人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(動画公開編)2020年 ホセ・クーラ脚本・作曲のオペラ「モンテズマと赤毛の司祭」世界初演へ

2020-04-26 | クーラ脚本・作曲オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」

 

 

 

ホセ・クーラが、脚本執筆、作曲、オーケストレーションを手がけ、今年2020年1月29日、ハンガリー・リスト音楽院での世界初演で自ら指揮をした新作オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」、初演の舞台の動画が公開されました。セミステージ形式です。

当日、ラジオで放送され、1か月ほど聞くことができましたが、今回は、世界的なコロナ禍で家に閉じ籠らざるを得ない音楽ファンのために、クーラ自身がYouTubeチャンネルにアップしてくれたものです。

いつまで公開されているかはわかりません。突然、非公開にしてしまうこともありますので、興味をお持ちの方はぜひお早めにどうぞ。

なお、物語は、キューバの作家カルペンティエールの「バロック協奏曲」を原作としています。主人公のメキシコ出身の男爵と、ヴィヴァルディ、ヘンデル、スカルラッティという3人の作曲家たちとの出会い、実在のオペラ「モンテズマ」誕生に至るエピソードが盛り込まれています。

音楽としては、クーラの作曲と構成のなかに、中心人物のヴィヴァルディやヘンデルをはじめ、様々な有名な曲やセリフが引用されていて、どこに誰の何が出てきているのかを知る楽しさもあります。

また使用言語は、スペイン語、イタリア語、ドイツ語など、キャラクターによって使い分けられています。字幕はありませんが、クーラが脚本を原語版、英語版の両方で公開してくれています。下にリンクを掲載していますのでご参照ください。

とはいえ、英語の脚本でも、私などには、なかなかすぐには理解しにくく、いずれ訳して紹介したいとは思っていますが、まだまだ先になりそうです。なので、以前の投稿で、初演の舞台に登場したナレーション(録画ではカット)の原稿をざっくり訳していますので、多少はストーリー展開を知る参考になるかと思います。よろしければどうぞ。  →  (オンデマンド録音編

 

 

 


 

 

 

≪ホセ・クーラ脚本・作曲「モンテズマと赤毛の司祭」 録画≫

 

Montezuma e il Prete Rosso, opera buffa ma non troppo by José Cura

 

 

World Premier in Concert at the Budapest Music Academy Great Hall ,  January 29, 2020

Cast in order of appearance

Prologo
Francisquillo – János Alagi
The Baron – Matias Tosi
The Lover – Katalin Károlyi

Backstage voices
A Woman – Gabriella Sallay
A Man – Péter Tóth

Quintet
1. Nóra Ducza
2. Bernadett Nagy
3. Kornélia Bakos
4. József Csapó
5. Szabolcs Hámori

Il Carnevale
Vivaldi – Donát Varga
Handel – Domonkos Blazsó
Scarlatti – József Gál
Filomeno – Zoltán Megyesi
Host – Róbert Rezsnyák

Orchestrina
Dávid Simon (flute)
Zsanett Pfujd (bassoon)
Balázs Csonka (violin)
Eszter Reményi Csiky (violoncello)
Helga Kiss (percussion)

Stornello

Uomo 1 – József Csapó
Donna 1 – Kornélia Bakos
Donna 2 – Nóra Ducza
Uomo 3 – Szabolcs Hámori
Donna 3 – Katalin Süveges
Uomo 2 – Gábor Pivarcsi
Donna 4 – Bernadett Nagy

L’Ospedale
Orderly Noun – Borbála László

Orphans orchestra
Bianca Maria – Fruzsina Varga (flute)
Claudia – Melinda Kozár (oboe)
Cattarina – Yoshie Toyonaga (clarinet)
Lucietta – Dóra Béres (trumpet)
Pierina – Ildikó Fazekas (violin)
Bettina – Katalin Madák (viola)
Margherita – Rita Keresztes (cello)
Giuseppina – Gerda Kocsis (contrabass)

Il Cimitero
The Gondoliere and the Friar – Róbert Rezsnyák

Hungarian Radio Symphony Orchestra and Choir (choirmaster: Zoltán Pad)
Organ, harpsichord continuo: Soma Dinyés

 

 

 

≪ 脚本 ≫

 

クーラが執筆した脚本です。公式HP(全体はリニューアル作業中)に掲載されています。44ページのPDFで、左右に「原語版」と「英語版」が並んでいます。以下の画像にリンクをはってあります。

なお、今回、公開された動画では、最後のシーン、「リハーサル」の場面がカットされています。クーラの説明によると、初演後に大幅に書き直したそうで、そのために動画からはカット、この脚本には改訂後の文面が掲載されているようです。

クーラが執筆した脚本には原作があり、キューバの作家カルペンティエールの「バロック協奏曲」にもとづいています。

 

 

 

 

 

≪解説と資料≫

 

同じく、クーラの公式HPに掲載されたもので、PDFで13枚、クーラ自身が執筆した脚本や音楽面、史実などに関する解説、引用元、資料の紹介、クーラやヴィヴァルディの自筆の楽譜の写真、原作本の写真なども掲載されています。(英語)

 

 

 

 

 


 

 

