人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2021年 ホセ・クーラが作曲したギター協奏曲、世界初演の予定

2020-09-14 | 指揮者・作曲家として

 

 

 

ホセ・クーラが新しく作曲したギター協奏曲が、来年2021年3月に世界初演を迎えることになりました。その公演の場所、プログラムや作曲の経過などを紹介したいと思います。

この春以降、コロナ禍によって、欧米や日本、世界各地の劇場は閉鎖され、市民の外出にも制限が続きました。スペイン・マドリード在住のクーラも、長期にわたってステイホームを余儀なくされ、予定されていた多くの公演はキャンセルされてしまいました。いま、徐々にですが、各地で、試行錯誤しながら劇場やコンサートが再開されつつあるのは、本当に嬉しいことです。しかしクーラは今年3月のハンブルクのオテロを最後に、ライブの公演は行っておらず、今年の公式カレンダーも更新されていません。

音楽・芸術分野とアーティストにとって、出演の場が奪われ、今も今後も続く危機的な事態となっています。とはいえ、この長期にわたった外出制限の期間、クーラにとっては、思いもよらず、作曲に集中できる時間を得ることになったようです。

 

 

 


 

 

≪ ギターと作曲をめぐって ≫

 

ーー クーラのギター FBより

 

 

”ちょうど部屋にギターを取りに来て、光の下で彼女を見つけた…。私の古い友人は、今もまだ可愛らしい”

 

 

これまでこのブログでも何度か紹介してきましたが、クーラは12歳の時、ビートルズの弾き語りがしたいということからギターを学び始めました。その後、本格的に先生についてギターを学び、そして大学では作曲と指揮を専攻しています。

テノールとして世界的に有名になったクーラですが、ギターと作曲、指揮は、少年時代から親しみ、将来の夢でもありました。このステイホームの期間、いくつかの作品を作曲、完成させたようですが、そのうちのひとつが、長年にわたって手がけたいと願いながら、作曲のための時間が取れずにきた、ギター協奏曲なのだそうです。

 

 

 

ーー ロックアウト中に受けたインタビューより

 

「私たちは家にいなければならない。外出できない。ただドアを開けてそこから出ることもできない。それはもちろん、一種の投獄を連想させるものだ。しかし、今回はこの時間を、作曲家として、たくさんの音楽を書いたり、新しいオーケストレーションに取り組んだりして活用することができて、ある意味、幸運であるとも言える。私はちょうど初めてのギター協奏曲を完成させたところだ。これは長年、やりたかったことだ」

(「hirado.hu」)

 

 

 

ーー 憧れのギタリストであり友人であるエルネスト・ビテッティと

 

 

”伝説的ギタリスト、エルネスト・ビテッティに、私のギター協奏曲を紹介しているところ。'Concierto para un Resurgir’(表題「復活のための協奏曲」の意味か?)は、先ごろのロックアウト中に書いたもので、さらなるパンデミックがなければ、来年には初公開される予定だ”

 

クーラは新しいギター協奏曲をいったん作曲した後、友人であり、尊敬する同郷のギタリスト、エルネスト・ビテッティ(現在はスペイン在住)に譜面を見てもらい、聞いてもらったようです。ビテッティはクーラと同じアルゼンチンのロサリオ出身で、子どもの頃から家族ぐるみの交流があった方です。クーラのアルゼンチン歌曲のCD「アネーロ」でも出演・共演しています。彼から何らかのアドバイスを受けたのでしょうか。こうした過程も経て、曲を仕上げていったようです。

 

 

 

ーー ギターについて、作曲について インタビューより

 

Q、確かに、ホセ・クーラは非常に優れたテノールだ。舞台演出をするだけでなく、オーケストラの指揮(1996年以来、彼は定期的にオペラ、そしてシンフォニー作品も指揮している)と作曲を行っている。後者は実際に、故郷のロサリオでアーティストになった最初のものだった?

A、私は作曲とオーケストラの指揮に専念していたが、70年代からの軍事独裁政権の時期、そしてその後の80年代の10年間は、指揮者として成功することは非常に困難で、作曲家として成功するなど考えられない時代だった。そのため、私はオペラに行った。 

 

Q、音楽家の家族の出身?

A、そうではない。音楽好きの家族だったが、音楽家ではなかった。私の母はいつも私たちに、偏見を持たずに、非常に良い音楽を聴かせてくれた。それはシナトラであり、ビング・クロスビーであり、ベートーヴェン、ラフマニノフだった。

私は12歳の時にギターを始めた。そしてある時、私の教師が言った。ーー “いいかい、ホセ。君は、この楽器にはあまりに情熱的すぎる。ギターは、ごくまれな場合を除いて、もっと内向的な人々のためのものだ。そして、いつか君は、それを手放すだけでは十分でなく、それをバラバラにしてしまう時が来るだろう”―― 結局、私は、Juan Carlos Zorziとともにオーケストラの指揮を、そしてCarlos CastroとLuis Machadoについて作曲と分析を勉強した。全員がとても優秀な教師だった。

(2017年12月)

 

 

Q、あなたに強い印象を与えた音楽作品について、子ども時代からの特別な記憶は?
 
A、音楽的な体験を1つだけ区別することはできない。私は多くの音楽を聞いた。アルゼンチンのロサリオで育ち、普通の子ども時代を過ごした。

劇場に数回行ったことを覚えている。ギターのためのコンサートに耳を傾けた。おそらくこれは、この楽器に対する私の関心の始まりを示している。しかし、子どものころに消えない印象を与えた出来事というと、特に覚えていない。

しかしティーンエイジャーだった時、伝説のギタリスト、エルネスト・ビテッティ(Ernesto Bitetti)が音楽的なアイドルだったことは確信をもって言える。彼もロサリオ出身で、私の家族は彼の家族と親しく、私たちは語り合い、パーティーでお互いに訪問し合った。今は引退しているが、この世紀には世界で最も有名なギタリストの一人だった。

 

Q、音楽があなたの職業になると決めた瞬間を覚えている?

A、7歳か8歳の時、父が私にピアノを習わせた。先生はとても素敵な高齢の女性だった。彼女は私にピアノの弾き方を教えようとしたが、私はまだ子どもで、とても活発で、気まぐれだった。そして、3、4回のレッスンの後、彼女は、私があまりにも幼く、音楽に興味がなかったと言って、私を家に返した。

ピアノの後、私は方向を根本的に変えて、ラグビーをプレイするようになった。これは、もちろん、音楽とは何の関係もなかった。かなり長い間ラグビーをしてきたが、ほぼセミプロのスポーツ選手だった。

しかし、12歳になった時、学校でギターを演奏する同級生に出会った。彼がギターを弾いて、歌を歌うと、まわりの女の子みんなが喜んだ。私もぜひこれを学ばなくてはと思った。独学でギターを学び、ビートルズの歌を歌った。

14歳の時、私は父に、ギターを弾くのが好きで、真剣にこれを学びたいと言った。本当の先生について勉強を始めた。そこからすべてが始まった。

 

Q、ギターから作曲、歌、そして指揮への移行はどのように?

