人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求 / Stardom, art and life / Jose Cura

2016-04-03 | 芸術・人生・社会について①


ザルツブルク復活祭音楽祭2016のティーレマン指揮のオテロに主演し、ひさびさに日本でもTVに登場するホセ・クーラ。久しぶりに情報を目にした方も少なくないのではないでしょうか。
 → ザルツブルクのオテロについて詳しいことは (レビュー編) (放送編) (リハーサル編) (告知編) をどうそ。
また、2016年 ザルツブルクでのインタビュー 「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」も紹介しています。 

1990年代末以降、とりわけ日本では、1998年の新国立劇場会場記念公演「アイーダ」で衝撃的なデビューをかざってから、マスコミなどでも大々的に紹介され、「次世代3大テノール」だの「第4のテノール」「ドミンゴの後継者」など、待望のスター登場という感じの扱いがされたことを覚えている方もいらっしゃると思います。ところが2000年代に入ってしばらくするころから、あまりマスコミにも登場せず、CDも発売されなくなります。何度か来日公演はありましたが、その後、ほとんどクーラに関する情報を日本で目にすることはなく、「クーラは今どうしているの」と思っていたオペラファンの方も少なくないでしょう。

 

なぜ大々的に売り出されたクーラが、突然、消えるように露出が減ったのか。そこには、エージェントやレコード会社による売り出され方に疑問を感じ、自分のすすみたい音楽の方向との違いに苦しむクーラの決断がありました。インタビューなどから、クーラの思いと決断の中身を紹介します。



●エージェントから独立――1999年~2000年

クーラは1990年代の末に、所属していたエージェントとの関係を断ち切り、独立します。世界的に売り出し中に独立を決意したわけですから、その決断も、その後の直面した状況も、並大抵のものではなかったようです。

Q、2001年に自分の会社を設立した理由は?
A、初期のエージェントと広告会社によるばかばかしい経験はもう十分だった。独立は、それが自分自身であるための唯一の方法だった。

エージェントやレコード会社から、本人の意に反して、オペラ界の「セクシー・スター」路線で売り出されたホセ・クーラ。当時の雑誌のいくつかは今でもネットで売られています。さまざまな雑誌の表紙や見出しに、「セクシーオペラ・スター」「テストステロン爆弾」等の文字が躍っていました。
  

自分の意にそわない方向での売り出され方、長年の音楽的努力ではなく表面的な容姿だけに注目したキャンペーン、エージェントによる金銭的搾取など、さまざまな問題が起こっていたようです。

●自ら芸術の旅をナビゲートする決断――2013年ニューヨークでのインタビューより

芸術的な探求に加え、自分のプロダクション(Cuibar)をつくって活動してきた。重要なことは、それが、自分自身にもとづいて、芸術の旅を自らナビゲートすることを可能にしたことだ。

2000年に、私のキャリアは、幸せではない方向に向かっていた。オペラ界のセックス・シンボルとして売り出されていた。そのように販売されるために20年間勉強してきたわけではなかった。だから私は、それまでの関係と決別し、自分自身を再表示することを決意した。

それはいろんな意味で重大な挑戦だった。自分のイメージを変え、なりたい自分になるためには3年かかった。最終的に、私はそれを達成した。しかしそれによって、エージェントや劇場から多くの反発を受けた。

この決断は多くのチャンスを失うコストを払うことになったが、後悔はしていない。友人が私に言った。「あなたは誠実さ(一貫性)を選択した。それを他の利益の上においた。あなたはそれを誇りにするべきだ」と。

1999年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での「カヴァレリア・ルスティカーナ」出演時の写真
 

●自分のボスは自分――2006年イギリスでのインタビューより

私が(エージェントなどとの)関係を破棄した2000年以降、さらにそのうえ、レコードレーベルのエラートが閉じられ、私は砂漠の中で独りぼっちだった。
それは決して簡単なことではなかったが、しかし私にとって非常に有益な時間だった。私は1人だった。そして、それにもかかわらず私は生き残った。

