人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2016年ホセ・クーラ インタビュー (2) キャリアについて、ネット、クラシック音楽の未来、若い世代に / Jose Cura interview in Gyor

2016-06-30 | 芸術・人生・社会について①


2016年4月に、ハンガリーのジュールでヴェルディのオテロを指揮した際の、記者会見、インタビューからの抜粋、つづきです。 → インタビューの前半

 *クーラが指揮したオテロのコンサートそのものについては、すでに2回の投稿で紹介しています。
  2016 オテロを指揮 ジュールフィル (本番編)   (告知編)
 
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●キャリアとエージェント、劇場について
Q、かつてあなたを拒否した人たちから招待を受けることも?

人は、憤りを抱えて生きることもあるが、それは愚かだ。人生は、それだけで十分複雑であり、ポイントは、いかに人生をステップアップしていくかだ。

若い時、多分、私はまだ十分に良くなかったのだ。かつて自分の可能性を拒否され、私は幻滅を味わった。 指揮者、エージェント、芸術監督には巨大な責任がある。今だけでなく、可能性を判断しなければならない。

確かにロビーやマフィアがいるが、それはまた別の話。意味なく熟練した歌手を排除する興行主があるとは思わない。キャリアの始めは、誰をも脅かすような存在ではないので、ロビーもその歌手をつぶそうとはしない。

かつて私を受け入れなかった事実にもかかわらず、現在、非常に良好な関係をもっているエージェントがある。30年前には想像もできなかった。今ではジョークのようだが、どれほどの機会を逃したことか。

毎日100通の招待状を受け取り、次のパヴァロッティやカラスの誕生だ、といわれる時、それに対処するのは困難だ。しかしこれへの非常に正直な答えは、「申しわけないが、私はあなたを信じることはできない」だ。ただいえるのは、10年たった後から新たな関係がつくられるということだ。スポーツのように人を見下すことは、極めてまずいこと。遅かれ早かれ、あなたは仕返しを受けるだろう。

何年も前、私は小さな劇場のオーディションに行った。しかし彼らは、私が水準に達していないといった。2、3年後に私はなりたかった自分になった。するとその劇場が接触してきた。私は、名前を覚えてくれていたことに感謝を述べたが、しかしその時はもう十分ではなかった。すでに大劇場があるのだと断った。それは非常に丁寧な会話だった。復讐に駆り立てられたのではない。

小劇場はリスクをとり、新人に機会を与えるべきだ。コベントガーデンであるかのように自らをみなすのでなく、若者に投資すべきだ。さもないと、全体が困難になる。これは非常にトリッキーなビジネスだ



●携帯電話、テクノロジーと実生活
Q、あなたは携帯電話が鳴るとショーを止める。テクノロジーには我慢できない?

いやいや、私はそれを憎んでいるわけではない。愛している。

しかしもし、あなたが誰かと恋に落ちた時、2人のベッドの中で、携帯電話にメッセージを書いたり、Facebookに投稿するなら、あなたは深刻な問題を抱えているといえるだろう。

私たちは、感情を共有し、舞台、アーティストと、愛し合うためにコンサートに行く。いまいましい携帯電話を切り、バッグに入れて!重要なメッセージが届くとしても、あなたが終わるまで待ってくれるだろう。

パン焼きを学んだ。熱中している。オーブンの中で膨らんでいくのは、感動的でショッキングだった。急いで何でも電子レンジに投げ込むことはできる。しかしパンを焼くための2時間を惜しまないことが必要だ。電子レンジと本当の料理の間に、バランスをうまく見いだせれば、それは幸せだ。しかし人生においても、電子レンジに頼るだけの人たちについては、私は非常に気の毒に思う。

インターネットはクレイジーだ。それは、アレクサンドリア図書館そのものだ。私も、もちろん利用する。パンを焼くにも何百万ものレシピを借りてきて、バーチャルコミュニティで共有することができる。それでも、何かをシェアするためには、自分で本当にパンを焼く必要がある。我慢できないのは、ネットで検索、クリックするだけで、他人の人生に毒を吐きかけることだ。

私の子どもたちは、私のキャリアについて、家族の生活を稼ぐ方法として見ているが、自分たちの人生の道としては興味をもっていない。私の息子のガールフレンドの両親は、私が誰なのか知らなかった。彼らは1回も、グーグルで私の名前を検索していない。素晴らしい。私たちは、座って、お互いに、最大限、自然に語り合う。
家族は家族、ビジネスは別のことだ。



●仕事以外の時間と音楽
Q、仕事以外に、一番時間をついやすことは?音楽以外?

生活の中で、音楽ではないものがあるだろうか。スポーツ、ガーデニング、読書...良い例は、スポーツだ。リズムによって動いている。

私はスポーツやガーデニングをするが、ガーデニングでトマトの苗を植える時、ピットの中にいるようにリズムをとり、スポーツをする時も、私の足と手で、自分のリズムを整える。だから人生自体が音楽。無音も音楽、すべてのものが声をもち、すべての音が互いに調和して響きあう。

この声を壊すと、この調和が分解され、人間はバランスを破壊する。そして、これが問題を追加する。私たちは、お互いを理解せず、同じことを話さない。内面の精神的な言語を聞くことができないばかりか、互いの相違を理由に、お互いを殺害する。

●若い世代に
Q、いま、25歳のホセ・クーラに何と言う?

