人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ 欧州移住から30年を迎える 1991~2021年

2021-10-30 | 芸術・人生・社会について②

 

 

 

ホセ・クーラは、母国アルゼンチンから欧州に移住して、今年でちょうど30年を迎えました。

1991年の7月、それまで住んでいた小さなアパートを売った代金で航空券を買い、妻のシルヴィアさんと息子ベンと一緒に、祖母の出身地イタリアをめざしたのだそうです。渡欧前後のことは、これまでも何度か、このブログでもクーラのインタビューを紹介していますので、お読みくださった方もいらっしゃるかもしれません。 

*例えば「2013年 ホセ・クーラ キャリアを拓くまでの苦闘、決断と挑戦、生き方を語る」など。

”移民”としてイタリアに渡航し、ざまざまな苦労をしながら、才能と努力を花開かせ、テノールとして国際的なキャリアを拓いてきたわけですが、いくつかのエポック・メイキング的な出来事があります。今回は、そのなかから、1994年のプラシド・ドミンゴ主宰のオペラリア優勝の時の動画と、1999年のアメリカのメトロポリタン歌劇場(MET)のデビューの際のインタビューを紹介したいと思います。

METのデビューにあたって劇場はクーラに対し、シーズン開幕公演初日でのデビューという破格の扱いを提供しました。劇場デビューが開幕初日だったのは、かのカルーソー以来2人目だったということです。この後紹介するインタビューでも、その期待がよく伝わってくるようです。

 

 

 


 

 

≪ 1994年 オペラリアのファイナル ≫

 

クーラが渡欧して3年後、徐々にオペラでも大きな役がつきはじめた時期に、メキシコで開催された声楽コンテストのオペラリアに出演、優勝しました。

オペラリアはご存じのようにプラシド・ドミンゴが主催するコンテストで、1993年にスタートしました。これまでの優勝、入賞者には、ソーニャ・ヨンチェヴァ(2010年)、オルガ・ペレチャッコ(2007年)、アイリーン・ペレス(2006年)、カルメン・ジャンナッタージオ(2002年)、ホイ・ヘー(2000年)、ローランド・ビリャソン(1999年)、ジョセフ・カレヤ(1999年)、アーウィン・シュロット(1998年)、ジョイス・ディドナート(1998年)、リュドヴィク・テジエ(1998年)、森麻季(1998年)、ディミトラ・テオドッシュウ(1995年)、ニーナ・シュテンメ(1993年)など、世界的に活躍している多くの歌手がいます。

第1回とクーラが出演した第2回までは、1位、2位という順位はなく、複数の優勝者が選ばれていたようで、94年は7人が受賞していますが、クーラだけは、それに加えて観客賞も受賞しています。

次の動画が、クーラのファイナルの動画です。ドミンゴとダイアナ・ロスが司会進行を務めています。クーラはプッチーニの「西部の娘」から「やがて来る自由の日」を歌っています。コンテストですがちゃんと衣装をつけて歌っているのですね。画質は良くないですが、若々しいクーラの歌声をどうぞ。

 

Jose Cura 1994 "Ch'ella mi creda" La fanciulla del West

 

 

 

 


 

 

≪ 1999年 メトロポリタン歌劇場へのデビュー ≫

 

 

 

オペラリアで注目されたこともあってか、それ以降、1995年ロンドンのロイヤルオペラハウスにデビュー、96年ウィーン国立歌劇場デビュー、97年ミラノ・スカラ座デビュー、97年トリノでアバド指揮、ベルリンフィルとオテロのロールデビュー、98年東京・新国立劇場こけら落とし公演アイーダ・・などなど、一気に世界的に活動の場が広がっていきました。

そして欧州での活躍から少し遅れましたが、1999年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場のシーズン初日に、カヴァレリア・ルスティカーナのトゥリッドウ役で劇場デビューしました。

その時の動画は全く公開されていません。メトの広報誌に掲載されたらしいインタビューを抜粋してご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

ーー ”若き獅子” ホセ・クーラ インタビュー

 

初めてホセ・クーラを見たのは、昨年(1998年)11月のワシントンだった。

白い衣装を着てそびえ立つ彼は、巨像のような体格で、驚くほどハンサムで、今日のオペラの舞台では珍しいカリスマ性を醸し出していた。

"Arrêtez, ô mes frères! そして、"Arrêtez, ômes frères! Et bénissez le nom du Dieu saint de nos pères"(やめよ、兄弟たちよ!父祖の聖なる神の名を祝福せよ)と、彼は力強く刺激的な高く澄んだ声で歌った。彼の緑色の目は強烈に燃えていて、ヘブライ人奴隷の肩に思いやりを持って手を置いた時には、その苦しみを和らげることができるのではないかと思ったほどだった。

公演が終わってニューヨークに戻る列車の中で私の心に残ったのは、盲目のサムソンに扮したクーラが、群衆の中で自分を導いてくれる少年を掴んでいる姿だった。クーラはその子の手をつよく握りしめ、しっかりとにぎって離れないようにしていた。そのしぐさには信憑性があり、見事に効果があった。

ワシントンに行く前、「新世代のオペラファンが切望している、並外れた声、官能的な美貌、魅惑的な演技力といった『全体像』を備えている」というような刺激的な言葉で表現されている、この急上昇中のテノールに対して、私は懐疑的だった。私はジョン・ヴィッカーズやプラシド・ドミンゴの偉大なサムソンを見てきたので、どんなに素晴らしいパッケージであっても、騙されるつもりはなかった。

しかし、ホセ・クーラは正真正銘の発見だった。洗練されたバリトンの響きを持つ真面目なミュージシャンだ。また、非常に魅力的でありながら賢明な人物であり、自分の芸術に対する明らかな献身と、ドラマに対する本能的な才能を持っている。特にサムソン(『サムソンとデリラ』)、ドン・ジョゼ(『カルメン』)、アンドレア・シェニエ、ラダメス(『アイーダ』)、『マノン・レスコー』のデ・グリュー、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のトゥリッドゥなど。

9月27日、オープニングナイトのガラ公演の前半、プラシド・ドミンゴが出演する「道化師」とのダブルヘッダーで、クーラはトゥーリッドゥを歌い、メトロポリタンオペラデビューする。これは、フランコ・コレッリやマリオ・デル・モナコの時代を彷彿とさせる声と舞台での存在感を持つドラマチックなテノールを、ニューヨークの聴衆に紹介する待望の機会だ。また、ドミンゴはメトロポリタン・オペラで18回目の初日を迎え、エンリコ・カルーソーの記録を更新する。

 

 

 

 

この2人のテノールには特別な縁がある。1994年、クーラはドミンゴの国際オペラリア・コンクールで優勝した。ドミンゴはクーラの初のソロ・レコーディング(1997年のプッチーニ・アリア)を指揮し、ワシントン・オペラの昨シーズンの「サムソン」と今シーズンの「オテロ」にもクーラを参加させるなど、後輩を支援している。

ホセ・クーラは、この数年で3人目の大テノールの候補としてメトにデビューするが、最もデビューの成功者として記録に残りそうな人物である。パバロッティ、ドミンゴ、カレーラスの3人の後継者を必死に探している世界中の雑誌や新聞が、クーラを「第4のテノール」と称しているが、しかし、そのことに彼は苛立ちを覚えている。「私が第4のテノールなら、誰が第3、第2、第1なのか」と彼は問い、「それは何の意味もないタイトルだ」と言う。

誇大広告の時代には、一般大衆にとってタイトルはもちろん意味のあるものだが、誇大広告は諸刃の剣である。称賛はある種の熱狂的な期待をうながす一方で、批判的なナイフを磨くことにもなる。2、3年前とは違って、今ではクーラは、特定のライターの標的になっている(5月のロンドン・タイムズ紙に『オテロ』に対する辛辣な批評が掲載された)。しかし彼は、仮にドレスリハーサルが大失敗に終わったとしても、また初日に不具合があったとしても、舞台恐怖症に悩まされないという幸運を持っている。良い例として、ワシントン・オペラでの『サムソン』の初日の夜、神殿が3小節も早く崩壊してしまったが、クーラは、すべて計画通りに進んでいるかのように歌い続けた。

「私の本能的な反応は、舞台から逃げ出すことではなく、公演を守ろうとすることだった。舞台上で、私は恐れない。私を驚かせるものは何もない。傲慢に聞こえるかもしれないが、そのための準備をしてきている。これまでの人生の半分以上、ステージに立ってきたのだ」ーーニューヨークのカフェでのインタビューで、クーラはそう語った。

彼は、自身が「傲慢」と評されている記事をいくつか読んでいるようだが、しかし、最初のインタビューでの彼は、誠実で礼儀正しく、思慮深く、知的でユーモアにあふれていた。彼はファンや業界関係者に中断させられることにも慣れている。ある時、有名なアーティストのマネージャーが私たちのテーブルに近づきながら「クーラ!」と叫び、立ち寄って話をした。それでも彼は、どんな質問にも集中を保ち、中断したところから容易に話を再開することができる。

確かにクーラは、自分のキャリアの方向性について強い意見を持っているが、偉そうな態度や威圧的な態度をとることはない。彼は、自分が何者であるか、そして今日に至るまでどれほどの努力をしてきたかを知っているのだ。

 

 

 

 

クーラは1962年12月5日、アルゼンチン・サンタフェ州の州都ロサリオで生まれた。彼の血統は明らかに国際的で、4分の1はイタリア人、4分の1はスペイン人、半分レバノン人の血をひいている。名前の由来となった父方の祖父は、生まれたときは貧しかったが(7歳のときには道端で靴磨きをしていた)、金属のコングロマリットを率いてアルゼンチンで最も有力な産業界のリーダーとなった。父は会計士として成功した。

クーラの幼少期の思い出は、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ベートーヴェン、モーツァルト、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンなど、「あらゆる種類の音楽」を聴いていたこと、そして毎晩、父親と一緒にピアノの前に座り、父が演奏してくれたことだ。「母は私に、ポップスやクラシックがあるのではなく、良い音楽と悪い音楽があるということを教えてくれた」と彼は振り返る。

12歳で初めて声楽とギターのレッスンを受け、15歳のときにロサリオの野外合唱コンサートで指揮者としてデビューした。その頃、彼は作曲も始めていた。「私はまさしくミュージシャンだった」と彼は振り返る。「(指揮をしたり、作曲をしたりするのは)当たり前の、自然なことだった。何も考えず、ただ音楽をやり、楽しんでいた」

「1984年に、1982年の愚かな南大西洋戦争(マルビナス戦争またはフォークランドウ紛争とも)で亡くなった人々に捧げるレクイエムを書いた。当時、私は予備軍で、マルビナス/フォークランドへの出征を控えていた。戦争が短かったことに感謝している。戦後25周年を迎える2007年に、この作品を演奏するのが私の願いだ」

*このクーラの願いは残念ながら実現しませんでしたが、来年2022年にハンガリーで初演される予定です。

1982年に国立ロサリオ大学で作曲の正式な勉強を始めたクーラは、合唱指揮を続けていたが、同校の学長から声楽の勉強を勧められた。「彼は私が作曲家か指揮者になりたいと思っていることを知っていたが、歌を勉強することで、より良い作曲家、指揮者になれるだろうと言ってくれた」ーー クーラは奨学金を得て、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの歌唱学校に入学したが、計画通りにはいかなかった。

 

 

 

 

「20歳のときの私の声は、自然のものだったが、音楽的ではなくかなりうるさかった」とクーラは振り返る。「声が大きかったので、最初に私を受け持った教師は、間違ったレパートリーを強要したがった。「トゥーランドット」や「西部の娘」(プッチーニ)などを歌っていたのを覚えている。それはクレージーだった。その結果、23歳のときにはもう声が出なくなっていた。高い音も、深い音も出せなくなっていた」ーー誤った教育が声を傷つけたため、クーラはギアチェンジを余儀なくされた。

「『歌うことがこんな苦しみなのなら、もう歌いたくない』と言ったことを覚えている」

24歳になったクーラは、9年前に合唱のオーディションを受けた時に知り合ったシルビアと結婚した。生活のために様々な仕事をした。「朝はジムでボディビルのインストラクター、昼は食料品店、夜はテアトロ・コロンで合唱の仕事をしていた」

しかし、彼はもう歌わないと決めていたのでは?クーラは、エスプレッソを飲みながら、このことを振り返る。「神は常に私の人生を見守り、コントロールしていたのだろう。『歌手になりたくなくても、歌手になるのだ。説得には時間がかかるだろうが、君は歌手になるだろう』と言っていたのだと思う」

25歳のとき、クーラは学校や美術館で公演を行う地元の小さなオペラグループの音楽監督に招かれた。「あるコンサートで、テノールがキャンセルになった。あるコンサートでテノールがキャンセルになった。そこで『星は光りぬ』(『トスカ』)と『椿姫』のデュエットを私が歌った。その時、テアトロ・コロンのテノール歌手、グスタボ・ロペスが私の歌を聴いて、彼の先生であるオラシオ・アマウリに紹介してくれた」 アマウリはクーラの歌声を聴いて、「君のような声は30年か40年に1度しか出ない」と断言し、無料でレッスンをしてくれることになった。

「2年間、ほぼ毎日、マエストロ・アマウリのもとでレッスンを受け、それが私のテクニックの基礎となった」とクーラは語る。「彼はとても厳しい先生で、非常に伝統を大事にするスタイルだった。彼は、表面的な動きではなく、筋肉の中心に入り込むことを信条としていた。自分が何をすべきで、何をすべきでないのかを理解するのに十分な年齢であり、また十分な経験を積んでいることは、私にとって良かった。2年後、キャリアとまではいかなくても、少なくとも、より一貫した方法で生計を立てる準備ができていると感じた」。

ある夜、家に帰ったクラは妻に「もう出発しなければ」と告げた。

 

 

 

 

自分がどこに行くのか、着いたら何をするのか、全く分からなかったと彼は告白するーー「でも、自分の中にライオンを感じることができた。仕事に飢えたライオンを」

クーラ夫妻は、ブエノスアイレスのアパートを売りに出たその初日に売却し(「当時の経済は非常に厳しく、少なくとも2年はかかると思っていた」とクーラは言う)、そのお金をポケットに入れて(「当時は大金に思えたが、今の1晩の出演料に相当する」)、イタリアに向かった。1ヵ月後、彼らはほとんどのお金を使い果たし、クーラの話では、航空券を買うお金があるうちにアルゼンチンに戻ろうとしていた。帰国のために荷物を整理していたクーラは、アルゼンチンの友人からもらった1枚の紙を見つけた。そこには、イタリア人の声楽家の名前と電話番号が書かれていた。