自分自身で完全に責任をとる、それと同時に成功する――われわれの業界の考え方では、この2つは両立しない。この種の自己主張は、ルール破りであり、まさに望ましくないとされているのだ。

幸いにも、この段階は終わった。私はいま、まさに自分自身だ。自分の人生でそうであるように、ステージの上においても私は自分自身だ。

危険がないわけではない。しかし良いアーティストであれば、美しく生き残ることができる。譲歩や妥協をしなくても。それは私がこの段階で学んだ最も重要な教訓だ。

幸いにも、スターダムはすぐ去りゆくもの。欠陥あるシステムに囲まれた空騒ぎだ。多くの才能がすぐ消耗する。信じられないほどの約束、素晴らしいオファーが、それは魅力的なものが押し寄せる。彼が最早それに抵抗できなくなるまで。

私の場合も何も違わなかった。ただ、私は同時に、それを理解し、そしてそれに抵抗した。私にとって、抵抗の段階は終わった。今では、私は自分自身のボスであり、自ら責任をとり、自分自身の保証人だ。「もし私が必要なら、私に電話を。そうすればあなたは問題なく良いプロフェッショナルなショーを得ることができる」――ということだ。

興味深いことに私への電話は、皆、同じことを言ってくる。「私たちはあなたが実際に、道を方向転換せずに、すべてを乗り超えて、生き残ってきたことを知っている。もう一度一緒に始めよう」と。



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90年代に華々しく登場しながら、2000年代初頭以降、マスコミ登場が減少したクーラ。それどころか、このインタビューではあっさりとしかいっていませんが、一時期は、「堕ちたスター」「声を失った」「傲慢」など、さまざまな誹謗中傷、新聞、雑誌を使ってのネガティブキャンペーンがあったそうです。クーラ自身が、「3年間悪夢を見た」「雇われたライターによる攻撃にさらされた」と語ったこともあります。
こうした困難を乗り越えて、自分自身のプロダクションCuibarを設立、レコード会社も自分で設立して、独立独歩で活動してきました。大手レーベルの販促キャンペーンとは無縁となりましたし、すべてのことを自分でやるのは、財政的にも精神的にもかなり負担が大きいと推察されます。しかし、つねにリスクをとり、挑戦する生き方、誰にも追随せず、自分の主人公として自らの芸術の道をすすむ姿には、潔さを感じます。

ホセ・クーラのモットーは、「今を楽しめ」。Tシャツのロゴ「Carpe Diem」は、ラテン語で「今を全力で生きろ」「今を楽しめ」などの意味。彼の口癖で、50歳の誕生日に子どもたちがプレゼントしたものとのこと。FBで紹介。


ホセ・クーラの魅力というと、その独特の声とドラマティックな表現に定評がありますが、私がとりわけひかれるのは、こうした彼の生き方です。
大劇場やマスコミ、大手レコード会社などにこびたり、遠慮することなく、自ら信じるアーティストとしての道を、自分の力で切り開いてきました。インタビューでもいつも率直で、フランクに自分の考えを述べます。平和のことや社会問題にも積極的に発言をしています。
もちろん批判を受けたり、大劇場からのオファーが激減することもあったようです。でもその困難な道を今日にいたるまで歩みつづけてきました。

やはり音楽産業、商業主義の世界で、大きな組織などの後ろ盾をもたず、しかもマスコミや大劇場にも媚びず、迎合せず、芸術的な面では言いたいことを言い、自らやりたいことをやるクーラのような存在は、ある意味、異色、異端であり、つねに批判にさらされ、クーラといえば「傲慢」というレッテルがついてまわっているように思います。でもインタビューなどを読んだり、直接彼と出会った人の印象によると、非常にフランクで、率直、ユーモアがあり、知的な人物であることがうかがえます。

苦渋の決断と困難を経て、自らの芸術的探求にもとづき、自立精神旺盛に、歌、指揮、演出・舞台デザイン、作曲・・と、多面的探求が、まだまだ続きます。
 → クーラの略歴についてはこちらを 「ホセ・クーラ 略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」

 

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