私の人生は恵まれていた。私はこう言うだろう。“あなたのやり方で、すべてのことをやりなさい”と。

私はいつも理想主義者だった。これまで多くの経験をし、信じがたいような事も少なくなかった。しかし一方で、今日、シリアの若者のおかれた状況は、私たちが想像することさえできないということも知っている。

だから全体的には、私たちは恵まれた立場にある。ヨーロッパの若者は、おそらく一般的には、本当の闘争の感覚を失っている。インド、アフリカ、南アメリカなどを見て歩くならば、ヨーロッパはまだディズニーランドだ。



多くの人々が私に尋ねる。どうして今、素晴らしい歌手が、世界の特定の地域からヨーロッパに来るのかと。
答えは簡単だ。南米に住む人びとにとって、毎日の生存のための糧を得ることが、彼の成功に依存するからだ。

私たちは、言葉の良い意味での、健全な「生活のための怒り」を失っている。だが、それをやらなければならない。我々は、この強力なエンジンを取り戻す方法を見つける必要がある。新しい世代がより「ソフト」になる前に。

オスカー・ワイルドは、「自分自身であれ」と言う。しかし今の子どもたちは、互いによく似ている。彼らは皆、同じ香水を使い、同じ匂い、似た服、同じ音楽を聴き、同じ物を食べる。頭ひとつ抜けだす者は、傲慢のラベルが貼られる。

若者がリードする必要がある。そして彼らの手に未来はある。
なぜなら世界の混乱の責任は、我々の世代、その親の世代にあるからだ。世界を腐敗させた国のトップを退陣させなければならない。彼らは全員50代、60代だ。

混乱を作りだした者に、それを修正することはできない。古いでたらめの左右の全体主義、ファシストらは消えるべきだ。ゼロからスタートする必要がある。
それから、我々は、新しい地球を手に入れることができるだろう。

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さまざまなテーマで語っているクーラですが、「コンサートでは携帯電話を切って欲しい」というのは、実際にステージで困ることが多いのでしょう。「愛し合う場では携帯を切って」と、冗談めかしてはいますが、切実な問題なのだと思います。
パン作りの話を引いて、リアルな体験、人と人、人と物との直接のふれあいを大切にしたいというのは、クーラのアーティストとしての信念を感じます。
また、最後の若い世代へのメッセージは、とても熱い内容になっています。社会に対して、平和や社会正義に対して、つねに積極的に発言してきたクーラです。つよい言葉で、新しい社会への探求、若者に未来を託す思いを語っていて、心に響きます。

→ インタビューの前半



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2016年ホセ・クーラ インタビュー (1) キャリアについて、ネット、クラシック音楽の未来、若い世代に / Jose Cura interview in Gyor

2016-06-28 | 芸術・人生・社会について①


2016年4月23日、シェークスピア没後400年の記念日に、ハンガリーのジュールで、ジュールフィルハーモニー管弦楽団とともに、ヴェルディのオテロを指揮しました。
その際に、ハンガリーで記者会見やインタビューに応じて、オテロについて、自分のキャリア、指揮者として、携帯電話などの問題、クラシック音楽の未来について、そして若い世代へのメッセージなど、さまざまな話題で語っています。いくつかの記事からまとめて訳してみました。長くなったので、(1)(2)の2回に分けて掲載します。 
ハンガリー語からなので、いつものように、誤訳直訳、さまざまな問題があると思いますが、大意をくみとっていただいて、どうかご容赦ください。

なお、クーラが指揮したオテロのコンサートそのものについては、すでに2回の投稿で紹介しています。ユニークなリハーサルなどを収録したニュース動画なども紹介してます。
  2016 オテロを指揮 ジュールフィル (本番編)   (告知編)
 


●2015年のジュールでのコンサートについて
Q、あなたは昨年の公演が愛の夜のようだったと語った。指揮者として今回の共同に何を期待する?

*2015年5月のコンサートは、別の投稿で紹介しています ↓ 
 ホセ・クーラ & ロスト・アンドレア コンサート / Rost Andrea & Jose Cura in Gyor

昨年のコンサートは、ジュール・フィルハーモニー管弦楽団との非常に重要、かつ自発的な“communion”(ラテン語「相互感応」=魂の交流というような意味か)だった。それは考えるほど簡単なことではない。両当事者のプロフェッショナリズムと協力に依存する。

オテロと比較して、アリーナでの昨年のコンサートは、観客が吸収するうえでは、はるかに簡単な経験だった。そして、それは大成功し、爆発した。

私は指揮者として、歌手である時と比べて、全く異なる音楽の感触を得る。私は今、歌手として一緒に活動した時と比べて、まったく異なるオーケストラを感じる。私は発見し、多くの新しいものを感じる。作品の現代性とメッセージ、それが私にとって非常に重要だ。そして、私はそれが多くの人に達するだろうと信じている。

Q、昨年のセッション以降の変化は?

たくさんのことがある。おそらく最も重要なのは、私は、より年をとり、正確に言うなら、私は成熟している。私は、自分の場所をもち、私の存在、限界、知識、そして私の不足しているところを認識している。これは非常に心強いことだ。

30年間続けてきた仕事はいま成熟している。そして、それは無駄にはならなかった。これは自分自身のための確認だ。

しかし私は、はるかに感情的になってきている。私は私の国と私と私の家族の存在を必要としている。これまで、私は、自分の目標を達成するために、それらなしで多くの時間を費やしたので。



●長年テノールとして歌ってきたオテロを指揮
Q、指揮者から歌手へ、そして指揮者として?

初めて15歳で指揮者デビューした。もともと作曲と指揮が専門だったが、27歳の時に、歌手としてのキャリアを始めた。その時は、1999年まで、指揮台に復帰する計画はなかった。

当時のアルゼンチンは、ちょうど軍事独裁政権の恐怖から回復し始めていて、若い民主主義の時代だった。その頃の困難な経済状況では、指揮者や作曲家としての仕事を見つけることはほぼ絶望的だった。

しかし声があった。合唱団で歌い始め、慎重にソリストとしての活動を開始した。28歳で家族と一緒に渡欧した。スペインやイタリアで合唱団でも、と考えた。しかし居住許可がないと合唱団では採用されなかった。

この規則はソリストには適用されなかった。だから声を聴いてくれるエージェントを探した。最初に小さな役、その後、突然爆発した。すぐ主要な役。突然、正面に押しだされた。まだ私は準備ができていなかった。

作曲と指揮をわきに置いて、私は仕事をしなければならなかった。しかし運命はやはり運命だった。1998年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのレコーディングセッションの間のことだった。

コンサートマスターが「あなたは天性の指揮者だ。必ずいつかこの仕事に戻ってくるだろう」と私に言った。そして、彼は私にバトンを手渡した。これはお世辞だったとしても、とても経験のあるミュージシャンの言葉だった。そして一年後、私は慎重に、再び指揮を始めた。

2000年にワルシャワのコンサートの後、メニューインによって創立されたオーケストラから客演指揮者として招かれた。そしてそれが私が指揮台に戻り、再び動きだした経過のすべてだ。そこには本当に計画はなく、まだ美しいアクシデントでしかなかった。しかしこれは将来につながる可能性があった。声は永遠に続かない。私が歌をやめた時、フルタイムの指揮者になることを願っている。



Q、指揮者のアプローチは?