「私はその番号に電話して、相手の男性に『聞いてください。数日後に私は出発する予定だが、ヨーロッパの誰かに私の声を聞いてもらってから、アルゼンチンに帰りたい』と伝えた」

その声楽家は彼を自分のスタジオに招待してくれた。そしてクーラの声に感動し、エージェントのアルフレド・ストラーダにこのテノールを紹介した。ストラーダは、尊敬する声楽家のヴィットリオ・テラノヴァ(「イタリアのアルフレド・クラウス」と呼ばれたことも)に電話をかけ、「ここに『声』になりそうな人物がいる」と言った。

唯一の問題は、「その時点では、まだ大きな音が出るだけで、プロのスタイルはなく、芸術監督に見せて採用してもらえるものがなかった」ことだと、クーラは言う。

テラノヴァは、アマウリと同様に、財政的に苦しいクーラを無料で引き受けることに同意した、それからの1年半の間、彼はクーラが今日のような、独特の音色と精悍な鳴り響くトップを備えた、十分な息で支えられた暗い色合いをもつ声を開発するのを助けた。まだいくつかの問題があった。高音域になるとトーンが薄くなることがあり、また批評家の中には、「英雄的な男らしさが強すぎる」「繊細さに欠ける」などと批判されることもあるが、背筋がゾクゾクするようなスリルを求めるオペラファンには不満はないだろう。

クーラの大ブレイクは、1992年にヴェローナで上演されたハンス・ヴェルナー・ヘンツェの『ポリチーノ』の神父役、続いてトリエステで上演されたアントニオ・ビバロの『ミス・ジュリー』のヤン役である。(劇場は適当なテノールが見つからず、この新作を断念しようとしていたが、アルフレード・ストラーダがクーラにチャンスを与えるよう説得した)

1994年にプラシド・ドミンゴのオペラリアで成功を収めた1ヵ月後、シカゴ・リリック・オペラで『フェドーラ』のロリス役で、ミレッラ・フレーニの相手役として北米デビューを果たした。この役はあまり好きではないと語っているが、高い評価を受けた。その後、ロンドンのロイヤル・オペラのスティッフェリオ(1995年のヴェルディフェスティバルでホセ・カレーラスの代役)、サンフランシスコ・オペラのカルメン、ミラノスカラ座のラ・ジョコンダなどで注目すべきハウス・デビューを果たした。現在、彼のレパートリーは30の役柄が含まれる。

 

 

 

 

最近、家族と一緒にパリからマドリッドに引っ越したばかりのクーラは、公演を年50回程度に制限している。今シーズン、アメリカのオペラファンが彼をメトで見ようと思ったら(『カヴァレリア』は最初の3回しか歌わない)、あるいは3月にワシントン・オペラで5回行われる『オテロ』のうちの1回を見ようと思ったら、急いで駆けつけなければならない。(この他、12月にはパレルモ、2001年にはロイヤル・オペラでもオテロを歌う予定) 今後の役柄について、クーラは「ピーター・グライムスに挑戦してみたい」と語っている。

まだ冬のようなある春の日、クーラへの2度目の訪問は、ロンドンのバービカンで行われたコンサート形式の「オテロ」の最終リハーサル1時間前の楽屋だった。テノールは、アメリカで発売予定のヴェリズモ・アリアの新録音を楽しみにしているようだった。

指揮者は?ーー「指揮者としてはあまり知られていないが、私から見て非常に優れた音楽家であるホセ・クーラという人物だ」と彼は恥ずかしそうにおどけてみせた。クーラが自分自身で指揮をしたのはこれが初めてではない。1998年に発売されたアルゼンチンの歌のCD『Anhelo』では、クーラがアンサンブルを率いて指揮をとり、これにはパブロ・ネルーダの2つの詩にテノール自身が作曲したものが収録されている。

クーラはヴェローナで行われる「アイーダ」の野外公演を楽しみにしていた(プロダクションのオープニングナイトは、インターネットで視聴された) 。また8月には、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のリハーサルのためにニューヨークに渡る前に、妻シルビアと3人の子供たち(11歳のホセ・ベン、6歳のヤスミン、3歳のニコラス)と一緒に静かに過ごしたいと考えていた。

「メトからはこれまでにもいくつかオファーがあったが、初出演には良いものをと思っていたし、プラシド(ドミンゴ)も歌ってくれるということで、その夜はとても特別なものになると思う。トゥリッドゥは素晴らしく、悲劇的な役柄だ。人々は彼について、サントゥッツァを虐待する狂信的な男のように思っている。しかし彼がこのオペラの唯一の真の犠牲者であることを忘れることはできない。彼は兵役に行く前にローラに恋をしていて、戻ってきた時にはローラは結婚していた。彼は裏切られたと感じ、失望し、男としての怒りを感じたのだ」

自身を「Theater animal」だと思っているクーラだが、自分の演技力はすべて独学で身につけたものだと告白する。

「人間の状態の細かな部分まで描写することに最もやりがいを感じる。私は社会の観察者であり、分析者でもある。『サムソン』の終幕で目が見えなくなったときに、私が小さな男の子をつかんだ時のことに言及されたが、私は父親だ。子どもの手をしっかりつかむとはどういうことか知っている」

ホセ・クーラは、21世紀に向けて我々を導く待望のテノールなのだろうか?

コリン・デイビスはそう考えているようだ。

「彼は演劇的で、とても音楽的だ」と、バービカンでのクーラの『オテロ』や、『サムソンとデリラ』の録音で指揮をとった指揮者は言う。

「彼は素晴らしい身体的強靭さと素晴らしい感情的な強さを持っている。彼が失敗することはありえない」

 

(「metguild.org」)

 

 

 

 

 


 

 

かなり長いインタビュー記事、拙い訳に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

90年代後半、「21世紀待望のテノール」「第4のテノール」という言葉とともに、「オペラ界のセックスシンボル」「テストステロン爆弾」などといううたい文句まであったそうです。この時期、一気に世界的に有名になったクーラ。オペラファンの期待も大きかったことと思います。

しかしすでに、こうした売り出され方、商業主義とアーティスト使い捨てのやり方が耐えられなくなっていたクーラは、99年から2000年にかけて、当時のエージェントから独立し、また大手レコードレーベルに所属することもやめ、独立独歩で自分の事務所と小さなレーベルを作って歩み始めました。そのためかなり攻撃もされたようで、この時期のことはこれまでも何度か紹介してきたとおりです。

*「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」 、「ホセ・クーラ インタビュー ”私はセックス・シンボルとして売られ、そして生き残った"」 他をご覧ください。

 

今回ご紹介した99年のインタビューからは、メトデビュー当時の熱狂的な歓迎ぶりが伝わってくるように思います。こうした”スター街道まっしぐら”の時期に、自分をとりまく流れに迎合するのではなく、自らの芸術の道を見定めて、それまでの関係を絶ち、一人歩んでいく決断をするというのは、なかなかできるものではないと思います。実際に、その後の厳しい逆境が物語っています。しかしクーラは屈せず、妥協せず、今日まで生き延び、ユニークなアーティストとして、円熟の時期を迎えています。

渡欧から30年、クーラの歩みを心から祝福したいと思います。

 

 

*画像は当時の映像、報道などからお借りしました。

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2020年 ホセ・クーラ、アーティストの存在理由と現代、パンデミックからの復帰について

2021-10-16 | 芸術・人生・社会について②

*写真は2020年ハンガリーでの報道より。

 

今回は、昨年2020年8月にアルゼンチンのネットメディアで公表された、ホセ・クーラのインタビューを抜粋して紹介したいと思います。

パンデミックの最中、クーラ自身も春以降のスケジュールがすべてキャンセルとなった年の夏、まだまだ先の見えない時のインタビューです。しかし当面するパンデミックにおける芸術とアーティストの問題ということだけでなく、パンデミックがあらわにした、クラシック芸術の業界に内在してきた問題点ということで掘り下げて語っています。劇場も動き出している現在とは状況が変わってきていますが、クーラが指摘していることは、引き続き意味を持つものと思います。

クーラの母語のスペイン語の記事ということもあってか、比喩表現も多く、なかなか難しい内容でした。訳が正確でなく誤解を与えることを恐れています。大意を伝えるということでご容赦いただき、興味をお持ちの方はぜひ原文をご覧いただきますようお願いします。

 

 

 


 

 

元に戻るのだろうか? ーー ホセ・クーラ インタビュー

 

私たちは凡庸さを恥じない世界に住んでいる。「中身のない容器」にますます悩まされている。あたかも商人がカラフルな空っぽの箱を売っているかのように。あるいは最悪の場合、廃棄された商品でいっぱいになっているかのように、生活は知的副産物であふれている。

 
才能のある人が、単に「その時代」の出来事にしか関心がなく、時代の状況が求めるニーズに専念している。その作品は時代に依存しているため、ショーペンハウワーの言葉を借りれば「交換可能」だ。水準の低下としてだけでなく、「近視眼的」な無関心によって、美、正義、平和などの理想をどのように活用するかを知っていた古典芸術は、容赦なく「ファストフード」の文化に置き換えられている。「便利な姿勢」の担い手たちが彼らのポケットをいっぱいにするための、偽りの「平等」という集団的な感覚の名の下に。マニュアル通りのマキャベリズム……。
 
昨日、トレドを訪れた際に、 構想と実行に何十年もかけた芸術作品に魅了されたが、最近のメディアTik-Tokでは、20秒以上は退屈とされている...。
 
 
 
 
 
 
 
 
Q、どこにつながる?

パンデミックは社会のすべての階層に影響を及ぼすが、例外を除いて、健康に関しては、ウイルスは特に弱い人、主に高齢者、または過去に病歴を持つ人々に影響が大きい。
爆弾というよりも起爆装置のように。この事実は、クラシック芸術に頼って生計を立てているショービジネスの部門の将来を分析できるだろう。クラシックのアーティストの仕事は、何世紀にもわたって存続してきた、芸術に内在する高い理想に対する社会の感受性と受容性に依存している。それらの理想が損なわれた時ーーそれが人々の娯楽のためだけでなく、政府当局の中心部分においてもーーその時、ほとんど希望は残されていない...。

技術を持つ古典芸術のアーティストの存在理由は、優れたものを実行に移すこと。文字、音楽、絵画、ダンスなどに命を与えることであり、実行するアーティストがいなければ、紙の上で眠ったままになってしまうものだ。傑作と呼ばれるもの。しかし、先ほど言及した「中身のないものの群れ」が社会に定着し、優れたものと平凡なものを見分けることができる人の割合が極端に低下した場合はどうなるだろうか?
 
システムを正当化することはできないだろう。Covid-19が芸術の死刑執行人に手を貸す前から、斧を研ぐだけでなく、完璧で検出不可能なようにカモフラージュされてきた。「私ではない。それはウイルスが原因だった…」と。
私たちはすぐに目を覚ますだろうか。起こっているのはパンデミックの副作用ではなく、パンデミックが我々の仕事に影響を与えるずっと前から、文化システムの健全性を無視して、無責任に許してきてしまった状況への決定的な一撃なのだということに。価値観の崩壊がまだ仕事の日常の現実に影響を与えていなかった間も、ごく一部の人々は、ある種の平凡な順応主義が、我々の生計手段を危険にさらしていると訴えていた。…
 
逆説的だが、現在の状況では、優れたアーティストであることは、ある意味で逆効果をもたらしかねない...。有名なアーティストの必須条件は、その本質的な品質(そのような評価が正当化される場合)に加えて、「客席を埋める」ことだ。したがって、キャパシティー制限を考慮すると、予想を裏切らない限り、有名であることはハンディキャップになる。予想どおり、多くの団体やプロデューサーが倒れている。あるものは誠実さの結果、あるものは道徳的基準の低さから。つまりいつものことではあるが、殺しのライセンスをもっている…。
 
そういう意味で、私たちは物事がどのように変わっていくかを見ることになるだろう。ひとつのシステムが終わりを迎えているのかもしれない。しかし私は、人間には人間らしさが必要だと信じている。結局は、魅力に立ち戻ることになるだろう。問題は、それがいつなのか?
 
このような因果関係は別として、個人的には、この時間を作曲のために活用している。テ・デウムと復活のための協奏曲(ギターと室内オーケストラ)を完成させた。さらにまた、芸術監督としてのプランの準備するのにも非常に忙しく、また多くの人と同様に、強制的な隔離生活を使用して、スケジュールの圧力から永遠に延期されてきた無数の事柄に追いつこうとしている。
 
 
 
 
 
 
 

最後に、これは非常に個人的な分析によるものだが、今日、非常に流行しているストリーミングについてふれたい。聴衆との接触を維持するこの「人工的な」方法は、一般的には興味深いと思われるが、実際のオーケストラさえも集めることを可能にするこのテクノ・アート・リソースーーそれぞれが自宅で演奏し、全体をまとめて多かれ少なかれ控えめなサウンドの結果をつくりだす。それは、危機を助長するとまでいかなくても、少なくとも危機からの脱出を阻んでいるといえるのではないか。通常の状況でも、すでに観客が少ないうえに、さらに多くの人々がこの甘くて苦い生演奏の代用品に慣れてしまうなら、ライブ芸術の碑文が書かれる。

我々アーティストは、活動を続けたいという当然の、必死さの中で、間違いを犯していると思う。神は間違いを知っているだろう。私たちは時間をかけて多額のツケを支払うことになる。レコードが売れなくなったのは、ストリーミングやダウンロードが、無料ではなくとも最低価格で提供され、レコード業界を破壊したからだ。今や、ステージを殺す時がきたのだろうか…?

