人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(準備編)2018年 ホセ・クーラ、ヴェルディのナブッコをプラハで演出 / Jose Cura directs Verdi's Nabucco

2018-05-29 | 演出―プラハのナブッコ




この6月、チェコのプラハで、ホセ・クーラが演出・舞台デザインするヴェルディのオペラ、ナブッコが開幕します。
以前も、すでに始まっている準備の様子を(告知編)で紹介しました。

プラハ国立歌劇場は、2001年にはクーラとともにヴェルディのアイーダで来日したこともあります。それ以外にも来日は多く、日本にもなじみの深い劇場です。

*補足 
チェコのプラハには、たくさんの劇場がありますが、そのうちの主要な5つ――国民(国立)劇場(1883年)、国立歌劇場(1888年)、エステート劇場(1783年)、新劇場(1983年)、カーリン・ミュージック シアター(1881年)が、国民劇場の傘下におかれ、オペラ、バレエ、演劇などをそれぞれの劇場で上演しているようです。
すべての演目は、国民劇場(The National Theatre)のHPで紹介されています。

今回、クーラのナブッコが上演される劇場は、ヨーロッパでも最も古い歴史をもつ劇場のひとつで、その美しさでも有名なエステート劇場カーリン・ミュージック シアターです。

*会場についてはカーリン・ミュージック シアターが正しいようです。失礼しました。国立歌劇場が2年間の修復工事中のためとのことです。


5月16日に、劇場がFBに、あたらしい写真を投稿してくれました。本格的なリハーサルにむけたプレゼンテーションのようです。この写真を中心に紹介したいと思います。
今回の演出構想などについて、クーラはまだSNSには掲載していません。どのような舞台になるのでしょうか。







Information
Musical preparation: Andreas Sebastian Weiser
Stage director: José Cura
Sets: José Cura
Costumes: Silvia Collazuol
Chorus master: Adolf Melichar
Dramaturgy: Jitka Slavíková
The State Opera Chorus and Orchestra





日程は、来年2019年6月までの15公演が発表になっています。6、7月分のチケットはすでに販売されています。ネットで購入できます。
来年の7月までのロングラン、この時期にプラハ旅行をご予定の方には、鑑賞をご検討されるようお勧めしたいです。
→ プラハ国立歌劇場HP



キャスト、スタッフらに具体的な演出内容を説明しているのでしょうか。




ノートPCを使い、プロジェクターでスクリーンにデザイン画などを映し出しながら、舞台構想、衣装などを紹介しているようです。




これが基本的な舞台セットなのでしょうか。昨年5月にボンで舞台デザインを手がけたピーター・グライムズの写実的な舞台とは打って変わって、抽象的で、シンプルなセットのように見えます。




今回は、衣装デザインはクーラではなく、別のデザイナーが担当しています。ナブッコの娘アビガイッレ(ソプラノ)の衣装の1つのようです。
これだけでは、まだ時代設定がいつなのかなどもよくわかりませんね。




スタッフか出演者からの質問に答えているところでしょうか。クーラはとても楽しそうです。





こちらはナブッコのもう1人の娘フェネーナを歌う、メゾソプラノのエスター・パウルさんのインスタから。彼女は以前、プラハ交響楽団のクーラのマスタークラスに選抜され、修了者とクーラとのコンサートにも出演したチェコの若手歌手です。すでにスコアにもとづくリハーサルが始まっているようです。


Rehearsal in National Theatre Prague :-) #rehearsal#nabucco#verdi#fenena#josecura#opera#music#singeroninstagram#

Ester Pavlů-Opera Singerさん(@esterpavlu)がシェアした投稿 - <time style=" font-family:Arial,sans-serif; font-size:14px; line-height:17px;" datetime="2018-05-25T09:03:51+00:00">2018年 5月月25日午前2時03分PDT</time>




5月18日にアルゼンチン在住のお母さんを亡くしたクーラ。しかし舞台の初日は待ってくれません。初日は約1か月後の6月28日です。ゆっくりと母との別れを惜しむ間もなく、故郷から遠く離れた外国での多忙な日々に戻らざるを得ないと思うと、舞台人の宿命とはいえ、胸が痛みます。

自分のプロダクションの作業が始まると、早朝から深夜まで劇場に詰めきりになるというハードワーカーのクーラ。今年は、このナブッコの後にも、9月にはプッチーニの西部の娘の演出・舞台デザイン・指揮という新プロダクションも控えています。

多面的な活動で、常にフルに活動を続けています。ぜひぜひ、健康には留意してほしいものです。そして新プロダクションの大きな成功を願っています。




*画像はプラハ国立歌劇場のHP、FBなどからお借りしました。
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(インタビュー編)2018年ホセ・クーラ、ボロディナとマリインスキーでサムソンとデリラ /Samson et Dalila /Jose Cura &Olga Borodina in Mariinsky

2018-05-25 | サンクトペテルブルクのサムソンとデリラ




2018年5月5日にロシア・サンクトぺテルブルクのマリインスキー劇場で、サムソンとデリラに出演したホセ・クーラ。このクーラのサンクトペテルブルク訪問に合わせて、クーラのインタビュー記事が掲載されました。
このインタビューは、昨年、オネーギン賞授賞式のためにサンクトペテルブルクを訪問(2017年10月)した際に取材を受けたもののようです。

子どもの頃からの音楽への歩み、人生観、芸術観、アーティストとしての信念などがよく理解できる内容なので、抜粋して紹介したいと思います。ちょっと長めですが、お付き合いいただければうれしいです。
原語がロシア語なので、いつものように、誤訳直訳、不十分な点はお許しください。

→ 元のページはこちらをご覧ください。 operatime.ru







ホセ・クーラ――重要なのは、有名であることではなく、あなた自身の環境に有益であること


Q、今回の訪問(2017年10月)は非常に短いと聞いた。 サンクトペテルブルクへ、ロシアへ、もう少し長い間、来たいと思う?

A(クーラ)、もちろん! 今までロシアでは、オペラの公演で歌ったことがないので、ここに歌いに来るのは素晴らしいだろう。
オペラ歌手としての私の時間はいずれ終わることを知っているので、伝説のマリインスキー劇場で、オテロやピーター・グライムスなどの役柄のなかから歌うことができるなら、それは素晴らしい。


Q、あなたの子供時代について。あなたの家で音楽は? 両親は音楽と関係していた?

A、両親はプロのミュージシャンではなかったが、父はピアノを弾いた。毎晩、父は仕事から家に帰ると、ただ自分自身の楽しみのために、ベートーベン、リスト、ショパンを少し演奏した。1974年、父は自動車事故で腕を怪我し、その後再び弾くことはなかった。

私は1962年12月に生まれた。つまり、人生の最初の11年間、家でピアノの音楽を聞いていたが、その後、それは止んだ。しかし、私はいつも音楽とつながっていると感じていた。
両親はいつも音楽に興味を持っていた。その当時、CDはなく、インターネットはなく、音楽はビニール製のレコードの中にあった。母は、クラシック、良いポップミュージック、シナトラ、フィッツジェラルドのレコードの巨大なコレクションを持っていた。

母は音楽を区別しなかった。ある日、それはベートーベンで、また別の日はポール・マッカートニー、私はこのような雰囲気の中で育った。







Q、あなたに強い印象を与えた音楽作品について、子ども時代からの特別な記憶は?
 
A、いいえ、音楽的な体験を1つだけ区別することはできない。私は多くの音楽を聞いた。アルゼンチンのロサリオで育ち、普通の子ども時代を過ごした。

劇場に数回行ったことを覚えている。ギターのためのコンサートに耳を傾けた。おそらくこれは、この楽器に対する私の関心の始まりを示している。しかし、子どものころに消えない印象を与えた出来事というと、特に覚えていない。

しかしティーンエイジャーだった時、伝説のギタリスト、エルネスト・ビテッティ(Ernesto Bitetti)が音楽的なアイドルだったことは確信をもって言える。彼もロサリオ出身で、私の家族は彼の家族と親しく、私たちは語り合い、パーティーでお互いに訪問し合った。今は引退しているが、この世紀には世界で最も有名なギタリストの一人だった。



エルネスト・ビテッティと共演、同じくアルゼンチンの作曲家アルベルト・ヒナステラ作曲「忘却の木の歌」、 クーラのアルゼンチンソングのアルバム「アネーロ」に収録。
Canción del árbol del olvido - tenor José Cura (ARGENTINA)




Q、音楽があなたの職業になると決めた瞬間を覚えている?

A、7歳か8歳の時、父が私にピアノを習わせた。先生はとても素敵な高齢の女性だった。彼女は私にピアノの弾き方を教えようとしたが、私はまだ子どもで、とても活発で、気まぐれだった。そして、3、4回のレッスンの後、彼女は、私があまりにも幼く、音楽に興味がなかったと言って、私を家に返した。

ピアノの後、私は方向を根本的に変えて、ラグビーをプレイするようになった。これは、もちろん、音楽とは何の関係もなかった。かなり長い間ラグビーをしてきたが、ほぼセミプロのスポーツ選手だった。

しかし、12歳になった時、学校でギターを演奏する同級生に出会った。彼がギターを弾いて、歌を歌うと、まわりの女の子みんなが喜んだ。私もぜひこれを学ばなくてはと思った。独学でギターを学び、ビートルズの歌を歌った。

14歳の時、私は父に、ギターを弾くのが好きで、真剣にこれを学びたいと言った。本当の先生について勉強を始めた。そこからすべてが始まった。



今もコンサートのアンコール曲としてイエスタディを好んで弾き語りする。ギターを習うきっかけについても語っている。
José Cura in Prague - Yesterday 2003年








Q、ギターから作曲、歌、そして指揮への移行はどのように?

