政的に苦しいクーラに、無償のレッスンを与えてくれました。彼とともに現在のようなクーラの声を開発していきました。
「私の声はまだ開発が必要だった。歌の先生を紹介してくれた。ヴィットリオ・テラノバ――彼は1991年から1992年半ばまで、私に無料でレッスンしてくれた。私に力を与えてくれた本当に寛大な行為だった。」

2015年ミラノにて。スカラ座で「カルメン」に出演時。




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クーラにとって、偶然のアクシデントといえるテノールへの道。しかし彼の才能を見抜いた、多くの先達の無償の支援が、それを支えてくれたのでした。
テラノバとのレッスンによって、今にいたる強靭で独特の魅力のある声をつくったクーラ、その後、1993年にオペラの主要な役でデビュー、1994年にドミンゴ主宰のオペラリアで優勝し、世界的に活躍の場を広げていきました。
さらに近年、本来の志望である指揮、作曲の活動を再開し、多面的な音楽活動をすすめています。

歌手として、また本来の志望である作曲家、指揮者として、さらに演出家として、ホセ・クーラの音楽の道、芸術家としての道はまだまだ続きます。

最後に、クーラ自身が始めた動画サイト「Jose Cura TV」にアップされた1991年7月の動画を。
渡欧した年、ヨーロッパでの初めてのコンサートでの「誰も寝てはならぬ」です。テラノバとのレッスンを始めたばかりのころでしょうか。若々しい声、いろんな面でこれからの時を映した貴重な動画です。指揮はマルコ・アルミニアート。2人はこの頃からの友人なんですね。

→ 「Jose Cura TV」



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