A、ギターは素晴らしい楽器。今日にいたるまで、私が本当に愛している唯一の楽器だ。
しかし、時間の経過とともに、ギターは私の情熱的な性質にとっては、あまりにも静かなツールであることを感じるようになった。
私にはもっと何かが必要だった。

ある日、私は父に、音楽院で学んで、作曲家や指揮者になりたいと言った。音楽院には他の多くのコースの中にボーカルのコースがあり、それで私が声を持っていることが判明した。20歳頃だった。それ以前も、いつも歌っていたが、それはまったくオペラのスタイルではなかった。

指揮者をめざして勉強したことで、私には声があると発見することを助けたが、私は歌手のキャリアについては考えなかった。
私は学びながら、合唱団で歌って、わずかなお金を稼ぎ、指揮と作曲を学び続けた。

22歳の時、長い年月の後、アルゼンチンで選挙が行われ、民主主義が国に戻った。
これは新しい時代の始まりだったが、非常に困難な時期でもあった。オーケストラや合唱団は資金調達に問題を抱えた。
生き残ることは難しく、指揮者として生活することは困難だった。そしてさらに作曲家としては、ほとんど不可能だった(今は、作曲家として稼ぐことは不可能だが、たぶん映画音楽を書く作曲家だけは何とか稼ぐことができるだろう)。

そして24歳の時に、私は考えた。歌うことができる。おそらく歌と関連して仕事を見つけることができるだろう――結婚式、パーティーまたはプロの合唱団...作曲の活動をサポートするために私は働く。合唱団で歌い始め、オーディションに行った。

今、オペラ歌手として認められていることは嬉しい。それに加えて、私は音楽を書き、指揮し、そしてまだ歌っている。

(「operatime.ru」)

 

 

 


 

 

 

≪ フランスのミュルーズ交響楽団と世界初演へ ≫

 

―― コンサートの概要について

 

クーラ作曲のギター協奏曲の初演場所は、フランス東部のミュルーズです。この地で活動するミュルーズ交響楽団が初演のオケで、クーラはそのアソシエートアーティストでもあります( → 以前のコンサートなどを紹介した記事)。また、クーラとは何度も共演している若い女性ギタリストのバルボラさんとの共演です。

 

 

●ミュルーズ交響楽団2020/21シーズンパンフレットより

 

  

 

 

CONCERT
SYMPHONIC
Fri March 26  8 pm
Sat March 27  7 pm

・ALBERTO GINASTERA    
  Estancia : Quatre Danses
・JOSÉ CURA    
  Concerto pour guitare (création mondiale)
・HEITOR VILLA-LOBOS    
  Bachianas brasileiras n° 2 : « Le Petit Train de Caipira »)
  Bachianas brasileiras n° 4

JOSÉ CURA = Conductor
BARBORA KUBÍKOVÁ = Guitar

 

シンフォニックコンサート

2021年3月26日(午後8時開演)、27日(午後7時開演)

プログラム

・アルベルト・ヒナステラ作曲 「エスタンシア」

・ホセ・クーラ作曲 「ギターのための協奏曲」

・エイトル・ヴィラ=ロボス作曲 「ブラジル風バッハ」 第2番「カイピラの小さな汽車」、第4番

ホセ・クーラ 指揮

バルボラ・クビコバ ギター

 

 


 

 

クーラの新作のギターコンチェルト、来年3月の初演が決まって本当にうれしいことです。クーラはギタリストとしてではなく、作曲家・指揮者として演奏します。現在のところ、フランスはコロナ感染の第2波の只中にあるようで、今後どうなるのか予断を許しませんが、感染拡大が終息して、無事に開演できることを願っています。

記事でとりあげたエルネスト・ビテッティとクーラが共演している動画を紹介します。同じくアルゼンチンの作曲家で、コンサートのプログラムに取り上げられているアルベルト・ヒナステラが作曲した「忘却の木の歌」です。クーラのアルゼンチン歌曲のアルバム「アネーロ」にも収録されています。

 

 

 

 

 

最後に、クーラが愛するギターの弾き語りの動画を。プラハで2003年です。

José Cura in Prague - Yesterday

 

 

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(録画公開編)ホセ・クーラが指揮するドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」

2020-08-08 | 指揮者・作曲家として

 

 

ホセ・クーラが指揮する、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の全編動画が、新たにYouTubeにアップされました。

公演は、2018年10月で、場所はドイツのキュンツェルザウ、オーケストラは、ウルト・フィルハーモニー管弦楽団。アップしてくれたのも、このウルト・フィルハーモニー管弦楽団の公式チャンネルです。

動画は、固定カメラ1か所で録画されたもののようで、遠景のみ、ズームもアップもありませんが、音質は良好です。

コロナ禍のステイホームで、劇場やアーティスト、音楽団体の厚意によって数多くの公演、コンサートの動画が無料でアップされたり、ストリーミングされ、オペラ、音楽ファンとしては、もちろん嬉しかったわけですが、一方でアーティストのおかれた状況を考えると、本当に切ない思いでもありました。とても聞ききれないくらいほどの録画・録音が今でもあると思いますが、もし興味をお持ちの方がいらしたら、このクーラ指揮の公演もご覧になってみていただけるとうれしいです。歌手としてだけでない、クーラの別の魅力が見つかるかもしれません。

 

 

 


 

 

≪録画・ホセ・クーラ指揮、ウルト・フィルハーモニー管弦楽団 ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」≫

 

 

Dvořák: Symphony No. 9 “From the New World“ | José Cura | Würth Philharmoniker

 
ANTONÍN DVOŘÁK
Symphony No. 9 in E minor, op. 95
Conductor | José Cura 
Recorded on 07 October 2018, Reinhold Würth Saal, Künzelsau, Germany
  

2018年10月7日 ドイツ・キュンツェルザウ カルメン・ウルト・フォーラム

指揮=ホセ・クーラ   演奏=ウルト・フィルハーモニー管弦楽団

 

 

 


 

 

この時のコンサートの様子は、以前の記事「2018年 ホセ・クーラ、ドイツとスイスでアルゼンチン音楽のコンサート」で紹介しています。

当日は、クーラが指揮するこの「新世界より」と、クーラが歌手としても歌うアルゼンチン歌曲、という2部構成のコンサートでした。ただし、今回の録画は、「新世界より」だけで、歌の方は入ってません。

もともと指揮者・作曲家を志望して大学でも指揮と作曲を専攻したことは、これまでこのブログの記事でも何度か紹介してきました。クーラにとって、この「新世界より」は、何度も指揮し、かつてCDも発売したこともある作品です。ドヴォルザークの生誕地チェコでも指揮した経験があります。

今回の公演でも、動画でも見えますが、終了後、観客からスタンディング・オベーションで大きな喝采を受けていました。またオーケストラの若いメンバーがFBで、「今夜奇跡が舞台で起こった!!!!!ホセ・クーラ、ありがとう」と書き込んでいましたが、観客だけでなく、オケのメンバーも含め、一体感のある感動的な公演だったようです。

クーラの指揮は、動きは最低限にしつつ、大柄な体でダイナミックに振り、ドラマティックな面と繊細な表現と、メリハリの利いたものになっていると私には感じられました。

コロナ禍で、この春から夏にかけて、ほとんどの劇場やホールが閉鎖され、オペラ公演、コンサートがキャンセルになりました。スペイン・マドリード在住のクーラも、長期にわたり外出禁止・自宅待機を余儀なくされてきました。ようやく制限が緩和されつつあり、公演も再開に向けて試行錯誤が始まっていますが、まだまだ先行きは不透明です。クーラの今後のカレンダーも、いまだに公開されていません。

この秋のクーラのアイーダでの来日予定がコロナ禍のためにキャンセルになり、がっかりもあり、しばらくブログの更新も滞っていました。しかし幸いなことに、クーラ自身は、元気で作曲などの音楽活動にも打ち込み、今後に備えているようです。近いうちに、新しいオペラ公演、コンサートの予定が発表されることを待ちたいと思います。

 

 

*画像はオケのFBからお借りしました。

 

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ホセ・クーラ 影響を受けた作曲家、最も強烈な音楽的体験についてーー2017年アルゼンチンでのインタビュー

2019-04-06 | 指揮者・作曲家として

 