A、ギターは素晴らしい楽器。今日にいたるまで、私が本当に愛している唯一の楽器だ。
しかし、時間の経過とともに、ギターは私の情熱的な性質にとっては、あまりにも静かなツールであることを感じるようになった。
私にはもっと何かが必要だった。

ある日、私は父に、音楽院で学んで、作曲家や指揮者になりたいと言った。音楽院には他の多くのコースの中にボーカルのコースがあり、それで私が声を持っていることが判明した。20歳頃だった。それ以前も、いつも歌っていたが、それはまったくオペラのスタイルではなかった。

指揮者をめざして勉強したことで、私には声があると発見することを助けたが、私は歌手のキャリアについては考えなかった。
私は学びながら、合唱団で歌って、わずかなお金を稼ぎ、指揮と作曲を学び続けた。

22歳の時、長い年月の後、アルゼンチンで選挙が行われ、民主主義が国に戻った。
これは新しい時代の始まりだったが、非常に困難な時期でもあった。オーケストラや合唱団は資金調達に問題を抱えた。
生き残ることは難しく、指揮者として生活することは困難だった。そしてさらに作曲家としては、ほとんど不可能だった(今は、作曲家として稼ぐことは不可能だが、たぶん映画音楽を書く作曲家だけは何とか稼ぐことができるだろう)。

そして24歳の時に、私は考えた。歌うことができる。おそらく歌と関連して仕事を見つけることができるだろう――結婚式、パーティーまたはプロの合唱団...作曲の活動をサポートするために私は働く。合唱団で歌い始め、オーディションに行った。

今、オペラ歌手として認められていることは嬉しい。それに加えて、私は音楽を書き、指揮し、そしてまだ歌っている。







Q、今、あなたは、作曲家や指揮者、歌手であり演出家、そして振付師とカメラマン。将来の計画は?これらのすべての方向性を開発する予定?

A、すべてがどのように発展するかは誰も知らない。
まず第一に、将来、何が起こるかは誰にも分からない。それは健康についても、状況がどうなるのか。

今、私自身は、健康で若いと感じているが、年々、私はあまり集中して働くべきではないと感じるようになった。以前は、年100回の公演をこなした。そして今は、回復により多くの時間が必要だと感じている。

人生がもたらすあらゆる状況に反応して、適応できるように準備する必要がある。
これは1つの側面で、もう1つの側面は夢だ。もちろん、できる限り歌を続けることを夢見ているが、それは私の体にかかっている。

長い間歌うことができる人もいるし、できない人もいる。キャリアを通してどれだけ歌ったかにもよる。
例えば、キャリアの平均25年間で1000回の公演を行うとして、私はすでに2500公演をこなしている。
機械に例えるなら、すなわち1990年に製造された2台の自動車が、1台は50万キロ走り、別の1台は5万キロ走ったようなもの。2台の同一のマシン、そのうちの1台がより多く稼動した。だから、これから私の体がどう動くのかを見ていこう。

しかし夢は、もちろん、指揮をし、曲を作ること。そこからすべてが始まった。そして、そこに戻ることは、サイクルを完了させるすばらしい道だ。









Q、オペラでは、お気に入りのヒーロー、好きなオペラのパートがある?

A、いつものやり方で答えよう―― 私の好きな役柄は、私が今歌っているもの。言い換えれば、あらゆることをやった後、数多くの役柄と多くの公演の後に、今、舞台に立つとき、自分が本当に演じることのできる役割を演じ、それを本当に楽しんでやっている。金儲けのためにステージに出ることはない。

若いときは、生計を立てなければならず、職業につかなければならない。その後、こう言える時がくる―― この役柄では私は非常によく歌うことができる。そしてこの役で私はあまり良くはないので、それでない方がいい。


Q、あなたが一緒に歌って非常に快適な同僚の名前をあげることはできる?

A、もちろん名前は言えない。
私にとって、ステージの上で誰かと共に立って、一緒に働くことは、カップルでダンスをしたり、愛し合うことのようなもの。それはとても快適でなければならない。リードし、その後パートナーがリードする瞬間、相互作用がなければならない。これがステージで私にとっての完璧なパートナーだ。

時には、"リードする方法を知らない"または "あなたの足を踏む"パートナーがいる。これは私には、ほとんど起きなかった。
相手に足を踏まれるほど、ダンスでひどいことはない。それは苦痛だ。
そして、あなたには2つの選択肢がある――踊りを止めるか、あなたがリードするか。そうすればすべてうまくいく。
状況に応じて、進める方法を決定する必要がある。私は幸運だった。これまでの仕事の中で、"ダンスを止めた"ことは一度もなかった。







Q、あなたがアンナ・ネトレブコと歌ったことを知っている。他のロシアの歌手と一緒に仕事をした?

A、イエス、もちろん。2人のロシア人歌手、オルガ・ボロディナとマリア・グレギーナと数多く歌った。1995年にマリアと会った。つまり、すでに22年も一緒に歌っている。

オルガとは1996年に出会い、彼女は最初のカルメンを私と一緒に歌った。それ以来、私たちは一緒に歌い、CDを録音し、一緒に年を重ねてきた。私たちの子どもも一緒に育った。私は彼女の娘を知っている。小さな女の子だったが、今は若い女性だ。

もちろん、私はディミトリ―・ホロストフスキーと親しかった。彼の家族を知っている。彼の子どもたちもその誕生から知っている。


Q、オテロを歌った時、あなたと一緒に歌うパートナーはそのほとんどが、初めてこの役を演じる若い歌手たちだったと聞いたが?

A、そう。デズデモーナの役で少なくとも20人の歌手、初めてイアーゴを演じる多くの歌手に、「洗礼を施した」と言うことができる。
ホロストフスキーも私と一緒に最初のイアーゴを歌った。







Q、一般的に言って、オペラ歌手の国籍や学校が、歌い方において歌手に大きな影響を与えていると考える?

A、歌うことは文化的な現象であり、絵画や文学、ダンスなどと同様だ。これは、単にボタンを押せば歌い始めるというものではない。この意味で、アルゼンチン人はイタリア人のようには歌わないだろうし、イタリア人はフランス人のように歌わず、フランス人はロシア人のようには歌わない。

私たちは、それぞれ自分の頭の中、またしばしば心の中において、自分が背負ってきた文化的な荷物を通して、芸術で自分自身を表現する。もちろん、トレーニングは助けになるが、しかしすべての人が、イタリアオペラでイタリア人のように歌い、ドイツ語のオペラでドイツ人のように歌うことができるなら完璧だが、それは非常に難しい。

たとえば私は、ロシア語のオペラを歌っていない。私は自分自身をロシア人として感じることができる基礎を持っていない。私はただ、海賊のようにコピーするだけだ。もし私がヘルマン(プーシキン原作、チャイコフスキー作曲「スペードの女王」)を歌うオファーがあったとしても、それは私のヘルマンを歌うのではなく、ヘルマンを歌った人の受け売りになってしまうだろう。私にはロシア語、ロシア文化のいずれの知識もないからだ。同じ理由で、ドイツ語のオペラを歌わない。

私はイタリア語、フランス語、英語、スペイン語のオペラを歌う。これらの言語を知っているし、文化を理解しているからだ。
私はこの点について、アーティストが正直であることが非常に重要だと考えている。この誠実さの中には、アーティストとパフォーマーとの違いが明示されている。すべてのアーティストはパフォーマーですが、すべてのパフォーマーはアーティストではない。







Q、ロシアでは、40のオペラハウスのうち、4~5か所だけが広く知られている。アルゼンチンの状況は?テアトロコロンのほかに有名な劇場は?興味深いものは?

A、これは簡単な質問ではない。なぜ名声が生まれるか?
まず第一に、その場所、この場合は劇場だが、例えば、著名な作品の初演が行われるなど、歴史の一部であることだ。
それはまた、経済的な力、すなわちお金の問題だ。劇場は「メディア・マシン」を立ち上げ、人々にそれを広げることができる。
つまり、これは私たちが好きかどうかの問題ではなく、ビジネスを動かすことの問題。私たちは美しいものに関連するビジネスに従事しているが、それもまたビジネスだ。

マリインスキーは多くの初演で知られている。過去においても、現在においても。ボリショイ劇場、ミラノ・スカラ座・・についても同じことが言える。これにはプラスとマイナスの点があり、それは観点によって異なる。

劇場がうまくいく場合、独自の聴衆とスポンサーを持ち、その都市で重要な社会的役割を果たしている。そして、有名な劇場であるかどうかは、あまり重要ではない。名声は非常に一時的なもので、今日はそうでも、明日はそうではない。知られていることが重要なのではなく、あなたがいる環境に役立つことが重要だ。

多くの有名な劇場のなかには、過去のためだけに今日も知られているが、現在のものを提供しておらず、現在知られるべきことを何もしていないものもある。もちろん、その名前には言及しない。前任者の栄光の後ろにあるものの1つだが、それは現在の栄光とは別もの。

したがって、あなたの質問に答えるのは簡単ではない。







Q、それでは少し違う聞き方を。私がアルゼンチンに行ったら、テアトロコロンの他にどの劇場を訪れるべき?

