人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ、演技について、声のケアについて、世界の劇場についてーー2000年、アメリカでのインタビュー

2021-12-08 | 人となり、家族・妻について

 

*画像は記事に直接関係ありません。この画像は2000年のブダぺストでのインタビューのものです。

 

 

ホセ・クーラは2021年12月5日、59歳の誕生日を迎えました。1962年生まれです。

91年に渡欧してから30年、母国アルゼンチンで音楽活動を始めた時からは40年以上のキャリア、経験を積んできました。

コロナパンデミックで2020年春以降、世界中で困難な状況が続いていますが、クーラが健康で元気に、アーティストとしての実りの時期を過ごしていることに、心からのお祝いを伝えたい思いです。

 

今回は、2000年1月に公表されたインタビュー記事、99年に取材したものと思いますが、クーラがアメリカのMETデビュー後に受けたインタビューを紹介します。

少し前の記事(「ホセ・クーラ 欧州移住から30年を迎える 1991~2021年」)でも、99年9月のMETのシーズン開幕公演でクーラがカヴァレリア・ルスティカーナに出演する前のインタビューから抜粋して紹介しましたが、今回は公演後の記事です。そして前回の記事はクーラの生い立ち、経歴が中心でしたが、今回は、よりざっくばらんに、クーラの様々なものに対する考え方などを聞いていて、とても興味深いです。抜粋して訳してみることにしました。

いつものように誤訳等たくさんあると思いますがご容赦ください。

 

 


 

 

 

 

 

≪ エドゥアルド・マチャドによる ホセ・クーラ インタビュー ≫

 

(抜粋)

 ……

彼はラテン系とイタリア系の両方の顔を持っていて、歌う映画スターのようだった。並外れた声と天性の演技力を備えた人気急上昇中のテノール歌手であるクーラは、専門家の間では本格的な音楽家として知られている。このアルゼンチンのテノールは、12歳で声楽のレッスンを始め、15歳の時、故郷のロサリオで行われた野外合唱コンサートで指揮者としてデビューした。クーラは作曲家か指揮者になりたかったが、その声によって、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの奨学金を得た。

現在、彼のレパートリーには、サンフランシスコ・オペラの「カルメン」、マドリッドの「オセロ」、メトロポリタン・オペラの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、ワシントン・オペラの「サムソンとデリラ」など、30以上のオペラが含まれている。このインタビューのために会ったとき、私たちはスペイン語で話した。彼は気さくでカリスマ性のある男だ。彼の妻が近くに座っていた。

….

 

Q、オペラのオープニングナイトを見に行ったが、とても楽しめた。あなたは素晴らしい俳優でもある。なぜオペラをやろうと思った?

A、ホセ・クーラ 
私は自分の仕事を愛しているが、演奏の他の側面、音楽そのもの、指揮、教えることなども大好きなので、どちらが自分にとっての優先事項であるかは自分でも言えなかった。つまり、私がオペラに関して愛するもののリストで、歌は必要不可欠なものではあるが、唯一のものではないということ。しかし、オペラの法則がそうである以上、テノールであることへの要請は、他のものよりも重要度が高い。だから私が心がけているのは、俳優として歌うこと、そして、ただ歌うのではなく、完全な音楽家として音楽を行うということだ。

 

Q、 声を出すだけではなく?

A、そう。あなたのように演劇に慣れている人は、「ああ、この人はオペラ歌手だけど、演技している、自分のやっていることを信じているんだ」と言うだろう。それが違いをつくる。

 

Q、それが私にとって違いをつくるものだった。それは静的ではなかった。私は演劇出身なので、オペラには少し苦手意識がある。なぜオペラなのか?

A、それは、背の高いスポーツ選手に、「なぜマラソンではなくバスケットボールなのか」と聞くようなものだ。他の世界で20番めになるのではなく、自分の世界で最初の1人になるために、自分の適性を分析する。重要なのは、オペラは別の方法でできると思っているし、それこそ先日の夜、あなたが評価してくれた方法でもある。

 

Q、オペラをどれだけ変えたい?

A、自分が関わるすべてのオペラに、これらを適用している。現代的で知的な批評家もいるが、残念ながら、自分が慣れ親しんだものに固執して、"Don't dare touch "(「あえてふれるべきでない」)と言う人もいる。中には、私があまり上手な歌手ではないので、演技力でカバーしていると言う批評家もいる。

 

Q、両方の能力を兼ね備えていることが認められないのだろう?

A、まあ...。

 

Q、演出のゼッフィレッリ氏によってすでに設定された枠組みの中で、あなたがとても自由だったことに私は魅了された。演劇ではありえない。そういう強い枠組みの中で、どのようにして自由を見つける?

A、フランコ(ゼッフィレッリ)とは、過去に一緒に仕事をしたことがある(*東京の新国立劇場開場記念公演の「アイーダ」のことと思われます)。今回ここにはいないが、彼のことを知っている。彼は、誰かが彼自身の考えを使って、自分が解釈したものとは違う雰囲気を作ってくれることを喜んでくれると思う。彼は、「自分の引いた線に従え」と言うような人ではない。

 

Q、私は1度、彼のために働き、映画「The Champs」で歌ったが、私はとても若かった。

A、彼のいつものやり方は、「聞いてほしい。このドアから入って、もう一方のドアから出てきてほしい。ある時点で、この椅子のところに行ってこの花に触れて。あなたが何をどのようにしようとしているのかを見せてほしい。私は、それがどう見えるのかを伝えよう」というものだ。

偉大な演出家は、アーティストに対し、「さあ、指を立てて。目を閉じて」とは決して言わない。一緒に作っていくので、あなたがしていることであり、あなたは私が言っていることがわかるだろう。

だから私の解釈は危険なものではなかった。このセットはシチリア(METのカヴァレリア・スルティカーナの舞台)のようだ。古臭いと言う人もいるかもしれないが、シチリアに行ったことがある人なら、まさにその通りだ。だからセットの中では、普通のシチリア島の普通の人と同じように振る舞うことができる。それは物事を簡単にする。もし、動きのある超近代的なセットがあったら、ある瞬間にある場所にいないと殺されてしまうとか、場違いな感じに見えたりする。しかし、このセットでは、自然に近い空間を楽しむことができる。なぜならそれは完全に...

 

Q、世界?

A、それは自然な、教会、階段、ドア......

 

 

 

 

Q、あなたは指揮もする。自分が誰かに指揮されているのは?

A、俳優が映画の監督をする時も同じ。カメラの前にいる時と、カメラの後ろにいる時は別だ。もし十分にオープンで柔軟性があれば、両方の世界を利用してひとつにすることができ、アーティストとして非常に豊かになるだろう。カメラの前にいる時、カメラの後ろにいる人たちが何を見ているのかを知るということ。

 

Q、それと同じこと?

A、同じことだ。操り人形のように上下に動かされるのではなく、そこで起こっていることを一つ一つ理解できるから、私は、指揮者が何を得ようとしているのか正確に知っている。

 

Q、あなたは操り人形とは正反対の人だと思うが?

A、たぶん、それが人々を動揺させている...。

 

Q、伝統主義者?

A、いや、彼らには、私を箱に入れて「さあテノール、前に立って歌いなさい」と言うことはできない。それは「ただ黙って歌いなさい」というようなものだから。

 

Q、この国では、それは彼らがしていること。彼らは、複数の分野を持っている人を理解できない?

A、過去2年間、私は写真に没頭してきた。写真を撮るのは大好きだ。写真を扱うことで、ステージ上での光の働きを理解するのに役立つ。音楽がどのように作用しているかを知るだけでなく、ライトがどのように作用しているか、そしてそれが生み出す効果を知ることができる。全く新しい世界が広がる。

 

Q、私の友人にはブロードウェイの歌手がたくさんいるが、彼らは自分の声のケアに途方もない時間を費やす。あなたは?どのようにケアを?

A、実は、全く気にしていない。

 

Q、しない?

