人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2008年 ホセ・クーラ、生誕150年のプッチーニの生家を訪ねる

2018-11-18 | オペラ・音楽の解釈




ホセ・クーラにとって、プッチーニは、ヴェルディなどとともに最も深いつながりのある作曲家です。

トスカのカヴァラドッシ、西部の娘のディック・ジョンソン、トゥーランドットのカラフ、妖精ヴィッリのロベルトなど、繰り返し出演し、クーラの代表的な役柄が登場するオペラの多くが、プッチーニの作曲です。トゥーランドット、西部の娘は演出・舞台デザインも、西部の娘と蝶々夫人では指揮も行っています。

またエドガールのタイトルロール、マノン・レスコーのデ・グリュー、ラ・ボエームのロドルフォ、つばめのルッジューロ、蝶々夫人のピンカートン、外套のルイージなど、回数は少なく、現在は歌わなくなった演目も含めると、クーラは、ほとんどのプッチーニ作品に出演してきました。

今回は、このクーラが敬愛するプッチーニ、その生誕150年にあたる2008年に、クーラが彼の故郷イタリアのルッカにある生家を訪問した際の関連記事とインタビューなどを紹介したいと思います。



≪ルッカにあるプッチーニの生家とプッチーニ像≫







1858年12月22日生まれのプッチーニ、まもなく生誕160年を迎えます。
プッチーニが生れたのは、イタリア中部、州都フィレンツェの西側にあるルッカという町です。生家は保存され、プッチーニ博物館として公開されているようです。
クーラが訪問したのは今からちょうど10年前、プッチーニ生誕150年の年でした。



≪クーラのルッカ訪問――本の出版会見も≫

2008年10月6日、クーラはルッカを訪問。
一番の目的は、クーラの本がルッカの出版社から発刊され、その会見を、ルッカの市庁舎があるドゥカーレ宮殿で行うためでした。
そしてクーラの希望で、その会見終了後に、プッチーニの生家・博物館の訪問が企画されたようです。

クーラの本とは、「GIÙ LA MASCHERA!―Personaggi a nudo」(『仮面を外せ!―裸のキャラクター』というような意味か)という表題のものです。
内容は、プッチーニのカヴァラドッシやカラフ、デ・グリュー、ディック・ジョンソンをはじめ、ヴェルディのオテロやドン・カルロなど、オペラの有名な男性キャラクターに対して、クーラによる心理的な分析とその本質、生き生きとしたドラマと必然性など、解釈をまとめたもので、心理学者のセレネッラ・グラニャーニさんとの共著となっています。


ドゥカーレ宮殿での会見の様子。クーラと共著者のグラニャーニさん、ルッカの副市長、テアトロ・ゴルドーニの芸術監督、出版社関係者らが出席したようです。



クーラの本の紹介(HPより)



ルッカのナポレオーネ広場の向かいにあるドゥカーレ宮殿


会見場となった美しいホール




≪クーラのインタビューより≫

ホセ・クーラとの午後」と題されたクーラの会見を報道した記事より、主にオペラのキャラクター解釈などについての部分を抜粋して紹介します。


Q、しばしば、キャラクターの解釈を犠牲にしても、歌のパフォーマンスの方が好まれる傾向があるが・・?

A(クーラ)、確かに、オペラの世界では、(演劇の世界で行われたような)必要な革命がまだ到来していない。その中でも、何らかの形で私は改革をすすめようとしている。しかし、今日の歌手は、20、30年前と比べてはるかに優れている。
もし、かつて曲がただひとつの出口だったとしたら、今、われわれは、再解釈を目の当たりにしている。
ニュースをつくるためのスキャンダルは必要ない。注目を集めるためには、現在の社会に照らして作品を読むだけで十分だ。


Q、オペラを観た後に、キャラクターがあまりに不自然で、リアリティーがないと言われることがよくあるが、あなたのパフォーマンスでは、曲と身体の動きが矛盾していない。あなたは幸せな例外か、それともそれは常に実現可能?

A、それは可能であり、非常に自然なものだ。そして可能であるだけでなく、もし私たちが、表面上だけでなく、書かれていることの実体を完全に表現しようとするのならば、それは当然のことだ。
しかし、数年前と比較して状況が大幅に改善されてきている。そしてそれを繰り返していきたい。


プッチーニの生家・博物館で展示に見入るクーラ





Q、キャラクターの分析では、あなたは、誰もが完全に「良い」または「悪い」とはいえないことを理解する必要があると述べているが?