クーラの新作オペラ、動画に加え、脚本、解説・資料まで、すべてを無料で公開してくれました。クーラの丹念な仕事ぶり、凝り具合がよくわかるのではないでしょうか。作曲だけでなく、歴史的事実と資料収集などの探求と研究、執筆、英語版の作成、解説の作成、動画のアップ作業・・本当に、大変な労力と時間、情熱がつぎ込まれています。こういう手間のかかる仕事を、コツコツと熱心に続け、多面的に展開させている多才なアーティスト、本当にユニークな存在ではないかと思います。しかも、しかるべきレーベルから出版、書籍化すれば、収益にもなるだろうに、今、みんなが苦しんでいる時だからと、すべて無料で公開してくれています。

クーラが原作とした「バロック協奏曲」は荒唐無稽な空想的なストーリーで、私が読んだ印象では、なかなかオペラ化するのは難しそうに思われましたが、その奇想天外な展開をそのままに、エッセンスをぎゅっと詰め込み、ドラマティックでカラフル、コミカルな音楽を豊富に付けたという印象です。

音楽の楽しさ、素晴らしさとともに、人種差別と自由、他民族への侵略の歴史、文明の対立、アーティストのアイデンティティなどの社会的、歴史的視点も編み込まれています。

そしてこれは、もともと何年か前に作曲されたたものですから、クーラが意図したものではないのですが、そして原作がそもそも描いていることですが、伝染病による悲劇を悼む内容ともなっていることです。オペラの冒頭、旅に出た主人公が、キューバで疫病の流行に巻き込まれ、同行した従者が亡くなるという悲劇に見舞われます。そしてクーラは、この部分に、死者を悼み、悲しみと祈りのレクイエムを、たっぷりの時間をかけて作曲しています。全体としては喜劇を標榜していますが、この前半部分は、とても切なく、美しくドラマティックな悲劇的な場面となっています。作曲時に意図していたわけではないけれど、今、この曲が公開されたことで、世界が直面している新型ウイルスによる犠牲者を悼み、困難に直面している人々を慰める音楽となっているようにも、私には思われます。これはあくまでも偶然ですが、クーラの人間と人間社会に対するリアリズムとヒューマニズムが、そういう受け止めを可能にしているのではないかとも思います。

ぜひ、大勢のみなさまにご覧いただければと願っています。また、今回はセミステージ版でしたが、いつか舞台化され、完成版として上演されること、またDVDなどで映像化、リリースされることを心から願っています。

 

 

*画像は、クーラとハンガリー放送協会のFBからお借りしました。

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(公演キャンセル・インタビュー編) 2020年 ホセ・クーラ ウィーンでサムソンとデリラに出演

2020-04-24 | オペラの舞台ーサムソンとデリラ

 *画像は2010年クーラ演出・主演「サムソンとデリラ」の動画より

 

 

新型ウイルス感染の世界的な拡大のために、2020年の3月以降、世界各地の劇場が閉鎖されています。ホセ・クーラ主演、ライブ中継も予定されていた、3月末~4月のウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラも、残念なことにキャンセルされてしまいました。

クーラにとっても、2016年9月に西部の娘で出演して以来のウィーンは、とても楽しみにしていた公演だったと思います。ウィーン国立歌劇場の広報誌にも、クーラのインタビューが掲載されていました。今回はこのインタビューを紹介します。原文はドイツ語のようですが、クーラ自身が、フェイスブックで英文を紹介してくれました。

いつものように不十分な翻訳ですので、ぜひ原文、クーラの英文テキストをご参照ください。

 

 


 

 

●クーラのFBより

 

”ウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラのキャンセルで私たちが失ったものの中に、この国立歌劇場の広報誌「プロローグ」のために行ったインタビュー記事がある。読んで分析するために、私の元の英語テキストをここに。非常に徹底したインタビューであり、この素晴らしいオペラにたいするあなたのビジョンを広げるのに役立つことを願っている。”

 

 

 

 

≪危険なカクテル≫

『プロローグ』 2020年3月

 

 

 

 

KS(ウィーン宮廷歌手の称号)ホセ・クーラは、ウィーン国立歌劇場で多くの重要な役を演じてきた。有名な役柄だけでなく、珍しい演目の主役としても。「彼の」サムソンは、ウィーンではまだ登場していなかったが、3、4月にこのギャップは埋められる。

 

Q、なぜ、少数のオペラハウスだけが、サムソンとデリラをプログラムに入れている?

A、(ホセ・クーラ) 必要な声は別として、この作品はもともとはオラトリオ(宗教的な合唱曲など)として構想されたものであり、そのためペースが静的な面がある。そこから魅力的なショーを作るためには、非常にカリスマ的なアーティストを必要とする。さもなければ失敗のリスクは巨大だ。 プロダクションがどれほど壮大であっても、退屈が待ち構えている可能性がある…...もちろん、それらを一種の増強剤として使用し、よりダイナミックなものに到達するために必要な速度に追いつくことで、明らかに遅い瞬間の一部を引き出すことができる。火山の噴火のように。つまり「暗さ」を利用して「明るさ」を強化する。それが優れたディレクターの仕事だ。しかし、作品のスタイルに抗して、オラトリオからノンストップの「アクションムービー」を作成しようとするのは間違いだ。したがって、演者の舞台上での存在感は必須であり、それが制限にもなりうる。

 

Q、サン=サーンスは折衷的な作曲家だった? 彼の音楽の特徴は?