A、私が言うのは、怠けているのではなく、普通の生活を送ろうとしているということ。もちろん、公演を控えている時に、雪の中に裸足で出かけていって運命に挑むようなことはしないが、私は自分の声の奴隷ではない。お腹が空いたら食べて、疲れたら寝て、体が汚れたら洗う。他の人と同じに。

公演の当日は、2時間前には劇場にいて、公演後はメイクを落とすために2時間滞在するので、通常、他の人がベッドにいる時間に、まだ1日の真ん中にいる。だから疲れをとるために日中に睡眠をとるようにしている。でも、それ以外に特別なことはない。私はスカーフ・テナーではない。

 

 

 

 

 

Q、アメリカは非常に自己中心的な国なので、あなたがメトロポリタン歌劇場(MET)に出演することを非常に重要視している。METはオペラの中心?デビューするのはどのような意味?

A、これはとても興味深い質問で、私は危険な回答をしようと思う。METをみるには2つの方法がある。それは、アメリカ合衆国で最も重要な劇場であり、そう言うことは、アメリカ大陸で最も重要な劇場であることをほぼ認めていることになる。テアトロコロンもかつては素晴らしい劇場だったが、現在は建物は別として、経済的な事情で以前のような素晴らしいものではなくなっている(*99年当時の話であり、その後リニューアルオープンし、クーラも何度か出演している)。チリ、ブラジル、メキシコにも素晴らしい劇場があるが、お金がないという理由だけで、METのように効率的に機能させることができない。それはさておき、METがアメリカ大陸で最大のオペラハウスであるというのは明白な結論だ。それに続いて、サンフランシスコやシカゴがあり、ワシントンのように非常に力を入れている劇場もある。

しかし、METはMETだ。METが、コベントガーデンやウィーン、スカラ座よりも重要だということを意味するものではない。到達しなければならない頂点であり、そこで公演をしなければならないいくつかの、5つか6つの大劇場がある。しかし、METは世界で唯一の大劇場ではない。

私は個人的には、METの内部での極度のセキュリティ対策に苦しんでいる。

 

Q、この街はとても過激になっている。

A、そう、すべてにおいて非常に極端。アーティストにとっては、とても攻撃的だ。

舞台は、私たちの魂と無邪気さの中にあるファンタジーの場所だ。私はアーティストで、ステージは私の場所だが、ステージに到達するためには許可を得る必要がある。

 

Q、アメリカの劇場はどこも同じような状況だが?

A、私は彼らを非難しているわけではない。彼らは劇場を警備するという仕事をしている。この国が厳しい国であり、彼らが気をつけなければならないのは、彼らのせいではない。

ただ、この国での働き方、生き方、日常生活のあり方が、少しアグレッシブすぎるというのは事実だ。このエネルギーが、多くの良いことを後押しし、実現させているのだと思う。しかし、時には、この強さが攻撃性に変わり、自分の特性を守るために防御策をもたなければならない。

その点を除けば、芸術的には、オーケストラ、コーラス、雰囲気など、METは素晴らしい。ステージに立つと、ポジティブなエネルギーを感じることができる。文字通りの意味で、誰もがあなたに足を折ってほしいと望んでいるような他の劇場とは違う。

 

Q、この国では、オペラは芸術として認識されておらず、さらに費用がかかるため、一般の人には全く縁のないものと思われているが?

A、例えば、METはそれ自体が企業だ。スポンサーやチケット販売を通じて、自分たちでお金を稼いでいる。自分たちで決断し、自分たちの収入を管理している。すべての劇場がそのような恵まれた状況にあるわけではない。その分、チケットも高いだろう。

しかし世界中で、昔のようなブラックタイのガラ・イブニングがある一方で、少しずつ、誰もが参加できて、チケットが映画館のチケットとあまり変わらないようなパフォーマンスが増えてきていると感じる。オペラは、ライブアートの中で最も制作費がかかるものだ。コーラスには少なくとも100人の歌手がいて、オーケストラ・ピットには少なくとも90人のミュージシャンがいて、さらに50人か60人があらゆることを動かしている。つまり300人ほどの人々が動くことなしに、アイーダを上演することはできないということだ。

それが費用がかかる要因だが、しかしそれに対する解決策があるとは思えない。コーラスがあるところには、コーラスがなければならない。そして、コーラスの一員であるなら給料をもらいたいと思う。等々......お金はどこからか来なければならない。劇場の大きな負担は、偉大なアーティストたちのギャラだと言う人もいる。しかし1つのプロダクションで高額のギャラを得るのは1人か2人のアーティストだけで、他の人たちは劇場機構の一部だ。

 

 

 

 

Q、もう一つ政治的な質問を。オペラは、ラテン系の人々にとって最もオープンな場所であり、国籍や肌の色などによる偏見がないように思われるが?

A、オペラでは、まず声が重要だ。それは、世界で最も美しい声、または最大の声でなければならないという意味ではなく、舞台に立つためには、ある特定の種類の音を出す必要があるということだ。

それから、白人で金髪である前提のキャラクターに対して、白人で金髪のパフォーマーを望む演出家もいる。もしかしたら、有色人種のソプラノがその役を演じたら、「台本」の観点から見ると違和感があるかもしれない。でも、そういう意味では、今はもっとオープンになっていると思う。

映画のような制限はない。映画では、キャラクターが金髪であると想定されている場合、黒人女性を起用することはないだろう。キャラクターが黒人であることが前提であれば、金髪の女性を起用することはできない。またスーパーマンを想定しているのであれば、太っていてはいけない。映画はそういうものだ。

オペラはもう少し柔軟性がある。しかし、映画の影響がオペラにも浸透し始めており、キャラクターを演じられる人を求める監督が増えてきている。まず必要なのは声だが、その他の要素もすべて備えるようにしなければならない。しかし、キャラクターを作るのは、次のことを確信することだ。もしラテン系の恋人の役を演じるとしたら、それほど容姿が良くなくても、同じように誘惑することができる。そのためには、適切なエネルギーを伝えることが大切だ。見た目だけではなく、そのエネルギーを「信じる」ことで、自分の存在感を高めることができる。

 ……

 

Q、あなたがインスピレーションを受けるものは?

A、献身的な関係だ。私にとって、コミットしていない同僚と舞台上でやりとりすることほどイライラすることはない。もしあなたが俳優なら、それが一番大事なことだろう。アクターはエネルギーと情報を絶え間なく提供する。観客とは別に、そのエネルギーを受け止め、フィルターにかけ、自分に返してくれる人が目の前に必要だ。あなたはそれを受け取り、そしてまた同僚にそれを返す。それはピンポンだ。誰かにエネルギーを送っても何も返ってこないと、30分もステージに立つと疲れてしまう。なぜなら、あなたがすべての仕事をしているから。あなたは投影しているのに、誰かがあなたのエネルギーをすべて吸い取る。さらに悪いことに、壁があるために聴衆は何も受け取ることができない。

 

Q、次は何を歌いたい?予定は?

A、次のオペラは「オテロ」。とても深いキャラクターを作ることができるので、本当に私にとって大好きなオペラ。私のオテロについては、オペラ関係者から激しい批判を受けている。

 

Q、すでに (笑)?

A、そして、劇場関係者からは素晴らしい賛辞を。私は自分が感じるオテロを作りたいと思っているので、それは嬉しいことだ。オテロは僧侶ではない。かつては英雄であり、かつては将軍であったが、今はただの無の断片がばらばらに分裂しているような男だ。それが私の感じるオテロ。

もちろん、最初にこのように演じたとき、オペラファンは皆、「ああ、音が足りない」「十分な"ノイズ "がない」と言った。そして、演劇好きの人たちは「なんて素晴らしい演技だ」と言った。次の課題は、その間のギャップを埋めて、みんなを納得させることだ。

 

Q、次のオテロは?

A、マドリッド、パレルモ、そして来年の3月にはワシントンで...。

 

Q、何かエピソードは?

A、私が初めて歌ったときのことだが、舞台上で警報が鳴る瞬間があって(第1幕の後半)、その時、彼は妻と愛し合っていたところだった。私の解釈は、警報を聞いた彼は、ズボンをつかんで半裸で走り出してきたというものだった。実際の生活ではそうするだろう。私はズボンだけで、それを引き上げながら出ていって、ひどく批判された。みんなからは胸の筋肉を見せようとしているとみんなから言われた。

 

Q、(笑)今度はヌードで出てみては?

A、いや、それはもうないと思う。私も太ってきた、わかるだろう?