A、あなたがアルゼンチンに行って、テアトロコロンや他のいくつかの劇場を訪れるとしたら、私は「残念だ」とだけ言う。
もちろんテアトロコロンは非常に素晴らしいし、テアトロコロンのアーティストは世界でも最高のものだ。しかしヨーロッパの有名な劇場で同じようなものを見つけることができるので、そのためだけにアルゼンチンにやってくることはないだろう。

アルゼンチンに到着したら、あなたはテアトロコロンを含めて訪問する必要がある。アルゼンチンは信じられないほど美しい国だ。
おそらく、地球上で最も美しいところの1つ、しかし、しばしばあることだが、人々はその国に来て、最も有名な大都市のうちの1つか2つを訪れる。ロシアのモスクワとサンクトペテルブルク、アメリカ合衆国でワシントンとニューヨーク、イタリアではローマとミラノ。しかし、国の本当の美しさは、しばしば首都にはない。









Q、一般的な質問を。あなたは稀なタイプの声の持ち主であるドラマティックテノールだ。ドラマティックなテノールは少ないので、他のテノールが、ドラマティックな役柄を演じることを強いられる。自分の声の種類のためではないものを歌うのは本当に危険?

A、抽象的な例で答えよう。専門用語を使って答えるとあまりはっきりしないから。
50kgの体重のボクサーを想像してみてほしい。彼が別の50kgのボクサーと競うなら、すべては順調にいく。体重が50〜60kgの場合、これも正常の範囲だ。しかし、彼が100kgの対戦相手との戦いに入るなら、明らかに彼は死ぬことになる。

オペラも同じ。オテロは重い役柄、カニオ(道化師)は重い役柄、グライムズも100kgの役柄だ。あなたが100kgのボクサーなら、それらに対処することができる。誰でもそれは簡単だとは言わないが、それは物理的に可能だ。

そしてもしあなたが50kgで、マイク・タイソンと戦うつもりなら、確実に、あなたは負けると言うことができる。







Q、ピーター・グライムズについて。あなたは歌い、同時に演出をした。自身のプロダクションで歌うのはどんな感じ?

A、それは私にとって、信じられないほどの喜びだったと言わなければならない。これも、専門的な用語では話したくない。理解できない人が残らないように、別の例で説明したい。

あなた自身で本を書くことを想像してみてほしい。
あなたはそのページを開いて、そこに入り込むことができる。そのキャラクターの1つになり、絵を描き、魔法によって自分自身の創造物に入ることができる。これが、自分のプロダクションに参加するときに感じる気持ちだ。夢に足を踏み入れたみたい。これがロマンチックな側面。

ロマンティックではない側面は、それは非常に困難をともなうということ。
あなたが歌手の場合は、3時間のリハーサル、または2回分のリハーサル6時間があり、家に帰ることができる。
プロデューサーの場合は、技術者、エンジニア、照明とのミーティングを行い、それから歌手とのリハーサル、オーケストラやピアニストとのリハーサル、そしてそれから新しく起こるすべてのことについて。

私が自分のプロダクションを行うとき、毎日朝8:30から23:00まで劇場にいる。







Q、あなたは、注目に値する「自分の夢へのステップ」を主導してきた...

A、イエス。
しばしば人々は、否定的な側面についてのみ考えて、肯定的には考えたくないようだ。
想像してみてほしい。あなたはあなたの夢を生きることができる。夢見ている世界を創り、そこに入り、そこで生きることができる。

一部の人々は私を批判する。そこで私は、「あなたならどうした」と聞く。すると彼らは「そうだね、私も同じことをやっていただろう」と言う。もちろんだ。もし彼らがチャンスを持っていたら、彼らもそれをしただろう。

私が一度にいくつかのことをしているという事実に同意できない人もいるが、私にとっては、歌手とオーケストラが良いかどうか、プロダクションが面白いかどうか、私がどのようにしてそれをやるかが重要だ。もしその答えが、「イエス、それはうまくいっている。プロフェッショナルに行われている」だとしたら、それで、何か問題が?私にとってはそれだけが重要だ。

また、いっしょに働く人たちがうまく働くことも重要だ。現実にいる人々、劇場のモーターであり、劇場の心臓部である人々といっしょに仕事をする。

劇場の心臓部は、支配人ではなく、経営陣ではなく、ソリストでもなく、音楽監督でもない。それらは変わることができる。劇場の中心は、技術者、電気技師、コーラス、オーケストラだ。これらの人びとはいつもそこにいて、彼らは劇場の血だ。
これらの人々が、もしあなたと一緒に働くのが楽しいなら、もしあなたと働くことを誇りに思うなら、そして最も重要なことは、あなたと安心して仕事ができると感じたのなら、あなたは正しいことをやっている。

その後、人々は、あなたが行ったことを、好きになることも、嫌うこともできる。しかし誰も、それをプロフェッショナルでないとは言わないだろう。これが私の譲れない境界線だ。私が何かをするようオファーを受け、私がそれをプロフェッショナルに行うことができないと分かったら、私はノーを言う。しかし、もし私がプロフェッショナルなレベルでやることができるなら、それが非常に難しい場合でも、私はそれをやるだろう。

批判されるかもしれないことを知っていても、私はそれを行う。人生は短いのだから。
もしあなたが人生においていつも、周りを見渡し、他の人が何を言うか考えているのであれば、あなたはつまらない人生を送ることになる。私たちは短い人生を変えることはでない。しかし、つまらない人生を、私たちはおそらく変えることができる。そして、これは私たち自身の決定だ。









Q、キャリア開発のために若いパフォーマーに何を勧める? 故郷で地元の劇場でキャリアを作ってから世界のオペラシーンを征服するか、それともプロフェッショナルなキャリアの初めからそこに行き小役からスタートする方が良い?

A、この質問に対する答えはない。

現在の視点に立つ必要がある。今私たちがどんな世界に住んでいるかを見なければならない。
オペラと古典芸術は、そのどちらも、この世界の外にあるのではない。その一部だ。それらは巨大な機構の一部だが、社会の一部。

私たちは非常に時代に生きている。テロリズム、移民、環境汚染、北朝鮮の狂気の核実験(2017年10月時点)等々。
さらに、若い人たちの大失業は、現実に、大きな社会的問題だ。

この現実のなかでは、古典芸術の未来についてだけ心配するのは、非現実的だ。
このことは、これをしてはならないという意味ではない。これは、私たちが主張しなければならないことを意味している。美しさは――私たちが行っているのは美である――それは常に魂の糧であり、それを止めてはならない。そして私は、止めてはならないと最初に主張するだろう。

社会がそうしない場合、人々は、自分自身で美しさを探し求め、それを必要とする。美しさを探して、それを自然のなかに見いだすだろう。もし神を信じるならば、神のなかに。また音楽、バレエ、絵、どこでも美しさを見つけることができる。

しかし、ほとんどの人が、月末までどうやって暮らしを持ちこたえさせるか考えている時に、社会にオペラへの支援を頼むのは意味がない。

若者に何をアドバイスできるだろうか?私にはわからない。
私が30年前にスタートした時の世界と、今の世界とは非常に異なっている。アドバイスは難しい。90%のケースで良い助言であることがわかっているようなアドバイスをするのは困難だ。

若いアーティストが、テレビで、ただ「兄」がいるだけで人気のアーティストになるのを見ている時、「熱心に仕事をして、たくさん学ぶこと、そうすれば何かを達成できる」ということを、どのようにしたら伝えることができるだろうか。
努力をせずに成功し、有名になった人がいることを知っている子どもたちに、どうやって説明を?どのようにして彼らに、たくさん勉強をして、仕事をし、 "まともな人間"になる方法を伝える?

私の息子は映画俳優で、今、勉強中だ。私たちは時々、そういうことについて話しあう。何人ものモデルやサッカー選手、ロックミュージシャンが俳優になり、ただ単に、彼らが有名だからという理由で役を得ているときに、どうやって、アカデミーで10年間勉強を続ける理由を説明するのか?