それぞれの歌手の独自のアプローチを尊重しながら、人間的な経験における大きな違いを、すべての歌手に伝えることができる。今回、私は、彼らが望むように、私にできる限りの多くのことを与えたいと思う。

私自身の解釈を押しつけたクローンは必要ない。私が経験し、動作することを知っているものを提供する。少なくとも、描いた理論ではなく、実際に自分の肌で感じ取ったことを実行しようとしていると感じるだろう。

このオテロで、 全体において、私が求めてきたドラマや音楽の解釈に焦点を当てることを実現したい。歌手は、基本的に指揮者に適応する。問題はない。それはプロフェッショナリズムだ。

Q、キャリアのうえで、オテロはあなたにとって何を意味する?

私が歌い始めた時、もちろん、他のテノールの役柄と同様、オテロを歌うことを願っていた。しかしこれほどの緊密な関係になるとは考えたことがなかった。オテロは私にとって、もはや単なる役柄ではない。もっとそれ以上の、「仲間」だ。
私は20年間、彼と一緒に働いてきたし、すべての役柄をはるかに超えて、それは本当のパートナーシップだ。

もちろん、オテロはネガティブなキャラクターであるため、難しい面がある。特に、連日、彼とともに働いている時、明確なラインを引くことなしに、自分の人生のなかで彼を見出そうとすることだ。私は単なる役柄であることを自分自身に明確にし、可能な限り自分から切り離そうとしている。

そしてそれはうまくいっている。トラブルに巻き込まれやすい人物として彼を識別しようとしている。自分自身を他者に近づけることを可能にする微妙なバランス、しかし決して一線を超えないように注意深くなければならない。



●クラシック音楽の未来
Q、作曲家として、あなたはクラシック音楽の未来をどう考えている?すべてが書かれている。新しいものを創りだすことは可能だろうか?

モーツァルトは、バッハの後、誰も新しい音楽を書くことはできないと述べた。自分自身を含めて。そして、いま我々は、モーツァルトについて話す。これは非常に古い問題だ。

ある意味では、偉大な天才たちは、音楽の未来を”台無し”にした。または危機にさらしたともいえる。

バッハの「フーガの技法」の中の記念碑的作品のいくつかにおいては、音符のハーモニックな組み合わせの結果が、 多くのシェーンベルクの作品よりも、より大胆で、さらに「前衛的」であることを暗示している。

だが大丈夫だ。我々は何をするのか?将来は? ただ一つの選択肢がある。芸術全体にとっての唯一の可能性と真実は、知的な誠実さだ。

残念ながら、今日、クリエイターのほとんどは、誠実(正直)であるためにたたかおうとせず、聴衆と異なろうとする。したがって、結果として彼らは無関心になった。

現代音楽が風変わりであることは問題ではない。多くの天才は、仲間から変わり者と思われていた。しかし作曲家が心から書いた時、その難易度に関わらず、彼の感情が伝わってきて、私たちは彼の心を理解する。

作曲家が、他と異なるためだけに書いたとき(新しさだけを求めてという意味か?)、このようなノートは心には届かない。ここに境界線がある。


→ 後半 につづきます。


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西部の娘 プッチーニは最もエロティックな作曲家の1人 / Jose Cura talk about Puccini

2016-06-22 | オペラの舞台ープッチーニの西部の娘


ホセ・クーラはこの6月、ドイツ・ハンブルク歌劇場で、プッチーニの西部の娘に出演しています。6月24日に最終日を迎えます。ミニーは、アマリッリ・ニッツァ。

このプロダクションは、演出がヴァンサン・ブサール、衣装はクリスチャン・ラクロワで、今年のザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロと同じメンバーでした。
現地在住の方の情報によれば、ハンブルクの古参オペラファンたちも大いに満足の、良い公演だったようです。

まずは、Youtubeにアップされたホセ・クーラのディック・ジョンソンのアリア「やがて来る自由の日」を。
なかなかのびやかな高音、迫力ある歌唱です。残念ながら、公開されている動画は今のところ、これだけです。

*2008年のロンドンでの舞台の録音やインタビューを紹介した以前の投稿はこちらです。 → ホセ・クーラ プッチーニの西部の娘

José Cura - La Fanciulla del West - Ch'ella mi creda libero
by dolchev YouTube


Staatsoper Hamburg June 4, 9, 12, 15, & 24 ,2016
Fanciulla del west/ Puccini
Director: Vincent Boussard , Set Designer: Vincent Lemaire , Costume Designer: Christian Lacroix Lighting Designer: Guido Levi
Musikalische Leitung:Josep Caballé-Domenech
Minnie: Amarilli Nizza, Jack Rance: Claudio Sgura, Dick Johnson: José Cura
Nick:Jürgen Sacher,Ashby:Tigran Martirossian,Sonora:Kartal Karagedik,Trin:Joshua Stewart...
Chor der Hamburgischen Staatsoper



劇場のパンフレット「ハンブルク・ジャーナル」に、クーラのインタビューが掲載されました。プッチーニ論、西部の娘の作品論を語ったもので、とても面白い内容でしたので、ざっと訳してみました。原文がドイツ語で、語学力がない私のこと、誤訳ばかりかもしれない無謀な試みです。とりあえず大意が伝わればということで、どうかご容赦ください。

