人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2015年 ホセ・クーラ ハンガリーでのインタビュー / Jose Cura / Interview in Hungary

2016-08-19 | 芸術・人生・社会について①


今回は、2015年の4月に掲載された、ホセ・クーラのハンガリーでのインタビューを紹介したいと思います。
クラシック音楽にたいするアプローチや、自らの多面的な活動への批判について、かつて第4のテノールなどと呼ばれたことについて、など、みずからの芸術的信念にもとづいて、とても率直に語っています。

クーラは近年、ハンガリーで毎年のようにコンサートやオペラに出演しています。2015年は2月に、ハンガリー国立歌劇場でオテロ、マホ・アンドレアとのコンサート、そして5月には、ジュールでロスト・アンドレアとのオペラ・コンサートなど、出演が相次ぎました。このインタビューは、5月のジュールでのコンサートに向けた企画だったようです。

さらにこの後も、2016年4月のシェイクスピア没後400年の記念日に、ジュール・フィルハーモニー管弦楽団とともに、ヴェルディのオテロを指揮するなど、ハンガリーとの関係はさらに深まっているようです。

このインタビューの原文はハンガリー語のため、十分理解できない部分があります。概要と発言の大意をくみとっていただければということで、訳は不十分ですが、紹介したいと思います。

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――ハンガリーの魅力
Q、1997年のオテロのデビューは多くの人々に最も記憶に残っている。その後、何十年もの間に、このオペラとの関係は変わった?

オテロは、タイトルロールを200回歌った。しかし、それぞれ、パフォーマンスは異なっており、最も記憶に残るもの、最も重要な転換になったというものはない。

ブダペストでのオテロの2公演は、幸運の星の下につくられたと言える。オペラチームとは、ゆっくりと15年かけて取り組んでおり、素晴らしい歌手、ミュージシャン、そして指揮者によって構成されている。

Q、毎年、ハンガリーに戻っている理由は?

私はプロフェッショナルだ。呼ばれたところに行き、出演料を受け取り、私の仕事をする。あなたも出演料を受け取ったら、同じことをするだろう?
もちろん、これには別の面がある。私は、すべてが揃ったハンガリーで仕事をするのが好きだ。労働条件、プロフェッショナリズム、そして我々は毎年、素晴らしいプロダクションをつくってきた。だから私はここにいる。




――欲求不満を抱えて生きるより、満足のために死ぬほうが良い
Q、歌、指揮、演出、舞台デザインと、多彩なアーティストだが、どうやって、それらすべてに対処することができるのか?

私のように、多くのことをやろうとする者に対して、確かに、非常にナーバスになる人々がいる。彼らは、理解せず、妬み、問いただす。「どうやって、これらすべてのことを行うことができるのか?」――実は、その問いは続いている・・「なぜあなた5つのことをやるのか?私は1つだけだ!」と。

私が、すべてのことで最高になれるとは思わない。しかし成功のためには、非常な忍耐力、勤勉さと才能が必要となる。それが大切なことだ。
欲求不満を抱えて、不幸せなまま生きるより、幸福と満足のために死ぬ方がより良いと、私は確信している。また、みんなにアピールする何かをなすことができないならば、決して勝者になることはできない。




Q、あなたは勝者だが?

私を信じてくれる人々によって支えられている。25年を経て、私を支持してくれる聴衆、コンサートのチケットを買ってくれる人々。彼らは、そのお金によって何を得ることができるのか知っている。それがクーラのブランドだ。

最高のミュージシャンたちは彼らの楽器をうまく弾きこなすが、他の人のコンサートに行くのかどうか、あなたは疑問をもつだろうか?彼らは、美術館や劇場にいくのか?音楽祭に行って、楽しむ?ミュージシャンや歌手、そして、あなたは、これまでの人生のなかで、パラシュートジャンプに挑戦したいと思ったことはあるだろうか?