A、彼の作品カタログを考慮すると、彼の時代はかなり折衷的であったと言える。一般的に、彼の音楽はフレージングが「ゆったり」で、ハーモニーが「厚い」。全般においてこれら2つの効果的な組み合わせに依存している。マスネ―やビゼーと同時代に生き、19世紀のフランス音楽の主要なトリオの一部となったのは不思議ではない。

 

Q、評論家はかつて、「サン=サーンスの音楽からは、彼が親切だったのか、愛していたか、苦しんでいたか、わからない」と言ったが?

A、作品を分析してその作家の個性を説明しようとするのは危険な冒険だ。主にこれは、ファンタジーの本質そのものを破壊する危険を冒すことになる。

 

Q、歌手としてのあなたは、サムソンとダリラの何から刺激を受ける? 指揮者、作曲家としては?

A、歌手としては、ボーカルラインと私自身のインストゥルメントとの完璧なフィット感。声のリソースとの「フィット」について言及する際、これが何を意味しているか、歌手だけが完全に理解できる。自分が歌うと決めたあらゆる役柄の課題に対処することは、プロの歌手の仕事だが、私たちにとって本当に自分の肌の下にいると言えるのは、ほんの一握りの役柄だ。

指揮者としての最大の課題は、宗教音楽ならではのスローテンポに屈服しないようにすることだ。そうでないと、楽曲のゆったりした音楽は退屈になってしまう。また、正当な火花によって引き起こされた動揺の感情が、革命、裏切り、そして大虐殺に変わっていく、この作品の精神的なパッセージを伝えることも不可欠だ。

通常陥る罠の1つは、最後の合唱の音楽「Dagon serevèle」を陳腐なものとして扱うことだ。サン=サーンスがインスピレーションを使い果たし、すぐに作品を完成させて小切手に換金するためこの「安っぽい」パッセージを書いたのだと言って…。たぶん作曲家は、ダゴンの神をサムソンの神と比べて二次的なものにするために、意図的にダゴンの音楽を新鮮味がないようにしたのではないだろうか。

しかし、サムソンとダリラにとって、最大の課題は演出家だ。私は25年の間にこの役柄で数え切れないほどのプロダクションに参加した。そして、そのスタイルに関係なく、失敗したプロダクションは、作品の精神的な内容を否定し、基本的に信仰と宗教の対立の上に成り立っている作品に、他の「存在理由」を 投影しようとするものだった。このことは、他の種類の審美的な改作を拒否すべきという意味ではない。これは良い演出家にとっての特権だが、ただし最終的なスタイルの逸脱が、台本の内容から切り離されていない場合に限る。絵画の特定の側面を強調し、よりよい判断をする方法として、ダ・ヴィンチのジョコンダに光を当てることはありうるが、見栄えをよくしようと考えて、そのふくよかな顔に口ひげを塗る権限はない。

 

Q、このオペラは、歌手にとってどの程度、優しいといえる?

A、声も技術も持っていないなら、歌手に優しいオペラはない。そして逆もまた同様だ。

 

Q、オペラは暗い色のなかで生きている?

A、人間の相互の関係を含む作品は、暗い色合いを暗示する必要がある。その上に、セクシュアリティを宗教と混ぜ合わせると、非常に危険なカクテルになる。

しかし最大の問いの1つは、サムソンは最初の自爆的な「テロリスト」であったのだろうかということだ。つまり、彼の理由づけに関係なく、ストーリーの避けられない事実の1つは、サムソンが彼の力の回復を願ったのは、彼が教訓を学んで、新たに獲得した知恵でそれを使用するためではなく、敵を一挙に殺害できるようになるためだったということだ。

 

Q、なぜオペラはサムソンと呼ばれない?なぜダリラと同等?

A、なぜオペラはダリラと呼ばれない?

 いわゆる「ラブ・デュエット」(2重唱「あなたの声に私の心は開く」)は、愛についての場面ではなく、正反対のものだ。それが脚本のドラマチックな推進力の中心にある。第3幕のサムソンの独白においては、そのカタルシスとダリラのサディスティックな嘲笑が、罰のサイクルを完全に閉じるために不可欠な屈辱であり、双方の名前で作品を呼ぶことは必須だ。

私は、この「名前」の問題と、カーテンコールで発生する可能性のある競合に関して、とても感動的なエピソードを持っている。誰が最後に拍手を受けるのか、テノール(サムソン)か、メゾ・ソプラノ(デリラ)か? 私たちは女性の主役が最終のカーテンコールを受けることでこの問題を解決していたが、1998年にワシントンで偉大なデニス・グレイブスと一緒にこの作品を演じた際、私がいつものように、彼女の直前に、拍手を受けるため出ていこうとしたとき、彼女が問答無用のジェスチャーで私を止めて、こう言った。「今夜、あなたがやったことは、最後の人に値する」と。それ以来の私とデニスとの友情は別としても、オペラのタイトルに関して、このことは、少なくとも感情的には、議論がまだ開かれていることを示している。

 

Q、サムソンを特別にするものとは? サムソンは英雄か?彼は肉体的な能力より精神的な能力が低い?彼はアンチヒーロー?ダリラは彼より強い? 少なくとも賢いのか?