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●過小評価されているプッチーニ
ジャコモ・プッチーニは、複雑な性格であり、今日においても、残念ながら、しばしば非常に過小評価されている。
プッチーニに対するには、明らかに、無限に変移する官能性についての能力を必要としている。官能は、性的なニュアンスの観点からだけでなく、一般的に感覚の目覚めとして広く理解される。

考えてみよう。例えば、デ・グリューのマノンとの苦しみの関係を、例えば15歳の蝶々夫人に対するピンカートンの病的な執着を、トゥーランドットにおける男女の対立を、そして現代の精神医学の理論を背景として、これらすべてを。

プッチーニのとらえどころのない官能的な性格の実例として、彼が、パフォーマーの演奏に望んだことを、どんなふうに熱狂的に説明しようとしているか、みてほしい。
それらは、時に、同時に行うことができるのか疑問に思うような、非常に異なった指示だ。
「素早く、しかし少し遅く」、「勢いよく、しかしコントロールして」、「インテンポで(一定の速度で正確に)、しかしソステネンドに(音符の長さを十分に保ってやや遅く)」。

●愛撫のような音楽の流れ、もっともエロティックな作曲家
プッチーニの音楽の流れは、裸体に対する愛撫に等しくなければならない。
――時にはゆっくりと、時には速く、今は時間をかけて、その後、急いで、時間を割いて、激しく求め、逃れ、そして最終的には、ほとんど何も触れずに。

ノスタルジックで、粗暴、ロマンチックで、積極的で、情愛に満ち、メランコリックで陽気で、残忍でうんざりするほどシニカル。プッチーニは、最もエロティックな作曲家の1人だ。



●西部の娘と「ブロードウェイ」音楽
我々が西部の娘の中で、プッチーニの素晴らしいパッセージを聞くとき、ある種の偏見を呼び起こすかもしれない。まるで「ブロードウェイ」のような怪しい光景を。
ミュージカル・コメディや映画の中で聞いたことがあるような曲を認識した時、我々はそれを見下し、笑う。プッチーニが、ブロードウェイの作曲家や映画産業よりもはるか前に、彼の音楽を書いたこと、それが彼の後の世代の作曲家に明らかに影響を与えたことを忘れて。

●ノスタルジアの表現

西部の娘は、プッチーニの複雑さとともに、彼の音楽的洗練を示している。彼は、女性の心理に敏感な理解者であると考えられているのと同じように、男性心理もまた認識していることを、オペラのなかで証明している。
プッチーニが創りだした西部の娘の魔法の一部は、望郷の念の本格的な描写だ。彼の故郷イタリアのルッカから、イギリスやアメリカ合衆国へ、南米やオーストラリアへ、多くの人々が移住したことが知られている。

ジャコモの弟ミケーレは、不運な星の下、移民先のアルゼンチンで早すぎる死に終った。結果として、プッチーニは、自分たちのルーツと家族の絆のために、郷愁を感動的に表現することができた。
喉をしめつけるような孤独、多くの場合、酒や女性、カード賭博に慰めを見つけている、それらが西部の娘で見事に描かれている。
プッチーニの「西部の荒野」は、ハリウッドの方式とは異なって、英雄的ではなく、アメリカの辺境の住民の現実の世界に近い。男たちは夢におされ、何とか生き続けるために、血の汗を流す。

クーラのフェイスブックのカバー写真


●母国を離れた1人として、痛切な望郷の感覚
この意味で、このオペラへの私のレスペクトは深く、非常に個人的だ。
私自身、「約束の地」を見つけるために25年前に母国アルゼンチンを離れた1人として、西部の娘で見事に描かれている故郷を失った感覚を100%理解する。私は今も、記憶のなかにこの痛烈な無力感を呼びだすことができる。それは、ヨーロッパで私たちの新しい家を認識するまで、長年にわたって私と私の家族を苦しめた。

●ジョンソンの複雑な性格
私はいつもジョンソンに非常に複雑なキャラクターを見ている。
彼は人生を知っている。必要であるならば嘘をつき、泥棒で、ニーナ・ミケルトレーナのような狡猾な女性を扱うことができる。
そして、自分に何が起こったのか、驚く彼の純真さ。この、予想していなかった真の愛の発見、それは明らかに、彼の人生を、心の中で尊敬されるよう導く。

粗暴さ、力によるルールの無視、しかし悔い改め、よりよい未来への希望が、ジョンソンの性格のニュアンスであり、彼のアリアの間だけでなく、リアルな会話のなかでも表示され、これらがオペラの骨格を形成する。

実際に彼の心理のキーフレーズは、このような文章に見つけることができる。
“Non so ben neppure io quel che sono”… 「私だってまだ、自分が何なのかよくわかっていない」
この問いは、ジャコモ・プッチーニ自身に適用することはできるだろうか?

我々は結論づけることができるだろうか?彼が、自分自身の不安定なタッチを男性のそれぞれのキャラクターにふきこみ、はるかに強い女性の腕の中にそれらを投げだすことで、自分の弱さを克服しようとしていると?
フロイトは微笑む。

Jose Cura 11 03 2016



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作品とキャラクターの解釈を、どの作品、どの役柄でも徹底して掘り下げ、研究する、そういうクーラの姿勢の一端がわかる一文ではないでしょうか。
このようなクーラの解釈にもとづく、西部の娘の演出、主演のプロダクションをぜひ、みてみたいものです。近いうちに、どこかの劇場で実現することを願っています。
今回、クーラも、また共演者、コーラスとのアンサンブルも良好で、キャスト同士の連帯感も伝わる舞台だったようです。
キャストが公開しているリハーサルや舞台裏の写真からもうかがえます。



アマリッリ・ニッツァがFBに掲載した、指揮者、ホセ・クーラ、クラウディオ・スグーラと一緒のリハーサルの写真。






*写真は、劇場やミニー役アマリッリ・ニッツァ、Kartal Karagedikら、共演者のFBなどからお借りしました。
 → Amarilli Nizza
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2015年 ホセ・クーラ、母国アルゼンチンから名誉表彰を受けて / Jose Cura / Speech in the Argentinean Senate