(「musicaclasica.com」)

 


 

 

今回紹介したインタビューは、同じ昨年の記事「インタビュー ”パンデミックによる影響と危機、音楽産業の将来への警告"」と問題意識は共通しています。

音楽産業の危機、ストリーミングに置き換わることへの警鐘などを繰り返し語っています。また今回は、とりわけ現代社会における「才能ある」人々が、目前のことしか関心が持てず、近視眼的になることによる弊害などについても、率直に述べています。あらゆるもの、芸術までがファストフード化する傾向、さらにそれらが特定の層だけに富を集中させる手段になっているとの指摘は、いかにも、音楽産業と商業主義から距離を置いて、自立したアーティストとしての生き方を貫くクーラらしいと思いました。

クーラのスケジュールは、2021年の夏から本格的に再稼働しはじめ、この秋以降も、オペラやコンサート、指揮、マスタークラスと多彩な企画が準備されています。パンデミックは現瞬間には一見、おさまりつつあるように見えますが、そのもとであらわになった社会システムの様々な問題点、クーラが指摘するような構造的危機は、今後、解決の方向に向かうことができるのでしょうか。それとも再び元の日常に戻るのか、または再びパンデミックが巻き起こるのか……。まだまだ先を見通すことはできません。今年12月に59歳、来年には60歳の節目を迎えるクーラ。この円熟の時期、多面的な才能と長年積み重ねてきた努力を、さらに豊かに花開かせることが可能になることを願っています。

 

 

 

*写真は、2020年のハンガリーでの報道、動画などからお借りしました。

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2020年 ホセ・クーラ インタビュー ”パンデミックによる影響と危機、音楽産業の将来への警告"

2021-02-02 | 芸術・人生・社会について②

 

 

 

今回は、コロナパンデミックと芸術に関する、ホセ・クーラのインタビューを紹介します。

インタビューは2020年11月のものです。11月15日に、クーラが2017年に主演したテアトロコロンのオペラ、アンドレアシェニエの録画がコロンのサイトで放送されました。その放送にあたって、クーラの母国アルゼンチンでいくつか新しいインタビューが掲載されたのです。コロナ禍で渡航できないため、クーラは電話やメールなどでインタビューに答えたようです。

(その時放映された録画は現在でも視聴できます。録画のリンクや詳細は、以前の記事をご覧ください)

クーラ自身のコロナ禍での状況と活動についてとともに、コロナによるパンデミックが音楽に与えた影響と今後についてなど、興味深い内容となっています。

複数のメディアから、抜粋して紹介します。元がスペイン語なため、いつものように誤訳等、お許しください。

 

 

 


 

 

 

 

≪ ”監禁生活”は不幸なことだったが、幸いにも3作品を完成することができた ≫

 

Q、パンデミックの年をどのように経験した? 何をするつもりで、そして何を変えなければならなかった? それらの変更はどのような影響を与えた?

A(クーラ)、私は(2020年)3月13日から家にいる。2020年の公演は、1つずつすべてキャンセルされた。

しかし私が最も心配しているのは、現在ではなく未来だ。私は幸運なことに、文字通り、別の世界で育ち、能力を開発していった世代のアーティストに属している。私の弓にはまだ数え切れないほどの矢があるが、この30年間で達成したことについて文句を言うことはできない。それゆえ、私が未来について話すとき、私のことだけでなく、社会全体の未来、そして特にアーティストの未来についてを指す。

COVID-19は、クラシック音楽のショービジネスの世界で起きていることの「原因」ではなく、予告された死の長い苦痛を終わらせることができる「止めの一撃」だ。「レクリエーション活動」として行われるスポーツと「スポーツ産業」を区別する必要があるのと同様に、「音楽制作」とショービジネスである「エンターメント産業」を区別する必要もある。スポーツ産業が死んでも、スポーツそのものは死なない。音楽も同じだ。

この真実、ほとんど自明の理は、いまいましいウイルスが私たちを攻撃するまで、それほど明白には見えなかった。そのため私たちは、実際のシナリオ、「予定表」、および仮想シナリオの影響の増大を共存させる方法を心配することなく、何十年もの間、続けてきた。その結果 ―― すでにわかっていたように、私たちはゆっくりと、しかし容赦なくエンターテインメント業界を終わらせつつある。劇場に来たいという人は必ずいるだろうが、注意しなければならない。テクノロジーの利便性はすでにレコード業界を殺しており、観客の割合が構造を正当化できないほど低くなれば、ステージを殺してしまうだろう。そこに問題があり、Covidにあるのではない。最終的には、私たちを気絶させる必要のある者にとっての最高のアリバイになるだろうーー「それは私たちではなく、ウイルスだった!」と。

船を再浮上させなければならず、そのためには最高の乗組員を選ばなければならない。それはできるだろうか?

 

Q、何かクリエイティブなことをする機会は? 新しい何か?

A、私のような訓練を受けた作曲家にとって、監禁は、「幸運な不幸」だった...。
私は、ずっとやりたくても手が出せなかったギターとオーケストラのための協奏曲を書いた。明らかな理由から、私はそれを「復活のための協奏曲」と名付けた。また「テ・デウム」("Te Deum")を完成させ、今は、南大西洋での戦争(マルビナス戦争、フォークランド紛争とも)の犠牲者に捧げた1985年に書いた「レクイエム」を手直しするところだ。この間、私はオーストリアの音楽出版社・ドブリンガー社(Doblinger Publishing House)と契約したので、私の音楽はまもなく利用可能になる。

 

Q、2021年の計画は?

A、2021年のスケジュールが予定されているが、日付が近づくにつれて何が残るかを確認する必要がある。
そのなかでとりわけ、1月にハンガリーで「テ・デウム」を(公演はコロナ禍のためキャンセル)、3月にフランスで「復活のための協奏曲」を初公開する。

「レクイエム」は、戦争の40周年にあたる2022年にハンガリーのブダペストでリリースされる。いつかアルゼンチンで公開できることを夢見て、これまで数年間、努力してきた。実現するまであきらめない。

 

Q、いつアルゼンチンに戻る?

A、母がまだ生きていた2018年まで、毎年必ず帰国していて、その時は何度もテアトロコロンへの出演とも一致していた。残念ながら、今は帰国日を決めることができない。そのことは私を少なからず悲しませる。

 

Q、2017年のアンドレア・シェニエについて何を覚えている?何が特別だった?

A、非常に印象的だった。

土壇場で劇場から電話があった(注・主演のシェニエを予定していたテノールがキャンセルしたため)。ちょうど私の誕生日と重なっていて、いつも私はその時期を空けておくので、フリーだった。

到着して演出のマティアス・カンビアッソに、私に何を求めているのか尋ねたのを覚えている。彼は「あなたの手に私自身を委ねる」という意味のことを言った。そして事実は、予期せずに責任がその気の毒な人の肩に降りかかってきたいうことであり(注・当初予定されていた演出家が急に降板)、そしてそこで彼は剣を手にそれと戦っていた。一緒に公演をすすめたが、緊急事態による長所と短所があったにもかかわらず、私が覚えている最強の感情的な盛りあがりで成功した。めったに経験できないほどの...。加えて、劇場中が立ち上がって私に “Happy Birthday”を歌ってくれた。これ以上、何を求める?

 

Q、将来を想像するとき、プロフェッショナルとしての夢は?

私の夢は、いつの日か、歌手、指揮者、演出・舞台監督、舞台美術家、作曲家としての長年の経験を、素晴らしい劇場に対して提供できるようになることだ。

これまで言ってきたように、エンターテインメントの世界では革命がなされるべきであり、そのためには経験豊富な人材が必要だと思う。私はこれまでにたくさんのことを学び、さらにたくさん学び続ける。私の仕事を複数の目的に奉仕する時が来たと思う。3つの異なる運営者と話し合い中だ。それらがどう進展するか見ていく。

(「perfil.com」)

 

 

 

 

 

 

≪ パンデミックが音楽に及ぼす望ましくない影響とストリーミングの危険性 ≫

 

「生粋のパフォーマーにとってステージの欠如は、サラブレッド種の馬がピットに閉じ込められるのと同じくらい耐え難い。楽観的な見方を保つために自分自身を組織しなければ、隔離によって衰弱させられる可能性がある」

 世界で最も有名なテノールのひとりであり、ヴェリズモのレパートリーとの親和性が高いホセ・クーラは、マドリードから語る。

「家族や信頼する友人と多くのことを話した。人々はこのパンデミックによって感情的に不意を突かれた。その結果は甚大であり、強制的な同居による家庭内暴力の増加、考えることを避けるために必要なアルコール消費量の増加など。幸い健康を維持できた私たちは、飛行機に乗るために急ぐ必要がなく、急いですべてを一緒に言う理由がなかったので、愛情をリセットし、関係を再確認し、静かにつきあいを楽しむ時間があったのは素晴らしいことだった。」

 ・・・

ホセ・クーラは、ボディービルダー、電気技師、大工の経験があるだけでなく、ルネサンスの芸術家のように、芸術活動のすべての分野に関与することに興味を持つ、非常に優れたテノールだ。舞台の演出に加えて、彼は指揮と作曲をマスターしている。

 ・・・

 

Q、あなたは30年以上音楽に携わっている。現在の状況はバランスを取るのに良い時期のようだが? あなたの大きな成功と悪い決断は何だった?

A(クーラ)、この混乱が始まったとき、私が最初に自分に言い聞かせた。「もう十分やってきた。30年間の国際的なキャリアで約3000のステージを終えたのだから、もし気を楽にして引退を考えたとしても、それは恥ずかしいことではない」と。友人や学生たちにも話したところ、彼らは申し合わせたように私を叱り、誰もが、今、参照すべき存在として私を最も必要としている時だと言った。それで私は剣を研ぎ、防御の態勢に立った。

 

Q、ライブ、レコーディング、ストリーミングのダイナミクスについて、パフォーマーとして、そして観客としてのあなたの視点は?

A、作品を公開するこの方法は興味深いように思えるかもしれないが、オーケストラを集団化することまで可能にするこの技術的な緩和措置(それぞれ自宅から演奏し、多かれ少なかれ控えめな結果を伴う)が、無意識のうちにミレニアル世代の終わりに貢献する。レクリエーションや教育の目的で、夢の実現のため社会的な支柱の周りに人々が集まった時代の終わりに。

世代交代で、一般の人々がモバイル画面の外の生活を考えていない世代に取って代わろうとしているため、通常の状況であっても、視聴者はますます少なくなっている。しかもライブコンサートにいる時でさえ、彼らはそれを撮影するために運命的な小さなスクリーンを引き出し、目の前にミュージシャンがいるにもかかわらず、それを携帯電話を通して見ている。もし大多数の人々が、ストリーミングという名の「苦悩するライブ・エンターテインメントの代替品」に慣れてしまうなら、墓碑が刻まれるだろう。

活動を続けたいという理解できる必死さの中で、アーティストたちは間違いを犯している、私はそう思う。どれほどの間違いかは神だけが知る。私たちは時間とともに高額なつけを払わなければならないだろう。彼らは、音楽ストリーミング、または安価のダウンロードのため(無料や海賊版ではない)、レコードの販売を停止し、レコード業界を破壊した。今は、ステージを殺す時が来たのだろうか?

 

Q、パンデミックからの脱出と舞台への復帰をどうイメージする?

A、非常に感情的だ。再会できることに、そしてそれが持つだろう不確実性のために...。

(「clarin.com」)

 

 

 


 

 

パンデミックが始まった当初に、クーラが引退を考えていたとはショックでした。

もちろん、引退とは歌手としてで、作曲や指揮などはその後も継続するつもりだったとは思いますが、それにしても、テノールとして他に類をみない声、深い作品解釈、強烈な存在感と魅力を放つクーラが舞台上で見られなくなるとしたら・・。あれほどエネルギッシュで情熱的なクーラであっても、だからこそかもしれませんが、アーティストにとって生の舞台に出演できないことの辛さ、苦悩がどれほど大きなことなのか、実感させられるエピソードです。周囲の引き留めで思いとどまってくれたことに感謝です。

今回の発言は、ストリーミングや録音配信などについての、クーラの率直な危惧の表明、警鐘でもありました。CD販売が大幅に減少し、アーティストが音楽活動による正当な収益を得られなくなっている問題については、これまでもクーラは指摘し、発言してきました。現在のコロナ禍のもと起きている劇場やアーティストをめぐる困難は、決して今回新たに起きたものだけでなく、長期にわたる流れのなかですすんできたことであり、それがコロナ禍で一気に噴き出したものだという認識です。ここには、以前からクラシック音楽やオペラの現在と将来、とりわけ音楽産業の在り方について危機意識をもってきたクーラの一貫した視点があります。

音楽産業が死んでも、音楽は生き続ける、というクーラの言葉から考えると、行き過ぎた商業主義が構造的危機を迎えつつあるなかで、パンデミックを体験し、あらためて芸術や音楽、劇場やアーティストの社会的な存在意義、生の人間的体験としての芸術の役割が問われている、ということを厳しく指摘しているように思います。

良い劇場で自分自身の体験と蓄積をすべて伝えることが今後の夢だ、と語ったクーラ。パンデミックが終わり、人間にとって不可欠な芸術の再興、豊かな発展の時がくることを、そしてその中でクーラが思う存分、活動できる機会、そういう舞台が提供されることを願います。そしてそれを見届けたいものです。

 

 

 

 

 

 

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ホセ・クーラ インタビュー ”私はセックス・シンボルとして売られ、そして生き残った"

2020-10-05 | 芸術・人生・社会について②

 

 

 

ホセ・クーラの、2020/21シーズンのスタート、この秋の最初の公演は、実は10月1日のハンガリーでのコンサートの予定でした。しかしコロナ禍のために渡航制限を受け、残念なことに出演キャンセルになってしまいました。今後の予定はまだ公式カレンダーには発表されていませんが、クーラはFBを時々更新して、近況を報告したり、興味深い話を紹介したりして、共に希望を持っていこうとフォロワーを励まし続けています。

ということで、今シーズン初のクーラの公演が紹介できなくなったのは残念ですが、これまでの長いキャリアのなかから、紹介したい材料、エピソードはまだたくさんあります。今回は、2007年と2004年のインタビューから抜粋してみました。

90年代半ば以降、大ブレークして世界的に有名になった時期に、クーラが体験した困難な事態と、それを乗り越えてきた経過について語った部分を紹介したいと思います。

以前にも、近い内容を語ったインタビューを紹介したことがありますので、そちらもお読みいただけるとなおうれしいです。

 → 「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求

 

 

 


 

 

 

≪ 2007年アルゼンチンでのインタビューより ≫

 

 

Q、現在、自分の役をどのように選択している?

A、泥沼にはまることはないと知っている役を選ぶ。歌手には「オフロード」車は存在しない。それらが都市を走り回れば、至る所で衝突するからだ。そして、その選択は、自分自身の国際サーキットなどに関する経験と知識があってこそ可能になる。役の好みに直接関連する選択肢はないが、それによって何か新しいことを言える可能性はある。不可欠なのは劇的な関心をもっていること。そうでなければ私は興味がない。

 

Q、単なるボーカル・ショーはない...?