私は、あなたも「生きる」ことを願う。私たちは、ほとんどの時間を費やして、継続的に観客にサービスするアーティストだが、ステージだけに自分を閉じ込めて生きることはできない。




――クラシック音楽は楽しいもの、生きて脈打っている

Q、「クーラのブランド」とは?

それはマーケティングのためのものではない。シンプルに、私自身の、すべてのポジションのことだ。いま私たちがここで話しているように、また私が妻と食事している時のように。それが私のステージの上でのやり方だ。

私は情熱をもって人生を生きている。結局、退屈するには人生は短すぎる。

あなたは私のことを、真面目で尊敬されるマエストロと思っているかもしれない。私は、アーティストとして世界で名を知られるようになったが、申しわけないが私はあえて言う。その真面目と退屈は、同義ではないか。

世界的に有名な作品だからと、あまりに真面目に恐ろしく退屈なやり方でアプローチすることは、クラシック音楽から若い人たちを追い払っている。クラシック音楽は価値ある芸術だが、楽しいものだ。それは、死んでいない。生きて、脈打っている。私たちがいま話し合っているように。




――誰もが、自分自身の道を歩む必要がある
Q、若い人たちにどうやって伝える?

若い人たちに問題はない。彼らは素晴らしく、才能豊かだ。問題は私たちの方にある。
私はそれを、世界中でマスタークラスを行ってきた経験から知っている。

私は芸術的な側面を彼らに示すことはできる。しかし、どうやって成功し、満足できるアーティストになるのか、そのレシピはない。 誰もが、自分自身の道を歩む必要がある。そこから逃れることはできない。キーメッセージは、「自分自身であれ ("be yourself")」だ。

今日では、最も簡単に有名になるには、面白い動画をインターネットにアップすること。そうすれば一日であなたはスターだ。評判を得ることは簡単だが、私たちアーティストは、卓越性のために努力しなければならない。

Q、ヨーロッパのオーケストラにとって、その存続のため、観客の若返りが最大の問題だが?

私が参加したコンサートでは、どこでも若い人たちがたくさん参加している。ショーの終りには、私がこのジャンルを扱う方法について熱心に語りあっている。それは彼らにとっては、新鮮さに満ちていると言う。

これには、彼らが時代錯誤と感じる燕尾服を着ていないという、外観も関係している。なぜ21世紀のステージで、ジーンズを着ることが許されない?

一方で、外観については、別の典型的な例がある。マエストロと呼ばれる方法を知っているだろうか?とてもおかしいことだが。私は15年前からメガネをかけるようになった。それまでは、私はただのテノールだった。しかし今では、確かにとても真面目なマエストロだ。ばかげているだろう?



――偉大な天才音楽家たちの背後に、普通の人間の姿、現代につながる人間性をみることが大事
Q、アンドレア・ロストとのジュールのコンサートは?

ジュールでは、アンドレア・ロスト、カールマン・ベルケシュ(指揮者・クラリネット奏者)、ジュールフィルハーモニー管弦楽団と私、4者によるコンサートだ。複合的な効果は非常に良く、ポジティブな意志を私は確信している。カールマン・ベルケシュは素晴らしいユーモアのセンスの持ち主で、これは非常に重要なことだ。このようなコンサートは、ポジティブなエネルギーを与える。

私は、誰かが亡くなりでもしたかのような表情でステージに登場するのを嫌う。こんなやり方では、モーツァルトは演奏できない。バロック時代、最も偉大なバッハもそうだ。バッハは21人の子どもを持っていた。あとは想像してみて・・。シューベルトは、片手にビールを飲みながらスコアを書いた。これは非常にシリアスな話だ。

これは彼らに対して失礼なことではなく、私は、すべての偉大な天才の背後に、人間としての彼自身、普通の人間の姿があるということを言っている。このことを認識するのがなぜ重要なのか?彼ら天才たちを人間として見る時、私たちは彼らの弱さを認識する。それによって、彼らが達成した奇跡を、私たちはよりいっそう称えることができる。彼らの人間性によって、常に今日とつながっており、だからこそ、彼らの仕事は永遠に生きる。私は、これが、連日、ステージにあがるアーティストの感覚であり、聴衆に伝わっていくものだと思う。