しかし、私は、若者が希望を失い、努力する欲求を失ってほしくない。彼らに、「もしそうなら、もうそれをやることはない」と思ってほしくない。それは真実ではないから。それは起こる。本当にトライしてみるなら、たぶん、それは起こるだろう。そして、過去にも、成功のための公式は決してなかった。そして今、これはさらに困難になっている。真の成功のための公式はない。

ただ有名になるための公式ならばある。何らかの形でニュースに登場すれば自動的に有名になる。
私はカメラの前でインタビューをすることができるが、誰かが私を怒らせたり侮辱したりすれば、それはニュースに表示され、すぐに有名になるだろう。メディアを使えばこれは非常に簡単だ。

だから、今日の真に大きな課題は、有名になることではなく、自らの仕事において卓越したものになることだ。
したがって、若者、若手アーティストへのアドバイスは――名声を求めないで。名声は短く、短命なのだから。仕事と人生における偉大さを求めて努力しよう。







いつにもまして、読み応えのあるインタビューでした。
相変わらず、インタビュアーが期待するような、社交辞令的な返答はいっさいぬきで、クーラらしい率直な発言が満載です。

またクーラ自身が、テノールとしてのキャリアの終わりを見通しつつ、「人生は短いのだから」やりたいことを大いにやろう、それは自分自身の決断だと語るのは、とても説得力があります。社会と芸術との関係、若いアーティストへのアドバイスなど、これまでも繰り返し語っていますが、クーラ自身が、商業主義的な成功を求めるのではなく、アーティストの社会的役割を大切にして、自分の芸術的な発展を一貫してめざしてきただけに、とても大事な問題提起だと思います。

そして劇場のスタッフ、技術者、合唱、オーケストラなど、ともに働く人々を大切に思い、一緒に誇りをもてるステージを創造していく真摯な姿勢には、いつも胸が熱くなります。今後、演出、舞台監督、プロデューサーなどの分野で、さらに活躍していくことでしょう。何といっても、人を惹きつける魅力、個性、そしてパワーと才能、強力な意志をもつ人物であることがよくわかるインタビューでした。

最後に、この5月、クーラのアルゼンチンのお母さまが亡くなられたそうです。このインタビューの前半でも語っていますが、活発で、好奇心と力をあふれていた子ども時代のホセを、温かく見守り、育ててくれた優しく、寛容なご両親だったと思われます。
クーラがSNSにアップした、素敵なご両親の写真のリンクを掲載しておきます。ホセの長男、ベンがインスタにアップしたものだそうです。
ご冥福をお祈りいたします。








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ホセ・クーラとエルマンノ・オルミ監督のオテロ / Jose Cura and maestro Ermanno Olmi in Otello

2018-05-18 | 1997年、アバド、ベルリンフィルでオテロデビュー




イタリア映画のエルマンノ・オルミ監督が2018年5月7日、亡くなりました。
オルミ監督といえば、「木靴の木」でカンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞(1978年)するなど、日本でも有名な映画の巨匠です。脚本家、作家としても活動してこられたそうです。
そして私にとっては、ホセ・クーラがオテロにデビューした1997年トリノのプロダクションを演出したことで、忘れられない方です。

オテロの舞台となったトリノの王立歌劇場(レージョ劇場)が、「さようなら、エルマンノ・オルミ」という追悼記事をHPにアップしました。
その内容とともに、以前の記事でも紹介していますが、トリノのオテロについて、いくつかのエピソードを再掲したいと思います。






≪トリノ王立歌劇場の追悼≫

――さようなら、エルマンノ・オルミ監督
偉大なイタリアの監督、脚本家であり作家は、86歳で5月7日に亡くなった。
彼はカンヌの「パルム・ドール」(1978年)の受賞者であり、レージョ劇場は、1997年、クラウディオ・アバドが率いたベルリンフィルハーモニー管弦楽団との思い出に残るヴェルディのオテロによって彼を記憶している。オルミ氏は、ホセ・クーラ、バルバラ・フリットリ、ルッジェーロ・ライモンディ・・らの優れたキャストを監督した。


オルミ監督と、指揮者クラウディオ・アバド



クーラとフリットリを丁寧に演技指導するオルミ監督




≪動画に見るクーラとオルミ監督≫

YouTubeにアップされているリハーサル風景の動画。指揮者のアバド、オルミ監督の指示の様子が映っています。

オルミ監督の演技指導は、イタリア語なので何を言っているかはわかりませんが、実際に手取り足取り、監督自ら演技をしてみせたりもしつつ、詳細に、キャラクターの感情にもとづくリアルな演技の組み立てを教えているようです。


Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Rehearsal(1)



Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Rehearsal(2)-interview



この時、クーラ34歳、初めてのオテロ、そしてキャリアの急上昇の時期に、イタリア映画の巨匠からリアリズムにもとづく演技指導を受けたことは、その後のクーラにとって、とても大きな影響を与えたのではないかと推察します。



≪クーラのインタビューより≫

何度も紹介していますが、トリノのオテロについてクーラの言葉を、あらためていくつか掲載します。

●大胆なオテロデビュー
危険だった・・非常に。わずかなリハーサル、オーケストラと2日間、ステージングのために1週間だけ。それまでのキャリアで最大のメディア露出――アバドの指揮、ベルリン・フィル、エルマンノ・オルミ演出、RAIテレビ中継・・。本当に大胆なステップだった。歴史は私についていろいろ言うことができる。しかし誰にも、私に根性がなかったと言うことはできないだろう。

――2006年インタビューより
●34歳でオテロデビューのチャンス
私がオテロにデビューした時、私は34歳だった。そしてそれは、非常に大胆なことだった。マエストロ・クラウディオ・アバドと一緒で、世界に生中継された。私は「このチャンスを失うことはできない」と考えた。

そして私がしなければならないことは、オテロを34歳の男のように歌うことだった。しかし、この役柄で私とは比べものにならない素晴らしい経験をもつ45から50歳、そして60歳のテノールの解釈と比較すると、私は、自分の解釈に夢中になることはできなかった。もし私が彼らのようにやっていたら、私は第1幕の終りで、使いものにならなくなっていただろう。





――2015年インタビューより
●時には作品があなたを選ぶ
あなたが作品を選択するのではなく、作品があなたを選択する時がある。私は、34歳で初めて、オテロのタイトルロールを歌った。私はこれ以前に、この可能性を夢見たことさえなかった。
しかし、ある日、私は電話を受けた。「私たちはあなたのためにこのチャンスを持っている。あなたはそれを取るだろうか?それとも、このユニークな機会を失うことになる?」――電話線の末端から聞こえた。

私はすでに知っていた。これは、私の人生の大ヒットになるかもしない。このプロダクションは、1997年に100カ国以上でテレビで生中継されたのだから。アバドとベルリンフィルによって、このパフォーマンスは大成功した。

●作品との20年間の恋愛関係
これが私とこの作品との、20年間の「恋愛」の始まり方だった。

私は、このオテロの私のパートだけではなく、オペラ全体を熟知している。全てのキャストの音符、全ての歌詞と楽器のパートをほとんど暗譜している。少し努力すればデズデモーナのパートも歌うことができる...それは、毎回毎回、より詳細な多くのことを発見しつづけるための作業工程の一部だ。
ネバーエンディング・ストーリーだ。





≪トリノの舞台より≫

クーラとフリットリ、容姿も声も、フレッシュで美しく凛々しい2人。そして演出のオルミ監督と、指揮は世界的な巨匠アバド、さらにオケはベルリンフィル。途方もなく凄い、豪華なプロダクションでした。





イタリアのRAIによって世界生中継されたこのオテロですが、残念ながら正規のDVDなどにはなっていません。
いくつかの場面がYouTubeにあがっていますのでリンクを掲載します。


第1幕冒頭
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto1-1"Esultate!"



第1幕オテロとデスデモーナの二重唱
Jose Cura's Hunkotello



第2幕終わり オテロとイアーゴの二重唱
José Cura "Si, pel ciel marmoreo giuro!"



第4幕 ラストシーン
終演後のクーラのインタビューもあります。まだ拍手が鳴りやまず、劇場内の大興奮ぶりが伝わってきます。

Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto4




「新しいオテロの誕生」と称賛されたクーラのオテロデビュー。
クーラのそれまでの努力と才能が花開いた瞬間であり、オルミ監督の演出と熱心な演技指導、アバドとベルリンフィルの音楽に支えられての大きな飛躍であったことは言うまでもありません。

トリノの動画をご覧になられた方は、現在のクーラのオテロとは、まったく声も歌唱も違っていることがお分かりだと思います。
このオテロデビューから、昨年2017年でちょうど20年。その間、クーラは世界中でオテロを歌い続け、解釈を深め、演技と歌唱を発展させてきました。
トリノでは、若々しく、とてもリリックな声と歌唱です。「34歳の男としてのオテロ」を歌うしかなかったという当時から、20年以上の経験を経て、現在では、55歳、オテロの本来の姿、年齢にふさわしい声、重厚さ、威厳と厚み、スケールの大きい、円熟した多彩な表現力があります。


現時点で直近のオテロの録画です。2017年ベルギー・ワロン王立歌劇場
“Otello” de Verdi - Live @ Opéra Royal de Wallonie



アバドもすでに亡くなり、そしてオルミ監督もなくなりました。しかしクーラのキャリアのなかで、彼らのような世界的な巨匠との出会いによって得たもの、ともに作りあげたものは、経験として蓄積され、現在の円熟期の土台となって生きていることと思います。

オルミ監督のご冥福を祈りつつ、その芸術と志が受け継がれていくこと、そしてクーラ独自のオテロがますます豊かに深くなっていくことを願っています。




*画像はトリノ王立歌劇場のHPなどからお借りしました。
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(本番編) ホセ・クーラ、ドレスデン音楽祭2018で、アルゼンチンの歌コンサート / Jose Cura , Dresden Music Festival 2018

2018-05-16 | アルゼンチンや南米の音楽




サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場でサムソンとデリラに出演してから1週間後の5月13日、ホセ・クーラは、ドイツのドレスデンで、アルゼンチン歌曲のコンサートに出演しました。

→ (告知編)