 

ホセ・クーラは、この4月27日(2019年)、 プッチーニのオペラ「修道女アンジェリカ」(コンサート形式)を指揮する予定になっています。場所はポーランドのルスワビツェという町にあるペンデレツキ音楽センターです。このコンサートの様子は、また後ほど紹介したいと思います。

今回の話題の1つは、この施設に名前を冠しているペンデレツキに関することです。ペンデレツキは、ポーランドの指揮者、作曲家で、現在85歳(2019年4月時点)。クーラが2001年からの3年間、首席客員指揮者を務めたシンフォニア・ヴァルソヴィアの音楽監督、そして現在は芸術監督だそうです。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」という作品も発表していて、来日して日本のオケと協力関係にあったこともあるとか。

このペンデレツキは、実はクーラが感銘を受け、影響を受けた作曲家の1人なのだそうです。その後、その作曲家が音楽監督を務めるオーケストラの客員指揮者となれたわけですから、非常にうれしい出会いであり体験だっただろうと思います。

ということで、今回は、このペンデレツキをはじめ、影響を受けた作曲家、重要な音楽的体験、演技と歌唱の関係などについてクーラが語った、2017年アルゼンチンでのインタビューから抜粋して紹介したいと思います。

これまで何回か紹介してきたインタビュー等の内容と、もちろん重なる部分はありますが、ここまで詳しく、自分の音楽体験について触れた話は、私は初めて読みました。例によって、誤訳、直訳、ご容赦ください。


  

 クシシュトフ・ペンデレツキ(ポーランド1933~) 世界文化賞HP

 


 

 

 テアトロ・コロンでシェニエを歌うクーラ

 

≪テアトロ・コロンのアンドレア・シェニエ出演にあたってのインタビューより――2017年12月≫

 

Q、確かに、ホセ・クーラは非常に優れたテノールだ。舞台演出をするだけでなく、オーケストラの指揮(1996年以来、彼は定期的にオペラ、そしてシンフォニー作品も指揮している)と作曲を行っている。後者は実際に、故郷のロサリオでアーティストになった最初のものだった?

A、私は作曲とオーケストラの指揮に専念していたが、70年代からの軍事独裁政権の時期、そしてその後の80年代の10年間は、指揮者として成功することは非常に困難で、作曲家として成功するなど考えられない時代だった。そのため、私はオペラに行った。


Q、音楽家の家族の出身?

A、そうではない。音楽好きの家族だったが、音楽家ではなかった。私の母はいつも私たちに、偏見を持たずに、非常に良い音楽を聴かせてくれた。それはシナトラであり、ビング・クロスビーであり、ベートーヴェン、ラフマニノフだった

私は12歳の時にギターを始めた。そしてある時、私の教師が言った。ーー “いいかい、ホセ。君は、この楽器にはあまりに情熱的すぎる。ギターは、ごくまれな場合を除いて、もっと内向的な人々のためのものだ。そして、いつか君は、それを手放すだけでは十分でなく、それをバラバラにしてしまう時が来るだろう”―― 結局、私は、Juan Carlos Zorziとともにオーケストラの指揮を、そしてCarlos CastroとLuis Machadoについて作曲と分析を勉強した。全員がとても優秀な教師だった。

 

Q、あなたの作曲に主に影響を与えたのは?

A、主として新ロマン主義音楽。1984年に、クシシュトフ・ペンデレツキがテアトロ・コロンで彼の「テ・デウム (Te Deum)」を指揮したのを見て、非常に感銘を受けた。私はコロンの付属高等研究所の合唱団にいた。それは非常に素晴らしい経験だった。

その頃、私はフォークランド戦争の犠牲者のためにレクイエムを書いた。私の世代はマルビナスで戦ったが、私は番号が後の方だったので救われた。「093」、私はそれを昨日のことのように覚えている。

(*注 当時のアルゼンチンは徴兵制があり、1982年に軍事独裁政権がイギリスとの間で始めたフォークランド戦争・マルビナス戦争には、クーラの世代の若者が送り出されたそうです。その頃19歳の学生だったクーラも予備役にいて、番号順に出兵させられることになっていたのですが、幸いクーラの順番が来る前に戦争が終結したということのようです。)

それは平和のためのレクイエムで、2つのコーラスのためのものだ。 私の夢は、和解の象徴として、アルゼンチンとイギリスの2つの合唱団によって演奏されることだった。そのレクイエムは発表されることはなかったが、明らかに80年代のペンデレッキの影響を受けている。そのポーランドの音楽家が原点に回帰していった頃だ。

数年後、私の最初の子どもが生まれた1988年に、昨年初演した「マニフィカト(Magnificat)」を書き、1989年に、キリストの最後の7つの言葉についての「この人を見よ(Ecce Homo)」を書いた。それは今年、初演された。現在、30年間のステージ活動を経て、そしてこれまで多くの音楽を演奏してきた経験をもって、私の音楽は、より演劇的、より即興的、よりドラマティックになっている。 言葉との関係によって。私は、シンフォニックやインストゥルメンタルの音楽を書くことより、言葉にリンクされた音楽の方に夢中になっている。

 

Q、興味がある作曲家は?

A、私はカタロニアのサルバドール・ブロトンスがとても好きだ。

しかし、最も強烈な音楽的経験の1つは、ベンジャミン・ブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」でのデビューだった。それはショックだった。なぜなら、 私が無意識のうちに自分の音楽の中でやっていた多くのことを発見したからーーそれは言葉に奉仕するための音楽の使い方を裏付けるようだった。

グライムズは私にとって、様々な理由から長い間やれなかった作品だ。それをやりたくて、コヴェント・ガーデン(英ロイヤルオペラハウスのこと)に私が提案した時、彼らは言った――「ああ、でもあなたのアクセントでは・・」。そして私は言った――「ほら、私はスペイン語のアクセントで完璧に英語を話す。あなたが英語のアクセントでイタリア語を話すように」。ラ・ボエームのアリア「冷たい手を」の「che gelida manina」を、「Che gelida maninou」と歌っても、誰も何も言うことはなかった。

結局、ボン・オペラが私にそれを申し出てくれて、そこでの初演は大成功だった。私たちは10回の公演(2017年5月初演)を行い、それらはすべて完売したが、演出も私がやった。そして今度はそれをモンテカルロオペラに持っていく(2018年2月)。

 

 

 ブリテンのピーター・グライムズの舞台より

 

Q、舞台演出に進出したきっかけは?

A、それは結果だった。

もし、今から20年後、あるオペラの歴史の研究者が、クーラは何をしたのか、私たちのために何をつくったのか、と問うたとしたら、多分それは、舞台上での演技に対するコミットメント、時には歌唱を危険にさらすことさえしても、すべてキャラクターのために、舞台上のドラマのために、演じるという事実だろう。これは私が公然と認めていることだ。私は、何かを犠牲にしなければならないならば、むしろ音を犠牲にする、と言うことは恥ずかしいと思わない。音の”意図”が犠牲になった場合は、二度と回復しない瞬間が失われる。しかし、もし、より劇的な意味合いを与えることができるなら、それらの音は失われない。

そして、もし人々が、わずか2つか3つの音符が汚れたためにその公演全体を否定するのなら、彼らは、録音ではないライブ公演の原動力について、何も理解していないということだ。オペラ歌手は、”演技もする歌手”ではなく、同じ意味で俳優であり歌手であることを理解しなければならない。私の「姿」はそういうものだと信じている。そうでなければ、”単なる歌手”、または”単なる俳優”だ。 2つのことを共にするのは、自己犠牲と大きな肉体的努力を意味する。

 

Q、シェニエについては?