A、それはない。技術的な力量を身に着けても、かつても現在も、ステージに行って美しい音を歌うことには全く興味がなかった。美しさは、その美しさのために私を退屈させる。

 

Q、21世紀の人々もそれを要求しているのでは?

A、常にではない。美しさそれ自身は常に魅力的だが、それが退屈になることは確かだ。そして、それはすべての状態に適用される。窓辺に立っている非常に美しい女性や男性も、2度目に通り過ぎるときには興味が失なわれる。美しさは一次元だ。醜さも同様。

たとえば、今日、新しい声がないと主張する多くの人がいるが、それは真実ではない。生まれていないのはカリスマ的な人々だ。顕著なグローバリゼーションが、国境を越え、個性を溶かし、押しつぶしていると私は考える。すべてが統一され、同化され、同じになる傾向がある。商品化のマーケティングは同じように進み、ディスクのカバーは互いに似ていて、音楽さえ同じように聞こえ始める。

 

Q、しかし、今日では以前は利用できなかった多くの技術リソースがあるが?

A、確かに、技術力は大幅に向上している。今日、利用できる手段はあらゆる点でめざましい。しかしそれらは、個性や、カリスマ性を通して伝達する能力を犠牲にして発達してきたようだ。

以前は、レコードを買いに行き、売り手がアドバイスし、音楽について話し合っていた。今日では、陳列棚に置かれたCDやDVDは、レコード会社が、大規模なショッピングモールやセールスチェーンに支払って、売り場の特権的な場所を占めるようにしている。もちろん、これは違法ではない。レコードを買うように、場所を買っている。しかし、それは、例えば、自分が最高だと信じた録音を目立つ場所に配置していた、かつての音楽の販売者の能力を阻害する。

 

Q、あなたもマーケットを通り抜けてきた?

A、もちろん。私と私の世代の他の数人のアーティストは、まだ立っていて、全てを生き延び、すでに良いことも悪いことも超えている。私たちはすでに私たちであり、充実したスケジュールがあるが、残念ながら、私たちの後の人たちは、良い時間を過ごしているとはいえない。火のラインを越えるものはほとんどいない。スーパーマーケットで売られるソーセージのパッケージのように、いくつか販売され、もはや3番目のパッケージがいらなくなったら廃棄される。

 

Q、あなたの場合は?

A、私はこれの先駆けだった。国際的なキャリアを始めたとき、私に適用されたマーケティングは、声だけではなく私のイメージも使用した最初の大規模な市場操作の1つだった。オペラの「セックス・シンボル」などの言葉や、人々の気を引くためのナンセンスなものだった。

 

Q、しかし、それはあなたを破壊しなかった?

A、そう。しかしそれは、私を苛立たせる多くの混乱を引き起こした。

12歳の時に初めてステージに上がったにも関わらず、「一夜にして」現れた「新しい才能」のように語られた。彼らは、「勝利をめざす作戦」や「夢を実現する歌」で勝ったかのように私を売り込もうとした。

幸いなことに、私自身の経歴、それまでの準備があったことで、その酷い打撃に抵抗することができた。そして今、私はこれらすべてを超えて、自分のキャリアをリードし続けていくとともに、若い人たちをけん引するためにロープを引いていきたいと考えている。しかし、残念ながら、ロープを引っ張ろうとするたびに、ロープが壊れてしまう。これは、若い人たちが受けているプレッシャーが私たちの時よりもさらに強く、また技術的な準備が少ないためだ。

 

Q、若い人たちは、すぐにスターになりたがっている?

A、ノー、そうではない。彼らと話すと、彼らがその先の仕事と克服すべき困難を非常にしっかり認識していることがわかる。必要な技術的準備なしで、新しい収入源を見つけるためにすぐにそれらを立ち上げたいのは、商業主義のシステムだ。

 

(「ambito.com」 2007年7月3日)

 

 

 

 

 

 

≪ 2004年のインタビューより ≫

 

 

Q、才能を失う危険にさらされたことは?

A、1、2回だが、とても大変な体験をした。

私の母も言っていたが、私は子どもの頃からタフだった。多くのことを経験したが、しかし自分にとって必要な人を知る知性は持っていた。鉢植えの小さな木のそばに棒を立てて支えてやるようなものだ。そういう棒を見つけることは、しばしば才能を伸ばす秘訣でもある。成功は、こうした「棒」によって周りに形成される「生け垣」の品質にも依存する。この「生け垣」は、保護するために十分な強さをもつだけでなく、太陽と空気を入れるのに十分なほど開いている必要がある。これがあるなら、先に進んでいける。

私は最近になって、40代で、これを見つけることができた。私がキャリアを始めたとき、このようではなかった。私が会社によって売り出された方法を覚えているだろうか? 「セックスシンボル」、「エロティックなテナー」、「4番目のテナー」、「21世紀のテナー」……このような安っぽいスローガンやその他の同様のばかげた言葉によって、私は大きな危険にさらされていた。

突然ある日、私は目を覚まし、それらすべての関係を断ち切ることにした。そして私は、他人の運転免許証ではなく、自分の運転免許証で自分の人生を運転するために、自分の会社を設立した。しかし、突然、すべてから切り離されてしまったため、私は悪夢の3年間を生き抜いた…。

 

Q、最終的に何が起こった?

A、過去2年間(2004年時点)で、すべてが良くなり始めた。しかし1999年から2002年までの間、誰もが、もし私が1人で続けようとするなら、切り捨てられるということを、あらゆる方法で私に明らかにしようとした。その結果、もう雑誌の表紙に登場することはなくなり、インタビューは1つか2つしかなく、批評家は私の出演した公演を意図的に叩き、私は「堕ちたスター」などと呼ばれていた。

風と逆境と戦って3年間生きたが、ようやく戻ってきた。雑誌も私のことを書き、表紙にもなった。私が立ち上げたレーベルはすでに3つのプロダクションを制作し、かなりの売り上げを上げた。流通ネットワークや広告のないレーベルとしては素晴らしい成果だ。……

(その他、歌手として、またオーケストラの指揮者、音楽監督、音楽祭やフェスティバルへの参加など、多くのオファーを受けていることを説明)

 

Q、これらすべての障害に直面しなければならなかったとき、どのように感じた?

A、彼らが何度も私の足を切ろうとしてきたにもかかわらず、私は地面に深く根ざしているように感じている。

そしてもっといえば、私は決して妥協しない。決して、自分のことを書いてもらうためにジャーナリストや新聞を買収したり、雇ってもらうためにわいろを握らせたりしない。私は妻と家族と一緒にいて満足している。私は普通の人間だ。

私のようなケースでは、嘘をつくりだす必要があるが、格言が ”lies have short feet’(「嘘は脚が短い」=「嘘はすぐばれる」)と言うように、遅かれ早かれ明らかにされるだろう。それで彼らは、私が「傲慢なやつ」だと言い始めた。

しかし私は傲慢な人間ではない。私はたくさん苦しみ、苦労し、抵抗し、嵐の中を山の頂上にたどり着くことができた人間だ。そして私はそのすべてを誇りに思っている。もし、25年間の懸命な努力の末に、人生で成し遂げたすべてのことを誇りに思うことが傲慢であるというのなら、私は傲慢だ。しかしそれは正しくないし公平でもないと思う。

 

(「TO VIMA」 2004年7月)

 

 

 


 

 

今年2020年の12月5日の誕生日で58歳となるクーラ。90年代の後半に大ブレークした後、自らの意志で、エージェントから独立し、大手レコードレーベルと契約もしないで、自分のプロダクションをつくり、自前のレーベルを立ち上げで、独立独歩で歩み続けてきました。そのために様々な困難や攻撃にさらされた経験をこのインタビューでは、かなりリアルに語っています。クーラは、巨大な音楽産業、商業主義が支配する業界のなかで、自分らしく生きることを求め、自分の音楽の道を貫いて生き残ってきた、あまり他に例を見ないユニークな存在であると思います。

もちろんクーラはすでに、ここで語られた過去を乗り越えてその後の20年近く、オペラや歌のみならず、指揮、作曲、演出・舞台デザインなど、多面的な活動を広げ、成熟したアーティストとして、独自の道を歩んできました。あえてこうした過去のエピソードを繰り返し紹介するのは、現在でも、商業主義、様々なプレッシャーのもと、多くの若い才能が燃え尽き、本来、長期間にわたるアーティストへの成長の過程を歩みとおすことができなくなるケースが少なくないこと、それに対してクーラ自身も大きな危惧と懸念をもっていて、様々な場面で警告しているからです。

今回のインタビューでは、「美しい歌唱」についてのクーラの独特の考え方も紹介されていました。美しく歌うことには全く興味がない、退屈だと言い切るクーラ。これについては、賛否両論があることと思いますが、オペラや音楽のドラマに常に焦点をあて、キャラクターやドラマのリアルな真実を描き出すことに執念をもやすクーラらしい言い方だとも思いました。

 

 

 

 

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2020年 ホセ・クーラ、”家に居よう”ー Stay Home 、自宅での過ごし方を語る

2020-04-19 | 芸術・人生・社会について②

 

 

ホセ・クーラはスペインの首都マドリード在住です。マドリードでは、3月半ばから外出制限が課されているため、クーラも自宅で過ごすことを余儀なくされています。最近のニュースでは、深刻だったスペインの感染拡大も山場を超えつつあるのでしょうか、通勤などへの規制が少しずつ緩和され始めているようです。まだまだ安心はできませんが、厳しい制限に耐えて事態の収束の希望も見え始めたことは、本当に良かったと思います。

そういう最中に、ハンガリーのラジオ局から、自宅で電話インタビューを受けたようです。その内容がネットの記事で紹介されていました。例によって不十分な訳ですが、ざっくりとご紹介したいと思います。

またクーラがFBに掲載した写真や、音楽などもリンクを紹介しています。トップの写真はそのうちの1枚、手作りマスクを披露した写真です。布地はスカーフでしょうか?花柄が可愛いです。

 

 

 


 

 

≪私たちも家にいる必要があるーーホセ・クーラ ラジオで語る≫

 

 

アルゼンチンのオペラ歌手、作曲家、指揮者、俳優であるホセ・クーラは、月曜日の朝にラジオ番組「おはようハンガリー!」 に出演した。番組で、彼は、コロナウイルスによって引き起こされた状況のなか、日々、自宅でどのように過ごしているか語った。

ホセ・クーラは、防疫のための自宅待機で、彼自身の今後のプランを計画および実践している。緊急事態のため彼は自宅にこもっているが、小さな庭があるので、幸い、散歩や深呼吸のために外に出ることができるという。

 

「私たちは家にいなければならない。外出できない。ただドアを開けてそこから出ることもできない。それはもちろん、一種の投獄を連想させるものだ。しかし、今回はこの時間を、作曲家として、たくさんの音楽を書いたり、新しいオーケストレーションに取り組んだりして活用することができて、ある意味、幸運であるとも言える。私はちょうど初めてのギター協奏曲を完成させたところだ。これは長年、やりたかったことだ」 彼は言った。

 

彼は作曲活動を、新型ウイルス禍の状況に関連付けてはいない。もしそうすれば、非常に悲観的な音楽が生まれるだろう、と彼は言う。彼は、自分たち自身の心の底からの、より美しく魅力的な音楽を書くべきであり、すでに悪い状況にあるなかで、さらに悲観的なものを置くことは避けるべきだと考えている。

「非常に多くの異なる積み重なった要素があるため、この状況は本当に非常に特別だ。ウイルス感染の広がり自体、また多くの人が亡くなっていること自体が災害だ。そしてそれだけではなく、この状況につながった原因と、どのようして我々は、将来が再び起こることを回避できるかが大事だ。それが、この感染流行が終わったときに私たちが向き合わなければならない最も重要な問題だと思う。なぜ起きたか、その理由を見つけること、それが再び起こらないように」と語った。

 

クーラは1月に、ブダペストのハンガリー放送交響楽団と新作のオペラを演奏した。4月には、ミューパでレオンカヴァッロの2幕のオペラ「道化師」を歌う予定だった(感染予防のため公演キャンセル)。彼はハンガリー放送芸術協会のゲストアーティストでもある。

 

彼に、オンラインでの出演計画や、自宅のリビングルームからのコンサートのやるのかと聞いてみたが、彼はまだそれについては何も考えていない。たぶんイエス、それともノー?

「自宅のリビングルームから演奏するかどうか、わからない。最近インターネットにはたくさんのものがあり、それらはかなり複雑で混乱している。すでに私もインターネットを使用して面白いことを試している。パンを焼いている様子を撮影してみたが、それはリビングルームで歌うよりも聴衆にとっては楽しいのでは?」と彼は付け加えた。

 

(「hirado.hu」)

 

 


 

 

●自宅で過ごす人々に、アルゼンチン歌曲を

 

自宅のリビングから放送する予定はまだないようですが、ハンガリーで2013年にアルゼンチン音楽のリサイタルを行った際の動画を5曲公開してくれました。

ピアノ伴奏で美しく哀愁ただようアルゼンチンの歌曲です。クーラ作曲の作品もあります。

 

 

 

●クーラのFBより

 

トップの画像と同じものです。

”もうマドリードにマスクはない。解決策は2つーー食品の買物をやめるか、自作マスクを着けるか。しかし家に白い布がない場合は?まあ、あまり上品とはいえないが、とてもクール! でしょ?”

 

 

”焼きたてのパン、明日の朝食用に準備ができた”

 

 

●インスタより

 

 

 
 
 
 
 
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Not shaving until the end of this nightmare... Getting ready for Santa Klaus! 🤣

José Cura(@josecuragram)がシェアした投稿 - <time style="font-family: Arial,sans-serif; font-size: 14px; line-height: 17px;" datetime="2020-04-04T10:53:01+00:00">2020年 4月月4日午前3時53分PDT</time>

”この悪夢の終わりまで髭を剃らない...…サンタクロースの準備中!”