 

(「José Cura by Eduardo Machado」)

 

 


 

 

インタビュアーは、アメリカ在住の劇作家のマチャド氏。演劇が専門の彼にとっても、クーラのMETでの演技は、とても驚きであり、自由闊達で自然なものに感じられたようです。

METについても、社交辞令抜きに率直に語るクーラ。アメリカ社会や歌劇場の状況、オペラにかかるお金の問題、オペラと人種についてのテーマ、等々についても、フランクに自分の考えを語っています。

インタビューの最後の、オテロの第1幕、凱旋の場の後、妻との再会を果たしたオテロが、カッシオらの騒ぎで急きょ呼び戻された場面のことを語った部分は、面白いところです。舞台上の演技にはすべてドラマの解釈による裏づけがあって、決して観客におもねたり受けを狙っているわけではないことを語っています。でも太ったからもうやらないというのは、はやり前は自信があったから、ということでしょうか(笑)。

 

 

 

*画像は、2000年ブダペストでのインタビューの際のものからお借りしています。今回紹介したアメリカでのインタビューとは関係ありません。

 

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ホセ・クーラと母国アルゼンチン――映画「ローマ法王になる日まで」を見て

2017-06-08 | 人となり、家族・妻について



ホセ・クーラの母国は南米アルゼンチンです。クーラは1962年にアルゼンチンの第3の都市ロサリオに生まれ、91年にイタリアに移住するまでは、首都ブエノスアイレスに住んで作曲家、指揮者になるための勉強を続けていました。

今、公開されている映画『ローマ法王になる日まで』(イタリア映画 原題"CHIAMATEMI FRANCESCO - IL PAPA DELLA GENTE"=『フランチェスコと呼んでーみんなの法王』)は、南米アルゼンチン出身の現在のローマ法王フランシスコの半生を描いたものです。クーラの生まれ育った時代ともちょうど重なる時期のアルゼンチンを背景にしています。

今回は、先日鑑賞したこの映画と重ねあわせて、あらためてクーラの生い立ち、アルゼンチンへの思いなどを紹介したいと思います。

まずは、まだ映画を鑑賞されていない方は、ぜひ、この予告編をご覧ください。

映画『ローマ法王になる日まで』予告編



こちらは映画の予告チラシです。




映画は、法王選挙のためにバチカンに滞在しているベルゴリオ枢機卿(現在の法王フランシスコ、本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)が半生を振り返るシーンから始まり、彼がまだ、化学を学ぶ学生だった1960年のアルゼンチンに戻ります。
映画のネタバレになるので詳しくふれることはしませんが、神父になったベルゴリオは、若くして南米イエズス会の管区長という地位に任命されました。そこから苦難と激動の時代に直面します。
1976年にクーデターで始まった軍事独裁政権のもとで、反政府の動きが徹底的に弾圧され、密告やスパイも横行、疑いをかけられて多くの市民が連行され、激しい拷問を受け、3万人もの人々が犠牲になったということです。

こういう時代にどう生きるのか、どう生きたのか――スクリーンにリアルに映し出される軍の蛮行、突然の連行・拉致、苛烈な拷問、銃殺・・徹底的に自由と民主主義、人権が抑圧された社会の様相が描かれ、ひたひたと押し寄せる恐怖を目の当たりにするとき、この答えは決して簡単なものではないことを思います。

教会が軍事政権に対決せず、司祭が銃殺されても黙殺するような状況で、苦悩し無力感、罪悪感を抱えながら、反体制派を匿い、逃走を手助けし、大統領に直訴までするベルゴリオ。貧困と抑圧、困難ななかで生きる民衆の立場に立ち続けようとする彼の姿は、とても感動的です。

ルケッティ監督は、信者ではなく無神論の立場から、事実の徹底した調査を土台に、冷静に描写します。英雄伝ではなく、人間的に苦悩し、自らの信念(この場合は信仰)にてらして困難な時代を誠実に生きようとする姿は、神を信じる者、信じない者の垣根を越えて、感銘を与えます。


こちらは劇場で購入したパンフレット



ホセ・クーラが生まれたのは1962年12月。ベルゴリオが神父になることを決意した2年後です。そして軍事独裁政権が始まった1976年には、クーラは13~14歳でした。日本でいえば中学生、クーラもラグビーに夢中になっていた頃でした。

映画では描写されていませんが、軍事政権がイギリスとの間にフォークランド戦争を始めたのは1982年3月。クーラは19歳、ロサリオの芸術大学で指揮と作曲を専攻する学生でした。そして徴兵制が敷かれていたアルゼンチンで、クーラも予備隊に所属させられ、3か月続いたこの戦争がもしもっと長ければ、クーラも戦場に送られていたということです。この戦争による犠牲者は、アルゼンチン側で650人近く、負傷者も1000人以上、イギリス側も犠牲者250人余、負傷者800人近くにのぼったそうです。

1983年にようやく終わった軍事独裁の時代。その時クーラは20歳になっていました。多感な10代から20代初めの時代を圧政下で過ごし、さらにその後、経済的な混乱が続いたということで、作曲家、指揮者になる夢を実現することは非常に困難でした。91年に将来の希望を託し、イタリアに渡りました。

この映画を見たことで、これまでも紹介してきたクーラの言葉、その歩み、そして平和と自由への思いについて、よりリアルに、より重く受け止めることができたように思います。クーラの言葉を、いくつかのインタビューから抜粋してみました。



1962年12月にアルゼンチンのロサリオに誕生


≪2016年インタビューより≫

●軍事政権下の子ども時代について


私が子どもの時、パブロ・ネルーダの仕事や人物について話してくれる人はいなかった。私がラテンアメリカの詩を発見し、学んだのは、すでに大人になってからだった。
私が学校に行った40年前、アルゼンチンは軍事独裁政権が支配していた。私たちはパブロ・ネルーダの詩を知らなかった。彼が共産主義や社会主義の思想をもっていたためだ。私たちはガルシア・マルケスなど革新的な文学偉業も読めなかった。当時情報へのアクセスは非常に限られ、これらの人々は国家の敵とみなされていたからだ。





≪2015年ノヴィ・ソンチでのインタビューより≫

●軍政後の経済的混乱のもとで


指揮と作曲を研究していたが、歌うために離れた。・・
軍事政権の支配とイギリスとの戦争の後、我々はアルゼンチンで民主主義を構築し始めた。しかし作曲家や指揮者でやっていくことは不可能だった。聖歌隊で歌って、ささやかではあるが着実な給与を得た。そして何年間かの中断の後、しかし私は、自分の職業に戻ってきた。それが指揮と作曲だ。

若い頃ボディビルダー、電気技師や大工として働いていた。さまざまな仕事をしてきた。人生経験の荷物がより大きいことは、我々にとって、より豊かな、表現のための言葉になる。・・ジムで教えたり郵便配達もした。頑強な身体と精神を持ったことに感謝する。ある日、自転車で郵便配達中に歩道に落ちた。鼻の傷はその時。幸い鼻骨は壊れなかったが、そうなら歌手になっていないだろう。





≪クロアチアでのインタビューより≫

●イタリアに移住後の苦難


私は財布にコイン2つで、90年代初めにイタリアに着いた。仕事がなく、家族と共に生き残ろうとしていた。私は絶対的に何も持たない者で、お金もなく、ドアをノックし「私に仕事はないだろうか」と尋ね回らなければならなかった。
それは私にとって、各地からヨーロッパへ何千もの難民が到着している状況を非常に連想させる。私はミュージシャンであるという利点があった。私は主張したが、まだ証明していなかった。私はテノールだったが、私はそれを証明しなければならなかった。
私はアルゼンチン人だったが、当時のイタリアでは非常に困難だった。ちょうど北部同盟が出現した時で、私は北部同盟がもっとも強かったヴェローナに住んでいた。そして外国人が排斥されたために、私は離れなければならなくなった。 私の祖母はイタリア出身であり、何人もの親友がいて、私はイタリアを本当に愛している。しかし彼らは私を失った。その後、フランスに移った。そこはとても良かったが、主に天候のためにスペインに移り住んだ。ラテン系の私たちにはパリは雨が多すぎた。





≪2016年ジュールでのインタビューより≫

●若者のリードで新しい世界を


私はいつも理想主義者だった。これまで多くの経験をし、信じがたいような事も少なくなかった。しかし一方で、今日、シリアの若者のおかれた状況は、私たちが想像することさえできないということも知っている。