A、それはひとつの肖像。シェニエは自分の名声を利用して自分の考えを伝えた。彼は詩人であり、その当時のボブ・ディランだったが、ディランだけがノーベル賞を手に入れ、シェニエはギロチンで亡くなった。第1幕のシェニエのアリアは、抗議の歌=プロテスト・ソングだ。シェニエの誠実さ、一貫性は第3幕で完全に証明されている。なぜなら、彼は革命を支持しているが、革命は、それが対抗したのと非常によく似たものになり始めている。そして彼は、彼が革命を支持したのと同じ勇気で、その行き過ぎを非難する。彼はとても現代的なキャラクターだと思う。そして今日、我々はたくさんのシェニエを必要としている。

(「clarin.com」)



 

なかなか興味深いインタビューでした。クーラはここでも触れていますし、これまでの記事でも何度か紹介してきたように、少年時代から、指揮者、作曲家を志し、大学でも専門的に学んできました。しかし社会的に困難な時期に生きていくため、家族のために、より収入の得やすいテノールとなり、渡欧を決断し、そこから国際的なキャリアにふみだすことができました。

その結果、テノールとして世界的に有名になったために、指揮の活動に復帰できた時にも、”指揮もするテノール”とか、”有名になったために、余技で指揮をしている”などという見方をされ、それは現在でもあるように思います。

しかし今回のインタビューを読んで、あらためて、クーラ自身の音楽的な志向、アーティストとしての探求と欲求の芯には、一貫して指揮と作曲があったことがよくわかりました。そして歌手がメインとなった期間に、スコアとリブレットを通じてキャラクターとドラマの探求をすすめてきた経験と蓄積が、現在にいたる指揮者、作曲家としての活動を、より豊かに、より深くする関係になっているようです。

また、ペンデレツキに感銘を受け、その影響を受けた曲を書いていたことは、印象的なエピソードです。ペンデレツキは、広島の原爆犠牲者を追悼するレクイエムやアウシュヴィッツの犠牲者に捧げた作品を発表してきたそうです。私はペンデレツキについて詳しく知るわけではありませんが、クーラが共感し、影響を受けたのも、そういう社会的視野と音楽性の両方があるのかもしれません。

以下の文章は、ペンデレツキを紹介した「世界文化賞」のサイトからの抜粋、引用です。

「幼いときにユダヤ人迫害を目の当たりにした体験を持ち、アウシュヴィッツの犠牲者への追悼作『怒りの日』や、ポーランド民主化運動に関連した『ポーランド・レクイエム』などの作品もある。『芸術家はその時代について証言し、語る必要がある』と言う。 ……

 72年からは作曲だけでなく、指揮者としても活躍しており、ベルリン・フィルやニューヨーク・フィルなどを指揮、北ドイツ放送交響楽団の首席客演指揮者も務めた。『昔は作曲家は同時に指揮者だった。指揮をすることで、すべての楽器に精通することができ、正確な記譜ができる。作曲、演奏、指揮と、真の音楽家は何でもできなければならない』」

ここで紹介されているペンデレツキの言葉は、アーティストの社会的責任、芸術的多面性など、クーラの信条、芸術的信念と共通点がとても多いように思います。ペンデレツキのいう「真の音楽家」の道、クーラは今後、どこまですすんでいくのでしょうか。

 

 

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2019年 ホセ・クーラ スペイン・リェイダでベートーヴェン交響曲第4番、ロドリーゴ・アランフェス協奏曲を指揮

2019-02-05 | 指揮者・作曲家として





ホセ・クーラの2019年最初の公演は、1月19日、指揮者としてのコンサートでした。
マドリード在住のクーラにとっては自国内の都市、スペイン東部カタルーニャ州のリェイダで、オケはフリア・カボネル・デ・レス・テレス・デ・リエダ交響楽団 (OJC)です。

このオケとは、2016年12月に初めて共演して、クーラがドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」など指揮しています。
 → その時の様子を紹介したブログ記事

2回目の今回は、ベートーヴェンの交響曲「第4番」と、スペイン人の作曲家ホアキン・ロドリーゴのギターと管弦楽のための「アランフエス協奏曲」などが演奏されました。
哀愁あふれるメロディで有名な「アランフェス交響曲」は、80年前の1939年に作曲され、翌年、同じカタルーニャ州の州都バルセロナで初演されたのだそうです。

今回のギターソリストは、チェコ出身の18歳と若い女性ギタリストBarbora Kubíkováさん。チェコのプラハ響とのコンサートやドレスデンでのコンサートなどで共演を重ねています。クーラ自身も12歳からギターを学び、今もギターを最も愛する楽器と語っていますが、この若い才能あるギタリストに対するクーラの大きな期待を感じます。





José Cura again with OJC!
4th of Beethoven and the Concert of Aranjuez
Saturday January 19 - 8pm
Lleida. Auditori Enric Granados

Program
Tres Viejos Aires de Danza J. RODRIGO
Concert by Aranjuez J. RODRIGO
Symphony no. 4, Op. 60, at Sib Major LV BEETHOVEN

Julià Carbonell Symphony Orchestra of the Terres de Lleida - OJC
Barbora Kubíková , guitar
Director: José Cura

ロドリーゴ「3つの古い舞曲の調べ」、「アランフェス協奏曲」
ベートーヴェン「交響曲第4番」
フリア・カボネル・デ・レス・テレス・デ・リェイダ交響楽団 / エンリケ・グラナドス音楽堂 / スペイン・リェイダ









≪リェイダの街に張り出されたポスター≫

共演者のFBより





≪レビューより≫

●敏感でコミュニケーション力のあるミュージシャン

ホセ・クーラは、自分が何を求めているのかを知っていて、それを達成するために働く、敏感でコミュニケーション力のあるミュージシャンだ。テノールとして有名であり、彼は常に興味深い解釈をする監督である。
そして、コンサートの最初の作品からすでに、彼が、音楽の呼吸を可能にし、歌詞を探求し、各フレーズを味わい、また常に透き通った肌合いを求めていることは明らかだった。


●アンダルシアの刺激的な色合い

アランフェス協奏曲、確かに最もポピュラーなギター協奏曲であり、間違いなく今までに書かれた中で最も美しいものの一つ。そして、その夜の最も期待される瞬間の一つだった。
・・・
アンダルシアの刺激的な色合いは、そのリズム、メロディーの好み、そして微妙なオーケストレーションによって、曲の始まりから明白になる。輝く「Allegro」は、ソリストに注意を払いながら、活気に満ちたリズムを際立たせた。よく知られている「アダージョ」では、私達にイングリッシュホルンとギタリストとの美しい対話を提供した。間違いなく、定評のある弦と、有機的に構築されたクライマックスを提供する、最も完成された瞬間の1つ。

チェコのギタリストは、オーケストラに飲み込まれない素晴らしいサウンドを持ち、優雅さ、感度、そして豊かな色彩を見せた。






●生き生きとした、最高のオケ、クーラによる素晴らしい仕事

コンサートの第2部では、非常に生き生きとしたベートーヴェンの交響曲第4番で、私たちにこの夕べの最高のオーケストラを与えた。
オケのミュージシャンたちは、ゲスト指揮者クーラと完全に調和して、しかし劇的なフィット感やハイライトに引きずられることなく、激しいバージョンを達成した。

木管の良い仕事、特にオケの演奏のなかでのファゴットは、指揮者とともに一生懸命に働くことで素晴らしい瞬間が可能であることを示していた。そしてホセ・クーラによる素晴らしい仕事、彼はOJCのメンバーからすべての果汁を引き出す方法を知っていた。

(「revistamusical.cat」)



"土曜日の素晴らしいコンサートの写真のごく一部をお楽しみください。
いつものように、マエストロ・クーラとともに仕事をするのは、スイングがたくさんある素晴らしい経験です!"