 

 


 

ここで紹介した以外にも、クーラは、自宅で過ごさざるをえない人々を励ますために、昨年のオマーン王立歌劇場マスカットで指揮したベートーヴェン第9交響曲の録画や、クーラ作曲のオラトリオの抜粋など、貴重な映像、録画を公開しています。

また近いうちにクーラ脚本・作曲のオペラ「モンテズマと赤毛の司祭」の動画も公開することを予定しているそうです。

本来ならば、レーベルからリリースすれば収入にもなる貴重な作品です。大手のエージェントやレコードレーベルに所属せず、自営でひとりの独立したアーティストとして独自の活動スタイルをつらぬいてきました。自分の費用をかけて録画してきたはずのものも、これまで簡単にリリースしようとせず、今みんなが苦しんでいる時に、機会が来たといって無料で公開するクーラ。商業主義の商品にはならない、この信念をいつも貫く人です。経済的利益より、芸術的、人間的、倫理的価値に重きをおく人なのだとあらためて思います。

そしてこの新型ウイルスの世界的流行という困難を乗り越え、クーラが強調したように、私たちの社会、世界が、パンデミックで明らかになった問題点、再び繰り返さないための課題を、どう分析し、見通し、改革することができるか、本当に大切なことだと思います。未来にむけての巨大な挑戦です。

 

 

 

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(インタビュー)2020年 ホセ・クーラ 「移民に関する希望と懸念を共有する」--新作オペラについて、人種差別・移民問題について

2020-02-13 | 芸術・人生・社会について②

 

 

ホセ・クーラが脚本・作曲した新作オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」は、2020年1月29日、ハンガリーのリスト音楽院大ホールで、クーラ指揮による世界初演が実現、大成功となりました。

→ 新作オペラについて記事まとめ

今回は、この新作オペラ初演にむけて、クーラがハンガリーで受けたインタビューから、興味深い内容について抜粋して紹介したいと思います。

この間、欧州諸国、ハンガリーでは、移民問題が政治的にも社会的にも大きな焦点となってきました。そうしたなかで、これまでもクーラは、インタビューなどの機会で、自身のルーツ、体験を語り、移民の尊厳と権利を守ることを訴えてきました。今回も、「モンテズマ」をめぐる話題とともに、こうした社会的な課題についても語っています。

 

 


 

 

 

 

 

 

私は移民に関する希望と懸念を共有する

 

作曲家、指揮者、テノールであるホセ・クーラの最初のオペラが、ブダペストのリスト・フェレンツ音楽アカデミーで上演される(2020年1月29日に終了)。

「モンテズマと赤毛の司祭 オペラブッファ マ・ノン・トロッポ(しかし、はなはだしくなく)」ーーそのタイトルが示すように、視聴者を笑わせるだけでなく、平等な機会のためのたたかいなどの深刻な問題も提起する。アルゼンチン生まれのアーティスト自身、ヨーロッパ市民になるための困難な道を歩んできた。

 

 

Q、なぜこの作品の世界初演の会場としてハンガリーを選んだ?

A(クーラ)、私は現在、ハンガリー放送芸術協会と一緒に働いている(2019-2020年シーズンから、クーラは3年間の常設ゲストアーティスト)。だから作品の初演をしようという時、最初に彼らにそれについてどう思うかを問いかけた。私のアイデアはすぐに賛同を得たので、一緒に「モンテスマ」を上演した。

 

Q、ハンガリー放送交響楽団と合唱団のミュージシャンとの協力は何ですか?

A、ハンガリー人との仕事は非常に興味深い。「危険」と「炎」という言葉で説明できる。彼らは非常に感情の起伏が激く、私はそれが本当に好きだ。オーケストラとは別に、彼らは教育など他の仕事も持っているので、非常に忙しく、時にはリハーサルに疲れてしまうので、それを頭の片隅においておかなければならない。

これは私たちによる2回目の仕事であり、彼らをもっと知るようになるーー私はすでに、誰が結婚し、誰が子どもを持ち、誰が問題を抱えているのか・・知っている。私は彼らに対して、マエストロとしてではなく、友人として向き合う。私はこのことがコミュニティにおいて不可欠だと考える。

 

Q、ショーをより生き生きとさせるために、キャラクターは母国語を話す。あなたはキャラクターの言葉を話す?

A、多かれ少なかれ、イエス。私の母国語はスペイン語で、私は英語も話す。 私はイタリア・ヴェローナに4年間住んでいて、ナポリではなかったが、ヴェネツィア方言を学んだ。もちろん、公演中には字幕があるので、観客は登場人物のすべての言葉を理解することができる。

 

Q、あなたは、30年前に初めて読んだアレホ・カルペンティエールの小説「バロック協奏曲」にもとづいて「モンテズマ」を書いたが、なぜ作品が上演されるのにそんなに長く?

A、当時も、この本が素晴らしい文学作品であると考え、脚本化の可能性を見出していたが、私はまだ27歳で、どう始めたらよいのかわからなかった。それからずっと後になって、過去数十年の経験のおかげで、すべてが明らかになった。ストーリーの重要なキャラクターは作曲家なので、映画ではなくオペラに変えるのが論理的だった。

 

Q、コメディのジャンルであるにもかかわらず、モンテスマは悲劇から始まる。主人公の従者であるフランシスキーリョは伝染病で亡くなる。後の場面では、ヴィヴァルディ、ヘンデル、スカルラッティが墓地で語り合い、そこでワーグナーに別れを告げる。死とコミックをどのように組み合わせる?

A、人はユーモアで死ぬことができる(笑)。死をただ悲しい出来事と見なすなら、コミックオペラの中に探すべきものは何もない。しかし私はそれを、発展、変容と考えている。ロマンチックな要素の代わりに。

フランシスキーリョの死は、幼い子どものメタモルフォーゼ(転身)の象徴だ。この幕では、若い男の子で始まり、彼より年上の男フィロメーノで終わっる。そして従者は彼の魂の中で生まれ変わる。後に、フィロメーノは物語の道徳的な脈絡を変えるため、彼が登場する前に、フランチェスキーリョは死ななければならなかった。

 

Q、6番目のシーンでは、男爵が、ヴィヴァルディに対し、歴史的に信頼できないとして彼のオペラに疑問を投げかける。しかし作曲家は、事実を述べることよりも、詩的な幻想の優位性を宣言する。あなたは、芸術において、どちらをより重要だと思う?

A、私は「黄金の中庸」にいると信じている。私たちは、現実をゆがめることなく、ファンタジーの空間を確保しなければならない。

個人的に、舞台ではリアリズムを愛するが、このオペラでは状況が異なっていた。原作の小説が、ラテンアメリカ文学に典型的な魔術的リアリズムのジャンルで書かれていたためだ。原作者のカルペンティエールは、女性が多くの歌を歌うなど、バロック時代の流行をパロディ化して、ヴィヴァルディが現代に何を書くかというアイデアを思い付いた。

 

Q、脚本に他の資料を使用した?

A、カルペンティエールは、ボリュームの制限のため、モンテズマが誰であるかについて詳しく説明していない。そのため、ベルナルディアスデル・カスティリョやフランシスコ会の修道士アギラールなど、アステカの支配者の歴史的な文献や記録を読んだが、これらはひとつの見解であり、真実全体を明らかにするものではない。

私は最も劇的なアプローチをストーリーに取り入れた。ドラマを書くときは、ステージ上で異なるキャラクターが必要だ。論争のあるテキストの代わりに、私は絵と想像力に頼って登場人物のキャラクターを作成した。写真を見て、私は彼らが誰であるかを理解しようとした。これに基づいて、私はふっくらしたヘンデルはやさしく愛らしい人柄だと想像したが、一方で、ヴィヴァルディは、エレガントで洗練された外観が魅力的な性格を隠していると思った。

 

Q、好きなキャラクターは?

A、フランシスキーリョの死後、彼に代わって主人公の従者となったフィロメーノは、ピノキオの小さなカウンセラーのように(*映画ピノキオに登場するコオロギのジミニー・クリケットのことか。ピノキオに忠告、助け、励まし、ストーリーテラー役も)、すべてのことを見続け、コメントし続ける。 音楽的にではないが、しかし道徳的な観点から、彼は最も重要なキャラクターであり、物語の展開方法は彼の手にかかっている。

フィロメーノは有色人種なので、オペラでは人権の問題が何度も提起されている。これが、この作品のタイトルに「オペラブッファ マ・ノン・トロッポ(喜劇、しかし、それほどではない)」とつけた理由だ。

 

Q、物語は、主人公の男爵が、メキシコのへの帰国と、フランスで幸運を得ようとしているフィロメーノの解放を決断して終わる。彼は黒人の有名なトランペット奏者としてそこで活躍できる?

A、従者は、「ニグロ」ではなく、「ムッシュ・フィロメーノ」と呼ばれることを期待してパリに行く。彼の願いを聞いた男爵は「いつかはそうなる」と言い、それに対してフィロメーノは「あなたがそう言うなら...」と答える。これは質問を未解決のまま残す。それに答えるのは私ではなく、聴衆が自分の結論を出さなければならない。

著者が結末を説明してしまうのは良い考えではない。それでは、視聴者は家に帰り、コーヒーを飲み、見たものを忘れてしまうだけ。自分自身で判断しなければならないと、それはより刺激的になる。この場合、それについて長く考え、みんながその舞台をどのように解釈したかについて会話を始める。

 

Q、人権問題をどう見ている?

A、人種差別は今日でも存在しており、移民の問題はハンガリーとヨーロッパ全体で多くの議論を引き起こしている。政治家たちは、社会を分断するために、すべてを白か黒かに塗り分けようとするが、これははるかに複雑な問題だ。

私はそれについて何も言うことはないが、私はコインの両面を知っているーー私の祖父母は、イタリア、スペイン、レバノンからの移民だった。彼らは前世紀の初めにアルゼンチンに移住し、私はそこで生まれた。30年前、私はヨーロッパに来た。大陸間の移住は自然なサイクルだ。私たちはある地点から別の地点へと出発し、それゆえ100年後に自分たちがどこにいるのかを言うことはできない。

私は、より良い生活をめざして道を歩む人々の状況に同情するとともに、自分の国にやって来る人々の集団を恐れているヨーロッパ人の懸念も理解している。移民の無制限の入国は、誰にも利益をもたらさない。彼らに将来と仕事を提供し、希望と尊厳を与える必要がある。路上で変化を懇願しなければならないのは尊厳を欠き、移民に対する公然の攻撃だ。私が容認できない唯一のことは、教育と思いやりの欠如だ。暴力では、どちらの側も目的を達成できない。

 

Q、ヨーロッパに来た時のことは?

A、1991年、私はたびたび、アフリカ人の一団と一緒に、警察で3か月間の居住許可を取得するのを待っていた。その後も3か月ごとに、新しいものを申請するために戻らなければならなかった。ヨーロッパのパスポートを取得することを含め、ここで私の人生の基礎を築くのに15年以上かかった。

これらの経験は、私のキャリアにも影響を与えた。シェンゲン協定が成立する前、イギリスに旅行したかったが、アルゼンチンのパスポートに問題があった。(当時住んでいた)イタリアに戻りたいと思ったとき、国境では、警察からかなり無礼な扱いを受けた。移民たちが食べるお金を持たず、仕事を見つけることができないとき、それがどのようなものかを私は知っている。ある時、すべてのアルゼンチン人を泥棒と思い込んでいた人によって、道端に置いてきぼりにされたことを私は忘れることができない。

私の人生の過去57年間、ドラマティックで美しい瞬間をたくさん経験してきた。そしてこれらの経験が、今の私をつくった。

 

Q、南米の文化はあなたの人生にとってどれほど重要?

A、良いアーティストになりたいのなら、すべての文化が重要だ。もちろん、すべてを自分自身のものにすることは不可能だが、少なくとも私たちを取り巻く文化、またはキャラクターによって表される文化を知るよう努めなければならない。私はそうしたバックグラウンドのため、スペイン語とイタリア語だけでなく、アラビア語、レバノン語も理解できる。

 

Q,、ハンガリー文化との関係は?

A、これまで20年間にわたり、ハンガリーを訪れてきたが、ここでの滞在時間は短く、観光する機会がなかった。今は、リスト音楽院とハンガリー放送芸術協会の間を行き来しているので、国立博物館はすぐ近くにあるが、私たちは1日10時間働いているので、終わる頃には閉まっている。しかし、数か月後には、質問に対して別の答えを出すことができるかもしれない。

ハンガリー放送芸術協会のゲストアーティストとして、初めて私はハンガリーと密接な関係を築いているので、ハンガリーの文化とライフスタイルを徐々に理解してきた。そのためもうゲストとは見なされなくなった。

(「kepmas.hu」)

 

 


 

 

常に率直で、社会的問題へのコミットメントもまたアーティストとしての責任だと考えるクーラ。つねに社会的正義とヒューマニズムの立場にたった発言をしています。

とりわけ移民問題、人種差別の問題については、現代の社会においても大きな課題であり、解決が迫られている問題です。クーラ自身の出自と移住の経験を語っていますが、これまでも、渡欧後の仕事を探す大変さ、家を借りられずガレージでの暮らし、生活のために皿洗いや路上で歌うなど、苦労した話は何度か読んだことがありましたが、3か月ごとに更新必要な滞在許可、国境での警察によるひどい扱い、泥棒扱いなどの、さらに辛い体験が数多くあったことは、初めて知ることでした。こうした体験が自分を作ったと語っていますが、困難な経験と苦労を経て、そして努力によって、アーティストとしての国際的な地位を得てからも、このようにヒューマニズムの立場で発言し続けている姿勢は、クーラの人柄と人間性をよく表しているように感じました。

 

 

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2013年 ホセ・クーラ キャリアを拓くまでの苦闘、決断と挑戦、生き方を語る

2019-12-05 | 芸術・人生・社会について②

 

  

2019年12月5日は、ホセ・クーラの57歳の誕生日です。今回は、誕生日に関連した話題ということで、クーラの生い立ち、ミュージシャンとしての半生を語ったインタビューにもとづいて構成された記事から、抜粋して紹介したいと思います。

少年時代から作曲家、指揮者を志望し、大学でも作曲と指揮を専攻して、音楽家としてのキャリアをめざしていたクーラですが、その前には多くの困難があり、夢の実現への道は、かなりの遠回りをしなければなりませんでした。

その思いとたどった道のり、苦闘ぶりが描かれています。この記事は少し前の2013年のものですが、とても詳細で読み応えのある内容でした。興味のある方は、ぜひ、原文(スペイン語)のページをご覧ください。