A、古代ギリシャの定義によると、英雄とは、個人の最高の資質を体現する人間であり、彼が住んでいる社会のためにその資質・能力を使う者である。誰もがヒーローになることができる。しかし、「スーパーヒーロー」とは、特別な能力によって一段上の人物であり、この意味で、サムソンからスーパーマンまで、歴史上の記録は同じ精神でアニメーション化されているーー正義のために使われる超物理的なパワー。サムソンが裁判官とされている(「旧約聖書」の裁判官の章が元になっている)のも不思議ではない…。

彼はアンチヒーローではない。アンチヒーローとは、「普通」と同義語なので、それは彼にとっては容易かっただろう。彼の過ちが普通に判断できないものであったのは、彼が普通ではなかったからだ。彼は物理的な意味において、失敗したスーパーヒーローだった。彼の民と彼の神にとっての深い精神的な幻滅という点で。ダリラは彼ほど強くはなかった。内面の信念のためではなく、彼女が金のために彼を裏切った瞬間以来。しかし、そう、彼女はもっと賢かった。一般的に、そして特に性的に盲目の男性を扱う場合、どの女性も、男性より賢いのではないだろうか?

 

Q、ダリラはサムソンを愛している?

A、ハート(感情)とマインド(理性)との間の闘い?最終的に勝つのは何だろうか? オペラが上手く終る可能性はほとんどないのでは? もちろん、エンディングをひねることは可能だが、それはまったく別の話だ。

この言葉の意味を探ろうとする時、個人の感情的な不安定さ、さらには政治的課題に合わせるために、それを歪める必要はない。旧約聖書『士師記』のサムソンの物語は、おそらく、官能の網とその姉であるセクシュアリティに屈服する危険性について教えるために、当時の宗教教育者によって教育目的で作成された寓話だ。男性と女性の間の本当の愛は、この寓話には何の関係もない。

 

Q、何がダリラをサムソンにとって興味を引くものにしている?彼女は禁断の果実だと?

A、サムソンの性格に不可欠な要素の1つは、つまり教育目的に必要という意味だが、彼の略奪的な性格だ。それは、肉体的強さの本来の目的を完全に誤解したことによって補強されている。

ヴェルディのオテロと同じで、オペラの台本にはシェイクスピアの第1幕が欠如しているため、原作の全文を研究しない限り、ドラマの展開上の線に危険な誤解を招いてしまう。サムソンとデリラでは、オペラが始まる前に起こったことについて全く触れられていないため、テキストを綿密に調べないと、サムソンの心理を理解するのが非常に難しくなる。

サムソンは強く、きまぐれで、望んだものを手に入れるため、常に戦闘の準備ができていた。彼は、ほとんどの場合、ありふれた理由によって敵対する者なら誰でも簡単に殺すことができた。彼が特に怒りを爆発させた日は、1日に1千人までも。また「ライオンの殺害」の逸話は、ギリシャ神話に見られるように、彼の地位を半神に昇格させるために必要なものであり、彼のエゴがいかに制御不能であったかを我々が理解するうえで重要だ。

ダリラが、大祭司の愛人でもあったことは言うまでもない。それは、サムソンが彼女を欲しがった理由、明白な肉体的な魅力とは別に、その理由を非常に興味深いものにしている。彼女は魅惑的なトロフィーだったのだ。望んだものを得るために、サムソンに性的な力を使うようにダリラに頼むのは、司祭自身だ。この世界で新しいことは何もない。特にショービジネスにおいて。そこは、セックスとパワーが依然として非常に複雑に関連しているところだ。

プロローグ』 2020年3月

 

 

 

 


 

サムソンとデリラのキャラクターとオペラに対するクーラの解釈、なかなか読み応えのある記事だったと思います。

クーラは、オテロでも、このサムソンでも、またトゥーランドットや蝶々夫人、カルメンなど、有名で人気のあるオペラに関しても、つねに一般的な解釈にとどまることなく、原作やそれ以前の物語にさかのぼり、また周辺の歴史的事実なども綿密に調べ、キャラクターとドラマの解釈を掘りすすめ、探求する姿勢をつらぬいてきました。特に、現代の視点で、社会的な観点を踏まえ、合理的で、現代に生きる解釈をめざすという点では、クーラの姿勢には非常に共感できると思っています。とりわけ、歌手、出演者、指揮者、作曲家、演出家として、それぞれの経験を積んできていることから、非常に専門的な蓄積を持ちながら、決して難解にはしないで、誰もがわかりやすい形で問題提起してくれていると思います。

このブログでも、そういうクーラの姿勢と解釈をこれまでも紹介してきましたので、ぜひ興味のお持ちの方にお読みいただければうれしいです。

クーラの久しぶりのウィーン出演、そしてライブビューイングによる鑑賞が幻となったことは、非常に残念でした。とはいえ、この世界的なコロナ禍のなか、いつ劇場の再開が可能なのか、まだまだ見通せない状況が続いているもとでは、とにかくアーティストと劇場関係者、オケ、合唱団などの文化・芸術の支え手の方々が、健康で、生計を維持しつつ、この時期を無事に乗り越えてくださることを願うばかりです。先進的な支援策をとっている国にならって、文化政策として、思い切った助成をしていただきたいと思います。また音楽ファンのひとりとして、できることがあれば何らかの形で応援したいと思います。

最後に、一番最近のクーラのサムソンの動画である、2018年5月、ロシアのマリインスキー劇場での舞台を、劇場の公式チャンネルのリンクで紹介します。

 

 

●2018年5月、ロシア・マリインスキー劇場でのオリガ・ボロディナとのサムソンとデリラ(コンサート形式・全編動画)

 

 

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2020年 ホセ・クーラ、”家に居よう”ー Stay Home 、自宅での過ごし方を語る

2020-04-19 | 芸術・人生・社会について②

 

 