ロシアではオペラ出演でしたが、今回は、自ら作曲した作品をふくむ、故郷アルゼンチンの歌曲を中心としたコンサート。クーラは歌手として、また作曲家として出演しています。写真をみると、どうやら指揮もしているようです。
クーラのアーティストとしての多面的な魅力を示す今回のコンサート。参加した海外の人の情報でも、とても素晴らしいコンサートだったようです。

残念ですが、ラジオ放送やライブ中継もなく、録音、録画も紹介できないですが、クーラやフェスティバル事務局がSNSなどで公開した写真や動画、またレビューなどをまとめて紹介したいと思います。





The 41st Dresden Music Festival  
10 May to 10 June 2018   With 67 events at 24 venues

JOSÉ CURA & DRESDNER KAPELLSOLISTEN
Dresdner Kapellsolisten
Helmut Branny, Conductor
José Cura, Tenor

María Elena Walsh、1930年2月1日 - 2011年1月10日»ARGENTINEAN SONGS«
Works by Felipe Boero, Carlos López Buchardo, José Cura, Alberto Ginastera
Carlos Guastavino, Hilda Herrera, Héctor Panizza und María Elena Walsh

SUN 13.05.18 11:00
Semperoper

第41回ドレスデン音楽祭 → フェスティバル公式HP
2018年5月10日~6月10日  24会場、67イベント


ドレスデン市内に貼られたポスター(フェスティバルのFBより)




≪母国アルゼンチンの作曲家をとりあげ、歌う≫

コンサートは、伝統あるドレスデン音楽祭の一環で、会場はドレスデン州立歌劇場・ゼンパーオーパーです。

共演は、ゼンパーオーパーが誇る専属オーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンのメンバーによって結成された室内楽アンサンブル、ドレスデン・カペルゾリステン(1994年設立)。指揮のヘルムート・ブラニーは、シュターツカペレコントラバス奏者でもあり、カペルゾリステンの指揮者だそうです。

取り上げた楽曲の作者は、すべて、クーラの母国アルゼンチンの作曲家です。

フェリーペ・ボエロ(Felipe Boero 1884-1958年)
カルロス・ロペス・ブチャルド(Carlos López Buchardo 1881-1948年)
アルベルト・ヒナステラ(Alberto Evaristo Ginastera 1916-1983年)
カルロス・グアスタビーノ(Carlos Guastavino 1912-2000年)
ヒルダ・エレーラ(Hilda Herrera 1933年― )
エクトル・パニッツァ(Hector Panizza 1875-1967)
マリア・エレナ・ワルシュ(María Elena Walsh 1930-2011年)
そして、ホセ・クーラ(José Cura 1962- )

20世紀初頭から現代までの作曲家で、クーラ自身の作品も含んでプログラムが構成されています。






この下はフェスティバル主催者が掲載した動画です。
クーラが歌っているのは、チリのノーベル賞詩人ネルーダの詩にクーラが作曲した曲。
「もし私が死んだら」と題した愛と死を歌った情熱的な詩集から何篇か抜粋して、クーラが美しく切ないメロディをつけた組曲のひとつです。

歌詞は、私の不十分な直訳ですが、以前のブログで紹介しています。 → 「ホセ・クーラが作曲し、歌う、パブロ・ネルーダの詩」

もともとピアノと声のための曲として作曲したそうですが、後にクーラ自身がオーケストラ用に編曲して、ピエタリ・インキネン指揮、プラハ交響楽団によって初演されました。
以下の動画は、2013年ブダペストのコンサートのもので、ピアノ伴奏版。ぜひ聞いてみてください。

José Cura: Argentinische Lieder (Dresdner Musikfestspiele 2018)




≪アルゼンチン音楽の特徴は、郷愁――ノスタルジック≫

フェスティバルのフェイスブックに、もう1つの動画がアップされています。
リハーサルの際に撮影されたもので、クーラがアルゼンチン音楽について語るインタビューです。
そしてインタビューのバックと後半では、クーラがギターとチェロとともに歌っています。

この曲名は私にはわかりませんが、とてもリズミカルで美しい曲です。クーラの声と歌いぶりも、つい1週間前のサムソンの歌唱とは全く違って、優しく、美しく響かせています。



――クーラのインタビューより

アルゼンチン音楽は、とてもノスタルジック。他のほとんどの南米音楽と同様、そして特にアルゼンチン音楽について理解しておかなければならないのは、移民についてだ。イタリアやスペインなどから来た移民だけでなく、現地の人々と結婚してクリオーリョと呼ばれる人々など、イタリア系、スペイン系、ローカルアルゼンチンの人々が混ざり合い、それらがとてもノスタルジックな混合物をつくった。

音楽のうちの90%は、苦しみや、誰かの死についてで、タンゴがそうであるのと同じ。これらの歌は謎めいていて、シューベルトやシューマンのようなスタイルをとっている。そのほとんどは悲しい曲だが、いくつかはコミカルで、そのコントラストはとても興味深いものだ。しかし基本的なものは、常に、深い悲しみだ。


カルロス・グァスタビーノ「バラと柳」
La rosa y el sauce - tenor José Cura (ARGENTINA)




≪オケ、共演者との魅力的なコラボレーション≫


この写真は、クーラが公演前日にアップしたもの。共演のドレスデン・カペルゾリステンの方たちとの朝食風景だそうです。
「音楽の魔法が、共演者とのチームワークの素晴らしい感覚を作り出した」とクーラ。
自らの母国の音楽、そして自らの作品を、優れた室内楽オケのメンバーとともに作り上げていくのは、とても親密で魅力的な活動だったことと思います。






≪満員のゼンパーオーパー、1100人観客からスタンディングオベーション≫


コンサートは大成功、ほぼ満席の会場、観客からはスタンディングオベーションを受けたそうです。
好評のレビューもいくつか出ています。いずれまた紹介したいと思っています。






こちらは公演の写真を掲載した、フェスティバルのフェイスブックより。




フェスティバルの紹介誌。その下はクーラの紹介ページです。






このようなクーラの多彩な魅力、多面的な活動ぶりを紹介するコンサートを、日本でもぜひやってもらえないでしょうか。
できれば大きすぎない、中規模なホールで、室内楽のオケ、数人のソリストとクーラで、親密で、穏かなアルゼンチン音楽のコンサート。いつの日か、実現する日を心待ちにしています。




*写真はフェスティバルやクーラのSNSなどからお借りしました。
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(鑑賞編)2018年 ホセ・クーラ、ボロディナとマリインスキーでサムソンとデリラ / Samson et Dalila / Jose Cura & Olga Borodina in Mariinsky

2018-05-12 | サンクトペテルブルクのサムソンとデリラ




ホセ・クーラのロシアでの初オペラ全幕出演となる、マリインスキー劇場のサムソンとデリラ。2018年5月5日、無事に開幕し、大喝采、熱狂のうちに幕を下ろしました。
インターネットのライブ放映もトラブルなく終了、日本でも視聴できたようです。

地元サンクトペテルブルク出身のメゾソプラノ、オリガ・ボロディナの音楽活動30年記念の特別公演であるこの舞台。ボロディナと長年、サムソンやカルメンなどで共演してきたホセ・クーラが、この1つの公演のために招聘され、サムソンを演じました。

ボロディナ1963年生まれ、クーラ1962年生まれ、ともに50代半ばとなりました。1998年にこの2人で、サムソンとデリラのスタジオ録音してからちょうど20年でもあります。

経験を積み、息の合った円熟カップルによって歌われたこのサムソンとデリラ。舞台装置や衣装なしのコンサート形式でしたが、主役2人の熱の入った演技と歌唱、醸し出されるケミストリーによって、コンサート形式とは思えないほど、ドラマに入り込むことが可能でした。

録画が現在、マリインスキー劇場のライブ中継サイト(マリインスキーTV)で見ることができます。またYouTube上からも直接、視聴することができます。いつまで視聴可能なのかはわかりません。以下にリンクを貼っていますので、ぜひ、お早めにどうぞ。

→ (告知編)などこれまでの記事


マリインスキーTV


In memory of Dmitry Yefimov
Marking thirty years of the stage career of Olga Borodina, People’s Artist of Russia

Samson et Dalila opera in three acts (concert performance)

Dalila: Olga Borodina
Samson: José Cura
High Priest of Dagon: Vladimir Moroz
Abimélech: Oleg Sychov
Old Hebrew: Yuri Vorobiev

The Mariinsky Orchestra
Conductor: Emmanuel Villaume


YouTube上でも直接視聴できます。
Самсон и Далила




≪クーラの公演をめざして初めて海外の劇場へ≫

今回、幸いにして、現地・サンクトペテルブルクでこの舞台を鑑賞することができました。


●チケットとロシア旅行の手配

クーラの公式カレンダーにマリインスキー劇場への出演が早い時期から明記されたために、この公演の存在を知っていましたが、劇場サイトの公演一覧にはなかなか掲載されずにいました。ある日、突然、演目だけがアップされ、出演者は後ほど告知すると出た段階で、急いで席を確保しました。

その後、航空券とホテルを手配、ロシアはビザが必要なため、旅行会社に依頼しました。最低でも1か月半前くらいから準備しないときびしいかもしれません。でも今、電子ビザが導入されつつあるようなので、近い将来、もっと手続きが簡略になりそうです。