A、成熟した人間は、人がキアロスクロ(濃淡で表現する画法)でつくられていることを知っている。それを否定することはとても愚かだ。
キャラクターの複雑さはここから来ているので、これらの側面を研究することは常に面白い。完全に良いだけの、または悪いだけの人物は退屈だ。


Q、プッチーニのキャラクターについて。プッチーニのキャラクターの現代性は?

A、プッチーニの解釈の最も複雑な要素の1つは、彼の非常に強いエロティシズムだ。セクシュアリティを心地よく受け取れない人、匂い、味、触れ合いを認識できない人――そういう人は多くの困難に遭遇する。

それはフロイトの決まり文句のように聞こえるが、そうではない。私はこれまで性的に抑圧された人にプッチーニを紹介するたび、その結​​果は耐え難いものだった。ここから、この作曲家を表面的に非難する原因となる問題点がつくられる。したがって、障害はプッチーニ彼自身ではなく、解釈する者にある。

また私たちの時代だけが責任を負う別の問題がある。
プッチーニの後のすべてのミュージシャンは、プッチーニのハーモニーとメロディーを発見し、そこから引き出しているが、しかし大衆の大部分はこのことを知らないままに、プッチーニの作品の1つを聞いて、バーンスタイン(Bernstein)またはロイド・ウェバー(Lloyd Webber)、美女と野獣、ライオンキングのような、すでに知られている何かを聞く。

これは、真の情報源を知らないために起こっている。真実を理解するためには時間を遡る必要がある。散漫な者だけが、プッチーニの凡庸を推論している。


Q、その意味で、我々は、プッチーニの作品の文脈から切り離して、同じアリアだけを覚えて、いつも使う。これについては?

A、良い解釈者は、私たちに作曲の偉大さを理解させ、「誰も寝てはならぬ」(トゥーランドットの中でのカラフのアリア)の背後にあるものを少しでも見せることができる人だ。





プッチーニの家のピアノの横で。








≪クーラの共著者グラニャーニさんのインタビュー≫



この上の画像は、クーラの本の共著者で心理学者のセレネッラ・グラニャーニさんのインタビューです。画像に元ページへのリンクが張ってあります。

クーラとの検討、意見交換の経過や、オペラにおける表現の2つの違うアプローチ――キャラクターの深い分析にもとづくパフォーマーと、歌唱や音楽の表現力に頼るスタイル、これらについてのやり取りは、クーラのスタイルとの関係でも、また現在のオペラの在り方をめぐる様々な議論に関連して、なかなか興味深く読みました。
イタリア語で、私にはなかなか意味が十分くみ取れないため、くわしく紹介することができません・・。

このインタビュアーが、本を読んで、クーラの思考の深さ、分析力に驚き、圧倒されて、また深く共感しているようなのが印象的です。
クーラの本は、イタリアのアマゾンなどでは入手可能なようですが、イタリア語で書かれていて、読むのは簡単ではありません。
もしイタリア語を勉強するゆとりができたら、読み込んでみたいものです。



グラニャーニさんとクーラ




*画像は紹介した記事などからお借りしました。
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ホセ・クーラ テノールの高音とドラマの解釈――トゥリッドゥのアリアに関して

2017-06-02 | オペラ・音楽の解釈



これまで何回か紹介してきましたが、カヴァレリア・ルスティカーナの主人公トゥリッドゥは、ホセ・クーラが長年歌い続け、愛してやまない役柄です。
すでにクーラは、50歳代になってこのトゥリッドゥの役は「卒業」したそうですが、つい先日、クーラのインスタグラム上で、フォロワーからトゥリッドゥのアリア「母さん、あの酒は強いね (Mamma, quel vino è generoso)」の歌い方について質問が寄せられ、クーラが回答していました。
その中身が、クーラのオペラの歌唱と演技に対する姿勢をよく示していて興味深かったので、紹介したいと思います。

クーラは、インスタフェイスブックの投稿は自分で管理しているので、時折、フォロワーのコメントに返信してくれたり、時間があれば、このような質問に対して、丁寧に答えてくれることがあります。私も何度か返信をもらって、とてもうれしかったことがあります。

以前は、質問コーナーを開設して、さまざまな質問にまとめて回答したこともありました。 →  「ファンの質問に答えて」


今回は、特にそういう質問受付中ではなく、クーラはベルギーのワロン王立歌劇場でオテロのリハーサル中だと思われます。
いつものように不十分ですがざっくり訳してみました。誤訳、直訳、お許しください。







(フォロワーの質問)
●なぜ他のテノールのようにハイノートを伸ばさない?