ホセ・クーラはスペインの首都マドリード在住です。マドリードでは、3月半ばから外出制限が課されているため、クーラも自宅で過ごすことを余儀なくされています。最近のニュースでは、深刻だったスペインの感染拡大も山場を超えつつあるのでしょうか、通勤などへの規制が少しずつ緩和され始めているようです。まだまだ安心はできませんが、厳しい制限に耐えて事態の収束の希望も見え始めたことは、本当に良かったと思います。

そういう最中に、ハンガリーのラジオ局から、自宅で電話インタビューを受けたようです。その内容がネットの記事で紹介されていました。例によって不十分な訳ですが、ざっくりとご紹介したいと思います。

またクーラがFBに掲載した写真や、音楽などもリンクを紹介しています。トップの写真はそのうちの1枚、手作りマスクを披露した写真です。布地はスカーフでしょうか?花柄が可愛いです。

 

 

 


 

 

≪私たちも家にいる必要があるーーホセ・クーラ ラジオで語る≫

 

 

アルゼンチンのオペラ歌手、作曲家、指揮者、俳優であるホセ・クーラは、月曜日の朝にラジオ番組「おはようハンガリー!」 に出演した。番組で、彼は、コロナウイルスによって引き起こされた状況のなか、日々、自宅でどのように過ごしているか語った。

ホセ・クーラは、防疫のための自宅待機で、彼自身の今後のプランを計画および実践している。緊急事態のため彼は自宅にこもっているが、小さな庭があるので、幸い、散歩や深呼吸のために外に出ることができるという。

 

「私たちは家にいなければならない。外出できない。ただドアを開けてそこから出ることもできない。それはもちろん、一種の投獄を連想させるものだ。しかし、今回はこの時間を、作曲家として、たくさんの音楽を書いたり、新しいオーケストレーションに取り組んだりして活用することができて、ある意味、幸運であるとも言える。私はちょうど初めてのギター協奏曲を完成させたところだ。これは長年、やりたかったことだ」 彼は言った。

 

彼は作曲活動を、新型ウイルス禍の状況に関連付けてはいない。もしそうすれば、非常に悲観的な音楽が生まれるだろう、と彼は言う。彼は、自分たち自身の心の底からの、より美しく魅力的な音楽を書くべきであり、すでに悪い状況にあるなかで、さらに悲観的なものを置くことは避けるべきだと考えている。

「非常に多くの異なる積み重なった要素があるため、この状況は本当に非常に特別だ。ウイルス感染の広がり自体、また多くの人が亡くなっていること自体が災害だ。そしてそれだけではなく、この状況につながった原因と、どのようして我々は、将来が再び起こることを回避できるかが大事だ。それが、この感染流行が終わったときに私たちが向き合わなければならない最も重要な問題だと思う。なぜ起きたか、その理由を見つけること、それが再び起こらないように」と語った。

 

クーラは1月に、ブダペストのハンガリー放送交響楽団と新作のオペラを演奏した。4月には、ミューパでレオンカヴァッロの2幕のオペラ「道化師」を歌う予定だった(感染予防のため公演キャンセル)。彼はハンガリー放送芸術協会のゲストアーティストでもある。

 

彼に、オンラインでの出演計画や、自宅のリビングルームからのコンサートのやるのかと聞いてみたが、彼はまだそれについては何も考えていない。たぶんイエス、それともノー?

「自宅のリビングルームから演奏するかどうか、わからない。最近インターネットにはたくさんのものがあり、それらはかなり複雑で混乱している。すでに私もインターネットを使用して面白いことを試している。パンを焼いている様子を撮影してみたが、それはリビングルームで歌うよりも聴衆にとっては楽しいのでは?」と彼は付け加えた。

 

(「hirado.hu」)

 

 


 

 

●自宅で過ごす人々に、アルゼンチン歌曲を

 

自宅のリビングから放送する予定はまだないようですが、ハンガリーで2013年にアルゼンチン音楽のリサイタルを行った際の動画を5曲公開してくれました。

ピアノ伴奏で美しく哀愁ただようアルゼンチンの歌曲です。クーラ作曲の作品もあります。

 

 

 

●クーラのFBより

 

トップの画像と同じものです。

”もうマドリードにマスクはない。解決策は2つーー食品の買物をやめるか、自作マスクを着けるか。しかし家に白い布がない場合は?まあ、あまり上品とはいえないが、とてもクール! でしょ?”

 

 

”焼きたてのパン、明日の朝食用に準備ができた”

 

 

●インスタより

 

 

 
 
 
 
 
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Not shaving until the end of this nightmare... Getting ready for Santa Klaus! 🤣

José Cura(@josecuragram)がシェアした投稿 - <time style="font-family: Arial,sans-serif; font-size: 14px; line-height: 17px;" datetime="2020-04-04T10:53:01+00:00">2020年 4月月4日午前3時53分PDT</time>

”この悪夢の終わりまで髭を剃らない...…サンタクロースの準備中!”