2016-06-18 | 受賞・栄誉


ホセ・クーラは、南米アルゼンチンの出身です。軍事政権とその崩壊直後の時代に青年期を過ごしたクーラは、作曲家、指揮者になる夢をもちつつ、テアトロ・コロンの合唱団で歌うなど、なかなかその才能が認められずに、苦闘の日々を送っていました。
91年にイタリアに渡り、その後、テノールとしての国際的なキャリアが拓けていったことは、これまでの投稿でも紹介してきました。

2015年7月、クーラは、母国のテアトロコロンでオペラ、カヴァレリア・ルスティカーナと道化師の演出、主演(道化師のみ)をした際に、長年の芸術活動の功績が認められ、アルゼンチンの上院で名誉表彰を受けました。

その際に、クーラがお礼の言葉としてスピーチした全文が、彼のフェイスブックにアップされました。
その内容は、彼らしく、非常に率直で、感謝の思いとともに、母国へのこれまでの複雑な感情と自省が込められていました。

いくつかの画像、動画、そしてクーラの言葉を紹介します。誤訳、直訳、ご容赦ください。

アルゼンチン文化大臣と


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〈アルゼンチン上院でのスピーチ 2015年7月〉
●私は反逆者ではない
誰もが、私について、反逆者である、と言う。
私は反逆者ではない。しかし、そう、私は、物事を深く探る前に「それはこのようにする必要がある」と答えることをしない、理屈っぽい人間である。

そう、私は、議論する。しかし忠実である。これは大切なことだ。

●好きな聖書の言葉
" 予言者郷里に容れられず"――誰もが自分の土地で預言者ではない(聖書からの句を引いて)
私はこのことわざが好きだ。それはなぜか。両面的な意味をもつ言葉だからだ。それは、失敗を正当化しようとして拒否された者についての言葉であり、また、軽蔑を正当化するために彼を拒否した人々への言葉でもあり・・。

それは見事な言葉だ。イエスは私たちにその言葉を与え、それはすべてのことに有用だ。

●私は「預言者」ではなかった
1991年に私が故郷を離れることになった時、国を離れることを余儀なくされた全ての人々と同じように、私は非常に怒っていた。
「預言者(つまり才能ある者)は自分の故郷では歓迎されないのだ」
私は繰り返し、自分自身に言い聞かせた。私の脱出を自ら動機づけるために。

しかし真実は違った。1991年に母国を離れた時、私は、母国においても、世界のどこにおいても、預言者などではなかったのだ。私が必要としたモチベーションに、人々は責任はなかった。
私はかなり後になるまで、このことを理解していなかった。



●復讐は人生最大の誤り
1999年に、アルゼンチンに公演で初めて戻った時に、私は復讐を渇望していた。私は、母国以外での全世界における預言者として戻って来た、いまや彼らもそれを認めるだろうと。

この復讐の思いは、私が犯した、人生で最大の誤りだった。私が間違っていた。私は謝罪したい。
私は、郷里で認められない預言者だったのでなく、預言者ではなかったのだ。

今日受け取ったこの栄誉は、私の過ちの証拠だ。なぜなら、経験と成熟をへて私が今あるのは、人々がそれを公然と、誇りを持って気づかせてくれたからだ。

どうもありがとう

ホセ

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こちらがクーラのFBに掲載された原文です。画像のクリックでFBの当該ページにとびます。


クーラの故郷、アルゼンチンのロサリオ選出でクーラの表彰を提案した国会議員とともに。


アルゼンチン国会の上院TVがインタビュー動画を掲載してます。スペイン語のために、私には残念ながら理解できません。
MENCIÓN DE HONOR PGM.07 | JOSE CURA 1º BLOQUE


MENCIÓN DE HONOR PGM.07 | JOSE CURA 2º BLOQUE


なかなか故郷で認められず、苦い思いを抱えてヨーロッパに渡り、苦しみつつ、自らの道を切り開いてききたクーラ。
それだけに、強い自負とともに、長年、故郷への複雑な思いを抱えてきたのだろうと思います。
今回の顕彰は、それゆえ、格別な喜びだったことでしょう。その名誉な時に、感謝の思いとともに、反省の思いを率直に述べたのも、いかにも彼らしいと感じます。

    



 
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ホセ・クーラ 初期の歌声 その2 Jose Cura early days 2

2016-06-12 | 初期の歌声


以前、「ホセ・クーラ 初期の歌声」で、1991年の渡欧から1995年頃までの録音や動画を紹介しました。今回は、その続きです。

1990年代後半は、テノールとしてホセ・クーラが世界に進出し、大きな注目を集めた、飛躍の時期でした。
クーラ自身、30歳代の半ばを迎え、体力的にも、声、舞台上の存在感、演技も充実し、それまでの努力と才能が、大きく花開いたといえるのではないでしょうか。世界の著名なオペラハウスにつぎつぎデビューを果たしました。
この時期は、注目すべきロールデビューや劇場デビューなどが多くて、紹介しきれません。そのうちのいくつかを紹介します。

詳しくは、クーラの略歴を参照してください。

●1995年 ロンドン・ロイヤルオペラハウス(ROH)デビュー
95年、ヴェルディ初期のオペラ、スティッフェリオでROHにデビューしました。
中年の聖職者が妻の不倫に悩み苦しむ話で、32歳のクーラのデビューには、あまりふさわしい感じがしませんが、これにはわけがあります。当初ホセ・カレーラスが出演予定でしたが、キャンセル、それで若いクーラに、ROHデビューのチャンスが回ってきたのでした。
音声だけで、それもあまり良くありませんが、懸命で初々しい歌唱という印象です。