≪リハーサルの様子≫

オケのFBより




オケ関係者のFBより




≪リハーサル動画≫

ギタリストのBarboraさんがFBに投稿してくれた動画です。

有名な哀愁漂うメロディを歌って指示しながらリハーサルするクーラ。もっと歌ってほしい(笑)



こちらは昨年5月のドレスデンのコンサートにむけたリハ、ソリストと2人で。クーラの声とギターがしみじみ美しい。

 

≪追記・本番の動画 アランフェス協奏曲≫

共演したギタリストのバルボラさんが、アランフェス協奏曲の全曲と、アンコールの様子の動画をアップしてくれました。約30分です。とても美しく郷愁に満ちたメロディが素敵で、ギターもよく響いています。ただ、客席からの録音のため、咳の音が何度も酷く響いているのがとても残念です。クーラの指揮、後ろ姿だけでとても存在感があります。

Concierto de Aranjuez - Barbora Kubíková (guitar) & José Cura (conductor)

 



************************************************************


今回のコンサート、実は、演奏中に、不幸にも観客の携帯電話が鳴るということが1回ならず3回もあったそうで、まったく残念なことでした。しかし、音楽的な内容の上でも、またほぼ満席となったという点でも、大成功だったようです。

今年2019年のクーラは、指揮者としての新たな挑戦がたくさんです。ベートーヴェンのシンフォニーあり、ヴェルディのレクイエムあり、プッチーニのオペラ、聖女アンジェリカあり、そしてクーラ自身が作曲した曲も演奏されます。

こうした指揮者としての研究と準備、作曲や編曲の仕事とともに、歌手としてのコンサートやオペラ出演があり、そしてもしかすると、来年以降の新しい演出など未公表のプロダクションもすすめているのかもしれません。本当にハードワークの人生です。

良いスタートを切った今年、ひとつひとつの公演が成功すること、そしてクーラの努力と研鑽により、その芸術がいっそう深く、高く、多面的に、豊かに実る年となることを願っています。



*画像はオーケストラのFBなどからお借りしました。

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ホセ・クーラが作曲し、歌う、パブロ・ネルーダの詩 / Jose Cura and Pablo Neruda 

2017-01-16 | 指揮者・作曲家として



以前の投稿で、ホセ・クーラが、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの詩に作曲した、音楽ドラマ「もし私が死んだら」を紹介しました。
そのうちの2曲を、昨年11月、ドイツとルクセンブルクのコンサートで、クーラが歌い、ラジオ放送されたことも、すでに紹介した通りです。

「2015年 ピエタリ・インキネンとホセ・クーラ プラハ響とクーラ作曲作品を初演」
「2016年 ホセ・クーラ ドイツとルクセンブルクでラテンアメリカの曲コンサート」


実は私は、このドイツのコンサートの録音を、この間、何度も繰り返して聞いて、聞くたびに、表現や声のニュアンスに新しい発見をして、楽しんでいます。

もともと作曲家・指揮者志望で、作曲と指揮を大学でも専攻したクーラ。このネルーダの詩に作曲するについては、次のように語っていました。


(再掲 2016年インタビューより)

「この"Si muero, sobrevíveme!"(「もし私が死んだら」)は、何年も前に私が作曲したもので、詩人の妻、マティルデ・ネルーダとパブロとの間の、詩の形による、25分間の対話だ。」

「ハイ・バリトンのために書いた。なぜなら、私は、バリトンの声は、室内楽にとって最も美しいものと考えているからだ。女性にとってのメゾ・ソプラノのように。ミドルゾーンは、声がより甘く、より柔らかく流れる場所。これは私自身のボーカルを反映している。高い音を歌うことができる暗い声だ。
普通の歌のように歌うことはできない。聞くだけでは学ぶことができないという意味で、それらは知的で、音楽をよく読み、深く理解することが必要であり、実際には、ピアノと歌による長いデュエットだ。」

「ネルーダの詩は感覚を目覚めさせ、昔ながらの方法で演劇的。それぞれの言葉には演劇とドラマが満載されている。選択肢は、言葉にそってメロディーを書いたり、音楽を書くこと、しかしそれは、ネルーダの魅惑的な世界を開く感覚的な豊かさをともなうことが必要だ。」

「音楽の複雑さはテキストの複雑さに関係しているので、純粋なメロディーを聴く必要はない。メロディーそれ自体を提示することから離れて、詩に集中しなければならない。」

「私の曲で、私の心と魂にふれてほしい。ネルーダのドラマの中で、親密な愛の物語を描きたかった。
この作品は音楽だけでなくドラマ。パブロと妻との会話。人間が書くことができる最もロマンチックで官能的な言葉。」





“メロディを追うのではなく、詩に集中してほしい”というのが、作曲家としてのクーラの願いです。
しかし私には、スペイン語はまったく理解ができないために、せっかくのクーラの思いを受け止めることができずにいました。

それで今回は、再度、クーラの「もし私が死んだら」からの2曲の音源リンクを紹介するとともに、スペイン語の歌詞と、恥ずかしながら自作のその簡易的な日本語訳を掲載したいと思います。
やはり詩は比喩などが難解で難しく、日本語の訳は、訳詞とはとてもいえないレベルのもので、とりあえず単語を訳して並べた程度です。誤訳も多々あると思います。さらに意味が通らない部分もありますが、やむをえない事情によるものとご容赦ください。

ぜひ、つぎに紹介する音源、クーラの表現するネルーダの愛の世界を味わいながら、スペイン語、そしてその意味(まことに不十分で申しわけありませんが)を参照にしていただければと思います。
本当は正しい訳詞があれば良いのですが・・。もしスペイン語に堪能の方で、訳の誤り、改善案をご教示いただければ、本当にありがたいです。


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→ ホセ・クーラ作曲 「もし私が死んだら」から2曲  
 *2曲あわせて6分ちょっと。音源がファンページのブラボ・クーラにアップされいますので、そのページに飛びます。 
  歌詞を見ながら聞いていだたくためには、右クリックで〈新しいタブで開く〉にしていただいたほうがよいと思います。


≪ 1曲目 ≫
DE NOCHE, AMADA 79番目のソネット

PABLO NERUDA(パブロ・ネルーダ)

De noche, amada, amarra tu corazón al mío
夜には、私の愛、あなたの心と私に結んで

y que ellos en el sueño derroten las tinieblas
そして夢の中で、暗闇を破るために

como un doble tambor combatiendo en el bosque
森の中でふたつの太鼓がたたかうように

contra el espeso muro de las hojas mojadas.
濡れた落ち葉の厚い壁に抗して。

Nocturna travesía, brasa negra del sueño
夜の交差点、黒炭のような夢

interceptando el hilo de las uvas terrestres
地上の葡萄との糸を断ち切りながら

con la puntualidad de un tren descabellado
風変りな列車の時間厳守さとともに

que sombra y piedras frías sin cesar arrastrara.
それは影と冷たい石を引きずりながら。

Por eso, amor, amárrame el movimiento puro,
だから、愛する人よ、私を純粋な動きに結びつけて

a la tenacidad que en tu pecho golpea
あなたの胸を打つ強さに

con las alas de un cisne sumergido,
水のなかの白鳥の翼とともに

para que a las preguntas estrelladas del cielo
天の星たちの質問に

responda nuestro sueño con una sola llave,
ひとつだけの鍵がある私たちの夢をこたえるために

con una sola puerta cerrada por la sombra.
影によって閉ざされたたったひとつのドアの。


≪ 2曲目 ≫
PENSÉ MORIR 90番目のソネット

PABLO NERUDA(パブロ・ネルーダ)