 

 


 

ここで紹介した以外にも、クーラは、自宅で過ごさざるをえない人々を励ますために、昨年のオマーン王立歌劇場マスカットで指揮したベートーヴェン第9交響曲の録画や、クーラ作曲のオラトリオの抜粋など、貴重な映像、録画を公開しています。

また近いうちにクーラ脚本・作曲のオペラ「モンテズマと赤毛の司祭」の動画も公開することを予定しているそうです。

本来ならば、レーベルからリリースすれば収入にもなる貴重な作品です。大手のエージェントやレコードレーベルに所属せず、自営でひとりの独立したアーティストとして独自の活動スタイルをつらぬいてきました。自分の費用をかけて録画してきたはずのものも、これまで簡単にリリースしようとせず、今みんなが苦しんでいる時に、機会が来たといって無料で公開するクーラ。商業主義の商品にはならない、この信念をいつも貫く人です。経済的利益より、芸術的、人間的、倫理的価値に重きをおく人なのだとあらためて思います。

そしてこの新型ウイルスの世界的流行という困難を乗り越え、クーラが強調したように、私たちの社会、世界が、パンデミックで明らかになった問題点、再び繰り返さないための課題を、どう分析し、見通し、改革することができるか、本当に大切なことだと思います。未来にむけての巨大な挑戦です。

 

 

 

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2019年 ホセ・クーラ インタビュー 「現代的か、古典的かを問わず、大切なのは知的であること」 

2020-04-09 | 声、技術、キャリアについて

 

 

ホセ・クーラは、感染拡大が深刻な国のひとつ(2020年4月初現在)、スペインのマドリード在住です。3月半ばから外出禁止命令が出され、クーラの公演予定も、3月のハンブルクのオテロの2回目が中止されて以降、4月のウィーン国立歌劇場のサムソンとデリラの公演とライブ中継、ハンガリーの道化師などがキャンセルとなっています。

自宅待機を余儀なくされるなかでクーラは、元気に作曲の作業などを続けつつ、SNSでの発信を増やし、リサイタル動画を公開したり、「自宅に居よう、健康でいよう」とメッセージを発信しています。また「Strong together」というFBの交流サイトを新設しました。外出禁止措置が長引き、不安や苦痛を募らせている人々を励まし、楽しく意見交換、情報交流する場にしたい、ともに強く、この困難を乗り切っていこうという思いからのようです。

またビッグニュースとしては、近々、1月に初演されたクーラ脚本・作曲の新作オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」の動画を、全編掲載するということですので、楽しみに待ちたいと思います。紹介の記事も書きたいと思っています。

今回は、2019年12月に発表されたインタビューから、抜粋してご紹介します。歌手、指揮者、作曲家、演出家と、様々な活動を広げているクーラの、キャリアやその仕事について、役柄、批評、テクニックについて・・等々。

今年2020年11月、イタリアのバーリ歌劇場の来日公演のアイーダで、クーラの来日情報も公表されています。久しぶりにクーラの情報にふれたという方、はじめてクーラのことを知ったという方にも、クーラの多面的な姿を知る興味深いインタビューではないかと思います。

いつものように不十分な訳をお許しください。原文をご参照ください。

 

 

 


 

 

≪それが知的であるなら、公演はうまくいくーーホセ・クーラへのインタビュー≫

2019年12月27日 Opera Vilag

 

 

 

ハンガリーでの3年間の契約の初めに、世界的に著名なテノールのホセ・クーラは、歌手、指揮者、作曲家としての彼のキャリアについて語った。(2019年秋からハンガリー放送芸術協会のゲストアーティストに就任)

 

Q、ハンガリー放送芸術協会との3年間にわたるコラボレーションの動機は?

A(クーラ)、それは一目惚れだった! 何年も前、彼らと初めてコラボレーションをした時、私たちはコダーイの「テ・デウム」とロッシーニ「スターバト・マーテル」を演奏した。2回目は、私自身が作曲した音楽を演奏した。オーケストラが私の作品にそのような大きな愛と関心を示してくれているなら、私は彼らとより深い感情的なつながりを育てることができる。

2回目のコンサートの終わった時、私たちは素晴らしい体験にとても感動し、私はすぐに彼らの主席ゲスト・アーティストとして参加するよう招かれた。

 

Q、指揮者として大学を卒業したにもかかわらず、あなたは主にオペラ歌手として知られており、ほとんどの場合、オペラ歌手として舞台に立った。指揮者として直面する課題と困難とは?

A、オペラ歌手であることと、指揮者になるための準備はまったく違っている。

オペラ歌手としては、主に自分自身に責任を負うーーもしうまく歌えれば、他のみんなもより良く演奏できるだろう。しかし一方で、歌が悪かったなら、批評はあなたとあなたのパフォーマンスだけに集中する。対照的に、指揮者はパフォーマンスのすべての参加者に責任を負う。したがって、より大きな責任があり、パフォーマンスがうまくいかなかった場合に全体的な責任を回避することはできない。

指揮者の場合は知的なプレッシャーがより大きく、対照的に、歌手の場合は、単純な健康上の問題がパフォーマンス全体を危険にさらす可能性がある。指揮者としては、気候が寒いか、雨が降っているか、気にする必要はなく、自分の仕事にのみ焦点を当てればよいので、そういう種類のプレッシャーはない。しかし指揮者の責任は他のものに根ざしている。チーム全体を運営しなけらばならない。指揮者は歌手とオーケストラを信頼することを学ぶ必要があり、歌手とオーケストラが安心できると感じるようにしなければならない。これは言うのは簡単だが、実践するのは非常に困難だ。この種の相互作用はめったに達成されることはない。 

 

Q、リハーサル中に、ソリストに技術的な知識に基づいて教えることがある?それとも指揮だけに集中する? 