ヴェルディ スティッフェリオより、第1幕 スティッフェリオと妻リーナとの二重唱
Jose Cura 1995 Stiffelio Act1 duet



●1996年 ウィーン国立歌劇場デビュー
クーラのウィーンデビューは、プッチーニのトスカ、カヴァラドッシでした。
これも録音のみで音質はよくありませんが、のびやかな歌声です。

プッチーニ トスカより、第1幕 カヴァラドッシのアリア「妙なる調和」
Jose Cura "Recondita armonia" 1996 Tosca



●1996年 ムーティ指揮、ラヴェンナでのカヴァレリア・ルスティカーナ出演
クーラが「最愛のトゥリッドゥ」とよぶカヴァレリアの主人公。たぶんこの時がロールデビューではないかと思います。みずみずしい歌唱と一途な青年にふさわしい風貌、演技がつよい印象を残します。

マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ 元恋人で人妻のローラを思って歌う「おお、ローラ」
José Cura "O Lola ch'ai di latti la cammisa" Cavalleria Rusticana


トゥリッドゥと恋人サントゥッツァの二重唱 ヴァルトラウト・マイヤーと
Jose Cura - Mascagni



●1996年 ローマ歌劇場でマスカーニのイリス、オーサカ役で出演
日本が舞台の悲劇です。白塗り、まげ、着物の何とも言えない姿ですが、難易度の高いアリア「窓を開けて」をらくらくと歌い、オケからも喝采を受けています。
Mascagni Iris/ Jose Cura - "Apri la tua finestra!"



●1997年 ジョコンダでミラノ・スカラ座デビュー
91年にイタリアに渡ったクーラが、オーディションでもエージェントまわりでも認められず、最後の望みとして紹介されたテノールのフェルナンド・バンデラに会ったのがミラノでした。ようやくひとすじの希望がつながった、その時から、6年後のスカラ座デビューです。
ポンキエッリのジョコンダ 第2幕 エンツォとラウラの二重唱
Jose Cura Gioconda 1997 (very beautiful love duet)



●1997年 トリノでヴェルディのオテロ デビュー
衝撃のオテロデビューとなった、アバド指揮、ベルリンフィル、オルミ演出の舞台。ドミンゴのキャンセルを受けてのことでした。世界に生中継されました。
詳しくは、以前の投稿「1997年 アバド指揮、ベルリンフィルとオテロデビュー」で紹介しています。
ここでは、第2幕 ライモンディのイアーゴとオテロの二重唱 "Si, pel ciel・・"を。
José Cura "Si, pel ciel marmoreo giuro!"



●1998年 東京・新国立劇場の会場記念公演ヴェルディのアイーダ
忘れるわけにはいけない、日本デビュー、ゼッフェレッリ演出のアイーダのラダメス。
こちらの投稿でも紹介しました → 1998年新国立劇場の開場記念 ヴェルディのアイーダ
マリア・グレギーナとの第3幕の二重唱を。
Jose Cura , Maria Guleghina  "Pur ti riveggo mia dolce Aida"



●1998年 パレルモでアイーダに出演
東京でのアイーダの同じ年に、パレルモでもラダメスを歌いました。これも、パヴァロッティのキャンセルを受けての出演だったようです。
ヴェルディ アイーダ 第1幕のラダメス「清きアイーダ」
Jose Cura amazing! "Celeste Aida" Palermo 1998



●1999年 ニューヨーク・メトロポリタンオペラ劇場(MET)デビュー
90年代最後としてMETデビューを紹介したかったのですが、残念ながら、音源も動画もありません。
いずれ見つけることができたら、ここにいれたいと思います。
METデビューが開幕初日だったのは、カルーソー以来、2人目だったそうです。カヴァレリア・ルスティカーナのトゥリッドウでの出演でした。







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90年代後半のクーラに、たいへんな勢いがあったことが、こうしてちょっと振り返るだけで痛感されます。
チャンスをつぎつぎに自分のものにし、階段を上り、歌唱、演技の面でも、成長していく様子がわかります。
この時期の充実ぶりの一方で、実は、クーラ自身は悩みを深めていました。
それが90年代末から2000年代初頭の、ある決断と苦闘の時期につながります。
その内容と経過については、クーラ自身のインタビューなどから、「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」にまとめました。

飛躍の時期、そして苦悩と決断の時期をへて、キャリアを自分自身でコントロールし、現在も、さらなる芸術的な円熟へと向かっています。











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ホセ・クーラ 作曲は、やむにやまれぬもの Jose Cura / As a Composer 

2016-06-07 | 指揮者・作曲家として


何度か、このブログの投稿で紹介しましたが、ホセ・クーラは、もともと作曲家、指揮者が志望でした。10代の頃から作曲を始めましたが、それは、全く自発的なもので、自分自身で音楽を楽しむためだったそうです。その後、教師について学び、大学でも指揮と作曲を専攻しています。

いろいろな事情や偶然のアクシデントから、声が認められ、テノールとして成功しましたが、その経過については、詳しくはこれまでのいくつかの投稿をお読みいただけるとうれしいです。

 「略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」   「ホセ・クーラ 音楽への道」

ピアノに向かい、ギターを抱えながら作曲中 青年時代のクーラ


長らく作曲からは遠ざかっていたようですが、ここ数年、急展開で、クーラの作曲作品が発表される機会が増えています。
とりわけ2015/16シーズンから、プラハ交響楽団と3年のレジデンシャル・アーティストの契約を結びましたが、そこには、毎年1つ、クーラ自身の作曲作品を初演する、という内容を含んでいます。本人も予想しなかった形で、作曲家としての仕事に光があたりつつあります。

インタビューから、クーラがなぜ作曲をするのか、その思いを語った部分を抜粋するとともに、近年、作曲作品の上演のきっかけとなったコンサートの様子などを紹介したいと思います。

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――2015年1月インタビューより
●カルロス・カストロに作曲を学ぶ
カルロス・カストロは私の最初の作曲の教師だった。私は15歳だった。カルロスは、「君は才能があり、すでに音楽の自然な方法を持っている。だから私の仕事は、君を音楽家にすることでなく、君の翼を燃焼させずに、その巨大な才能に対処する方法を教えることだ」と言った。