Pensé morir, sentí de cerca el frío,
私は死ぬのかと思い、体に冷たさを感じ

y de cuanto viví sólo a ti te dejaba:
私が生きた後、そこに残すすべてである、あなたを思う

tu boca eran mi día y mi noche terrestres
あなたの口は、私の大地の昼と夜

y tu piel la república fundada por mis besos.
そしてあなたの肌は、私のキスで築かれた共和国。

En ese instante se terminaron los libros,
その瞬間、本も

la amistad, los tesoros sin tregua acumulados,
友情、これまでに蓄えられた宝もの

la casa transparente que tú y yo construimos:
あなたと私が建てた透明な家も、終わる――

todo dejó de ser, menos tus ojos.
すべてがなくなる、あなたのふたつの瞳の他には。

Porque el amor, mientras la vida nos acosa,
人生がわたしたちを苦しめるとき、愛だけが

es simplemente una ola alta sobre las olas,
押し寄せる波よりも、高く波打つ

pero ay cuando la muerte viene a tocar a la puerta
しかしもし、ああ、死が近づいてきてドアをノックするなら

hay sólo tu mirada para tanto vacío,
あなたのまなざしだけが、その空虚に対し残り

sólo tu claridad para no seguir siendo,
あなたの輝きだけが、失われず

sólo tu amor para cerrar la sombra.
あなたの愛だけが、暗闇を閉じる。




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2016年 ホセ・クーラ スペイン・リェイダでドヴォルザーク「新世界より」を指揮 / Jose Cura conducts Dvorak Symphony No.9 in Lleida

2016-12-31 | 指揮者・作曲家として



ホセ・クーラの2016年最後の公演は、スペインの東部カタルーニャ州のリェイダ(リエダ)でのコンサート。
地元のオーケストラ、フリア・カボネル・デ・レス・テレス・デ・リエダ交響楽団=Orquestra Simfònica Julià Carbonell de les Terres de Lleida (OJC)を指揮して、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」などを演奏しました。

実は指揮者としてクーラは、このドヴォルザークの第9番を頻繁に演奏していて、CDも出しています。 → クーラのHPのCD紹介ページ
このCDは、マタフ・ハンガリー交響楽団との演奏ですが、「新世界より」の他に、ドヴォルザークのチェコ語の歌曲、愛の歌をクーラが歌ったものもはいっている、ユニークなものです。





さて今回のコンサート。無事に成功し、良いレビューも出されました。

「クーラはリハーサルで驚異的な仕事をした。(オケの編成が通常の『新世界より』を演奏するより小さい)これらの条件で管理し、ミュージシャンたちは感動を覚えた。彼らは互いにすべてに耳を傾けあった。」「ピアソラの美しいタンゴとバーバーのアダージョ・・あなたは一目で恋に落ちる。何という素晴らしいコンサート!」(SEGRE.COM)

録音や録画などはありませんが、オーケストラや現地のプレスが画像をアップしてくれましたので、それを紹介したいと思います。
また、コンサートに向けたインタビューもありましたので、抜粋して紹介しました。

オケHPの告知とプログラムのページ



2016/12/17
フリア・カボネル・デ・レス・テレス・デ・リエダ交響楽団
指揮 ホセ・クーラ

≪プログラム≫
●サミュエル・バーバー(アメリカ) 「弦楽のためのアダージョ」
●アストル・ピアソラ(アルゼンチン) タンガーソ
●アントニン・ドヴォルザーク(チェコ) 交響曲第9番「新世界より」

Saturday 17 December 2016
Orquestra Simfònica Julià Carbonell de les Terres de Lleida (OJC)
Director: José Cura

PROGRAMME
Samuel Barber  Adagio for Strings
Astor Piazzolla   Tangazo
Antonin DvorakSymphony  no. 9, Op. 95 in E minor, "From the New World"

12月の真冬に、半そでオケとリハーサル中のクーラ。



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――2016年12月、リェイダでのインタビューより

Q、自分を定義するのは?

A、あなたが自分自身を定義するとき、それがすべてになる。アーティストの死がその定義だ。アーティストであることをやめる。
ミュージシャンは、公的に規制された活動ではない。私はあらゆる面で快適に感じる。
しかし、仕事でチームをリードするとき、チームが安心感をもてるように、十分に良く、権限を持っていることに本当に感謝している。

Q、あなたは世界の舞台、特権的な場所で39年以上の国際的経験を持つが、「テノール」の役柄は、最も重視され続けている?

A、それはテノールの役柄ではなく、歌手のことだ。
もっと技術的には、純粋に生理学的レベルにおいて恵まれていれば、声は個人の心理学に密接に関連しているもの。
ヴァイオリニストは、心理的に問題があれば効果的に演奏できないけれど、機器は引き続き機能している。しかし歌手は楽器を演奏することができないだけでなく、それはもはや機能しない。なぜなら、あなた自身が楽器であるから。不安は歌唱に影響を与える。





Q、歌手として、賞賛と拒絶反応を同時に呼び起こすのは?

A、それは私の名前についての個人的なものだとは思わない。
提案しなければ意見が分かれることはない。1つのことを創る目的のための相違であり、結果が判明するのを確認することだ。

間違いを避ける唯一の方法は何もしないこと。リスクは依然として存在する。
加えて言うならば、私たちのラテン社会は非常に困難だ。(サッカーの)メッシを賞賛したかと思うと、別のものを試してみて、それを終わらせようとする。
誰もがあなたを好きなら、新しいことをしていないということ。しかし、皆に不快感を与えるならば、それは間違っているということだ。





Q、演出をしながら、同時に歌うのは?

A、私は歌と演出を同時に行った。それは可能だが、しかしとても疲れる。最終的に、エネルギーとリスクのコストは評価されない。
それはコーチであるサッカー選手のようなもの。頼んだことができることを知っていて、彼らの反対側にいるという利点がある。あなたはできないとは言えない。
同様に、あなたが歌手として、そのフレージングを、ディレクターとしてうまく管理することができれば、大きな利益がある。

Q、あなたは1999年からマドリッドに住んでいる。スペインのオーケストラを指揮したことは?

A、スペインのオーケストラを私が指揮したのは初めて。
私は作曲家と指揮者としてキャリアをスタートした。しかし当時、軍政下のアルゼンチンではすべて非常に困難だった。作曲家や演出家として成功することは難しかった。
私はいつも歌っていたが、オペラ歌手になるつもりはまったくなかった。
音楽学校では、歌は補完的なものであり、ある日、教授が私に言った――「歌を学びなさい。歌手になるためではなく、最高の指揮者になりたいならば」と。





Q、ここのオーケストラ(OJC)についてどう考える?どのように協力を?

A、オーケストラは非凡で、ミュージシャンは非常に良いプロフェッショナルだ。
彼らは本当に音楽をつくりたいと思っている。
練習には長所と短所があるが、私たちは共通のプロジェクトを達成するため、楽しもうとする姿勢がある。
私たちは一緒に演奏し、共通のプロジェクトをもっている。コンサートのエネルギーは素晴らしいものになるだろう。私も楽しんだし、すべてのリハーサルを楽しみにしていた。

Q、オーケストラはちょうど創立15年を迎えた。支援と成長への助けをどう考える?

A、ますます人間性を無視している世界において、私たちの文化機関を支援することは不可欠だ。
純粋なクラシック音楽、バレエやスポーツは、きわめて稀な人間的な活動である。それは、共通言語としての音楽による通訳で、出演者と聴衆との間のコンピュータを介さないネットワークだ。
人々と社会が必要とするように、実行されなければならない。人々の守護者として政治家が責任を負うべきだ。
そして、私たちが今週、オーケストラと一緒につくっているような喜びやポジティブな姿勢が、成長を続ける力になる。





Q、この劇場ではオペラの訓練も行っている。こうした機会に参加したい?