多くの人々が私に尋ねる。どうして今、素晴らしい歌手が、世界の特定の地域からヨーロッパに来るのかと。
答えは簡単だ。南米に住む人びとにとって、毎日の生存のための糧を得ることが、彼の成功に依存するからだ。

私たちは、言葉の良い意味での健全な「生活のための怒り」を失っている。だが、それをやらなければならない。我々は、この強力なエンジンを取り戻す方法を見つける必要がある。新しい世代がより「ソフト」になる前に。

若者がリードする必要がある。そして彼らの手に未来はある。なぜなら世界の混乱の責任は、我々の世代、その親の世代にあるからだ。世界を腐敗させた国のトップを退陣させなければならない。彼らは全員50代、60代だ。混乱を作りだした者に、それを修正することはできない。古いでたらめの左右の全体主義、ファシストらは消えるべきだ。ゼロからスタートする必要がある。それから、我々は新しい地球を手に入れることができるだろう。





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トップの3枚の写真(このすぐ上と下の写真も同様)は、2007年、故郷ロサリオ市のシンボル、モニュメント・ア・ラ・バンデラ(国旗の記念碑)の前で歌うクーラの姿です。

軍政下はまだ少年だったとはいえ、たいへんな時代を生き抜いてきたものです。クーラは、テノール歌手として世界的に有名になって以降も、「平和の種をまく」ことをアーティストとしての自分の責務と考えて行動し、機会あるごとに平和について、社会的公正について、発言しています。貧困や格差、戦争、社会的不公正への怒り、よりよい社会を希求する強い思いをもっています。
これまでのクーラの発言の一部を、以前のブログでまとめて紹介していますが、それだけにとどまらず、ほとんど毎回のインタビューで何らかの社会的な問題について発言しているといえます。

またクーラは、フォークランド戦争の犠牲者を追悼するレクイエムを1984年に作曲しています。かつて2007年に初公開が予定されていましたが、残念ながら母国の機関のサポートが得られなかったとのことで実現しませんでした。クーラはこの曲を、イギリスとアルゼンチンの2つの合唱団で演奏したいと希望していたそうです。しかし当時はまだ、「戦争の傷は癒えたとしても、しこりがあった」そうです。「どこかでステージにあげられることを願っている。死ぬ前に、たとえアルゼンチン国内でなくとも」というクーラの希望がかなえられることを願っています。

アルゼンチンで、映画が描いた暗黒の時代が終わったのは、わずか34年前。また日本でも、小林多喜二が虐殺されるなど同様の暗黒の時代が終わったのも、72年前です。
今また、共謀罪法案や憲法9条改正の動きがすすむもとで、今、この映画が公開された意義はとても大きいように思いました。





映画パンフより


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ホセ・クーラ ポートレートとインタビュー モナコにて / Jose Cura , Portrait and Interview in Monaco

2017-04-18 | 人となり、家族・妻について



以前の投稿でも紹介しましたが、ホセ・クーラのポートレート紹介とインタビューが、モナコの情報サイト"Little Big Monaco"に掲載されています。 → Little Big Monaco.com

今年2月から3月にかけて、クーラは、モナコのモンテカルロ歌劇場で、ワーグナーのタンホイザーのパリ版フランス語上演に主演、珍しい仏語上演版の復活を成功させました。その際のインタビューと、クーラの紹介を合わせて、記事にまとめたようです。

この記事では、念願のワーグナーへの挑戦についての思いをふくめて、クーラのこれまでの経歴や、多面的なアーティストとしての個性などについて、とてもコンパクトに、わかりやすくまとめてあります。よく取材して、アーティストとしてのクーラへのリスペクトが感じられる記事ですので、ウィキペディアの記事などより、こちらをおすすめしたいと思います(苦笑)。
すでに一部、紹介した部分もありますが、あらためて全体を紹介したいと思います。

ネットの記事は仏語版と英語版がありますが、英語版の方のリンクを紹介しています。
また、いつものことですが、日本語訳は不十分なもので、誤訳直訳ばかりと思いますので、ぜひ元のサイトをご覧ください。






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LITTLE BIG PORTRAIT of JOSÉ CURA

≪魅力的な歌手≫


非凡なテノールのキャリアによって世界中で知られているが、ホセ・クーラは、指揮者、演出家、作曲家でもある。

彼はちょうど、2月にモンテカルロ歌劇場でタンホイザーに主演した。創造性と音楽への愛によって導かれた素晴らしいアーティストであり、最新のアルバム、ドヴォルザークの「愛の歌」("Love songs")がiTunesでリリースされた。

ダークヘア、広い肩幅、印象的な存在感と魅力的な声。彼は優しい目をした鬼。魅力的な鬼だ。
ホセ・クーラは、自分が望むことだけを行う、と私たちは感じる。妥協することなく。

彼は、自分をヴェルディとプッチーニに制限していた賢明なものから逃げ出しているようだ。そして、私たちが決して、彼にそうなるだろうと期待したことがなかった、彼自身の特異な道に従って。
この2月、彼はモンテカルロ歌劇場で、1861年にパリのオペラで初演されて以来、初めてフランス語で上演されるタンホイザーの主役だった。
これまでワーグナーのレパートリーをまだ探究していなかったアーティストにとっての、新しい成功した挑戦。舞台上でほぼ3時間という大変な役であり、肉体と精神の愛との間に引き裂かれた歌手の役柄。


≪多面的なアーティスト≫

大喜びのモナコの聴衆を離れ、それから彼は、自分自身が作曲したオラトリオ「この人を見よ」«Ecce Homo»の演奏のためにプラハに向けて出発した。5月に初めて演奏するベンジャミン・ブリテンのピーター・グライムズ«Peter Grimes»のリハーサルのためにボンに飛ぶ前に。そして彼は演出もする。

誰もがめまいを起こすのに十分であるが、彼は違う。とても穏やかに見えながら、テノールと作曲家、テノールと演出家、あるいは指揮者、舞台装飾家、プロデューサーなど、多彩な役割を果たすことが自然であることがわかる。
さらに彼が本当に楽しんでいる写真を忘れることなく。

また、俳優を加えなければならない。なぜなら、さまざまな役柄を深く体現するための彼のやり方であるから。彼は働き、探求し、深め、限界を越える。

彼は、新しい大胆な道を試してみることを楽しんでいる。サムソンやカラフで、何度も繰り返して熱心に彼を聞きたいと思っている観客を混乱させる危険を冒しても。2014年に、モナコで、アルゼンチン音楽のコンサートをやったように。
彼は、映画界においてオーソン・ウェルズがやったようなものだ。ホセ・クーラは、自由で分類できないアーティスト。そして彼は、彼がやりたいことだけをする。





≪指揮と作曲≫

彼の素晴らしいキャリアは、彼が生まれたアルゼンチンのロサリオから、過去20年間、世界で最も権威のあるステージで演奏するよう、彼を導いた。

子供の頃、ギターを学んだ後、ピアノをやり、合唱団の指揮者を務め、作曲と指揮の訓練を受けた。
当時、彼は自分自身を、声楽のソリストとしては見なしていなかった。彼の才能を発見し、オペラ歌手としての勉強を勧めたのは、ロサリオの音楽大学の教授だった。その後、ブエノスアイレスのテアトロコロン付属芸術学校で学ぶ奨学金を得た。

すべての美しい物語と同様、紆余曲折と幸運な出会いがある。
90年代の初め、ホセ・クーラは、チャンスがほとんど得られなかったアルゼンチンを離れた。ブエノスアイレスのアパートを売却して、妻と赤ちゃんと一緒に、イタリアで運を試すために。

数か月後、成功できないまま、残りのお金がなくなり、彼はアルゼンチンに帰ることにした。最後に、彼は、友人の一人が、ミラノの歌手の電話番号を、ヨーロッパに渡る前に渡してくれたことを思い出した。彼はその歌手に会ってもらうことができ、アンドレア・シェニエからのアリアを歌った。彼の声に感銘を受けた教師は、彼を援助してくれることになった。そしてクーラは、彼を徐々に成功へと導いてくれる人を得ることができた。
 

≪独立と教えること≫

今では、彼は、かつての彼のボヘミアンの生活スタイルを笑っている。しかし、彼はおそらく当時から、強い自立性を保っていた。

彼の次の課題は、iTunesのようなネットのメインのプラットフォームでアルバムを制作し、販売することだ。たとえば、彼の最新のアルバム、ドヴォルザークの歌曲集「Love Song」――作曲家の不可能な愛を伝える感動的なアルバムのような。

またホセ・クーラは、知識を共有したいと考えている。彼はロンドンのロイヤル・アカデミーのゲスト教師で、マスタークラスを教えており、またフランスをはじめとする他の多くの国でも同じことをしている。
彼は情熱的で忠実であり、モナコとモンテカルロ歌劇場とのつよい絆を感じ、頻繁に戻る。





≪インタビュー≫


Q、初めてのワグナーをフランス語で歌う!この経験をどのように表現する?