●自分の作曲スタイル
単に音を創り出すためだけでなく、演劇的に価値ある意味において、ドラマティックであること。成熟が私の芸術にもたらしたもののひとつは、自己耽溺を嫌うということだ。

●常にやむにやまれぬものとして
創造的な仕事ほど、人の内面と深く結びついたものはない。絵画、音楽、詩、小説、数学の定理‥どれも比類のない人間の知的成果の典型だ。
真のクリエーターは、商業的なものを除いて、常にやむにやまれぬ、強迫的なものとして、それを書く。商業的成功は、また別のステップだ。

現時点で新しい作曲の時間はない。しかしスターバト・マーテルの初演(2014年チェコで実現)は、私のなかの"眠っている獣"を目覚めさせた。私は今、以前の作曲作品を演奏するために、ゆっくりと準備をすすめている。



●主な作品
・平和のためのレクイエム(1984年)――フォークランド戦争の犠牲者を追悼したもの
・ピノキオ(1986年)
・Via Crucis según San Marcos (1986年)
・Magnificat=「我が心、主を崇め」 (1988年)――2015年4月イタリアのマッシモ・ベリーニ劇場で世界初演
・Ecce Homo=「この人を見よ」(1989年)――オラトリオ その一部であるスターバト・マーテルがチェコで2014年10月世界初演、全体はプラハ響で初演予定
・In Memoriam=追悼(1990年)
・マッチ売りの少女(1991年)――子ども向けオペラ
・ネルーダ「愛のソネット」92番(1995、2006)――プラハ響で2015年10月、オーケストラヴァージョン世界初演

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〈2014年10月 スターバト・マーテル世界初演〉

2014年10月30日、ホセ・クーラが26歳の時に作曲した、スターバト・マーテル(13世紀のカトリック教会の聖歌の1つ)が世界初演されました。
作曲家としてのクーラに光があたった、きっかけとなった出来事です。場所はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェの教会、聖ニコライ大聖堂でした。
かつてクーラは、「作曲家ホセ・クーラを世界が必要としているわけではないことを知っている」と述べていましたが、友人で同郷の指揮者マリオ・ローズの提案で、作品の世界初演が実現したのだそうです。

このスターバト・マーテルは、オラトリオ「この人を見よ」を構成する1曲とのこと。作曲した当時、クーラはまだ母国アルゼンチン在住で、すでにシルヴィアさんと結婚して前年に長男のベンが誕生していました。クーラは、指揮や作曲を勉強しながら、生活のために、合唱団で歌ったり、スポーツクラブのインストラクターなど、複数の仕事をかけもちして働いていたようです。

この写真は、ちょうどその頃のようです。ゆりかごの中のベンをあやしながら、ピアノに向かって作曲しているようです。


クーラのフェイスブックに掲載されたコンサートの告知


――2014年10月インタビューより
●スターバト・マーテル作曲の思い
テキストは、十字架の下、愛する息子が死んだ母親についての物語。今でも、世界中で、紛争や、エボラ等の感染症、犯罪など、死んでしまった我が子を胸に抱く多くの母親たちがいる。私たちは、そういうすべての人々のために、この歌を歌う。

●歌、作曲、指揮など多面的な活動することについて
個性を開発しようとせず、非常に狭い範囲で物事を考えるのではなくて、他のものを試し、歌い、写真を撮ってみてほしい。
私は、愛すること、生きることは、他の人を助けるためにあると思う。人生は短すぎる。

初演時のニュース映像、インタビューと演奏の様子も少しある
JOSE CURA Stabat mater


Jihočeské divadlo - José Cura na premiéře své skladby v Českých Budějovicích



ポスター


――作曲についてのクーラ語録

●初めて15歳で指揮者デビュー、もともと作曲と指揮が専門だったが、27歳の時に歌手としてのキャリアを始めた。その時は、1999年まで、指揮台に復帰する計画はなかった。当時のアルゼンチンは、ちょうど軍事独裁政権の恐怖から回復し始めていて、若い民主主義の時代だった。その頃の困難な経済状況では、指揮者や作曲家としての仕事を見つけることはほぼ絶望的だった。作曲と指揮をわきに置いて、私は仕事をしなければならなかった。

●作曲と指揮は私のバックグラウンド。歌のキャリアはそれへのアプローチを豊かにした。数十年前夢見たフルタイムの指揮者としてキャリアを終わること以上に私にとって自然な事はない。

●作曲する者にとって、作品が初演される時というのは、常に偉大な瞬間だ。

●誰か他の作曲家の音楽を指揮する時には、大きな責任を持つ。作曲家自身が何を言いたかったのか、懸命に理解しようと試みなければならない。自分が作曲した音楽を指揮する場合には、この問題(解釈すること)は生じない。しかし別の問題がある。ここで小さな変更をしないようにすべきかどうか?ーーそれは無限のプロセスだ。そうするとマーラーのように働く必要がある。マーラーは彼の交響曲を指揮する時、多くの変更を行った。最終的に10バージョンになった。

●モーツァルト、プッチーニ、ベートーベンやシューベルトなどの作曲家も、生きていた時は、今日のポップスターのように扱われたことを忘れてはならない。今日では、彼らは不可侵であると考えられている。彼らは技術的な理由からオペラハウス用の音楽を書いた。当時はマイク、スクリーンなどは知らなかったからだ。彼らも今、生きていたら、野外コンサートに適した音楽を書くだろう。

        

会場となった美しい教会、ニコライ大聖堂




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1997年 ホセ・クーラ、アバド指揮、ベルリンフィルとオテロにデビュー / Jose Cura / Otello in Torino

2016-06-01 | 1997年、アバド、ベルリンフィルでオテロデビュー



ホセ・クーラがヴェルディのオテロにロール・デビューしたのは、1997年のトリノ・レージョ劇場でした。以来、20年近くの間、解釈を深め、演技と歌唱を成熟させてきました。