A、私は大好きだ。私が貢献できるものはすべて歓迎する。
しかし、そうするためには強い有機的な構造が必要だ。
劇場は素晴らしい...そして、それは作動しなければならない。それはスペインで最初の劇場の一つになる可能性がある。

Q、最後に、土曜日のコンサートでは何が待っている?

A、素晴らしいプログラムだ。
ピアソラのタンガーソはリェイダでは初めてだと思うが、自信を持って素晴らしいものだと言える。
バーバーのアダージョは非常に感情的であり、ドヴォルザークの交響曲「新世界より」は、あらゆる人によって演奏され、おそらく最もよく知られている。
私たちは、人々が快適に感じ、楽しめて、オーケストラを観ることができるコンサートをめざしてきた。なぜならステージ上での練習は、街の延長だからだ。聴衆とオーケストラとの間につよい交友関係があることを私は確信している。

(「REVISTA MUSICAL CATALANA」)





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リェイダのマスコミにも出演しました。
コンサートの前日には、ラジオ番組に出演して、インタビューを受けたようです。




こちらはリハーサルの様子とインタビューを報道した現地の新聞。






今回のコンサートの録音はありませんが、2003年にクーラがプラハで指揮したドヴォルザーク「新世界より」の録画が、クーラの動画チャンネルにあります。
リンクを。 → クーラ指揮「新世界より」(Vimeo)




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2016年内のブログの更新はこの記事が最後です。たまたまですが、今年2月にスタートして、この記事がちょうど、100ページ目となりました。

クーラは2006年以来、10年間来日がなく、日本ではほとんど情報がありません。しかしアーティストとして多面的にますます充実しているクーラ。そのユニークな最近の活動を、できるだけ客観的に伝えたいという思いから、毎回インタビューもできるだけ紹介するようにしてきました。ただ、熱意と意気込みだけはあるのですが(笑)、語学力がついていかず、しかも英語だけでなく、ドイツ語をはじめ、スペイン語やイタリア語、また最近はハンガリー語やチェコ語などが多くて、誤訳だらけ、直訳、拙い仕上がりとなっているのは、恥ずかしく、申しわけなく思っています。

実はこのブログは、2017年/2018年シーズンが、新国立劇場創立20周年、ホセ・クーラが初来日で出演したアイーダから20年となることから、この節目に何らかの形でクーラが招聘されることを願って、少しでも現在のクーラの情報を発信したいという思いから始めたものでした。大変おこがましい話ですが・・。

残念ながら、今のところ、その可能性はほとんどないようにみえます。
また今年、ヨハン・ボータやダニエラ・デッシーの急逝、ホロストフスキーの闘病など、同年代のオペラ歌手の体調不良に関するニュースがかけめぐりました。これにショックを受けた私としては、クーラに、体にも精神的にも負担がかかる来日を望むのはやめて、彼自身が居心地良く、音楽が楽しめる場所で、これまで通り自らの芸術の道をつきすすんでもらいたい、と思うようになりました。もちろん望むのは自由ですし、私には何の力もないので、おかしな話ではありますが(笑)。

ということで、このブログの当初の目的は達成できないことになってしまいました。そのためブログを続ける意味もなくなったわけで、もう止めても良いのですが、せっかく始めたことでもあり、もうしばらく、多面的な活動でアーティストとして成熟期にあるクーラの活動を、紹介していきたいと思っています。
これまで読んでくださった皆様には、ほんとうにありがとうございました。
ぜひまた来年も、よろしくお願いいたします。

またこのブログに目をとめてくださった方で、クーラのことをお好きな方がいらっしゃったら、このブログへのコメント欄や、ツイッターのメッセージ、フェイスブックのメッセージなどに、コメントをお寄せいただければうれしいです。




*写真はリハーサルの様子






*画像は、OJCのHPやFBなどからお借りしました。
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2016年 作曲と指揮 / ホセ・クーラとバッハ、2つのマニフィカト / Jose Cura & Bach / Magnificat

2016-08-11 | 指揮者・作曲家として


2016年3月11、12日、チェコの南ボヘミア州チェスケー・ブジェヨヴィツェでのコンサートで、ホセ・クーラの指揮により、クーラ作曲のマニフィカトとバッハのマニフィカトが演奏されました。

クーラは、テノールとして国際的にその名が知られましたが、もともと大学で指揮と作曲を専攻、指揮者、作曲家をめざして勉強してきた経歴をもちます。これまでも何回か紹介しましたが、1991年にイタリアに渡り、本格的な歌手活動を始める前に、書きためていた多くの作曲作品がありました。長年しまい込まれ、発表の機会をもてずにいたクーラの作品ですが、ここ数年、演奏される機会が相次いでいます。

今回紹介するマニフィカトは、クーラがアルゼンチン在住時代の1988年に作曲したもの。2014年4月に、イタリアのマッシモ・ベリーニ劇場で、クーラ指揮で世界初演されました。 
 → その際の様子を紹介しています 「ホセ・クーラ 平和への思い、公正な社会への発言」

そしてかねてから、好きな作曲家を1人あげるとしたらバッハと答えていたクーラ。自作と敬愛するバッハの2つのマニフィカトを、同じに日に指揮するというのは、喜びもひとしおだったのではないでしょうか。



クーラのフェイスブックの告知画像


会場は、チェスケー・ブジェヨヴィツェの聖ニコライ大聖堂です。
2014年10月30日、クーラ作曲のスターバト・マテールを世界初演した同じ場所です。とても美しい教会のようです。
 → スターバト・マテールの初演を紹介した記事 「ホセ・クーラ 作曲は、やむにやまれぬもの」 



この時期クーラは、ヨハン・ボータのキャンセルを受けて急きょ出演が決まった、ザルツブルク復活祭音楽祭のオテロ(3/26初日)のリハーサルと、このコンサートの準備のために、ザルツブルクとチェコの間で移動を繰り返しており、体力的には大変だったようです。
 → ザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロについては、(レビュー編)をはじめいくつかの投稿で紹介しています。

マニフィカト=「わが心、主を崇め」とは、キリスト教の聖歌で、ラテン語で、聖母マリアの祈りだそうです。
コンサートの前半は、1988年にホセ・クーラが作曲したマニフィカト。ソプラノのために書かれ、子どもたちの合唱団、混声合唱、そして、オーケストラで構成されています。
そして後半では、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685 - 1750)作曲の、Dメジャーのマニフィカト(BWV243)。2人のソプラノ、アルト、テナー、バス、混声合唱とオーケストラによって演奏されました。

クーラがいくつかのインタビューで、このマニフィカトの作曲の思いを語っています。抜粋して紹介したいと思います。

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――2015年ドイツ誌でのインタビューより
1988年にマニフィカトを作曲した。私の妻は、2回流産した後、3回目に妊娠した自分自身に気づいた。今回は明らかに確実に思われた。
長男が生まれた時、私は25歳だった。マニフィカト誕生と同時だった。
その3年後に、私たちは幸運を求めて、ヨーロッパに移住した。そして私の歌手としてのキャリアが始まった。当時の楽曲は、27年間、ボックスに仕舞い込まれていた。
私が思うこのマニフィカトは、聖母マリアの歓喜の歌であるだけでなく、夢でいっぱいの若者、そして彼女にいま起こっていることに直面して抱いている怖れの歌でもある。
1988年、テキストにこういう思いを込めて音楽をつけた。プレミア(2014年4月)は非常にうまくいった。私に信頼を寄せてくれたベリーニ劇場(初演の場となったイタリアの劇場)には本当に感謝している。