結局、公演のページにクーラの名前が明記されたのは、かなり後になってからで、しかも10日ほど前には突然、演目がカルメンからサムソンに変更。びっくりしましたが、劇場からお詫びのメールもちゃんと届いて、チケットが有効だと説明されていたのでほっとしました。





●ロシア・サンクトペテルブルクへ

成田から中継地のフィンランド・ヘルシンキ空港まで約10時間、ヘルシンキからサンクトペテルブルクまでは思った以上に近く、1時間程度で到着します。フィンランド湾を超えればもうロシア、サンクトペテルブルクです。

ヘルシンキ空港もサンクトペテルブルク空港も、どちらも新しく、広々として、待ち時間も快適でした。Wi-Fiも問題なくつながります。入国・出国審査はちょっと緊張しましたが、笑顔とハロー&サンキュー&スパシーバだけで特別なトラブルなく通過でき、ひと安心でした。

空港から旧市内までちょっと遠い(約1時間ほど)のが不安でしたが、行きは、旅行会社が手配した日本語の話せるガイド付きの迎えの車でホテルまで。車中、日本語勉強中の若い女性が熱心に名所の説明をしてくれて、その彼女に日本からのお土産を用意してなかったのが心残りです。
帰りは頑張って、地下鉄と路線バスを乗り継いで空港に向かいました。





●伝統あるマリインスキー劇場へ

サンクトペテルブルク旧市街の西側に位置するマリインスキー劇場(写真下)。
運河を挟んですぐ裏手には、新しく建設された現代的な新館があります。反対側の旧館正面には、サンクトペテルブルク音楽院もあります。
ホテルから路線バスで行く予定でしたが、なぜかなかなかバスが来なかったため、30分ほどかけて歩いていきました。

帰りは再度、路線バスに挑戦。今は、グーグルの地図で何でも調べられるので、バス停の位置や時間、路線もすべてわかります。とはいえ不安いっぱいでしたが、バスに路線ナンバーが電光掲示されているので、それに乗り込むと、車内で係員が料金を徴収します。1人40ルーブル。小さな紙片のチケットをくれました。気さくな中年の女性で、ロシア語がまったくわからない私たちに、親切に降りる停留所を教えてくれました。






話が前後してすみませんが、休憩の時にとった劇場内(写真下)。
正面の貴賓席も販売されています。今回の公演の場合、1階平土間の正面周辺で5000ルーブル。日本円で約1万円でした。しかも、ロシア在住者はこの半額ですから、約5000円くらい。
少し左右や1階後方で8千円ほど。上方の席は、確か1000~2000円くらいからあったと思います。
インターネットの劇場サイトで、好きな公演の好きな席を選択し、簡単な登録をして決済すると、すぐにメールが送られてきました。そこにチケットが添付され、それを印刷、またはスマートフォンなどに保存しておけば、劇場のなかのゲートにかざすだけでOKです。
クロークにコートを預け、ゲートに行くと、係員がいて一瞬とまどった私を助けてくれました。また手荷物は中が見えるように開けて簡単なチェックを受け、金属探知機を通ります。

以前の記事で紹介しましたが、今回初めて、この劇場サイトを見て大変驚きました。
マリインスキー劇場だけで旧館、新館、コンサートホールをもち、さらに小規模ホールがいくつもあって、シーズン中は毎日、オペラ、バレエ、クラシックコンサートをはじめ、ジャズなど多彩なジャンルの公演が、1日に昼夕あわせ2、3公演から9公演も行われています。この規模と体制には本当にびっくりです。しかもサンクトペテルブルクには、ほかにもたくさんの劇場、コンサートホールがあります。ロシアの文化的な厚み、歴史と伝統を思わされました。






≪サムソンとデリラの舞台――巨大なエネルギーとカリスマに圧倒≫

●一瞬で舞台を掌握するクーラ


今回のサムソンとデリラは、コンサート形式でした。オケピットをふさいでその上でやるのかと思っていたら、そうではなく、オーケストラは通常のピットの中。舞台上には、後方にコーラス用の階段状の壇が設置され、前方に、中継用の集音マイクらしきものが数本立っているだけのちょっと殺風景な装置でした。

しかしコーラスが入り、オケが入って開演し、クーラのサムソンが右手からゆっくりと姿を現した途端、舞台上の雰囲気が一変したように感じました。クーラはすでにサムソンそのもの。顔つきも、歩き方も、仕草も、完璧にサムソンでした。クーラが舞台を一瞬で掌握し、緊張感とドラマの雰囲気をつくりあげたようでした。







コンサート形式なのに、マイクの前に立って歌うのではなくて、クーラは舞台上をゆったりと歩き回り、コーラスに向かって、民族の苦悩を嘆く人々を励ますような表情を見せます。そしてサムソンの第一声、「止めよ、兄弟たちよ」から以降は、クーラが、迫力ある歌唱と表情、しぐさで、サムソンが群衆を立ち上がらせていくように、コーラスを煽り、気分を盛りたてていき、ピットでは、指揮者もオケを煽り、クーラと指揮者が一体となって、ぐいぐいと盛り上がりをつくっていきました。








●指揮者との相性も抜群

今回の指揮者は、フランス出身のエマニュエル・ヴィヨームさん。
クーラよりさらに大柄で、まるでボクシングのヘビー級チャンピオンのような容貌。指揮棒なし、体をいっぱいにつかってエネルギッシュにパワフルに振ります。後方の私たちにも、指揮者の息遣いが聞こえ、香水が香り、汗が飛び散ってくる(さすがにそれはないですが)かのような臨場感あふれる指揮ぶりでした。テンポもよく、メリハリもきいて、打楽器の音が粒だって聞こえ、ドラマを盛り上げるスタイルは、クーラともぴったりでした。







それもそのはず、このヴィヨームさんは、クーラとボロディナが2002年に、シカゴでこのサムソンとデリラで共演した際にも、指揮をした方でした。
ボロディナの30年を祝うために、クーラとヴィヨームさん、そこまで考えて演目とキャストを準備していたことを知って、地元のスター、ボロディナへのつよい尊敬と愛が伝わりました。


●熟年のアーティストの2人、圧倒的なオーラと存在感、パワー


長年、共演を重ねてきたクーラとボロディナ。
ともに長いキャリアと経験をもつアーティストです。もちろん50代半ばですから、98年のCDに比べると、2人とも声がかなり重くなっています。若い頃に比べれば、きっと体力的な衰えが声のコンディションに影響していることと思います。

クーラは2015年に北京の国家大劇院でサムソンを歌った時に、インタビューで以下のように語っていました。


――2015年クーラのインタビューより

30年のキャリアを経た今、若く新鮮で美しい声を持っているとはいえない。劇場での私の歌は完璧ではない。しかし私のエネルギー、強さとカリスマを聞くことができる。年を経て、これはアーティストとして重要なことだ。

オペラにおいて、私の声は、様々な情報が統合されて含まれている。音は材料であり、その材料を利用して、私は、人々の心の中に別のものをつくりだすことができる。人々は、声にそうした様々な要素を含まない人の歌を聞いた時に、それが完璧だと感じる。しかし、それは私たちに必要な情報を伝えていないのだ。

時には、私たちは表面上において、完璧ではない。しかし、その人のキャラクターの個性や人格の特性は、あなたに深い影響を与えるだろう。そしてあなたは、この人が美しいことを知る。音も同じ理由だ。ある人がとても良い音だとしても、もし良いキャラクターと魅力的な個性をつくりだすことができないならば、意味がない。

専門家は私の公演を聞き、完璧でないと言うだろう。しかしあなたは、ステージで私のエネルギーを聞くことができる。強さとカリスマが公演の私の声にある。これがアーティストとしての私の最も重要なポイントだ。

(2015年北京での報道)


まさにクーラの発言どおりの舞台でした。
避けがたい加齢による影響を補って余りある、劇場内を興奮させるパワーと表現力、存在感がありました。

また、この数年の間に放送されて視聴した他の役、トスカのカヴァラドッシや西部の娘のジョンソン、アンドレア・シェニエなどの歌唱と比べても、かなり違う印象を受けました。やはり、作品とキャラクターの分析、解釈を深め、演技や声、歌唱を変えているクーラだからなのだと思います。

➡ クーラのサムソンの解釈を紹介した記事






●ボロディナをたて、支えるクーラ

ボロディナの声の迫力、低く、独特のまったりした響きの素晴らしさは言うまでもありません。
特に、2幕の2人のデュエット、「あなたの声に私の心は開く」から、後半の2人の感情的なぶつかり合いの場面は、大変な強い声、迫力で2人が歌い切りました。

そしてクーラは、この公演の主役であるボロディナを、いっかんしてリスペクトし、たてて、支えることに徹していたように思います。もちろんサムソンは主役ですから1人の時はクーラのパワー全開ですが、ボロディナが舞台に上がっている時には、一歩引いて、ドラマの流れに沿ってボロディナに焦点があたるように気遣っていたような印象でした。

2人の場面は、温かさと色っぽさ、そして一転しての怒りのエネルギーにあふれていました。

何よりも、サムソンとデリラのスコアと台本を熟知した2人、歌唱でも演技でも、落ち着きとゆとり、余裕たっぷりです。
クーラは、デリラに惹かれる思い、心の葛藤をへて、物理的にも心理的にもデリラとの距離を縮めていく様子、そっとデリラの髪を撫でる様子などを、控え目な演技で、ボロディナを支え、たてながら、官能的に絶妙に表現していました。