この時はもともとプラシド・ドミンゴが予定されていましたが、キャンセル。急きょ、クーラに白羽の矢がたったようです。
それにしても、この公演は、たいへんな豪華布陣でした。指揮はクラウディオ・アバド、オーケストラはベルリン・フィルハーモニー、演出は著名な映画監督であるエルマンノ・オルミです。
キャストは、デズデモナがバルバラ・フリットリ、イヤーゴはライモンディでした。
しかも、イタリアのテレビ局RAIがテレビ生中継とは、若いオテロのデビューにとって、とてつもないプレッシャーだったと思います。

後にクーラは、「危険だった・・非常に。わずかなリハーサル、オーケストラと2日間、ステージングのために1週間だけ。それまでのキャリアで最大のメディア露出――アバドの指揮、ベルリン・フィル、エルマンノ・オルミ、RAIテレビ中継・・。本当に大胆なステップだった。歴史は私についていろいろ言うことができる。しかし誰にも、私に根性がなかったと言うことはできないだろう」と回想しています。

クーラのインタビューなどから、当時の思いを抜粋してみました。
またいくつか動画を紹介したいと思います。

 

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――2006年インタビューより
●34歳でオテロデビューのチャンス
私がオテロにデビューした時、私は34歳だった。そしてそれは、非常に大胆なことだった。マエストロ・クラウディオ・アバドと一緒で、世界に生中継された。私は「このチャンスを失うことはできない」と考えた。

そして私がしなければならないことは、オテロを34歳の男のように歌うことだった。しかし、この役柄で私とは比べものにならない素晴らしい経験をもつ45から50歳、そして60歳のテノールの解釈と比較すると、私は、自分の解釈に夢中になることはできなかった。もし私が彼らのようにやっていたら、私は第1幕の終りで、使いものにならなくなっていただろう。

 

●その年齢でのオテロ解釈を
だから私は、非常に抒情的なオテロを創った。声のボリュームよりも、より舞台上の存在感と演技にもとづいて。

多くの人はこう言った、「これはオテロではない、抒情的すぎる」と。確かに抒情的だった。
しかし34歳の時に、他に何ができるだろうか。これは私が永遠に続ける解釈ではない。これは、非常に危険で非常に困難であるこの役柄、45歳の成熟にふさわしい、テノールにとって象徴的な役柄であるオテロデビューのリスクを取ろうとする、34歳の男のための解釈だった。これは、リスクを計算し、生き抜くことを教えてくれた。

 

●史上初、生放送でのオテロデビュー
オペラの歴史のなかで、34歳でオテロに生放送でデビューした初めてのテノールだ。これは絶対に大胆かつ無責任だった。多くのテノールは、多かれ少なかれ、こっそりとオテロにデビューし、役柄に対処できることを確認する。そして、それができることを知って、次のオテロをよりオープンにする。

私はそれを34歳でやり、その時に可能な私のやり方でやった。批評家にとっては驚きだったが、そうやることで、その後も生き延び、いまこうやって話すことができている。  

 

――2015年インタビューより
●時には作品があなたを選ぶ
あなたが作品を選択するのではなく、作品があなたを選択する時がある。私は、34歳で初めて、オテロのタイトルロールを歌った。私はこれ以前に、この可能性を夢見たことさえなかった。
しかし、ある日、私は電話を受けた。「私たちはあなたのためにこのチャンスを持っている。あなたはそれを取るだろうか?それとも、このユニークな機会を失うことになる?」――電話線の末端から聞こえた。

私はすでに知っていた。これは、私の人生の大ヒットになるかもしない。このプロダクションは、1997年に100カ国以上でテレビで生中継されたのだから。アバドとベルリンフィルによって、このパフォーマンスは大成功した。

  

●作品との20年間の恋愛関係
これが私とこの作品との、20年間の「恋愛」の始まり方だった。

私は、このオテロの私のパートだけではなく、オペラ全体を熟知している。全てのキャストの音符、全ての歌詞と楽器のパートをほとんど暗譜している。少し努力すればデズデモーナのパートも歌うことができる...それは、毎回毎回、より詳細な多くのことを発見しつづけるための作業工程の一部だ。
ネバーエンディング・ストーリーだ。



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この時のクーラは、ベテランのライモンディと共演。老獪なイアーゴに手玉にとられる、まだ若い一途な青年オテロという印象でした。
リハーサルの動画をみると、映画の巨匠のオルミ監督が、クーラやフリットリに非常にきめ細かく演技を指導している様子がわかります。
アバドとベルリン・フィルの音楽、クーラの瑞々しい声、可憐なフリットリとの美しい舞台姿、オルミ監督によるきめ細かな演技・・成熟したオテロと違う、フレッシュな魅力の舞台です。

YouTubeには、keyakixxさんという方が、舞台リハーサルの様子やインタビューを紹介したTV映像と、舞台の主な場面をアップされています。
リンクを紹介させていただきます。

リハーサル動画(1)
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Rehearsal(1)


リハーサル動画(2) 後半にインタビューあり
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Rehearsal(2)-interview


舞台第1幕 オテロの登場"Esultate!"
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto1-1"Esultate!"


第1幕 オテロとデズデモナの二重唱
Già nella notte densa...


第2幕 オテロとイアーゴ 二重唱 "Si, pel ciel・・"
José Cura "Si, pel ciel marmoreo giuro!"


第3幕
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto3-1


第3幕
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto3-2


第4幕
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto4


1997年の衝撃的なオテロデビュー以来、20年近くオテロを歌い続けてきたホセ・クーラ。
世界中でオテロを歌い続け、解釈を掘り下げ、2013年には故郷アルゼンチンのテアトロコロンでオテロを演出、今年2016年にはオテロの指揮も成功させてきました。

「ヴェルディの音楽と手紙を土台においた役柄の解釈、ヴェルディのスコアに対する革命的読解の旅はまだ終わっていない。――ホセ・クーラ」



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