A、山に登るようだ!
スコアは非常に長く、ボーカルがたいへん複雑であるだけでなく、テキストの量も膨大だ。


Q、新しいレパートリーやタンホイザーのような役柄にどのようにアプローチする?

A、通常、まず台本を学ぶことから始めて、それから、作曲家が、その言葉がどのように聞えると想像していたのかを見つけ出そうとして、音楽を汲み取る。

タンホイザーの場合、これまでになく私は、テキストを覚えるのに苦労したために、そのプロセスは非常に遅かった。
なぜなら、おそらく、私が多くの瞬間、フランス語の歌詞が、音楽と衝突していると感じたためだと思う。
私は、役柄にアプローチするのに、これほど苦しんだことは一度もない!





Q、どのようにして声を発見した?

A、音楽を職業にしようと認識した時、私の夢は、歌ではなく、指揮と作曲だった。しかし80年代に、アルゼンチンで作曲家・指揮者として生き残るのは困難だった。

経済的な理由から、オペラを歌い始めた。はじめは、合唱団、結婚式、ショッピングセンターなどで、わずかなコインと引き換えに歌った。ある日、当時のアルゼンチンでは、これ以上前進できないと認識し、ヨーロッパで運を試すことにした。次に起こったことは、今や伝説の一部だ‥


Q、テノールであり、指揮者、演出家でもある。何が今の最高の喜び?

A、これには答えることができない。子どものうち、どの子が一番好きかをたずねるようなもの。それぞれの分野が相互にリンクされ、このリンクは音楽だ。
(歌、指揮、演出・・)それぞれが独自の特徴をもち、ユニークで、私がそれぞれに感じる喜びも同様だ。だから私は、すべてのことをハードに行うことで、いろいろな楽しみを見いだすことができる。

Q、あなたはロンドンのロイヤルアカデミーの客員教授であり、各地で定期的にマスタークラスをやる。オペラが存在し続けるには、伝えていくことが不可欠?

A、伝えてゆくということは、一般的にも、種の生存のためには不可欠のことだ。

Q、モナコに定期的に戻るが、モンテカルロオペラとは?

A、モンテカルロのオペラチームは非常に才能があり、友好的であるとともに、モナコの国や、人々も好きだ。モナコは、世界でも最高に思う場所のひとつといっても言い過ぎではない。

Q、モナコの何が好き?レストラン?

A、外食は好きではなく、自宅で料理して食べることを好む。モナコでは友人がそのことを知っているので、しばしば自宅に招待してくれる。モナコでの喜びの1つは、1日のはじまりから終りまで、海を見ながら過ごせること。1年のうち、数か月をモナコで住むのが夢だ。





Q、今後のプロジェクトは?

A、タンホイザーのあと、プラハで自分が作曲した「この人を見よ」の世界初演をした。それからボンでピーター・グライムズの演出と舞台デザイン、主演をおこなう。
その先の新しいプロダクションが2つ、プラハでのナブッコと、タリンでの西部の娘。両方とも2018年だ。
同時に、いま私の最初のオペラの台本を書いているところ。
またドヴォルザークの「愛の歌」をリリースした。これは、私の独立したプロデューサーとしての、始めてのデジタル配信だ。




*写真は、クーラのHPなどからお借りしました。
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ホセ・クーラ 家族について、仕事と家庭のバランスについて / Jose Cura talk about family

2017-01-04 | 人となり、家族・妻について

 *2016年7月、ドゥブロヴニク・サマーフェスティバルでの写真(リハーサル中)


現在54歳のホセ・クーラですが、22歳の時に、15歳から付き合っている妻シルヴィアさんと結婚して以来、3人の子どもたちにも恵まれ、安定した家庭を築いてきました。
以前の投稿 「ホセ・クーラ 妻、家族、愛について」 でも、妻や家庭に関するクーラの発言を掲載しました。

今回は、その後、FBやインタビューで紹介された画像や、仕事と家庭の両立に関する考え、映画監督となった長男ベンのインタビューなどを紹介したいと思います。


――子どもたちの成長

昨年11月、ホセ・クーラはめずらしく、自分の3人の子どもたちの写真を2枚、フェイスブックに掲載しました。
つぎのようなメッセージをそえて・・。

「よく子どもについて問われるが、これまで家族をメディアに公開することに慎重だったので、あまり語ってこなかった。今回は特別。もう彼らは子どもじゃない・・。」

1枚目は、1996年撮影のもの。



長男ベン7歳(左)、長女ヤスミン・ゾーイ2歳(右)、次男ニコラス6カ月(真ん中)。
そして2枚目の写真は、20年後の現在・・




2016年9月、20年前と同じポーズでとった3人の姿。マドリードの自宅のようです。
27歳の長男、長女22歳、次男20歳。一番小さかった末っ子のニコは、190cmくらいはある大柄な父をも超えて、身長2m以上に。3人とも、かつてのかわいらしい面影が残っていますね。
すでにベンは結婚してイギリス在住、ヤスミンさんもイギリスの大学で学んでいて、家を離れているようですが、幸せな家族の様子がうかがえます。
クーラも、この子どもたちの父親として、家族のために時間をつくり、役割を果たすために努力を続けてきたようです。


――音楽活動と家庭とのバランス、子どもたちの将来について 2016年クロアチアでのインタビューより(再掲)

Q、キャリアのためにあきらめたことは?

努力をすれば、キャリアと家族の生活のバランスを完全にとることができる。
簡単なことではないけれども、私は公演の間に数日あれば、休息をとる代わりに、いつも最初の飛行機で家に帰った。
また、スケジュールが空いていても、私は多くのプロダクションを断ってきた。それは、少なくとも週に一度は家族に会いたいという私の願いのため。それは不可能ではない。

もちろん、そのために失ったものもあるが、しかし、私は重要な瞬間には、いつも家族とともにいた。
そして、それを証明するのは、私の子供たちが今は立派な大人になっていることだ。
また言うまでもないが、私は31年間、幸せな結婚生活を続けている。確かにこのビジネスでは珍しいかもしれないが。

Q、クーラの名前をもったあなたの子どもたちの将来を心配する?

A、私の名前を身につけることは、彼らがクラシックの音楽家であるなら、おそらく有用であろう。しかし、彼らはそうではない。
私の子どもたちは、すべての息子たちが誇りを持っているように、名前を「着る」が、一方で、それぞれの人生の中で、自分の名前を「仕立て」ていく。





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長男のベン・クーラは、イギリスで学び、俳優として活動しています。さらに映画監督としてCREDITORSを完成させ、多くの賞も受けたようです。
昨年のインタビューで、再び父と家族のことを語っていましたので、その部分を紹介したいと思います。


――世界中を”放浪”する生活のなかで

Q、どういう家庭で育った?

ベン:アルゼンチンで生まれ、1歳の時に、両親とともにイタリアに移住した。6歳の時にフランスに移った。
一度に数週間から数ヶ月間にわたって、世界中を旅行し、繰り返しヨーロッパ中や米国へ旅をした。私が11歳になった時、スペインに移動し、地元のフランス系の学校を修了した。

育った自宅での生活は、オペラ、クラシック音楽、ビージーズ、マイケル・ジャクソンやマライア・キャリー・・英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、そして旅行、世界中のオペラハウスを放浪する――このミックスだった。

そして最も重要だったのは、あらゆる劇場、ショービジネス、世界中を駆け回る狂気のような生活の中で、私の両親が、ごく普通の子どもとして私を育て上げるために、ベストを尽くしてきたことだ。





Q、両親が教えた最良の資質は?