質問してもいいですか?
1996年のラヴェンナでのカヴァレリア・ルスティカーナ、またそれから数年後のあなたのパフォーマンスについて。
トゥリッドゥの最後、「母さん、あの酒は強いね (Mamma, quel vino è generoso)」の終わりの「さようなら(addio)」で、あなたはどちらの公演においても、多くのテノールがやっているように(私のすべての時代におけるオペラのヒーロー、コレッリは特にそうだ)、ハイCを思い切り伸ばすことをしていない。

その理由は、単に作曲家マスカーニがその部分をハイCで書いておらず、それは、悲惨なトゥリッドゥを、大声をたててではなく、すすり泣く声とともに去らせるため――彼が最後に自分の愚かさを理解していたということからなのだろうか?

私はもちろん、あなたがそれ以上のことができることを知っている。
私は、本当にその理由を知りたいと思う。

(追伸)お世辞ではなく、両方のパフォーマンスは並外れていた。あなたは、歌だけでなく、演技も素晴らしい。







(クーラの回答)
●オペラは勇気ある解釈を必要としている


まずはじめに、それはハイDo(C=ド)ではなく、La b(A=ラ)であり、テノールにとっては容易な音だ。
だからそれを長く伸ばすことは、技術的な問題ではなく、(悪)趣味の問題であり、さらにはドラマに関する問題だ。

トゥリッドゥは母親の腕を振りほどいて去って行き、死ぬ。彼は走り去りながら、声を乱しているので(breaks the note)、テノールが何かを証明するために、それを伸ばすことはできない。それ(スコア)は、まさにそのように書かれている。

「ある晴れた日に」( "Un beldìvedremo")の終わりと同じだ。そこでは、蝶々夫人は、感情の高まりによって、彼女のハイSib(B=シ)を壊すべき( should break )である。それを永遠に伸ばしてはならない。

しかし、誰もそうしない。それは、声を乱すと良い歌手ではないと言われることを恐れているから...(ため息)。

現代的なオペラになるためには、勇気ある解釈を必要としている。きまぐれな演出などではなく...。









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この動画が、質問者が例にあげた1996年のカヴァレリア・ルスティカーナ、ムーティ指揮の舞台のトゥリッドゥのアリアです。
Jose Cura 1996 "Mamma quel vino è generoso"



ファンとの対話を大切にすることや、オペラの解釈、芸術的な問題について、率直に、フランクに語る、クーラらしい回答です。
また、オペラにおいて、クーラは、テノールのテクニックやハイノートを見せ場にするのではなくて、スコアと脚本に誠実に、ドラマと登場人物のキャラクター、心理に立脚して、一つ一つの音、歌を組み立てているのがわかると思います。オテロでも、ドラマのためには声を歪ませることを避けてはならないと繰り返し発言しています。

これまでもクーラに対しては、かつての伝説的な歌手のように歌わない、ここぞという「聞かせどころ」で期待どおりに歌わない、という批判が少なくありませんでした。しかしそれは、きまぐれや自己流、ましてや歌えないのではなく、オペラのドラマを描き出すアーティストの信念にもとづいたものということができると思います。この点でも、頑固です(笑)。そこがまた魅力でもあります。








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ホセ・クーラ 道化師の解釈 "私は仮面の背後にいる" / Jose Cura / Pagliacci

2016-05-24 | オペラ・音楽の解釈


レオンカヴァッロのオペラ、道化師は、ホセ・クーラが、ヴェルディのオテロに次いで、数多く歌い、演じてきた役柄だと思います。
クーラのこのオペラと主人公のカニオへの思い入れはとてもつよく、歌手として最後に歌うのはカニオだ、と語るほどです。
いくつかのインタビューから、クーラが道化師とカニオについて語った部分を抜粋しました。
また、動画やエピソードも紹介したいと思います。