こうした関係に光を当てることは、私の使命だと思っている。20年前、英国の評論家が、「クーラは、クラシック音楽が、彼のアミューズメントのために書かれていないことを知るべきだ」と書いた。しかし若い世代は、この問題を乗り越えることができるだろう。

25年間、私は、音楽学校の教師たち、そして批評家とたたかってきた。神が私に慈悲深いなら、私は、あと25年間、この戦いを続けることができる。そしてそれから私は、天国、あるいは地獄に向かうだろう。




Q、教え子たちはあなたに従う?

世界中でマスタークラスを行っているが、文字通りの意味での生徒はいない。
マスタークラスで私は、私がプロフェッショナルとしての仕事について考えていることを伝え、それから、彼らが望み、自ら決めた彼らのやり方を認める。

しかし先ほど話したように、一番大切なことは、自分自身であること。偽りの生涯のために、自分自身を演じつづけることはできない。私のキャリアの始まりの時期、常に誰かと比較された。ドミンゴ、カレーラス、そのほかにも。そして私は、自分が誰か有名人の生まれ変わりなどではなく、違っていることを喜んだ。




――長年のハードワーク、忍耐が、真のアーティストをつくる
Q、第4のテノールと呼ばれて?

かつて、キャリアのはじめに、私は、カラヤンか、カルーソーの生まれ変わりなどと言われた。これは、メッシはマラドーナの生まれ変わりだというようなもの。愚かだ。私はただ私ではいられないのか?

3大テノールは、すでに過去の世紀の偉大な音楽家の話だが、これはプレスのための便宜上の分類にすぎない。エージェントはより多くのチケットを売るために、この安上がりのマーケティングの仕掛けを利用した。しかし私は、このような「空っぽの器」は好きではない。私は、長年のハードワークと忍耐による卓越性があることを信じている。

本当のアーティストになるためには、そのような長い道のりがある。それぞれの才能の始まりには、ひとつの種があるだけだ。 私はその種が、ハードワークの30年間の後に、強い、成木となっていることを確信する。人々は、その涼しい木陰を好むか、その果実を好むのか、決めることができる。しかしポイントは、私はすでに単なる種ではなく、木になっていることだ。



(聞き手 Farkas Mónika)

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今回のインタビューも、また率直で、アーティストとして"我が道"を歩む、クーラの自負と決意が強烈です。
正直なところ、反感を持つ方もいらっしゃるかもしれません。とりわけクーラのこの間の活動やキャリア展開をご存じない方には、"傲慢"と感じられるのではないかと、和訳しながら少し心配してしまいました(いまさらですが・・笑)。

しかしこれがホセ・クーラです。「商業主義の商品にはなりたくない」と、大手エージェントからも、レコードレーベルからも独立して、マスコミにも、大劇場にも媚びることをせず、自立したアーティストの道を歩んできました。またテノールだけに専念すべきという圧倒的な批判を受けながら、本来の志望である作曲や指揮、さらには演出や舞台デザイン、照明、衣装デザインなど、総合的で多面的な活動を開拓しています。

どんなに批判や壁にぶつかろうと、こうした活動につきすすんでいけるのは、芸術の社会的役割に確信をもち、優れたアーティストとして自らを高め、与えられた能力を全面的に発揮させたいという、あくなき向上心と使命感、冒険心、好奇心とに満ちた人物だからこそだと思います。そのためには、いかなる努力もハードワークもいとわない。こういうクーラの人物像は、本当にユニークであり、私にはとても魅力的に感じます。

 *クーラのキャリアに対する考え方や歩みについては、いくつかの投稿で紹介しています。お読みいただければ幸いです。
    → 「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」
      「ホセ・クーラ 音楽への道」
      「ホセ・クーラ 平和への思い、公正な社会への発言」





ロスト・アンドレアとのコンサートより
Jose Cura 2015 "Yesterday"










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