この記事は、クーラが母国アルゼンチンの歌劇場テアトロコロンで、ヴェルディのオテロを演出・舞台デザイン・主演した際のものです。この時の舞台は、クーラ自身が編集作業も行ったということですが、残念ながら未だに正規の録画・DVDとしてリリースされていません。遅くない時期にリリースされることを願っています。

 

 


 

 

≪クーラ VS クーラ≫

彼は歌手であり指揮者、クラシックでかつ反抗的、 アーティスト、そしてビジネスマン。 世界を魅了するアルゼンチンのテノールの親密な肖像画

 

●名声の前の物語

ホセが高校を卒業した時は、80年代の始まりだった。そして彼は、自分はどこへ行くべきか、考えていた。音楽の才能があり、近所の先生との最初のレッスン、そしてビートルズの曲の演奏から始めたギターがあった。しかしまた、スポーツもあった。ラグビー、ボディービル、そしてカンフーの黒帯も。さらに機械工学といくつかの建設設計まで。どこへ行くか、それが彼にとって、その時点の重大な問題だった。

「(クーラ) 私の世代はマルビナス戦争(フォークランド戦争とも呼ばれるアルゼンチンとイギリスとの戦争。1982年4月~6月)を経験した。私は幸いにして出兵の抽選に当たらず、直接の影響を受けることはなかった。しかし私は、「093」の番号を決して忘れない。

運命が突然、私たちの生活を変える可能性があるということに気づかされた。兵舎に召喚された同級生の顔に、自分たち自身が映っているように感じたのを覚えている。私たち全員が戦闘に行く可能性があった。戦争が(短期間で)終わったために、私たちは救われた。」


 * * * 


1983年、民主主義が戻る。音楽の道への決断。故郷の街で音楽を勉強(ロサリオ国立大学で指揮と作曲を専攻)した後、彼はテアトロコロン付属高等芸術学院(ISA)に入るため、最初のオーディションを受けた。ロサリオ音楽院の所長であるカルロス・ガントゥス教授は、彼にその声でオペラの歌唱法を勉強するように勧めた。教授の助けも受け、1984年に奨学金を得てISAに入った。それと並行してテアトロコロンの合唱団で歌い、生計を立てた。

困難が始まった。彼は回想する。

「インフレが非常に深刻で、人々は職を失ったまま取り残され、オーストラやコーラスは閉鎖された。キャリアを発展させる可能性はますます少なくなった。」

合唱団は組織を維持することができず、彼は主要な収入を失った。実りのないオーディションと就職活動は、彼の不安と将来への見通しのなさを増大させた。音楽でのポジション、芸術的なキャリアを拓くことは、その時点では、ますます遠のいたように思われた。その時すでに、現在まで彼の妻であるシルヴィアと結婚していた。

「ボディビルダーだったこと、スポーツをしてきたことで、私はその絶望的な状況を生きのびることができた。私はジムのインストラクターになった。何かが私をその場所に連れて行った。それが人生。」

そこでの彼の仲間の1人は、テアトロコロンのテノール歌手の息子だった。

 

 * * * 

 

時が過ぎた。 その間、彼の3人の子どものうちの最初の子どもであるホセ・ベンが生まれ、差し迫った状況は日々、悪化していた。また、音楽の才能を実り多いものにするという幻想もまだあった。彼はジムを去った。まだ歌唱のテクニックとレパートリーをホラシオ・アマウリとともに学んでいた。しかし28歳、彼はまだ、その国を生きていく道を見つけることができずにいた。

彼が思い切った旅立ちを考えたのは、その時だった ーー ヨーロッパへ。スカラ座やヴェローナ・アレーナなどのプロの合唱団に入れば、給料を稼げて、音楽の業界に身をおくことができる。勇気だけあれば、お金はなくても旧大陸に出発できる。 

チケット購入代といくらかのお金をつくるために、彼は自分の家を売りに出した。そのアパートの売却価格は、現在、彼が一晩のショーで得る出演料よりも少なかった。決断は突然だった。働いていたジムで友人に別れを告げた時、テノール歌手の息子である同僚は父親に電話をかけ、イタリアの先生の電話番号を渡してくれた。彼が友人との連絡が必要になった場合に備えて、一枚の紙に書き留めた番号。

 

 ・生まれたばかりの長男ベンをあやしながら作曲中のクーラ

 

 

●祖父の奇跡

「アルゼンチンのパスポートを持ち、イタリア国民になる可能性がないまま、シルヴィアと2歳の息子とともに、私たちは、私の先祖の故郷であるサント・ステファノ・ベルボ、ピエモンテの山の中の町に到着した。1991年だった。私たちは修道院で、45日間、住まわせてもらった。修道女たちは、無償でロサリオの会衆の経理を続けていた私の父への見返りとして、私たちをもてなしてくれた。」

彼は語る。彼の妻は家事に協力し、修道院で生産しているモスカートワインの瓶詰めやラベル付けをした。半年以上の間、彼は仕事を得ることができないまま、ヨーロッパに住んでいた。アパートの代金でつくった貯金を消費しながら、精力的に声を聴いてもらう機会を求め、オーディションに申し込み、電話をかけ、手紙を書き、経歴を提示し、演奏し、成功につながる可能性がある気まぐれなドアをノックし続けた。しかしチャンスはなかった。

「それから私たちは、イタリアを旅行するために買ったフィアット600スタイルの中古ビアンキを運転して、ひどい大洪水の真っ只中にヴェローナに到着した。これ以上、悪くなりようがない。合唱団の秘書は私に、イタリアの労働許可証がなければオーディションを受けることは不可能であり、私がソリストとして雇われた場合にのみ、アレーナで歌うことができると説明した。私は尻尾を巻いて降参した。しかし子どもを養う責任を考えると、感じるのは絶望しかなかった。お金はもうなかった。貯蓄を食べつくし、私はポケットに200ユーロだけ持っていた。半年間を費やし、何も手に入れることができなかった。私はシルビアに言った。”あと数日で帰りのチケットが期限切れになる。奇跡が起こらないなら、私はすべてを忘れなければならない”。」

 テアトロコロンのテノール歌手(友人の父)に教えられた電話番号を書いたメモは、絶望の底にいて、まだ使われていなかった。彼がたたいたドアのうち、少なくとも1つから、誰かが顔を出してくれた。マエストロ・バンデラは、彼をミラノに来るように言った。そしてホセは、小さいビアンキで高速道路上のトラックの間にはさまれながら、再び大洪水のなか、風の中の葉っぱのようにミラノに向かった。

私はミラノに初めて行ったので道に迷い、30分遅れて到着した。」

彼がバンデラの前に姿をあらわした時、先生は遅れのためにほとんど時間がなくなっていたが、ホセは3分間のチャンスを懇願した。

「認めよう」と彼がついに言った、「君は何を歌いたい?」

「アンドレア・シェニエの『ある日、青空を眺めて』を」とホセ

「それは偉大なテノールのためのものだ。難しすぎる」

「見てほしい。私に何らかの才能があるかどうか、あなたに示すのにはたった2分しかかからない。それは完璧ではないだろうが、あなたが判断するのに役立つはずだ」

生き残った。ピアノで伴奏していたバンデラ氏は、手を止め、そのような声がどこから来たのかと尋ねた。彼は自分の話と、帰国のチケットがあと数日で期限切れになるという事実を語った。

「どこにも行ってはならない!」、バンデラ氏は急いで、エージェントに電話した。遅かれ早かれ何かがクーラに起こるだろうと確信し、イタリアで1か月暮らすための資金を提供しながら、ホセに忍耐するよう求めた。

 

 * * * 

 

1991年6月、いくつかのオーディションの後、彼はジェノヴァで呼び出された。

「イタリアのすべてのテノールがその同じ順番を際限なく待っていると感じた。みんな良い声だった。私には才能と声があったが、歌うことに関して仕事の蓄積は多くなかった。」

 彼はそれらの困難な時代を思い出す、と告白した。呼ばれて歌い始めると、最初の音を歌ったところで、誰かが彼を遮るのを聞いた。

「失礼だが、プレートであなたの名前を読んだが、アルゼンチンから?姓はクーラ・・ロサリオから来たのではないだろうね?」

「はい、クーラです、先生。ロサリオ出身で、祖父はイタリア人でした」とホセ。

「私はロサリオをよく知っている。そしてあなたの祖父をとてもよく知っている。ロサリオは私が子どもの頃に住んでいたところだ。当時、イタリアでは大きな危機があった。私の父は、家族と一緒にアルゼンチンに行かなければならなかった。父は貧しく、ロサリオに着いて、父に最初に仕事を与えて、惨めさから抜け出させてくれたアルゼンチン人、それがあなたの祖父だった。私は決して彼のことを忘れない。すでに契約を結んでいる舞台を降りてほしい」

「これらは奇跡的な出来事の1つ・・人が何か良いことをする時、人生が自分自身に、または息子や孫に見返りを与えてくれるとは決してわからない。それが私のヨーロッパでの最初の契約だった。それが私のスタートだった。新しくオープンしたジェノバ劇場での野外コンサート。1991年7月25日、祖父のおかげで、私はオペラ歌手としてのキャリアを始めた。」

 

  * * * 

 

 

 

それはほんの始まりにすぎなかった。それから大爆発が来た。彼のキャリアが爆発する前の3年間、オーディション、小さな役、ボーカルテクニック向上のクラス、そして毎日の生計維持のための闘争があった。

決して屈することのない彼の性格に火をつけたステップ。そして、反乱はどこにあったのだろうか?
彼の歌の独創性、流れに逆らう外向的な意志、ある種の不服従、そして論争の的になる作品の解釈方法、それらによって、現代のオペラのための斬新な強度で音楽とパフォーマンスを溶解するメッセージを観客に届ける。

「私は無意識の革命を起こしたが、世界とたたかうことを求めたのではなく、音楽の道に自分自身を見つけるためだった。当時のその反乱は、現在の私の芸術的信条だ。」

 

 

●人生を自分自身で管理したい

1993年に最初の主役を得て、そしてその翌年、彼はドミンゴのオペラリアのコンテストにおけるトロフィーによって、彼はメディアの表紙に躍り出た。

すべてが加速した。1995年、ロンドン(コベントガーデン)とパリ(バスティーユ)でデビュー。それに続く、ロンドンのサムソンと、トリノでのクラウディオ・アバドとの大成功のオテロ、これらは彼を世界最高の地位に押しあげた2つの象徴的な役柄だ。その後、ヴェローナのアリーナは、カルメンでホセ・カレーラスに代えて彼を招聘、イタリアの円形劇場で栄光のデビューを果たした。

「1991年に、私に、ソリストとして雇われた場合にのみ歌えると言った方に挨拶したかったが、もはや彼は...」

彼は皮肉っぽく語る。

1999年、MET(ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場)のシーズンオープニング公演での劇場デビューを果たし、METの歴史の中で2人目のテノール(1902年にエンリコ・カルーソー以来)となった。そして2000年には、世界中で放送されたパリの椿姫に出演した。

その同じ年、ピークに達しようというその時に、マネージメントやレコードレーベルのシステムに挑戦し、古典的なビジネスのルールを破ることを決意した。彼は自分の人生を自分で管理したかったが、それがほとんど許されなかったからだ。

 「その当時、私は、自分のイメージと立場を使って新しい方法を試すことを考えていた。自分自身の会社を設立し、自分のキャリアを管理したい。私は、人目を惹く写真を撮るために何年もかけて勉強してきたのではない。私は挑戦を必要としていた。そしてそれは間違っていなかった。今日、私は自分自身を成熟したアーティストだと考えている。しかしそのことで、私には何年間も、誤った宣伝や攻撃がもたらされた。」

 

(動画)1994年オペラリアの決勝で、プッチーニの「西部の娘」の「やがて来る自由の日」を歌うクーラ

 

 

●イメージの価値

90年代半ば、彼のレーベルは、彼を「ラテン・ラバー」="ラテン系の色男"に変えた。レコードやコンサートのセールスを爆発させるオペラ界の一種のアイドル、ロックスターのように彼を崇拝する女性客のためにサインをする。

「彼らは私をセックス・シンボルとして売った。それはゲームの一部だったが、私は疲れた。”クーラはいい男だ…、だが数年後に彼は落ちる” と彼らは言った。それは ”15分間の名声”。束の間の些細な章に過ぎないその1頭の馬に、すべてを賭けることはできない。私は、自分の道を行くために、イメージを犠牲にする代償を払ったが、私は時間のフィルターを通過し、ここにいる。この25年のキャリアは、表に見えたものの背後に何か他のものがあったことを示している。」 

なぜ彼は、誰もが夢見ていることを否定する贅沢を自分に許したのだろうか。それは瞬間的なディーヴォの気まぐれに従ったからか?
いや、一言で言って、それは正反対だった。彼は独立のために、解放のために、そしてアーティストとして成長し、外見を超えた価値を見つけるためにそれをした。さらに対照的に、彼は断言する。オペラ・ディーヴォはもはや存在しないこと、個性とカリスマ性を持つ歌手だけがいることを。そして過去の時代の記憶を待ち望んでいるアマチュアの聴衆は、おそらく誰かが現れて、別の人生への憧れを表す物語の魅力を蘇らせてくれると想像しているのだ。

「それがこのジャンルの民間伝承なのだろうか。あらゆる芸術的な才能を備えたマリア・カラスは、大きな悲劇で人生を終えた。人々はそれを純粋な魅力だと思っている... 。そういうイメージに対して、しかしほとんどの場合、私たちはホテルの部屋に1人で行き、ルームサービスで何かを食べる。孤独は克服されない…」

 

しかし、熱心に、そして情熱的に仕事をする彼の能力によって、それらの職業的部分を、時間を活用する能力に変えることを可能にした。その一方で、避けているのは、陥りかねないルーティンであり、同じ場所で同じ仕事で歌う安定した仕事による退屈と繰り返し。

「私が持っている強さ、信念、落ち着きのなさ、研究と経験に加えて、多くの人々は私の態度が彼らの小さな牧場を揺さぶると感じるので、彼らは怖がる。一部の人にとっては、ルーティンはセキュリティを意味する。私にとってそれは死の始まりだ。」 

彼は、自分が到着した場所にたどり着くとは想像もしなかったことを認めているが、彼は音楽を信じ、そして信念として自身の反抗を信じていた。

「時には、振り返って思い出を呼び起こす。25年前の自分自身を思うと、誇りと郷愁が混ざり合って、いつここに来たのかと、不思議になることがある。それ以来、私は大きく変わった。人生はもはや誰かが私に教えるものではなく、私自身が語り始めることができるものだ。」