ベン:人の誠実さ、寛大さ、優しさ、そして献身が最も大切であること。お金や持ち物は一面にすぎず、人はそれによって定義されないこと。ハードワーク、情熱、打ち込むこと、何であれ、やりたいこと全てが大切なものだということ。

創造的な職業に捧げる生活をし、その価値を理解するだけでなく、父母たちが育ったのと同様に、子どもを信頼することができる人々に囲まれて育ったことは、私にとって非常に幸運だった。

Q、父のオペラのキャリアから学んだことは?

ベン:自分が正しいと考えて行うことを除いて、自分のコントロールの外にある多くのものがあること。持続とハードワークは常に結果をもたらすこと。そして正直と誠実さは、時に有利な機会を失うこともあるが、それにより安眠を得られるということだ。

(by「Filmcourage」




父ホセの苦闘と信念にもとづいて多面的な活動を広げる歩みをみて育っただけに、ベンが語る中身は、日頃の父クーラの生き方、信条をよく理解し、学んでいるように思います。俳優、監督としてベンの今後も楽しみです。 → インタビューの原文はこちら


――愛犬と

ペットも家族の一員ということで、クーラが2016年のクリスマスのメッセージに添えた愛犬シンバとパルの写真も。

こちらは子犬の頃。



そして現在。




こちらは数年前に病気で死んだ愛犬サミルと一緒の写真。




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あまり多くはありませんが、クーラはこうして時々、家族や愛犬の様子をフェイスブックなどに紹介してくれます。そこには、世界を飛び回るオペラ歌手でありながら、ごく普通の家庭の夫であり、父であり、1人の人間としての、地に足をつけた暮らしを大切にしている様子がわかって、ほっとするとともに、とても身近に感じられます。

またクーラは、以前も何度か紹介しましたが、自分の手を使って仕事をするのが大好きなのだそうです。オペラの舞台デザインの仕事のうえで模型やミニチュアをつくるのはもちろんのこと、家の大工仕事や庭の芝刈り、ガーデニング、野菜栽培など、家庭の分担としても、趣味、気分転換でもあるのか、よくやるのだそうです。
そして昨年の夏の休暇の際に、あたらしく挑戦したのが、「パンを焼く」こと(笑) じっくりこねて発酵させ、時間をかけて焼きあがりを待ち、その結果、大きくふくらんだパンが焼けるのが、とても感動的だったとのこと。何でも即席で安直なやり方が多い現代で、じっくり時間をかけた手仕事の大切さを強調していました。凝り性のクーラらしく、酵母や小麦も試行錯誤して選んだそうです。
そこで、クーラがFBにアップした、自作のパンの写真(笑)を最後に紹介します。

全粒パン


コーンブレッド


スペルト小麦のパン


*画像はクーラのFBなどからお借りしました。
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ホセ・クーラ フェイスブックで語る 過去の歌手と現代の歌手について / Jose Cura on Facebook

2016-11-17 | 人となり、家族・妻について



ホセ・クーラも、フェイスブック上で公式のページをもっていて、情報を発信しています。でも、ちょっと、一風、変わっています。

というのは、クーラが、投稿も、コメントも、自分で書いているうえに、他のオペラ歌手などのページからイメージするような、舞台裏や日常のスナップショット、同僚と一緒の自撮、バケーションやパーティなどの華やかな投稿がほとんどないからです。

その代わりに、フォロワーに問題提起して、考えさせるような、ちょっと理屈っぽい(笑)、ユニークな投稿が少なくありません。フォロワーからの質問に、クーラ自身が何でも答えるというコーナーを設けたこともありました。私の質問に答えてくれたこともあり、いずれまた紹介したいと思います。

もちろん、次の公演の告知やインタビューとか動画の紹介など、普通の投稿もありますし、演出家としても活動するクーラは、プロダクションの演出ノート、作品解釈などについても、投稿して紹介してくれるので、それもフォロワーにとっての楽しみでもあります。
タイムラインの記事の他にも、動画コーナーやクーラが撮影した写真コーナーなども常設されています。





そんなクーラのフェイスブックで、不定期に登場するシリーズが、“COGITO ERGO SUM”(コーギトー・エルゴー・スム)――ラテン語で、「我思う、ゆえに我あり」。
デカルトの有名な言葉をかかげた、一連の投稿です。これをみても、ちょっと理屈っぽそうな感じがわかるでしょう(笑)。
でもその内容は、いつも、社会のこと、オペラ界のこと、クーラの芸術的信条についてなど、とても率直で、知的に刺激的で、考えされられるものばかりです。

今回は、少し前(10月28日)の、“COGITO ERGO SUM”の投稿を紹介したいと思います。例によって、翻訳が不十分なので、ぜひ、直接、クーラのフェイスブックの投稿(英文)をご覧いただければと思います。

話題は、つぎの写真を、クーラがフェイスブックにアップしたのが始まりでした。これは1997年ウィーンでの、フランコ・コレッリを囲む5人のテノールによるコンサートで、クーラの他に、ニコライ・ゲッダ、ガルージン、ザイフェルトらが出演した時のものです。左がクーラ、真ん中はコレッリ、右がゲッダです。
この写真をめぐって、フォロワーの間でちょっとしたやり取りがあり、それをとりあげて、クーラが意見を表明したものです。





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COGITO ERGO SUM

私は長い間、使っていなかったこのセクションに戻る。
マギーとハンスとの間の非常に興味深い意見交換が、2014年の投稿に関してあった。
そこでは、若いクーラが、偉大なマエストロ、コレッリとゲッダ――これまでで最も素晴らしい歌手の2人――と一緒のところを見ることができる。

マギーは述べている。
「私は、ウィーン国立歌劇場のトスカでコレッリを見たが、私はホセの方がもっと良いカヴァラドッシだと確信している!」
そして、ハンスの返信。
「こんにちはマギー。あなたは、少年時代(若い頃の意味か?)のフランコと比較しなければならない。そうすれば、フランコに対して、君のホセに勝ち目はない!」

それらはオペラの伝説の一部であり、私はこの交流を愛するので、この「広い」問題について、私は自分の考えを指摘しておきたい。

まず第一に、「フランコに対して」という言葉は、この文脈では何の関係もない。
マエストロ・コレッリ、またはフランコは、どの偉大な芸術家もそうであるように、代わりのいない素晴らしい歌手だった。
(実際の)アーティストの間では、誰も、誰かに対抗などしていない。このファンタジーをふりまいているのは聴衆だ。 

ハンスとマギーの許可を得て、私は、彼らのコメントを使って状況を分析したい。
(ハンス、このことは、あなたに反対するのではなく、あなたの言葉を使ってこの話題について語るということだ)





すでに亡くなった者だけが良いと言う(またはほのめかす)ことは、現代の観客を喜ばせるために最善を尽くしている新しい世代から、あらゆる改善の願いを奪ってしまう。

私たちが完璧でないから? 本当だ。
私たちが過去の人々ほど偉大でないから? これもまた本当だ(「多分」と言う人もいるだろう…)。

我々は、可能性をもっている。さもなければ、あなたは、録音で満足しなければならない。
若い世代の成長を助けてほしい(私のことではない。私は、間もなく54歳になる、すでに大きな男の子だ)。
彼らを、芝居がかった死体愛好者の疑わしい海に葬るのではなくて。

あらゆる分野において新しい人を必要としているように、私たちには新しい歌手が必要だ。
私たち、私の世代、さらには私たちに先行する世代は、今日、私たちが残す世界に大きな責任を負っている...

私たちが、世界をどのようなものにしているか、私は話すべきだろうか?
私は、あなたたちが新聞を読むように願う... そして、不毛な論争を止めて、新しい地球をつくり始めよう!