●劇場内と録画の違い


帰宅してから、オンデマンドの録画で、記憶を反芻、復習しました。

聞き比べてみて、私が感じたのは、録画では、マイクで声を近くで直接集音し、さらにまた生中継という条件のために、やはり声と音楽のバランスが違うように思われることです。
またクーラの声と高音が、サムソンという声を張り上げる場面が多い役柄のせいもあり、録画では少し荒く聞こえる部分が見受けられましたが、劇場内ではほとんど気にならず、オケと一体となって大迫力で迫ってきたことです。

そして何よりも、劇場内が観客も一緒になって舞台を作り上げているという実感、この1度きりの公演に立ち会っているという臨場感はかけがえのないものでした。一期一会の場への感謝が、心に深く刻まれました。
思い切って行ってよかったと思いました。

ラストのサムソンの絶叫は、本当に天井が落ちてくるかのような大迫力で、劇場中がビリビリと震えました。





●大喝采、大熱狂のカーテンコール


各幕間、終演後のカーテンコールの拍手とブラボ―はとてもすごかったです。
30年を迎えたボロディナへの大喝采、そしてクーラもそれに劣らないほどの大喝采を受けました。
地元サンクトペテルブルクの人々のボロディナへの愛と尊敬、そして劇場デビューしたクーラへの熱狂的な歓迎ぶりに、私も胸が熱くなりました。

さらにオケと指揮者へも、勝るとも劣らない大喝さいが。出演者、コーラス、観客、一体となって、大熱狂の一夜でした。







幕間にはクーラのインタビューも。


終演後には、ボロディナ、クーラ、指揮者そろってのサイン会も開催されました。

Весна появилась и сердце забилось Надеждой святой. Ее появление приносит забвение Тревоге людской... #ольгабородина #хосекура #самсонидалила

Elvina Ziatdinovaさん(@elbatroz)がシェアした投稿 - <time style=" font-family:Arial,sans-serif; font-size:14px; line-height:17px;" datetime="2018-05-06T00:51:50+00:00">2018年 5月月5日午後5時51分PDT</time>





素晴らしい公演に巡り合えて、マリインスキー劇場とサンクトペテルブルク、出演者、そしてクーラに、心からの感謝の気持ちでいっぱいです。

クーラは2006年以降、来日がなく、日本ではほとんど忘れ去られているように思います。しかし現在でも、豊かな声、経験、表現力、パワーを兼ね備え、さらに指揮や作曲、演出の活動を総合的に発展させてきたクーラは、他とは比べられない、個性と存在感に輝いています。

同行した家族は、クーラが、「一貫した演技で一瞬たりとも気を抜かない。音をただ伸ばすようなことがなく、すべての音に意味がある。音楽性がすごい」と感想を述べていました。
私も同感です。そして、とにかく、カリスマ性、オーラに圧倒されました。

つぎも、できるだけ早く、今度は別の役で見たい、聞きたい・・。その思いで胸が痛いほどです。その機会ができるだけ早くめぐってくることを願っています。

興奮気味の文章となったことをお許しください。またあまりに興奮して全力で拍手していたために、カーテンコールでも写真を撮りそこね、クーラの写った写真は何もありません。舞台の様子は録画からです。ご了解ください。






コメント (2)
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(放送告知)2018年ホセ・クーラ、ボロディナとマリインスキーでサムソンとデリラ / Samson et Dalila / Jose Cura & Olga Borodina, Mariinsky

2018-05-05 | サンクトペテルブルクのサムソンとデリラ



朗報です!

緊急ですが、今晩のホセ・クーラが出演予定のマリインスキー劇場のサムソンとデリラ、インターネットでのライブ放送が決まったようです。ただしセット、衣装のないコンサート形式です。

突然劇場サイトに告知されました。この公演の告知も、カルメンからサムソンへの演目変更も、いつも突然で、なかなか目が離せない劇場です(^_^;)

ただ考えかたを変えれば、多数の劇場をもつ芸術の都ペテルブルグ、オペラやバレエが人びとの日常生活に溶け込んでいるので、特定の演目、特別のキャストを見る、聴く、ということより、日常的に劇場に通い、いつでもいろんな演目がかかっていて、それを楽しむ、という感じなのかもしれませんね。好意的に解釈しておきましょう。

あとは「急な」キャストチェンジがないことを祈るばかりです。




Timetable of broadcasts
5 May Saturday19: 30-22: 00

In memory of Dmitry Efimov 
On the 30th anniversary of the creative activity of the People's Artist of Russia Olga Borodina

Samson and Delilah
opera in three acts (concert performance) 

ARTISTS: 
Dalila - Olga Borodina 
Samson - José Kura 
High priest of Dagon - Roman Burdenko 
Abimelekh - Mikhail Petrenko 
Old Jew - Yuri Vorobyov 

Symphony Orchestra and Mariinsky Theater Choir 
Conductor - Emmanuel Viyom

サムソンとデリラ コンサート形式

ライブ放送はマリインスキーTVにて

現地時間2018年5月5日19時30分~22時
日本時間2018年5月6日深夜01時30分~


日本との時差は6時間なので、日本では翌日の夜中。連休最終日の明け方までなので厳しいですが、マリインスキーTVサイトをみると、しばらくオンデマンドでみることもできそうな感じです。ただし確認はできていません。


この公演はサンクトペテルブルク出身のメゾソプラノ、オリガ・ボロディナのキャリア30年を記念したイベントです。

相手役に、長年サムソンやカルメンで共演してきたクーラの出演が決まっています。

クーラはとっくにサンクトペテルブルク入りしているはずですが、いまのところ、SNSでは何も発信していません。が、クーラの公式カレンダーには、かなり前からマリインスキー劇場の公演は明記されていたので、大丈夫だと思います・・。

クーラは最近、歌う公演をかなり減らし、演出、作曲、指揮の仕事の比重をかなり高めています。

一方で、歌手としても円熟期を迎え、表現力、解釈とドラマの描写の深まり、声の魅力もともに兼ね備え、私としては黄金期にあるのではないかと考えています。

しかも歌を厳選しているので、コンディションが良く、ここ数年、ライブ放送された、ウィーンの西部の娘やリエージュのオテロ、テアトロコロンのアンドレア・シェニエなど、いずれの公演も絶好調でした。初挑戦したワーグナーのタンホイザーも風邪をひいていたそうですが、多くのレビューが絶賛の魅力的な解釈、歌唱を聞かせてくれています。

無事にキャンセルやトラブルなく、ロシアでのクーラのオペラ初出演が成功することを祈っています。


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(インタビュー編)2018年 ホセ・クーラ プッチーニの西部の娘を演出・指揮 / Jose Cura, directer and conductor of Fanciulla del west

2018-05-02 | 西部の娘の演出・指揮





ホセ・クーラは今年2018年の9月、バルト三国エストニアの首都タリンの国立歌劇場で、プッチーニ「西部の娘」の演出・舞台デザインを手がけます。
以前、(告知編)でも紹介しました。

今回は、劇場のHPに掲載されたクーラのインタビューから抜粋して紹介したいと思います。
内容は、演目である西部の娘についても若干ふれていますが、クーラの家庭のこと、子どもたち、人生観、夫婦間・男女間についてなど、様々なことについて問われ、回答しています。

元はエストニア語のため、翻訳が全く不十分で、クーラの言わんとしていることの意味、ニュアンスが誤って伝わるのではないかという恐れを抱いていますが、あくまで抜粋、概略ということでお許しいただき、ぜひ劇場のページをご覧いただければと思います。






Staging team
Conductors: José Cura, Vello Pähn, Jüri Alperten
Stage Director and Lighting Designer: José Cura
Costume Designer: Silvia Collazuol




"私は本当の反逆者だった"

――ホセ・クーラ インタビュー エストニアにて


秋に、ホセ・クーラ演出のプッチーニ・オペラ「西部の娘」がエストニア国立歌劇場で上演される。
クーラは、妻シルヴィアが一緒でなければ、今日の彼にはなりえなかったと語る。シルヴィアは、神聖なる結婚の一方の側が大きな世界でその夢を実現できるように、主婦と母親の役割を選んだ。



Q、あなたはたくさん旅行する。家庭的な感情が失われたり、ルーツが破壊されることは?

A、見てほしい。樹木のセコイアは数百メートルまで成長することができるが、その根は依然として下に張っている。根が取り除かれると木は死ぬだろう。
人間も同じだ。経験を得るために遠くまで行っても、もし根っこや家族が強ければ、我々は立ち続けることができる。

アルゼンチンは私の母国。母、兄弟、友人がそこに住んでいる。私は過去30年間ヨーロッパに住んでいるが、私は自分のルーツを失っていない。
そして私はマドリードにも新しいルーツを持っている。もしそうでなければ、私は自分自身を罰するだろう。それはあまりにも辛いことだ。

私には妻シルヴィアがいる。これからの40年も共に生きてゆくだろう。
私には3人の子どもがいる - 長男は俳優としてのキャリアを始め、娘は写真家で、一番下の息子は大学で物理学と数学を勉強しており、プロのラグビープレイヤーだ。彼らは皆とても違っていて、とても良い。


Q、あなたはどのくらい子どもたちを導いている?