A、求められていないアドバイスほど不愉快なことはない。したがって、私は教えようとするのではなく、次のような提案をする。「私があなただったら、その問題をこのように解決すると思う 」、または「 もし私の経験が役に立つなら、自由に使ってほしい。そうでなければ、あなたのアイディアを教えて」・・と。ソリストにとっては、作品の難しい部分が何であるかを正確に理解し、解決のために何が必要かを知っている人物が指揮をすることは、有益だろうと思う。しかし、もしソリストが私のアドバイスを受け入れなかったとしても、私はまったく怒らない。私が一緒に仕事をしているのは、初心者や学生ではなく、プロフェッショナル、素晴らしいプロフェッショナルたちなのだから。

 

Q、あなたは非常に高い評価を受けているオペラ歌手の1人だが、どうやって、ソリストたちに対し、彼らが批判されたとか、気分を害されたと感じさせずに指揮できる? 


A、怒るのは凡庸な人だけだ。健全な人は、指揮者が歌手に技術的アドバイスをする場合、すでに同じ状況を経験して歌手がどのような助けを必要としているのか理解しているからそのアドバイスをしている、ということを知っている。ソリストがアドバイスを攻撃と受け取る場合、歌手が心理的なコンプレックスを持っていることを意味しているので、彼の問題は特定の技術的な修正をすることではない。

 

Q、オペラハウスから招待されたときに、誰と一緒に歌いたいか決める決める力はある?

 
A、ノー。通常、そういうことは起こらない。

もちろん、オペラ映画などの大きなプロジェクトの場合は、可能な限り最高の作品つくるために、あらゆる優れた要素を組み合わせる方法についての対話がある。しかし、オペラハウスでのレギュラーシーズンの公演の場合は、そこで出会った同僚と一緒に仕事をするだけだ。新しい人々と常に出会い、彼らと一緒に働くことで新しい経験をするのは、素晴らしいことだと考えている。満足できる3、4人といつも一緒に歌うなら、経験できる全体的な世界を失うことになるだろう。キャリアを通じて、さまざまな人々と出会う。良い手本を示し、多くのことを学ぶことができる人もいるし、やるべきでないことの手本となる人もいる。賢明であれば、良い経験で自分の「荷物」を豊かにすることができるだけでなく、無駄なものが何であるかを学び、それを取り除くことができる。

 

Q、現代的な演出よりクラシックなプロダクションを好む?

 
A、知的なものを好む。それが現代的か伝統的かは関係ない。私はただ、知的な作品が好きだ。伝統的な作品で本当に馬鹿げているものが沢山あるし、非常に興味深い現代的なプロダクションがある。もちろん、その逆も当てはまる。それは、レンブラントの絵とピカソの絵のどちらを好むかを尋ねるようなものだ。私の答えは、私は非凡な才能を好み、彼らは2人とも天才だったということだ。そこが肝心な点だ。興味深いメッセージを持つ優れた演出家は、プロダクションがモダンか伝統的かに関係なく、優れた舞台を生み出すことができる。悪い演出家はどんな場合でも良くない舞台をもたらす。

 

Q、あなたはヴェルディのオテロとサン=サーンスのサムソンの最も信頼できるパフォーマーと考えられている。意識してこれらの役柄に特別な注意を払ってきた?それとも偶然にあなたの象徴的な役柄に?

 

A、まず第一に、私は、自分がオテロやサムソンの最も信頼できるパフォーマーだとは思っていない。なぜなら、これらの2つの巨大なキャラクターを表現するうえで、立派な仕事をする歌手が沢山いるからだ。

ただ、他のすべての役柄に対して同様に、私が、期待されるようなやり方ではなく、さらに深く掘り下げ、何らかの他の要素を見出すためにキャラクターの魂を探求してきたことは事実だ。

ニューヨークのメトロポリタンオペラでオテロ(2013年)を演じた後、「 このいまいましいクーラは、常に自分がやりたいことをやり、期待されていることをやらない」とある批評家が書いた。それは私にとっては最高のレビューの1つだった。ジャーナリストは傷つけるつもりだったが、このレビューは世界にこういうメッセージを送ったと思っているーー「ステージに型通りのオテロは見られなかったが、クーラが独自のムーア人のキャラクターを形作った。クーラは真のパフォーマーだ」と。

 

Q、自信を持って完全に知るためには、その役を何回演じる必要がある? 


A、うーん、たくさん。34歳だった1997年の最初のオテロと今の私のオテロとを比較して、どのように変わったのか、よく聞かれる。34歳の頃、髪を白く染めて年上に見せたが、今では黒く染めて若く見せている。オテロのキャラクターが正確に何を必要としているのかを学ぶのに、何年もかかった。

 

 

 

 
Q、もし歴史上の大作曲家と話す機会があったら、誰を選ぶ?そして何を質問する?

 
A、私は間違いなくバッハを選ぶ。私の質問は、「 いったい、どうやってやったの? 」 ( 笑 )。

 

Q、今シーズン 、あなたはサン=サーンスのサムソンとデリラ、レオンカヴァッロの道化師を歌う予定だ(注*いずれも感染症防止対策のためキャンセル)。カレンダーにはアリアコンサートもある。濃密で多様なプログラムのために、どのように声を準備する?