以前の投稿「カヴァレリア・ルスティカーナと道化師の演出」や、「年齢と役柄について、コレッリ、カルーソー、パヴァロッティ・・」でも、道化師の作品論、解釈や自分の思いについて語った内容を紹介しています。よろしければご覧ください。

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●私は「カニオ症候群」ではない
はじめて1996年にカニオを演じた。ほとんどの赤ん坊のように見えた。髪を白く染めていた。今また髪を染めるが、それは年寄りに見えすぎないためだ。もちろん自分のカニオは、長い間にたくさん変化してきた。

これまでのところ、私自身は「カニオ症候群」には罹ってはいない。これはコメディアンの危機に関することだ。現実の人生における仮面。それは誰にでも、しばしば起こること。そのリスクは、役者だけでない、サッカー選手にも、政治家にも、誰にでも。

私は、危険で傲慢な男たち、アルコール依存症を演じる。観客は、私が実際生活の中でもそのようだと思う。彼らは、「クーラは嫌な、傲慢で神経質な奴だ」という。しかし実際に私に会った時の印象は違う。もちろん私は、ステージ上の人物とは違う。

●マスクの下の本当の顔
オペラの後半、カニオのアリアで、彼は、自分はピエロじゃないと歌う。マスクの下、それが本当の顔だ。人は常に、自分が本当は何者であるのか、いかに仮面に屈しないか、を考えなければならない。



●ショー・ビジネスの縮図
道化師の物語は、ある意味では、ショー・ビジネスの縮図のようなものだ。若い女性を利用する老人、一緒にベッドにいけば大きなキャリアを保障するという。これは今日でも、非常に一般的だ。ショー・ビジネスの一方の側面。

他の側面もある。自分のキャリアをつくるために老人を誘惑する若い女性。キャリアのために彼を利用し、ディーヴァになった次の瞬間には、彼を捨てる。これもまた、今日も一般的なことだ。

これらはもちろん、貧しいピエロの団体から、オペラ団体、またはあらゆる重要なステータスの段階においても、共通すること。
背後にある物語は、完全に近代的で、ショー・ビジネスの明確な描写だ。



――2015年スロバキアのインタビューより
●オペラ・道化師との出会い
1995年(96年?)、コンセルトヘボウ管弦楽団とのテレビ放送のためのコンサートが最初だった。それ以来、カニオを約150回演じた。演出とセット設計もやっている。

●業界の変化、若いアーティストの苦労
音楽業界は過去10年で大きく変わった。新しい才能はたくさんあるが、若いアーティストはビジネスへの対処に苦労している。
今日、物事が異常な早さですすむために、彼らは翼をあまりに早く燃やしてしまう。

その結果、近い将来、「一流」のアーティストの不在が問題だ。
「一流」のアーティストは、ただ美しく演じる者ではない。個人のスタイルを確立する勇気があり、誇りとリスク、言うべきことをもっている者のことだ。

もしアーティストが誰からも受け入れられているなら、それは「前に進んでいない」ことを意味する。もしアーティストが何度も同じ古いことを繰り返そうとしているなら、それにお金を費やす必要はなくなる。

伝説的なミレッラ・フレーニから、プライベートレッスンを受けたことはないが、最良の方法を彼女から学んだ。ステージ上のパートナーとして間近に彼女の驚くべきテクニックを見た。最高の特権的レッスンだ。

●オペラの生き残る道は?
知的誠実さと解釈の上での誠実。常連を喜ばせるだけの解釈では、若い観客をひきつけることはできない。シリアスであることとイノベーション、困難だが根本的なことだ。

●今年一番嬉しかったことは?
初めてマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮したこと。私は、もう一度、すぐにこのような「地球外の経験」をくり返すことが待ちきれない。

●最後に指揮するなら?
バッハのミサ曲 ロ短調 (BWV 232)を最後に指揮して、指揮者としての人生を終えることができるなら、私にとっては夢のように素晴らしい別れだ。

●歌手として最後に歌うなら?
道化師として人生を終了したい。
“Remember I that I have never been this mask, but the man behind it!”.