しかし彼の存在の最も深い部分で、彼は、確かに、今日まで彼を活気づけてきた不屈の精神が、あらゆる困難に抗して、彼が望んだどんな頂点にも彼を導こうとしていることを知っていた。そして彼は、オペラの世界で、無謀にも、サムソンのように盲目で誰にも止められない力で、習慣と無関心のひびの入った壁を打ち倒した。

 ・・・・

(「LA NACION」)


 

 



長い記事でしたが、ここまで詳細に、クーラの渡欧前後のことを書いた記事はあまりなかったと思います。

音楽やスポーツなどの才能に恵まれ、頑強な身体と精神、美しい容姿まで備えたクーラですが、決して苦労なく脚光を浴びたスターではありませんでした。母国の政治的経済的混乱の中での苦難、渡欧後も、移民として排斥されることも経験しています。この記事にあるように、チャンスをつかむのは、クーラにとっても決して簡単なことではありませんでした。

この記事で印象に残ったのは、困難を乗り越えるクーラ自身の不屈さ、反骨心とチャレンジ精神に満ちた強さとともに、人生の局面で、彼を助け、導いてくれた人々がいたことです。それはある時は、友人であり、父や祖父の縁につらなる人々であり、またある時は、彼の才能を見抜いた教師たちでした。ここでは、大学の教授やミラノのバンデラ氏の名前が出ていますが、さらに重要な役割を果たしたのが、アルゼンチン時代のアマウリ先生、イタリアのテッラノーヴァ先生であり、お金のないクーラに無償でレッスンをしてくれたとクーラも繰り返し語っている恩師たちです。

さまざまな人たちの温かい支えを力に、才能を多面的に開花させ、同時に、商業主義に屈することなく、自ら信じる芸術の道を、自分らしく歩み続けてきました。今年57歳になったクーラ。この数年来、本来の志望であった指揮や作曲の仕事が本格的に動き出しています。とにかくハードワーカーのクーラ。頑強な体と不屈の精神を持つとはいえ、体に負担をかけすぎることなく、健康を保って、さらなる高みを目指してほしい、そして可能な限り、それを見届けたいと願っています。

不十分な翻訳で長文、たいへん失礼いたしました。原文もご参照ください。 

 

 

 

 

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2013年 ホセ・クーラ 演技とオペラ歌手について、オペラと現代、今後のキャリアについて――モスクワでのインタビュー

2019-05-06 | 芸術・人生・社会について②

 

 

 

今回は、少し前のものですが、2013年にホセ・クーラがモスクワでシンフォニック・コンサートを行った際のインタビューを紹介したいと思います。

クーラは2013年5月29日に、ロシアのモスクワで、モスクワ市交響楽団《ロシア・フィルハーモニー》を指揮しました。演目は、ドヴォルザークの交響曲第9番とともに、母国アルゼンチンの作曲家であるヒナステラやピアソラなどの曲を組み合わせたようです。

インタビューは、ロシアの印象から始まり、オペラ歌手にとっての演技の役割、多面的な活動をすることについて、オペラの今後、コンクールについて、今後の活動、等々・・いろんなテーマにわたっています。全部は無理なので、抜粋して訳してみました。元のインタビューはスペイン語です。いつものように誤訳直訳、ご容赦ください。

 

 

 

Wednesday, May 29, 2013 - 19:30

Moscow International House of Music. Svetlanov Hall
PROGRAM 
A.Piazzolla. Symphonic Tango
A.Ginastera. Symphonic Dances from ballet Estancia
G.Gilardi. Sentimental little story in music
C.Lopez Buchardo. Symphonic Poem
A.Dvora Symphony № 9 in E Minor “From the New World”
CONDUCTOR: Jose Cura (Argentina)

 

 


 

 


≪これまでの人生、私はいつも落ち着きのない人間だった≫


Q、インタビューで、あなたは自分の性格を真っ白にして、キャラクターの動機を探していると述べたが、これは私にスタニスラフスキー・システムを思い出させる。あなたの意見では、歌手はどの程度、俳優である?

A(クーラ)、とても。すべては伝統、定義とスノビズムの問題だ。

役者には、ステージと言葉以外は何もない。そしてその言葉の音楽は、彼がそれを使って何をするかにかかっている。

歌手は、言葉と音楽を持っている。もう1つのものを持っているのだ。それなのになぜ、音楽の容易さの陰に隠れるのだろうか?音楽はあなたが多くの問題を解決するのを助けてくれる。あなたは、表現、時間、多くのことについて決める必要はない。なぜなら、あなたのためにそれをしてくれる音楽があるから。それなのになぜリラックスして、それ以上先に行こうとしないのか?私はそれは罪だと思うし、”オペラ歌手”というのはとても危険な言葉だと思う。 オペラ歌手とは、コンサートで立ち止まって歌う歌手ではない。 オペラ歌手は、歌う俳優だ。 理想的には、俳優と同じくらい良い俳優であるべきであり、さらに歌うことは、ある意味でオペラ歌手を奇跡のような存在にする。俳優としての強さを身に着け、それに通常の俳優が持つことができない音楽を加えるなら、威力は爆弾のようだ。なぜそれを否定する? なぜその背後に隠れるのだろうか?

もうひとつは、このように言うーー私は演技することはできない、私は演技する方法がわからない、私は演技に興味がない、私には演技の才能がない・・だから私はただ音楽をやる、と。OK、だったらあなたはオペラ歌手ではない。あなたは歌手だ。

残念ながら、「オペラ歌手」の定義は常に誤用されてきた。オペラ歌手は歌う俳優だ。私はオペラを歌うことができる歌手が好きだが、彼が演技しないならば、オペラ歌手と呼ばれるべきではない。

もちろん、声を持つこと自体、また非常に決定的なことであり、ほとんど奇跡なことだ。 俳優は声が良くなくても、素晴らしい俳優になることができる。さらに、多くの俳優は、美しい声ではなく、非常に表情豊かな特別な声を持っているという理由によって、素晴らしい俳優だ。

歌手は当然、声を持っていなければならない。そうでなければ始めることさえできない。しかし、その声を持っているならば、なぜその声の中だけに隠れたままでいるのか?私はそれは非常に限定的だと思う。もちろんそれはまた1つの考え方であり、私は教皇ではなく、「無謬性の賜物」を持っているわけではない。


Q、あなたは歌手、俳優、オーケストラの指揮、そして舞台監督だ。 一度にすべて。

A、ノー。同時にはできない。それは私の芸術観だ。分ける必要がある。

私は今、歳をとっている。かつては、「私がしていることは、良いことだ」と言った。ノー。私は自分ができることをやる。年齢はあなたに視点、距離を与える。私の芸術の考え方は、全体論であり、全面的な芸術、そして分野の統合としての芸術だ。より多くの分野が統合されればされるほど、芸術はより豊かになると思う。

これらすべての困難な分野を成し遂げるために、エネルギー、好奇心、興味と才能を持っていなければならない。そして私は、仕事が最高の裁判官だと思う。私たちはみんな、自分たちが何かであると言うことができる。それは、自分が何者なのかということではなく、何をやっているかということだ。あなたが指揮をするとき、上手く指揮し、歌うときに、上手く歌うなら、それはあなたが両方のことをうまくやることができるということでだ。たぶんあなたは最高ではないかもしれないし、最高である必要はない。それぞれができるかぎり最高のものになるのだ。

 

 

 

 

Q、あなたが歌手として演技するとき、監督の意志に服従することはあなたにとって負担に?

A、それはない。ダンスをするみたいなもので、ダンスのパートナーのようだ。一緒に踊る人がひどい踊り手なら、あなたは「痛いから私の足を踏まないで」というだろう。しかし、もし一緒に踊る人が上手ければ、あなたは身を任せて、他の人が連れていくのを楽しむことができる。つまり、重要なことは、他の人によって指示されるのではなく、他の人が踊る方法を知っていることだ。

 

Q、一度にそんなに多くの分野をやることで、あなたにはどんな利点が?

A、個人的には、それは私に非常に重要な最初の利点を与えるーールーティンを避けることだ。

これまでの人生の中で、私は常に落ち着きのない慌ただしい人間だった。35年間、ステージの上にいた。35年間、歌だけ歌っていると想像してみてほしい。それができる人もいる。私は彼らを称賛する、本当に。それは批判ではなく。私はできなかった。

ルーティン化は、私を破壊し、私の解釈の仕方、私の芸術を破壊し、私を退屈な人間にしただろうと思う。必ずそうならないにしても、それは私に何らかの影響を及ぼしていただろう。だから、2つ、3つの異なる分野をすることは、自分をいつも新鮮に保つ。歌うために舞台に上がるたび、それは楽しい。なぜなら、たぶん、一か月間、演出をしていて歌っていなかったからだ。

精神的なもの、個人的なものに加えて、知的な利点もある。例えば、歌手と指揮者の側面も知っているプロデューサーとしてショーを監督すること、それぞれが何を必要としているのかを知っていることは、作品をより完全で、面白いものにする。

私が演出をするとき、通常、歌手も指揮者も、とても楽しんで、非常にリラックスしている。なぜなら彼らは、私がそれを経験してきているので、それぞれが必要とするものを理解しているということを知っているからだ。私が水晶玉を持っているからではなく、それを生きてきたからだ。

私は歌手として必要とされる30年間を生きてきた。指揮者が必要とする多くの年月を生きてきた。だから、私は必要性を予想することができる。同時に、できること、できないことも知っている。だから、私と一緒に仕事をするのには、難しさもある。あなたは私に、「それはできない」とは言うことができない。なぜなら、私はそれを見たことがあるか、または私がすでにそれをしてきたので、私は「ノー、それはできる」と言う。「それはできない」より、むしろ「私はそれをすることができない」と言われるほうがよい。そうすれば我々は一緒に解決策を探す。

 

 

 

Q、作品を選ぶとき、どのように?人間的な側面や音楽が気になる?

A、私にとって最初にすることは、その選んだ作品を私が解明することができるかどうか、正直に認識することだ。私にとっては、それが最も重要だ。

もしそれをやるために、技術的背景として私が持っている以上のものが必要で、その仕事が私自身を上回るとしたら、愚かなことをしたくないので私はそれはやらない。またはもっと悪い場合、技術的には可能だけれど、その役に共鳴できない、または何も言うつもりはないと感じたら、ただオウムのように舞台に上がることになる。それがもし大きな関与、または私と劇場との約束でない限り、私はそれを避けようとする。なぜなら芸術的に正直でないからだ。

私は、どんな芸術家にとっても、一番の特徴は知的な誠実さでなければならないと思う。もしステージ上で知的誠実さを失ったなら、あなたはフェイク(偽物)だ。それはわかる。私は聴衆として、舞台上のアーティストが自分自身を認識していないことに気付くとき、彼自身が自分でしていることに知的に誠実でないことがとてもよくわかる。その逆に、それらがうまく合わさったときには、コンサート、オペラ、バレエ、それがなんであれ奇跡のようだ。正しい組み合わせが与えられれば、その夜は魔法を起こす。だからこそ、何世紀も経った今も、私たちはこの音楽を作り続けている。


Q、 オペラは時代の好みに応じて変更する必要がある?

A、非常に複雑であり、それはバチカンのようだ。宗教は、その時代の趣味に従うために変わらなければならないだろうか?私は信仰の土台を変えることは不可能だと考えている。2千年にわたって信じられていたことだ。あなたがクリスチャン、イスラム教徒、仏教徒、またはその他、多くの宗教を信じているならば、その基盤を変えることは、それが間違っていたことを認識することを意味する。

そして少し複雑になるが、我々にできることは、現代の考え方を通して読み、物事がどこに向かっているのかを理解しようとすることだ。同じことがオペラでも起こる。

オペラの大きな問題は、歌われていて、もう十分であるという時だ。それがすでに歌われていて、十分なら、どこにもオペラを守ろうという人はいない。なぜなら私たちは、すべての偉大なオペラ作品が録音されている時代に生きているので、それぞれのタイトルに4つ、5つ、または10、20の非常に良いバージョンがあるからだ。自宅で聴くことができ、しかももはやCDだけでなく、DVDでまるで劇場にいるかのように大画面で完璧に見ることができる。

それでは、いったい何が人を、劇場に行き、チケット代を払い、着飾って、等々、音楽を聴くために駆り立てるだろうか。違いは何?

違いは人間的な要素だ。人間的要素とはこういうことーー 私は、ここであなたに会い、感じる。私に何かを提供してくれる・・苦しみ、汗、笑い、叫び。それから私は、あなたを、あいだに機械も、コンピュータも、テレビも、マイクもなく、なにもなしで、人間としてあなたを識別する。あなたは私と一緒。愛の行為のように、性的なものとしても、肉体的にもーーこうした人間的要素が存在し続けている間は、古典芸術を殺す人はいない。

性的なレベルで起きていることと同じ。今日の人々はもう口説くことはしない。ある女の子に会う、花束を持って、彼女を誘惑する、そして彼女と話をするーーいいえ、今ではインターネットを介してチャットをする。そしてすべての魔法は失われた。しかし、私たちはそれを殺すことはできない。我々がそれをなくすことに成功したなら、人類は消滅するから。愛をやめたら、もはや人間は生まれない。

そのバランスはまだ存在する。古典芸術との関係が、DVDを見ることであるなら、良いことではない。なぜなら古典芸術の秘密は、あなたのために直接、何かをやっている人間を見ることだからだ。それが存在している間、オペラ、あるいは一般的に、古典芸術は死なない。私たちがそれを殺せば、すべてが終わる。

 



Q、テレビでの歌のコンクールについてどう思う?彼らがクラシック音楽を始め、歌手になる手助けをしてくれるだろうか?