 
A、忙しいが、以前ほどではない。これまでに約2,800の公演に出演した。年間100回以上の公演をした時期があるが、それは2日に1回ステージに立っていたことになる。

今は状況が異なる。一定の年齢に達したからといって、歌うのを止めることはないが、しかし1つのパフォーマンスから別のパフォーマンスまでの間に、体が回復するために十分な時間をとることに注意を払う必要がある。 年をとるほど、体が回復するのにより物理的により多くの時間が必要になる。それはテクニックとは何の関係もない。もちろん技術は非常に役に立つが、体が休息を求めている時、その信号を理解し、必要な休息をとらなければならない。20歳のときなら、週に2、3回のマラソンを走ることができるかもしれないが、50歳なら、走れるとしても月に1回だけしかできない...。

 

Q、今も声の先生を持っている?

A、いいえ、いない。

 
Q、どうやって声を守る?

A、何に対して?

私は自分自身が良いテクニックを持っていると思う。それについて反対だと思う人もいるが、私は過去30年間歌ってきて、あなたも知っているそれらの重い役を歌い、そして今もまだ話すことができる・・。

私のテクニックは、人々が期待するものとは少し違うかもしれないが、それは私が必要としているものだ。また、もちろん賢明でなければならず、一定の年齢を過ぎると、歌手は自分の声が若くないことを受け入れなければならない。したがって、自分のキャリアのペースをスローダウンしなければならず、お金のためにすべてを受け入れてはならない。私の演出家や指揮者としてのもう一つのキャリアは、その意味では大きな幸運だ。作曲家としての仕事も言うまでもない。指揮や作曲をしている間、声を数週間休ませることができる。

 

Q、オペラ歌手が犯す最も一般的な間違いとは? 


A、現代の騒音公害の結果として、非常に深刻でよくある間違いがある。それは音量だ。叫ぶこと。 今日の人々は、外の騒音、ヘッドフォン、ポップコンサートの大音量のため、耳がよく聞こえなくなっている。コンサートに参加する時、50年前と同じ音響感度を今の人々は持っていない。したがって今日、コンサートでの人々の第一印象は、パフォーマンスの音量が十分ではないということだ。若い歌手もよく私に言う。「 マエストロ、私が通常の古典的な歌唱技法で歌うと、私の音量は十分にならない。 どんどん大きな声で歌わなければならなくなる」。これは、人々の聴覚が悪化し、音楽を楽しむために音量を上げざるをえなくなっているためだ。映画や劇場のショーに注意をむけるためには、ますます「花火」が必要になっているのと同じだ。

現代の私たちは、クラシックコンサートにおいては、音量は重要ではなく、聴衆がアーティストと、人間から人間への生々しい直接の体験があることを忘れてしまっている。私はあなたに経験を与えるーーステージの上で、汗をかき、苦しみ、一生懸命に働く。客席のあなたのために。聴衆は、中間的な装置、マイクやコンピュータ、またその他のものを通さず、生きている人の声を聞いていると感じる必要がある。十分な時間をとって、耳を劇場の環境に慣らす時間があれば、「集中」にも役立つだろう。 これは例えば、眩しい光に当たった後、すぐにははっきりと見ることができず、通常の視力に戻るのに時間がかかるのに似ている。

 

Q、バロック、クラシック、ロマン派、20世紀の音楽などのうち、あなたの作曲に最も影響を与えた時代は?

 
A、我々の時代の人々は、500~600年に及ぶ偉大な音楽を受け継いでおり、非常に幸運だ。ある時代の音楽にのみから影響を受けたとは言えない。今日の作曲家の成功の秘訣は、過去の音楽から受け継がれたすべての要素を活用し、それらを組み合わせて、そこから何かを創り出すことだ。オリジナルになる唯一の方法は、すでに発明されたものを発明しようとするのではなく、それらのすべての経験を大きなカクテルグラスに入れ、その素晴らしいドリンクを飲み、それを自分自身の個性を通して引き出すことだ。人それぞれの個性は異なっており、作品をユニークするのに十分だ。ヨハン・セバスチャン・バッハの後、「この世界、太陽の下、もう新しいことは何もない…」とモーツァルトは言った・・。

(「operavilag.net」)

 

 


 

多岐にわたる質問で、クーラもいつものように率直に、飾らず答えていて、興味深い内容もたくさんありました。とりわけ、聴衆の聴力の問題は、クーラがこういう問題意識を持っていることは初めて読んだように思います。以前クーラは、オーケストラのチューニングが高くなっていることによる弊害について発言していましたが、その問題とも合わさって、歌手の大変さ、キャリアにもかかわる問題の深刻さとともに、作品の音楽的なバランスなども含め、いろんな問題をはらんでいることに気づかされました。

生のステージで、観客とともに舞台をつくっていくことを大切にしているクーラの姿勢は、これまでも繰り返し語られてきたことです。とりわけ現在、新型感染症の影響で、劇場、文化施設、コンサートホールなどが閉鎖されているもとで、あらためて文化・芸術・音楽が人間のくらしに果たしている役割を考えさせられます。ステージでの感動、アーティストとの相互作用で生きた感情が感じられるライブの舞台が、一日も早く、再開されることを願わずにはいられません。

現在、新型感染症で世界中の市民の命と健康が脅かされ、社会生活も甚大な影響を受けています。日本でも感染拡大が重大な局面となっています。感染拡大の阻止、ウイルス対策、医療の整備拡充等が前進して、一日も早く事態の収拾が図られることを。そして個人でもできることを努力しながらですが、アーティストをはじめとして、現金給付や休業補償がだれでも受けられ、みんなで協力してこの困難を早期に乗り越えられるようになることを切に願っています。

 

 

*画像は報道などからお借りしました。

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