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クーラは2009年にニューヨークのメトロポリタンオペラで、道化師とカヴァレリア・ルスティカーナに出演しています。その時の素晴らしい観賞記が、以前オテロの時にも紹介しましたが、ニューヨーク在住のmadokakipさんのブログに掲載されています。
クーラの解釈、表現を、本当に的確につかんだレポートです。ぜひお読みください。 → ブログのリンク


またmadokakipさん選出のシーズンBest Moments Awardsにも選ばれています。 → ブログのリンク

2009年のメトロポリタンオペラでの道化師、「衣装をつけろ」をYouTubeから。音声のみ。
Jose Cura 2009 "Recitar! ... Vesti la Giubba" Pagliacci


さかのぼって若い頃の動画を。2000年頃の「もう道化師じゃない」
Jose Cura 2000 "No, pagliaccio non son!" Pagliacci


こちらは2011年、リセウ大劇場
PAGLIACCI (Liceu 2010-11) "Vesti la giubba?


DVD・ブルーレイになっている2009年のチューリッヒのカヴァ・道化師出演時にテレビが取材。舞台や化粧室の様子、公園で写真を夢中で撮ってたり、食事中気さくにインタビューに答える様子など、楽しい動画。
kulturplatz - José Cura: Tenor für alle Fälle


チューリッヒの舞台のブルーレイは、今1000円を切るお手頃価格で販売されているようです。まだご覧になっていない方はぜひ。おすすめです。


ホセ・クーラがどれほど道化師を愛しているかをうかがわせるのが、クーラの愛犬の名前。その名もカニオ。そのほかにも2匹飼育しているとFBで紹介されていました。


アーティストとしてのキャリア全体をつうじて、解釈を深め、歌い、演じてきたクーラの道化師。ぜひとも、日本でもその迫力の舞台を見せてほしいものです。ファンとしては、最後にカニオを歌う日が、まだまだ先であることを願っています。



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トスカ ホセ・クーラの“ヴィットリア!”と通行証の謎 Jose Cura / Tosca /Puccini

2016-05-02 | オペラ・音楽の解釈


プッチーニのトスカも、ホセ・クーラが1995年以来、60回近く、長く出演し続けているオペラです。
前の投稿でも紹介しましたが、クーラは「人格的な意味で共感できる役柄は、アンドレア・シェニエとマリオ・カヴァラドッシ。両者は類似している。自ら信ずるものを守るために立ち上がり、そしてそのために死ぬ」と述べています。数多いオペラで自分が演じるキャラクターのなかで、カヴァラドッシは数少ない、共感し感情移入できるテノールの役柄の1つのようです。

ちなみに一番多く演じているオテロは、複雑で深い心理をもつ役柄として、取り組むたびに新たな発見があり、一生をかけて分析、解釈し、歌い演じ続けているが、個人的には自分とは似ていないし、感情移入もできる人物ではないと、インタビューなどで語っています。

トスカのカヴァラドッシは、圧政のもとで共和主義者を匿い、拷問にかけられながら、黙秘をつらぬく志ある人物として描かれています。
実は、クーラが青少年期を過ごしたアルゼンチンも、クーデターでつくられた軍事独裁政権の時代(1976年~1982年)でした。
独裁政権に反対する多くの人々を投獄、拷問、殺害、子どもや青年を拉致しました。「行方不明」となった人が数万人ともいわれます。今も、奪われた子どもや孫を探し求める母親たちのたたかいは続いています。「オフィシャル・ストーリー」という映画でも描かれました。

軍事政権がイギリスとの間に起こしたフォークランド戦争の際は、クーラは学生でしたが、徴兵制のもとで予備隊にいたそうです。戦争が長ければ前線に送られた可能性もありました。「戦争が短かったことを神に感謝した」と述べたことがあります。その後、クーラは、フォークランド戦争を追悼するレクイエムを作曲しています。
 詳しくは以前の投稿をお読みください→ 「ホセ・クーラ 平和への思い、公正な社会への発言」

●ホセ・クーラの“Vittoria”
こうした背景をもつクーラは、紛争と平和の問題でも積極的に発言し、平和へのつよい思いをもっています。彼が演じるカヴァラドッシの“Vittoria”には、私は、演技を超えたものを感じます。

ホセ・クーラ、自由への魂の叫び。プッチーニのトスカからカヴァラドッシの"Vittoria"(2000年)
J.cura-Tosca-Vittoria


2010年ウィーン、前の人の影で歌う姿が見えないが、スカルピアにつかみかかり憲兵に取り押さえられそうになっても振りほどき、なおもつかみかかろうとする、執念の、たたかうカヴァラドッシ。
TOSCA Wiener Staatsoper 17.02.2010