A、すべてが有効であり、何も有効ではない。いつもサプライズが登場するので、それは有効。しかしそこに隠された考え方は、本当にサプライズを探しているのではなく、5年間、ミルクを絞り取ってできる限りのお金を手に入れ、それからそれを投げ捨てて、別のものを見つけようというもの。それが真の精神だ。

そしてその反対のことを言う者がそれを証明する。こう言うーーこのスタイルのコンテストは、他のタイプの愚かなまたはもっと馬鹿げたコンテストよりも、人々を克服したいという欲求をより刺激する価値がある、と。目的が良ければ、すべて問題ない。例えば、スペインではポップミュージックのための有名なオペラシオン・トリウンフォがあり、10年間で多くの子どもたちが登場したが、1、2年続けば十分だった。しかし、彼らのうち1人か2人は良いキャリアを作り、アーティストとして優れている。彼らの起源が少し疑わしいことを知っても、彼らは克服し、研究し、ケアをし、そして今では良いアーティスト、ポップミュージックの良い代表者となっている。たとえばダビッド・ビスバル。彼は自分ができることとできないことを知っていて、彼は良いテイストを持ち、彼は上手くやり、10年後に、たくさんの仕事を通じて成し遂げることができることを示した。現実には、すべてのことがあるということだ。

 

Q、あなたの芸術的キャリアにおいて最も影響を与えたのは何?

A、私はプロのソリストとして国際的に、29歳で歌い始めた。しかしそれはすべての一連のことの結果だった。

おそらくロシアの人々は私と同じだと思うが、ヨーロッパの人々はあまり理解できない。しかし、ロシアやアルゼンチンのように、独裁政権を体験した人々は、独裁政権がある日終わるとき、それが何を意味するのか理解している。抑圧は終わったが、同時に保護も終了した。それは真実だ。2つが終わった。ロシアの人々はそれを通過して、生き抜き、そして生き続けている。

アルゼンチンでも同じことが起こった。私の世代は1982年に初めて投票を体験し、マルビナス戦争(フォークランド紛争)で戦った世代だ。私には戦争に行った仲間がいる。幸いなことに、彼らは戻ってきた。当時は予備隊があり、抽選があって、私は運よく行かずにすんだ。そうでなければ、多分ここで話していないだろう。

当時はすべてが大変だった。指揮者または作曲家として生き残ることは事実上不可能だった。アルゼンチンだけでなく、世界の99%で今日も続いている。オーケストラも合唱団もほとんどなかった。たくさんのことを始めなければならなかった。テノールの声を持っているという事実は、単純に生計を立てるのに大いに役立った。自分を今日の自分の姿に変えることすら考えなかった。それは生計を立てる、生き残る、食べる、請求書を支払うことだった。私は1985年に結婚した。25歳だった。家族を養わなければならなかった。

多くのことが、多分あなたが行くことさえ考えていなかった場所に、人生においてあなたを連れて行っている。ある日それが起こる。その意味で、私は新世代の多くのロシアの歌手が、私が話していることを分かっていると思う。当時の体制で非常に苦労していた多くの人、素晴らしい声を持っている人びと、そして今、非常に印象的なロシアの声が国際市場に溢れている。


Q、あなたの芸術的な計画は?

A、計画はたくさんあるが、神だけが知る。ある朝起きると、人生があなたを変える。すべては多くのこと、健康などに依存する。私の計画は、もし私が望むように物事がすすむとしたら、歌うことをより少なくすることだ。私は長年歌ってきた。もっと自分を、オーケストラかステージかに関わらず指揮、演出・監督に捧げたい。そして、特別な日には歌うが、日常的には歌わない。そういうように変えたい。私はもう50歳で、その変化には数年かかる。2日でそうすることはできないだろうが、次の4、5年以内にその変化を成し遂げることができれば、それは私のキャリアにとって非常に興味深い方向転換になるだろう。それは私を信じ、私を雇うマーケットに依存する。そうでなければ、わかるだろう。


Q、マーケットがあなたを信頼していることはすでに確認されている...

A、変更は非常に困難であり、テノールにとって、その変更は危険だ。

私の友人であるオーケストラの指揮者が、かつて私に話した。ちょうど彼が、ラフマニノフの私のアルバムを聞いたばかりの時だった。彼は非常に感銘を受け、こう言った。―― あなたは、自分の問題が何か知っているだろう?額にテノールと書かれた小さな看板があるのだ。どこへ行っても、一生、その印がついて回るだろう。もしあなたにその看板がなければ、今日、最も重要な指揮者の一人になるだろうーーと。

テノールは常に不審な動物だ。良い声、しかしそれから、テノールであるために、背景に、知能や能力の問題がたくさんあると考えられる。それは民間伝承、決まり文句。しかしよくあること。私が最初にオーケストラの前に立ったときも起き、何年もの間、指揮を経験した今日でも、彼らは私をしばらくの間、「テノールが何をしているのか」知るために見る。5分後、誰もが私がテノールであることを忘れ、指揮者としての私と一緒に働いている。しかし、常に、テノールという言葉が先に行く。

私がそう言う理由ーーマーケットが望み、決定し、好むことを見ること。多分マーケットはテノールのテーマを主張し、人々の考え方を変えることは非常に難しいからだ。5年後にまた話そう。

 (「mundo.sputniknews.com」)

 


 

コンサートの告知画像

 

こちらがこのインタビューの動画のようです。残念ながらスペイン語がわからないため、同じ内容であるかどうか、確認はできていません。

 

ロシアでのコンサートから、1曲。クーラが指揮する、ピアソラの「シンフォニック・タンゴ」。 

Astor Piazzolla - "Symphonic Tango"

 


 

長いインタビューで、これまでもいろんな機会に述べてきたテーマではありますが、かなり突っ込んで語っています。

2013年、50歳の時、本格的に歌の仕事を減らし、指揮者、演出家としての活動に軸足を移していく決意をしていたことが語られています。その際も、意図せずテノールとしてキャリアを拓いてきたことが、”刻印”となって、特別な困難があることも覚悟のうえだったようです。

その後、5年が過ぎた現在、さまざまな苦労もあったでしょうが、演出家として多くの作品を生み出し、作曲家としての活動にも新たに光が当たってきました。指揮者としても、希望しているほどではないかもしれませんが、着々と経験を重ねています。

この秋から3年間、ハンガリー放送芸術協会の客員アーティストとして活動することも発表されました。クーラが脚本・作曲を手がけた新作オペラも2020年に初演されることが決まっています。徐々に、人生の新たなターンは成功しつつあるようです。

テノールとしてのクーラを見る機会がますます減っていくのは残念ですが、自らの才能とチャンスを生かし切り、全力で歩み続けるクーラの活動、今後がますます楽しみです。

  

 

 

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2019年 ホセ・クーラ "私は移民と移民の過去を知っている"――ハンガリーでのインタビュー

2019-03-09 | 芸術・人生・社会について②




今回は、直近のハンガリーでのホセ・クーラのインタビューを紹介したいと思います。

近年、ハンガリーとの文化的関係が非常に親密になっているクーラ。前回の記事で紹介した通り、来季(2019年秋~)からは、ハンガリー放送文化協会の客員アーティストとして3年間の契約を結びました。

そういう一連の交流の流れのひとつでもあると思いますが、今年2月24日には、ハンガリーでリストの再来と言われたピアニスト、ジョルジュ・シフラの名を冠したシフラ・フェスティバルに出演、最終日のガラコンサートで、このフェスティバルの創設者であるハンガリーの若手ピアニストのヤーノシュ・ボラージュと共演しています。

このコンサートの様子はいずれ紹介したいと思っていますが、今回は、そのフェスティバルにむけて掲載された、クーラのインタビューを抜粋して紹介します。

ハンガリー語のため、いつものように、誤訳直訳、ご容赦ください。ぜひ元のページをごらんください。



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Q、シフラ・フェスティバルに名を冠しているジョルジュ・シフラと、フェスティバルの創設者であるヤーノシュ・ボラージュ(ピアニスト)の名前は?

A(クーラ)、シフラ・フェスティバルでヤーノシュと知り合った。私は、彼がシフラの芸術的遺産の精神でフェスティバルを創設したことは素晴らしいイニシアチブだと思う。
シフラの比類のない美徳を超えて、さらに彼は、精神、信仰、そして力で、困難を克服できることを示した模範的な人格だった。彼は苦痛と恐怖に満ちた人生を過ごしが、それでも彼は、彼自身の苦しみを克服することができた。ジョルジュ・シフラは人類の好例だ。


Q、あなたが30年前に作曲したオラトリオ「この人を見よ」は、昨年プラハ交響楽団と世界初演された。なぜ作曲家としてのデビューまで、それほど長くかかった?

A、過去20年間、私は歌のキャリアにほとんど専念してきた。毎年、100を超える公演、コンサート、オペラ公演が私のエネルギーを奪った。ステージに出続けることに飽きることもある。

現在、かつてほどは歌っていないので、ようやく最初の決意、つまり私が実際にプロの音楽家になるために学んだ職業に戻ることができた。それが作曲と指揮に他ならない。私は指揮者、合唱指揮者、そして作曲家として大学を卒業しているのだから。






Q、かつて故郷のロサリオでビートルズの歌を歌っていた男は、依然としてお金のために歌っていた?

A、その通り。
当初私にとって歌は、慣習的な結婚のようだった。それからゆっくりと歌を好きになり、そして新鮮な愛のように感じるようになった。


Q、あなたは現在、よく知られている指揮者、パフォーマー、写真家に加えて、演出、セットデザイン、衣装デザインなどのすべてをやっている。ある人はルネッサンスの精神を持っていて、また、ある人はそういうやり方は難しいと信じている。これについての真実は?

A、1つのことを失った時、自分自身も多様性のなかにいることに気付くだろう。
確かに、それは創造性の問題。私がしていることは、実際には、同じ活動の異なる分岐、または別の側面だ。

私は基本的に、自分自身のことを、空想力を働かせることができる創造的な人間だと考えている。
歌手としてと同様に、演出家、指揮者として認められる日を密かに待っている。


Q、あなたのかつての教師で、アルゼンチンの歌手だったカルロス・カストロは、あなたのことを巨大な才能をもつ野生生物だと言った。年をとってそれは変わった?

A、むしろ、私は、いつ爪を立て、情熱を発揮すべきかを学び、そして一緒に働こうとするとき、自分自身を抑制することを学んだと言えるだろう。






Q、ヨーロッパ諸国の移民問題にどのように取り組むべき?

A、私は移民と移民の過去の両方を知っている。
私の祖父母は、戦前に、イタリアとスペインからアルゼンチンに渡った。90年代の前半、私は自分の運を試すためにヨーロッパに来て、逆方向に移住をした。

難民危機は、誰もが、見て見ぬふりをすることができない問題だ。何よりもまず、人々は好きで故郷を去っているわけではないことを知るべきだ。差別、迫害を受け、その出身や宗教、その他の理由で苦しんでいる人々の尊厳が尊重されなければならない。難民も欧州市民と同じ権利と義務を持つべきだ。統合を解決するために、主に、善意、社会的意志、組織、そして法的枠組みをつくることだ。


Q、あなたのオペラ演出の多くには、逃避と他者性による社会的剥奪というモチーフが繰り返し出てくる。テアトロコロンで、またボンとモンテカルロのブリテンのオペラ、ピーターグライムズなど。

A、何であろうとすべての仕事は、実際の人間の生活の状況についての個人的または集団的なドラマに関するものだ。それが今日において、社会的反映が避けられない理由だ。
例えば、非難されたピーターグライムズは、コミュニティによる排除とヘイトスピーチの犠牲者だ。


Q、今後オペラは?

A、私は最近、喜劇「モンテズマと赤毛の司祭」を完成させた。これはヴィヴァルディの音楽を題材にした面白い話だ。私はその脚本も書いた。現時点では、世界初演を受け入れるオペラハウスを見つけることに全力を注いでいる。


(*2020年1月29日、ハンガリーのリスト音楽院で、コンサート形式ですが初演されることが決まりました。)
 → それについての記事 


Q、この問題を抱えた世界で、あなたが楽観的な理由は?

A、気に入っている例え話の1つで答えたい。
フラワーショップの素晴らしい香りのよい花の間に糞を混ぜ入れた場合、入ったばかり人は、そこにどんな臭いがあるか気づく。私の楽観主義は、糞より花が多いという信念から来ている。

(「hvg.hu」)


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クーラが出演したシフラ・フェスティバルのジョルジュ・シフラは、リストの再来、天才といわれたピアニストでしたが、たいへんな苦難の人生を歩んだ人のようです。かつてジプシーといわれたロマの家系に生まれ、戦後、ソ連の軍事的な支配が続いた祖国から脱出しようとして投獄、その後、世界的な活動を許されましたが、火事による息子の死で大きなショックを受けるなど、時代に翻弄され、そして個人的な不幸にもみまわれた人生だったようです。

クーラがシフラを、困難に立ち向かい克服したという面から高く評価していることは、とても印象的です。
シフラの人生の背景には、旧ソ連の圧政とその支配を受け、抑圧社会となっていた東欧の国々の苦難の歴史、そのもとで自由とくらしの向上、社会進歩を求めた人々の苦闘と歩みがありました。

そしてクーラ自身も、軍政時代のアルゼンチンで少年から青年への多感な時期を過ごし、イギリスとのフォークランド戦争では徴兵で予備役となり、出兵の寸前に戦争が終結するという体験をしています。その後、母国の民主主義の再建と経済的混乱のなか、音楽家として生計をたてることができず、やむなく祖国を離れ、渡欧し、多くの困難を乗り越えて、現在にいたるキャリアをひらいてきました。

そういうクーラの人生をふまえての発言であり、今回のインタビューはとても説得力と重みがあります。
ハンガリーは、この間、欧州をめざす難民、移民の問題をめぐって、政治的にも社会的にも大きく揺れ動いています。そのハンガリーにおけるインタビューで、移民問題での見解を明確に発言し、差別と迫害を受けている人々の尊厳を尊重すること、難民に欧州市民と同じ権利と義務を与えるべきであり、そのための市民的社会的な条件整備、法的枠組みの必要性を主張しているのは、とても大事な点だと思います。

最後の花屋の例えばなしは、インタビューのまとめ方のためか、また訳の不十分さのためもあって、ちょっと分かりにくいですが、これまでのクーラの発言から推測すると、若い人たちへの期待と、人間と社会の進歩に対する大局的な信頼を語っているように思います。

アーティストの社会的責任として、平和と自由、社会的公正のための発言をいとわず、弱者の権利擁護の立場にたつクーラ、そして芸術は現代の社会と人間の生活を反映するものであり、そうでなければならないことを主張し、実践してきました。世界は多くの問題を抱え、困難は大きいですが、根本的には、前向きに、楽観的に、積極的に生きていくクーラの姿勢は、いつものことですが、今回はとりわけ印象的でした。



*写真は記事からお借りしました。


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