過去において、歌手だけが良かったのではなく、私たちが呼吸する空気もより良く、水はより澄んでいて、極地は溶けだしておらず、アマゾンは消えていなかった。
私たちはまた、友人や地域の活動にもっと時間を割いていた(今日、私たちはインターネットでそういうことをやっている)・・等々。

50年前のような歌手を得ることができるだけでなく、50年前にあったような地球を私たちが持てることを願う。
もちろん50年前も、世界には非常にひどい多くの問題があった...だからこそ。

CARPE DIEM!!! (ラテン語で、「今を全力で生きよ!」) 
José




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オペラ劇場での会話から、オペラアリアの投稿動画のコメント欄にいたるまで、必ずといっていいほど、かつての名歌手と比べて云々・・という話がよくあります。クーラ自身も、欧州デビュー以来、いわゆる3大テノールや伝説的歌手たちと常に比較され、第4のテノールなどのレッテルがついてまわって時期もありました。
そういうことをやめて、新しい若い歌手を育てる立場でみてほしい、というのは、かつての経験からも、またいま、マスタークラスなどで才能ある若いアーティストと接するなかで、切実な思いなのだと思います。

またそれから一歩ふみこんで、狭いオペラ界の過去にひきずられた議論から、視野を広げて、もっと社会全体のこと、地球の未来も考えていこう、私たちにはそういう責任がある――この展開は、常に、芸術と現代社会、今日に生きる人間との関係を考え続けている、クーラらしい問いかけだと思いました。

最後に、前にも紹介しましたが、コレッリを囲むコンサートで歌うクーラの動画を。
当時76歳ころだと思われる偉大な先輩を前に、34歳のクーラ、のびやかで瑞々しい歌唱です。

JOSE CURA "Cielo e mare" La Gioconda (Ponchielli)


Jose Cura "Du bist meine Sonne" (Franz Lehár)


Jose Cura "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier

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2006年インタビュー メイクなし、素顔のホセ・クーラ The Real José Cura

2016-04-29 | 人となり、家族・妻について


ホセ・クーラが2006年に受けたインタビューで、私生活、本人の生活、性格などについて、語ったものがあります。
たわいもない、身辺のことについて多く聞いていますが、飾らない人柄、普段の暮らしぶりが垣間見えるので、興味ある方(もちろん私も)にとっては面白いのではないかと思い、紹介します。この第1問と2問の性格について、1も2も「頑固」というのが、笑ってしまいました。自他共に認める頑固者ということですね(笑)。

すでに10年も前のことですので、現在とは、すでに変わっている部分も多々あると思います。ご了承ください。またいつものように誤訳、直訳、ご容赦ください。
原題"Without Make-up: The Real José Cura"

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●性格の主な特徴は?

頑固

●主な欠点は?

同じ。頑固すぎるところ。

●星座は?

射手座

●迷信を信じる?

全く全然

●大人になったら何になりたかった?

大人。“真面目な(シリアス)”とよばれる人間に。実際には、私は永遠の子どものままでいるけれど。

●これまで復讐を叫んだことは?

オペラのなかでだけ。実生活には、それにつながるものは何もない。

●印象に残った本は?

『The Mediocre Man』(『平凡な男』)。ホセ・インヘニェーロス、アルゼンチン哲学者の著書。しばしば、この本のいくつかの章、いくつかの部分を読み返す。



●現時点で、人生に最も欠けているものは?

やっていること、やりたいこと、すべてのための時間。決して十分に持てることはないように思う。

●お金の重要性についてどう考える?

正しく適切に。お金なしで生活する方法も知っていたし、そして今は、ありがたいことに、不足していない。そこには大きな違いがあることを認識している。

●心配していることは?

家族のなかで今ちょうど起きていることのために自分が存在していないこと。息子の野球の試合から十代の娘の初恋についてまで、その事柄の大小にかかわらず。主には、(公演で世界中をまわるため)家庭に不在の父親であることが心配だ。

●どのような権威と権力を持ちたいと思う?政治的役割は?

政治、それは絶対ない。芸術監督や音楽分野の他のポストのオファーを受けてきた。しかし今は、歌と指揮で、より多くの音楽をつくっていきたい。



●誰または何があなたを当惑させる?

当惑というよりイライラを感じるのは、私のキャリアの大部分が、もっぱら「外見が良い」ことに結びついている、とみなす人々に対してだ。私は自分自身が、真面目なプロフェッショナルとして証明されていると信じている。いわば強みと弱点もふくめて。
私のルックスはすでに時間の痕跡を示している。ますます髪はグレーになる。そのプロセスは容赦ない。

●最もリラックスして心を落ち着かせる状況は?

家にいる時。15日間ずっと家にいられたらと思う。

●学校で好きだった科目は?

正直に言って、私は学校はあまり好きではなかった。私はしばしば「アナキスト」だった――学校が課すルールからしばしばエスケープした。しかし、人文・社会科学系の科目は好きだった。

●好きな街は?

好きな街は持っていない。私は、世界の市民、本当に流浪の民だ。

●好きな色は?



●理想的な休暇は?

自宅にいること

●夜型?昼型?

仕事の時は、大幅に夜型になる。しかしもともとは、夜更かしはしない。

●好きな季節は?





●食べ物は?

ちょうど今、再びダイエットに行っていることを言わなければ..。それはデリケートな問題。しかしもちろん、食べ物ととてもよい関係を持っている。

●好きな料理?

何も飾りのないもの。プレーンパスタ。しかし、文字通り熟成したパルメザンで覆いつくしたような...。あなたは、私がパルメザンチーズを食べるために、飾りにパスタをかけていると言うかもしれない。

●赤ワイン?白ワイン?
もちろん赤ワイン。“Barolo”「バローロ」のようなフルボディのワイン。

●楽屋では?
私はスパルタ主義なので、特別なものは何もいらない。ただ飲料水のボトルと紅茶だけ。

●どのように死にたい?

可能であれば年をとってから。しかし、そうでなかったら2つの選択肢。1つは、病気とたたかっての英雄的な死、もう1つは、より簡単に、より苦痛のない死、眠っている間に。

●現在のあなたの考え方は?

最大限ポジティブに。

●あなたのモットー?
今を楽しめ-Carpe diem
この日をつかみ、最大限に活用せよ

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ホセ・クーラ 外見について、フィジカルについて Jose Cura / about looks, physical ability

2016-04-21 | 人となり、家族・妻について


若い頃のホセ・クーラは、とてもハンサムでした。また少年時代からラグビーをはじめ、さまざまなスポーツに熱中し、一時はセミプロのアスリートだったということで、テノールとしては体格も良く、身長190cm近い頑強な体に恵まれていました。

しかしインタビューでも何度か語っていますが、それゆえに直面した困難も大きく、デビュー後に所属したエージェントから、「セクシーオペラスター」路線で売り出され、自らの芸術への道とのギャップに苦しみ、ついにエージェントと決裂する決断までしています。
→ くわしくは「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」をお読みください。

これまでのインタビューで、外見についてのクーラの考え方、また自身のフィジカル面について語っています。興味深い部分を抜粋して紹介したいと思います。



●最大限のものを見せることが責任――2006年インタビューより
人生の30年間をアーティストに相応しくなる努力をしてきたのであって、見た目の良い人間と見られるため費やしたのではない。真面目な音楽家だということを納得してもらうのに数年かかった。

ステージ上でも、私の経歴にも、偶然の結果はない。チャンスも、才能のある人間としての幸運も、メディアが言うような一夜のセンセーションでつくられたものではない。30年間のハードワークの結果だ。



ただ格好良くサムソンやオテロのような役を歌う方法はない。それでは最後の2幕は歌えない。いくら容姿が優れているからといって、ステージにあがり、そのあと何が出来るのか。

オペラの矛盾点の1つは、素晴らしい声が必ずしも素晴らしい外見に伴うわけではないということだ。基礎はともかく容姿の非常に優れた俳優を想像することはできる。しかし彼が声を持たないなら、その容姿の良い男に声を与えることはできない。

完璧なパフォーマーとは、美しい誰かではない。彼自身の身体で与えうる限りを努力をつくしたプロフェッショナルである。他と比べてではない。自分の最大限のものを見せなければならない。これはアーティストとしての責任だ。



●強い心肺機能、セミプロのアスリートだった――04年インタビューより
今日においては、ステージに不向きだからといっても逃げられない。私は若かった時、セミプロのボディビルダーで、カンフーのトレーニングも受けていた。しかし24歳の時にそれらをすべてあきらめた。それは私がすすむべきビジョンのためだ。
当時、私の上腕は太すぎて、自分の後頭部に触れられないほどだった。そのころはシュワルツェネッガーと超人ハルクのルー・フェリグノが私たちみんなのヒーローだった。