 

●通行証の謎とホセ・クーラの解釈

トスカのオペラでは、トスカがスカルピアと取引した後、スカルピアを殺害し、得た自由への通行証をもって喜びを歌います。しかし結局、それはスカルピアの巧妙な罠だったのでした。
それではカヴァラドッシは、このスカルピアの罠に気づいていたのでしょうか、いなかったのでしょうか?
セリフと音楽だけを聴くと、2人で喜びの歌を歌っているように、気付かないままに悲劇の結末に向かっているようにも思います。ネット上の動画をみてみると、あいまいなものもあり、演出や歌手によっていろいろのようです。

これに対し、ホセ・クーラの解釈は明快です。彼は見抜いていたのです。クーラは、カヴァラドッシは共和主義者であり、圧政に抵抗し続けている人物であり、そのような人物が簡単にスカルピアを信じ、だまされるはずがないという解釈です。

DVDが発売されている2000年バーリでの舞台のクーラの演技は、通行証を確認した後、スカルピアの罠に気付き、浮かれるトスカの陰で、通行証を丸めて投げ捨て、大きくため息をつきます。その後、死を覚悟し、残り少ないトスカとの時間を惜しんで、愛と失われつつある人生を哀切に歌います。そして刑場へ連行する警吏を冷たく鋭く一瞥します。













2014年ハノーファーの舞台でのクーラのカヴァラドッシも、「気付いていた」。
通行証を見て理解したカヴァラドッシは、一瞬絶望の表情を浮かべるが、大きくため息をつき、トスカの思いを尊重して、別れを惜しみます。










「偽の」処刑の解釈で、最後の二重唱の解釈も変わってきます。
ホセ・クーラは、永遠の愛の喜びとともに、トスカと自らの人生への哀惜、諦観を表現します。
2014年ハノーファーでのラストシーンの動画を。
Jose Cura "O Dolci Mani" Tosca


José Cura Last duo from NDR Klassik Open Air "Tosca" 2014 HANNOVER


最後に、やはりカヴァラドッシといえば名曲「星は光りぬ」を。
2000年バーリでの舞台。終わって拍手がやまず、“ブーブー”と聞こえるかと思いましたが、“ビスビス”とアンコール求める声でした。
Jose Cura, " E lucevan le stelle " - Tosca, 2000


2014年ハノーファーの野外舞台から。
Jose Cura "E lucevan le stelle"
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アンドレア・シェニエの解釈――信じるものを守るために立ちあがる Jose Cura / Andrea Chénier 

2016-04-29 | オペラ・音楽の解釈


ホセ・クーラの最後の来日は2006年、ボローニャ歌劇場のジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」でした。共演はマリア・グレギーナ、バリトンのカルログエルフィ。ボローニャでの公演がDVDにもなっていますし、来日公演をご覧になった方も多いかと思います。
 →クーラのHPのDVD紹介ページ

 

ボローニャ歌劇場でのリハーサル風景
Rehearsing Andrea Chenier in Bologna (exerpt)


クーラは、このアンドレア・シェニエを、共感できるオペラのキャラクターとしてあげています。
いくつかのインタビューからシェニエの解釈や作品論を、またいくつかのクーラの録音などを紹介したいと思います。

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●共感できるのはシェニエとトスカのカヴァラドッシ
人格的な意味で共感できる役柄は、アンドレア・シェニエとマリオ・カヴァラドッシ。両者は類似している。自ら信ずるものを守るために立ち上がり、そしてそのために死ぬ。

ジョルダーノのアンドレア・シェニエとプッチーニのトスカ、2つのオペラは構造も非常によく似ている。アリアの場所、デュエットの文脈、これらは実質的に同じだ。アリア「星は光りぬ」と「五月の晴れた日のように」は兄弟だ。

シェニエの作曲はトスカに4年先行している。シェニエと違って、トスカは途切れのない傑作だ。しかしシェニエとカヴァラドッシは、ともに人間的にポジティブ。ステージに行くたびに、「自分自身であること」を主張し、そして死ぬ。



――2014年ストックホルムでのインタビューより
●彼らは変革の萌芽

彼らは人々の魂に向けて語る。画家、作曲家、演奏者、哲学者、詩人など、いわゆる知識人であり、彼らは常に変革の萌芽である。

そのために彼らの多くは、身体的または社会的な死をも含む高い代償を払ってきた。アンドレア・シェニエはそうした人々の1人。彼は両方の代償を払った。最初は社会的な信用を奪われ、そしてギロチンに。