A、私は彼らに、それを理解させないようにしてきた(笑)。子どもに、この本を読まなければならないと言えば、彼らは読まないだろう。本は秘密にどこかに隠されていなければならない...。
俳優である私の息子は、私と一緒に彼の最初の舞台出演をした。オペラで少年の役割が必要だった(ヴェルディ「運命の力」に親子で出演)。関心をもった8歳の息子を招き入れ、そこから彼の興味が始まった。私はこれが彼の後の選択に影響を与えたと思っている。


長男ベンと。ヴェルディ「運命の力」1998年マルセイユ




Q、また、あなたには、音楽に加えて、いくつかの情熱を傾けるものがある。写真撮影をするし、ハードな修理工でもある?

A、写真は良い趣味だ――見ることを学び、自分の身近な物事を見る。
しかし大工仕事のハンマーの取り扱いには注意が必要。指を怪我すると、しばらくの間ピアノの後ろに座ることができない。
生活の中には、どんな人でも、恐れずにやってみるべきシンプルな良い仕事がある。私たちはすべて人間。マドリードの私の家は、すべて私が設計したり造ったりした。もちろん家本体は違うが。
時々自分自身でやったことを見るが...それは非常に良い出来とはいえないかもしれないが、別の価値がある。


2009年チューリヒのインタビュー動画より




Q、あなたはシンプルな人?

A、私はそう。そして、あなたは?
遅かれ早かれ、人生はプレッシャーにさらされる。私はプロフェッショナルとして誇りを高めていくが、それは傲慢さのためではなく、何年もの経験と自信を持っているからだ。
今、私は、何がうまくいき、何がうまくいかないのか、自分がそれを知っている。
・・
もし本当に知らなければ、すべてを知っていることを証明する必要はない。チームを信頼することは、どの分野においても最も重要なことだ。


Q、あなたは観客に、感情的な体験を贈る。あなたは何を得ることができる?

A、私は同じエネルギー、良い感情を得る。
ただ旅行では残念なことも多い。劇場、舞台、素晴らしい人々とオーケストラに出会う。しかしそれがすべてだ。夜はホテルの部屋とベッドを見るだけ。壁の中で1日12時間から13時間を過ごすしている。


Q、だから、あなたはどこにいてもミュージシャン?

A、それだけ!
リハーサルをして、舞台の中心にいる。それが終わっても、観光客として街を見てまわることはない。
オペラ歌手の人生が、キャビアとシャンパンだというのは、ハリウッド映画の中だけだ!
実際の生活は、ホテルの部屋に帰り、1日食べられなかったので、小さなバーで食事をし、眠りにつく。






Q、あなたは何度もエストニアに戻ってくる。なぜ?

A、巨大な劇場はなくても、そこに住んでいる人たちだ。エストニアには人がいる!
なぜあなたは、ウィーンやニューヨークが、より優れていると思う?みんながすべてに慣れているということはしばしばあるが、驚くべきことはない。
あなたの国立オペラ座は、他の主要オペラハウスと比べても申し分ない。プロフェッショナルの人々、オーケストラ、合唱団がいる。彼らは本当に素晴らしい。


Q、あなたは作曲家、指揮者、演出家、アーティスト、歌手だが、どういう子どもだった?

A、私は本当の反逆者だった! 私はトラブルや頭痛の種を引き起こしたが、同時に非常に礼儀正しかった。私はいつも反骨精神をもち、何に対しても、誰に対しても、反対して論争したがっていた。
私は40歳の誕生日に、母親から非常にクールな贈り物を受け取った。
私の先生が、私が9歳の時に手紙を寄こした。当時私は知らなかったが、そこはこう書かれていた。
“親愛なるホセのお母さん、私はあなたに、小さなホセは、常にあらゆるものを自分で管理しようとする気性の少年であることを伝えたい。何か問題が起きるとき、それは常に最初の1人だ。何か良いことがある時も、一番最初だ。”
先生は次の言葉で文章を終えていた。
“私はホセが、大人になったら素晴らしい人になると思っている。”
それは心に響く手紙だった。


Q、あなたは妻であるシルビアと40年間ともに歩いてきた?

A、私たちは1979年に出会い、間もなく40年を祝う。


Q、良い長い関係の秘訣は?

A、忍耐とスキルと耳を傾けようとすること。
日常生活において、私たち男性は女性と平等だが、ベッドに行くときは、彼女は女性で、私は男性だ。

私は彼女のためにドアを開け、コートを脱ぐのを助け、花を贈るだろう。私が病気の時は、彼女は私を休ませ、治療を助けてくれる。
私たちは家で、すべてのことに全力をつくす。私は自分で靴下を洗い、食事をとることができるが、家族と妻のために自分がやる必要があるときは、私はそれをやる。男性として、父親として。
シルビアが弱いから?NO!愛する女性を守ることは、私の血のなかにある。






Q、今、平等について多くの議論があるが、どう思う?

A、このトピックは間違って議論され、政治的に使用されている面があると思う。
誰もが平等な機会を持たなければならないことは明白なことだ。これは人権だ。
しかし正直に言って、男性は男性で、女性は女性であり、そのことは残るし、残るはずだ。
2人の男女間の素晴らしく優しい関係は最高だ。なぜそれを破壊しようとする?
私は女性には女性に対するように接したいと思っている。

しかし、職場での仕事においては、私たちは翼の一翼として見られるべきだと思う―― 彼女が私より優れていれば、より良い給料を得る必要がある。
私は多くの成功した女性を知っている。彼女たちは教育を受け、素敵で、強く、しかし1人でいる。それは、彼女たちの世界に合った男性が見つからないからだ。彼女たちは、愚かな人と一緒にいるよりも、むしろ独りでいる方が好きだと言う。

私たちはともに社会的な能力をもち、平等でなければならない。
しかし、どうか、花を渡し、ドアを開き、称賛することを続けさせてほしい。


Q、あなたの日々は、サーチライトの光の中で何百もの人々の視野のなかを通過してきた。これまでに、ステージにあがることが精神的または肉体的に不可能な瞬間があった?

A、私は1年半前に深刻なバーンアウトを経験した。私はそれまで30年連続で毎日働いてきた。私は毎日、非常にアクティブだったが、その時、私の体は言った - 今は休憩だ!と。詳しく語るつもりはないが、良いレッスンだった。

物事を考える時だった。私は何年も他の人をケアしてきたが、自分自身ではなかった。私は自分の死後、まわりが悲惨になることを望んでいない。それはエゴイスティックだろう。人は救われ、愛されなければならない。


Q、プッチーニのオペラを国立オペラ座で演奏するが?

A、「西部の娘」は、私の非常に好きな演目の1つ。
一流の仕事を創造するために招待された時には、より強力な権限をもち、あなたが一番好きなことをやってほしい。
私は仕事をしている?それとも趣味?私は大好きなことをやり、それによってお金を得ることができる。
過去には、私は、ある評論家、また別の評論家が、後で何を書くのか心配していたが、今日では、もはやそれを考えない。
心が満たされるように私がドアを閉じることができれば、それは最高です。
誰もがあなたのことを好きではないし、それでは誰も幸せになれない。しかし自分自身が満足できれば、あなたは幸せになれるだろう。



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いつものように率直な物言いで、誤解を恐れぬ語りぶりです。クーラ自身は、たいへんなロマンティストで、キリスト教的な「騎士道精神」が身についているように思います。また外見は非常にマッチョな人ですが、このインタビューでも、男女の平等は当然であり、平等は人権だと言い切っているのは、当然ですが重要なことだと思います。

またデリケートな今日的な話題にも率直に発言していますが、オペラと芸術のテーマのほとんどは、愛と性に関するものであると指摘するクーラらしく、個人的な性愛にもとづく豊かで優しい男女の関係の素晴らしさと魅力を語り、一方で仕事の面や社会における男女平等と能力にもとづく評価の重要性の問題を明確に分けて、それぞれ強調しているところが大事な点だと思いました。

以前の記事でも何度か紹介しましたが、クーラと妻シルヴィアさんは、幼い長男とともに91年にイタリアへ渡りました。母国アルゼンチンでは軍事独裁政権を終わらせたばかりで、経済的混乱のなか食べていくのが難しかったからです。以来、イタリア、フランスと安住の地を求めて移り住み、ようやくクーラが歌手として売れ出し、パリ郊外にマイホームを得たと思ったら、第4のテノールだとか、セクシースターとして売り出そうとするエージェントや広告会社に納得できず、独立して、苦しくても自分の足で歩むことを決断したのでした。
その後、スペインのマドリードに自宅と事務所を構え、シルヴィアさんはクーラの会社の会計責任者として、公私とものパートナーとして、ともに支えあってきたということです。困難を乗り越えてきた絆、お互いへの尊敬、細やかな愛情があってこその40年間なのでしょうね。

子どものころのエピソードは、なるほど納得!という感じで、そのまますくすくと育ったのですね(笑)。クーラのお母さんが、彼の個性を否定したり変えようとしたりせず、認めて育てたことがよくわかりました。

9月のエストニアの西部の娘、今後、クーラが演出構想などを発信してくれるのを楽しみに待ちたいと思います。




*このインタビューは、クロニクルジャーナルの3月号に掲載されました。劇場HPはこちら

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