長年にわたってセミプロのアスリートだったので、食事法もそこから学んだ。舞台の前には、エネルギー補給のためにパスタの大皿を食べる。メイク、歌、舞台後のあれこれ。一気に5時間、仕事を続けることができる。

20代の5年間は菜食主義者だった。今より20キロ以上、体重は少なかった。今も食事の際のワイン以外に酒は飲まない。なくてはならないものではないが、自宅ではパイプを吸う。外で喫煙はしない。

かつては激しいウェイトトレーニングのために、背中と膝にケガが多かった。しかしジムでの年月のおかげで強い心肺機能をもった。心拍数は安静時52~54、ステージ上においても他の人の安静時の80にすぎない。私は決して息切れしない。



40代になって、髪と爪のためにビタミンEを含むサプリメント、冬はビタミンCをとる。顔に関してはネアンデルタール人だ。舞台できついメイクをするので、妻にはスパでフェイシャルを受けるよういわれるが‥。

毎晩、初めてステージに上がる時、多少の緊張は必要だ。少しナーバスになるのは当然だし、いいことだ。そして、それが観客との間の距離を縮めるのに役立ってくれる。



2004年アテネオリンピックの聖火りレーに参加、オリンピック賛歌と「誰も寝てはならぬ」を歌った。


●「外見がよいと愚か」というのなら・・2010年のインタビューより
Q、あなたのキャリアの初期、雑誌の表紙を飾った。タイトルは「ホセ・クーラーセクシュアル・ドリーム」“Jose Cura- a sexual dream”だったが‥?

A、こうしたキャッチフレーズは私から離れなかった。人々は、私が「セックス・シンボル」だったことを覚えていても、誰も、現在の自分になるために、私がどれほどのハードワークをしてきたかは考えない。
“外見が良く魅力的なら、あなたは愚かだ。賢くて知的なら、ハンサムではありえない”‥こんな決まり文句があるのなら、私は眼鏡をかけ、腹周りを太らせる。これで人々は、私のプロフェッショナルとしての尊厳に気がつくだろうか。

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ヨーロッパデビューから20年以上たち、現在、53歳、体重は若い頃から20キロ以上増え、髪も髭も白いものが目立つようになりました。本人はあえて外見に構わないようにしているようにも思いますが、アーティストとして長年のキャリアを経て、円熟の時を迎えた自然体の姿は、それ自体が魅力的です。自分らしく生きるために、たたかいつづけてきた探求の旅は、まだまだ続きます。



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ホセ・クーラ 妻、家族、愛について

2016-02-26 | 人となり、家族・妻について


世界中を旅して公演を行うオペラ歌手にとって、仕事と家庭の両立は簡単なことではないと思います。
ホセ・クーラは、若い頃とてもハンサムだったこともあり、またデビュー後、「セクシー・オペラスター」というような売り出し方をされたために、プレーボーイのイメージもあったかもしれません。
しかし実際には、家族のために努力を惜しまず、安定した家庭を築いてきたことをさまざまな機会に発言しています。

アルゼンチン出身のクーラは、15歳位からの幼なじみのシルヴィアさんと、1985年に22歳で結婚しています。略歴でも記しましたが、指揮者・作曲家をめざしていたクーラは、生活のためにテアトロコロンの合唱団に入り、それ以外にも、フィットネスクラブのインストラクターや郵便配達など様々な仕事をしていました。シルヴィアさんは女優志望だったそうです。1988年には長男のベンが誕生、そして91年に、親子3人でイタリアに渡りました。

  

欧州移住後、長女、次男が誕生、3人の子どもに恵まれました。シルヴィアさんは女優の道を断念し、クーラが独立して立ち上げたプロダクションCuibarの会計担当者として、公私とものパートナーとなっているそうです。イタリア、フランスを経て、マドリード在住です。

  
長男のベンは、クーラのオペラ舞台に子役として登場したこともあってか、イギリスで演劇・映画を学び、俳優としてデビュー。昨年は初監督映画の「Creditors 債権者」を成功させました。多くの賞も受賞したようです。

左は「運命の力」に出演したベンとパパ・クーラ、右はベンの映画「債権者」の一場面
 

ベンが2013年に出演したミュージカル"VIVA FOREVER!"の主題歌(元歌はスパイスガールズ)を歌っている動画がYoutubeにあります。
VIVA FOREVER!


長女ヤスミンさんはイギリスで写真を学び、次男ニコラスは物理学専攻の学生とのことです。
最近では、クーラのプレス用の写真は、娘さんが撮影しています。クーラは独立独歩の人であるとともに、家族の支えで活動しています。

クーラの外国公演にはほとんどの場合、妻のシルヴィアさんが同行、学校が休みの時期には家族みんなで演奏旅行に行くそうです。
2012年、チェコの世界遺産チェスキー・クルムロフでの公演の際の一家。
 

クーラの家庭観、家族観がうかがえる発言をインタビューから抜粋してみました。

●歌は生活費を稼ぐ素晴らしい方法だが、現実の生活がより重要。幸せな家族を持って幸運だ。そう、ステージ上ではディーヴァ、しかし自宅では普通の男。私は情熱的な人間だ。悲いことを見るとすぐ泣いてしまう。(1997年)

●1991年にアルゼンチンからヨーロッパへ移った。2、3年はレストランで働き、妻も一緒に働き、皿洗いをした。とても苛酷な生活だった。家賃が払えず1年間ガレージに住んだ。夜中は木を集めて、火でガレージを暖めていた。

●家族の土台はとても重要。人間として自分をまともに維持する唯一の方法だ。スタンディングオベーションを受けた舞台を終え、家に帰って子どものおむつをかえる。オペラは素晴らしいが、これも良い。地に足を保つことができる。

●私はポジティブな人間だ。幸運な人間として人生を楽しんでいる。私には美しい家族がある。30年間、妻と過ごし、3人の子どもたちは美しく健康的に育っている。私は願った全てのものを得ることができた。(2009年)

●(あなたは本質的にドンファンか、それともロメオか?の問いに)それを言うのは難しい。ツアー中の時、ドンファンは私の中に住みつく傾向がある。しかし、ロミオは砦を守る。妻にプロポーズした時、こう言った。「私は、あなたと、残りの私の人生をともに過ごしたい」、それ以来30年過ぎた。しかし真実の愛は毎日の闘いが必要だ。さもなければ、それは愛でなく、純粋に順応主義だ。(2010年)

●32年間、妻と一緒にいる。23、18、15歳の3人の子ども(当時)を持つ我々は非常に幸せな家族だ。旅が多いが、私はいつでも彼らのためにある。学校が休みの夏、家族と一緒に演奏旅行に行くことも多い。(2011年)

●(30年のキャリアで一番の栄光を聞かれ)私の栄誉は私の家族だ。15歳から知っている今の妻と、私たちは3人の子どもをもっている。それが私の最大の栄光だ。(2015年)



長男のベンは、初監督作品を完成させて受けたインタビューで、父ホセについて語っています。クーラの父親としての側面の一端がわかり、興味深い内容です。抜粋してみました。
インタビューのリンク(英語)

「父から学んだのは、個人の生活とプロとしての発展の間の健康的なバランス。父ホセは芸術において多面的な人だが、自分にとってより重要なのは、彼が人生の全般において多面的であることだ。父は常にハードに働くことができる人だが、それと同時に、愛と存在感に満たされた家庭生活を維持し続けている。私も自分の生活にそれを適用しようと努力している。」

「父から学んだ大きな教訓は、別の事のために決して他のことを断念しないこと。たとえそのために二重の仕事をしなければならない場合であっても。これが私がこれまで父そして母から受けた最も大きな影響だ。」

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チェコのチェスキー・クルムロフでコンサートをした際のドキュメンタリー。途中、7分過ぎと20分頃に、シルヴィアさんとヤスミンさんも登場しています。
José Cura Documentary (CZ subtitles)


クーラ自身も「愛は毎日の闘いが必要」と語っているように、また誰でも同じですが、夫婦や家族の間には様々な問題もあるかと思います。しかし日々の努力の大切さを自覚し、こうした家族の支えがあるからこそ、何に対しても妥協せずに、自ら信じる芸術の道を歩み続けることができるのだろうと思います。

2014年ヴェローナのアリーナで、クーラ夫妻とバリトンのカルロ・グエルフィ


写真はクーラや音楽祭のFBなどからお借りしました。
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