私自身が一種のドン・キホーテなので、シェニエであることにくつろぎを感じている。
シェニエの性格と精神を明らかにしている"Improvviso"(独白)は、真のプロテスト・ソング(抵抗の歌)だ。

●ジョルダーノは良い作曲家だが、天才ではなかった
アンドレア・シェニエのオペラ全体の中で、最も重要であり、キャラクターにとってのターニングポイントとなるフレーズの一つは、ぎこちなく音楽に埋もれたままになっている。
それは、“La eterna cortigiana curva la fronte al nuovo iddio”(同じ年老いた売春婦が新しい神にひざまずく)。群衆が新しい司令官に盲目的に熱狂している様をみながら、シェニエが言う言葉だ。

(キーとなるフレーズが埋もれていること等について)ジョルダーノは良い作曲家であったが、天才ではなかった。ヴェルディやプッチーニならば、このようなことは想像もできない。

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クーラがこのオペラ全体のキー・フレーズだと指摘したセリフは、ボローニャ歌劇場の公演DVDでは「永遠の奴隷だ!新しい神を拝もうと列をなして!」という字幕がついていました。確かに、音楽の流れの中に埋もれており、指摘されて改めて見なければ、このフレーズは印象に残らず、見落としてしまうと思いました。
フランス革命のなかで力を発揮し、その後の恐怖政治、反革命、混乱の時代のなかで断頭台に送られたシェニエ、そのシェニエをめぐる時代のうねりと転換点を見すえたシェニエの透徹した視点を示すフレーズが、オペラのなかで十分に生かされていないというのが、クーラの指摘なのだと思います。
クーラ自身、情熱的な熱血漢で、社会的関心も高く、シェニエの人物像に共感を感じているだけに、また、そして、作曲家、指揮者としても活動しているクーラだけに、シェニエの人物像、物語をより深めることに十分成功していないジョルダーノの音楽上の弱点を指摘しないではいられないのでしょうか。



クーラが人格的に共感できるという悲劇の詩人シェニエ、クーラのこれまでの動画や録音からいくつか紹介します。

1997年、ウィーンでコレッリを囲むコンサートより。「5月の晴れた日のように」。熱く歌いあげている。今の成熟した声、表現とはまた違う若い魅力がある。
Jose Cura "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


同じく、シェニエの辞世の句「5月の美しい日のように」、1999年パリ、コンサートのため、やや明るめの表現でドラマティックに盛り上げている。
Jose Cura 1999 "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


アンドレア・シェニエから第2幕の二重唱「甘美な時よ、崇高な愛の時よ!」を。2001年ベルリンでのコンサートより(音声のみ)。録音良くないが美しい。
Jose Cura 2001 "Ora soave, sublime ora d'amore!" Andrea Chénier


一番最近のもので録音がある、同じく「5月の美しい日のように」の2013年ウィーン国立歌劇場。解釈を深め円熟した味わいのシェニエ。革命の激動に散った詩人の生への哀惜、誇りと諦観が切ない。
Jose Cura 2013 "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


最後に、上にあげたものとダブりますが、クーラの「5月の美しい日のように」だけを年代別に1999、2001、2004、2013年と並べたマニアックな(笑)ものを。こうして聴くと、初期の若々しい声の魅力とともに、年を重ねるごとの解釈と表現の深まりが聴きとれるように思います。
José Cura Andrea Chénier "Come un bel dì di maggio" 1999~2013










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ホセ・クーラ トゥーランドットの解釈 Puccini / Turandot Jose Cura

2016-03-18 | オペラ・音楽の解釈

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ホセ・クーラは、2003年のロールデビュー以来、プッチーニのトゥーランドットのカラフ役に継続的に出演しています。
今年2016年には、ベルギー・リエージュのワロニー王立劇場で、ついにトゥーランドットを演出することになりました。カラフで出演もするようです。
クーラのHPによると、9/23、25、27、29、10/1、4の予定です。
“トゥーランドットはプッチーニの自伝的作品”“カラフは冷酷で権力志向”とかねてから語ってきたクーラのトゥーランドット解釈がどんな舞台になるのか、たいへん興味深いです。 

 → クーラ演出を紹介した記事まとめ 演出―トゥーランドット  クーラの演出構想メモやインタビュー、レビューなど記事5本

2006年にチューリヒ歌劇場で初演され、繰り返し再演される人気のプロダクションに主演した際の、写真、動画、そしてインタビューから、クーラのトゥーランドットの解釈に関わる部分を紹介します。



●物語の核心は、女性の世界と男性の世界との対決
トゥーランドットは愛の物語ではない。貪欲な人々が、権力と利権を奪取しようとする話だ。
カラフは彼自身の王国を失い、別の王国を世界中で探して旅していた。彼は望むものを手に入れるために愛する人を危険にさらす。
プッチーニのオペラ、トゥーランドットの核心は、トゥーランドットの世界(女性の世界)とカラフの世界(男性の)との間の対決だ。それは偉大な謎。フロイトの理論。カラフのエゴイズムが王国の征服に乗り出す。



●カラフの仮面の裏は
カラフのキャラクターはロマンチックではない。王女トゥーランドットはカラフを愛するが、カラフは彼女の王国、金と権力のために彼女を望んでいる。彼は表面的には魅力的だが、仮面の裏は、愚かでうんざりさせられる。

カラフは冷酷な男であり、冷血、権力志向。リューの献身と犠牲、父のために全く配慮をもたない愚かさだ。目にした女性の性的魅力にひかれるが、しかし彼女のために自らの愛情の感情をまったく発展させていない。

私自身は、心理的に深い役柄がすきだ。しかしカラフは、深みのない非常に一面的な男。私が何年もカラフを避けてきた理由でもある。
カラフの中には、蝶々夫人のピンカートンを見出すことができる。小児性愛者であり、15歳の少女を誘惑して痛みを感じない男だ。



●トゥーランドットの特殊性
トゥーランドットは非常にトリッキーなオペラだ。「誰も寝てはならぬ」その1曲だけで有名になっている。しかしオペラは本当に非常に複雑だ。女性と男性の間の紛争や対立の意味で、非常にフロイト的だ。



●プッチーニの後を引き継いだアルファーノの評価
プッチーニが途中で死に、その後を引き継いだアルファーノ作曲の部分について、「アルファーノはたわごとの仕事をしてくれた」 と言うのは間違っている。それは公正でない。
彼はプッチーニではない。彼ができることを行い、師に奉仕しようと謙虚に、最善のことを行った。



●最後のデュエットの意味
演じる際、特に最後のデュエットで、より身体性を示す。最後のデュエットは、まさにフロイト的瞬間だ。心理的にではなく、性的に彼に降伏する。もちろんステージ上でセックスはできないが、私たちは想像しようとする。




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クーラのカラフ解釈がよくわかる演出、演技が、チューリヒのプロダクションです。
非常に残念ですがクーラのカラフには正規の映像がありません。Youtubeからいくつかの動画を紹介します。

クーラが「冷酷な男、権力志向」「同じ男と思われたくない」というカラフの「 泣くなリュー」
Jose Cura "Non piangere, Liù" Turandot


一刀両断にカラフを切り捨てるクーラ、やはり少し傲慢に、しかし非常にセクシーに魅力的に演じています。
「誰も寝てはならぬ」06年チューリヒの動画
Jose Cura "Nessun dorma"


問題のラストシーンの動画。ぜひご覧になってください。クーラの解釈、「身体性を示す」演技が見どころ。そして、ユニークで、あっと驚かせるラストの演出も必見です。
Jose cura "Principessa di morte!" Turandot (Act3 amazing last!)


チューリヒのプロダクションには何度も出演していますが、ますます過激になる二重唱のシーン‥。2011年、トゥーランドットはマルティナセラフィン。
Turandot - Principessa di morte, principessa di gelo... Finale


●クーラ語録
「オペラ、トゥーランドットが歌い続けられているのは、音楽が素晴らしいからであり、美しく、そしてそれを歌うことが、本当の喜びを与えるからだ。」
「プッチーニのオペラ、トゥーランドットは、ボーカリストに新しい地平を開く作品だ。」

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最後におまけ。最近のクーラのカラフの動画を。2015年5月のドイツ、ボン歌劇場の舞台から、「泣くなリュー」を。まだまだパワフルで、迫力あるカラフです。
José Cura - Turandot - finale 1 atto

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