――2016年2月プラハでのインタビューより
マニフィカトは聖母マリアに捧げたもの。しかし、主要なインスピレーションは、私がついに父親になったということであった。

――チェコでの報道より抜粋
チェコでバッハとクーラ作曲の2つのマニフィカトを指揮する。現代とバロックの2つのスピリチュアル・ソングによる純粋なプロセスになるだろう。
「観客には、コンサートを絶対に逃さないようにといいたい。それは歴史的な出来事になるだろう」とクーラ。
マニフィカトは、イエス・キリストの誕生の前に聖母マリアが歌う賛美歌。ラテン語の詩に由来する。
「2つのバージョンでは、リスナーは、精神的な音楽の強さに、涙をさそわれることになるだろう。そこには時間の境界がないことを知らされる。」
「それは特別なコンサート、この劇場のシーズンの偉大な文化的なイベントになるだろう」と南ボヘミア劇場の支配人。



――2016年3月チェコでのインタビュー
当時、私は25歳だった。妻は2回の流産を経て3度目の妊娠をした。法王が聖母マリア年を宣言した年だった。
歌は私たちが子どもを得た喜び、そして聖母マリア出現への喜びを表現した。しかしそれだけではない。



マリアがその事を知った時、彼女はまだティーンエージャーだった。そして彼女は恐らく、かなりのショックを受けただろう。
私のマニフィカトでは、マリアが砂漠に1人で座っているところから始まる。作品のメッセージが表示される。

1人でいる場合には、人は何もできない。もし我々が団結せず、戦争、テロリズム、経済的道徳的危機を別のものに置き換えようとしない限り、我々は勝利することはできない。
これがマニフィカトに託した、私のメッセージだ。



第2部では、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲の1723年、D長調のマニフィカトを演奏する。バロック時代の象徴的なマドンナの音楽的肖像画だ。

南ボヘミア劇場との連携は5回目となる。2011年にチェスキークルムロフの回転劇場で、道化師のカニオを引き受けたことから始まった。
野外公演で雨が降り始めたが、パフォーマーの誰もがその場を離れなかった。プロの99%は雨で止める。全員がとどまったことを見たことがなかった。私はとても感動した。この人たちと一緒に仕事をしたいと思った。

最初のリハーサルの時、誰もが緊張するが、彼らもかなり緊張していた。彼らは自分自身のベストを尽くし、それらが良いことを私に証明したかった。30分後に、全員が感じた――それは美しい音楽だった。



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ホセ・クーラ指揮、3月11日の2つのマニフィカトのコンサート。多くの写真がフェイスブックなどネット上に掲載されました。
オーケストラ、ソリスト、合唱団、総勢128人のパフォーマーによるステージだったそうです。







いくつか動画もアップされています。
オーケストラとリハーサル中。
JOSÉ CURA


コーラスとのリハーサルの様子。
Jose Cura Magnificat / Rehearsal 2016


ソリストとのリハーサル中。
まるでシェークスピア劇のようなセリフ回しで、ソリストに解釈を伝えるホセ・クーラ
Jose Cura Magnificat / Rehearsal with soloists 2016


オケ、ソリスト、合唱がそろったリハーサル風景がチェコのニュースで紹介された。
Jose Cura Magnificat rehearsal news video


ホセ・クーラと。ソプラノ歌手のマリア・ヴィーソ、3/12のマニフィカトのコンサートを終えて。
“Thank you! Such a wondefull concert”とコメント。


出演したソリストたちとホセ・クーラ。


マニフィカトをめぐるエピソードからは、クーラの妻シルヴィアさんと子どもへの深い愛が感じられます。クーラは、長男に続き、長女、二男の3人の子どもに恵まれました。
 *クーラの家族については  → ホセ・クーラ 妻、家族、愛について

クーラ作曲の諸作品は、これからも世界初演が予定されています。しかし残念ながら、コンサートに参加した人以外には、まだ作品に触れる機会はありません。CDやDVD、それ以外でも何らかの形で、視聴できるようにしてほしいものです。
もちろん、日本で、日本のオーケストラとともに作品を演奏する機会があれば、それが一番うれしいですが・・。どこか日本のオーケストラが招聘してくれないものでしょうか。
クーラは今、プラハ交響楽団のレジデントアーティストとして契約・活動してますので、その縁で、プラハ響の首席指揮者であるインキネンが常任指揮者に就任する日本フィルで、こういう企画が実現したら素晴らしいと思うのですが、いかがでしょう?

           









*画像は、主催者のFBなどからお借りしました。



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ホセ・クーラ 作曲は、やむにやまれぬもの Jose Cura / As a Composer 

2016-06-07 | 指揮者・作曲家として


何度か、このブログの投稿で紹介しましたが、ホセ・クーラは、もともと作曲家、指揮者が志望でした。10代の頃から作曲を始めましたが、それは、全く自発的なもので、自分自身で音楽を楽しむためだったそうです。その後、教師について学び、大学でも指揮と作曲を専攻しています。

いろいろな事情や偶然のアクシデントから、声が認められ、テノールとして成功しましたが、その経過については、詳しくはこれまでのいくつかの投稿をお読みいただけるとうれしいです。

 「略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」   「ホセ・クーラ 音楽への道」

ピアノに向かい、ギターを抱えながら作曲中 青年時代のクーラ


長らく作曲からは遠ざかっていたようですが、ここ数年、急展開で、クーラの作曲作品が発表される機会が増えています。
とりわけ2015/16シーズンから、プラハ交響楽団と3年のレジデンシャル・アーティストの契約を結びましたが、そこには、毎年1つ、クーラ自身の作曲作品を初演する、という内容を含んでいます。本人も予想しなかった形で、作曲家としての仕事に光があたりつつあります。

インタビューから、クーラがなぜ作曲をするのか、その思いを語った部分を抜粋するとともに、近年、作曲作品の上演のきっかけとなったコンサートの様子などを紹介したいと思います。

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――2015年1月インタビューより
●カルロス・カストロに作曲を学ぶ
カルロス・カストロは私の最初の作曲の教師だった。私は15歳だった。カルロスは、「君は才能があり、すでに音楽の自然な方法を持っている。だから私の仕事は、君を音楽家にすることでなく、君の翼を燃焼させずに、その巨大な才能に対処する方法を教えることだ」と言った。

●自分の作曲スタイル
単に音を創り出すためだけでなく、演劇的に価値ある意味において、ドラマティックであること。成熟が私の芸術にもたらしたもののひとつは、自己耽溺を嫌うということだ。

●常にやむにやまれぬものとして
創造的な仕事ほど、人の内面と深く結びついたものはない。絵画、音楽、詩、小説、数学の定理‥どれも比類のない人間の知的成果の典型だ。
真のクリエーターは、商業的なものを除いて、常にやむにやまれぬ、強迫的なものとして、それを書く。商業的成功は、また別のステップだ。

現時点で新しい作曲の時間はない。しかしスターバト・マーテルの初演(2014年チェコで実現)は、私のなかの"眠っている獣"を目覚めさせた。私は今、以前の作曲作品を演奏するために、ゆっくりと準備をすすめている。



●主な作品
・平和のためのレクイエム(1984年)――フォークランド戦争の犠牲者を追悼したもの
・ピノキオ(1986年)
・Via Crucis según San Marcos (1986年)
・Magnificat=「我が心、主を崇め」 (1988年)――2015年4月イタリアのマッシモ・ベリーニ劇場で世界初演
・Ecce Homo=「この人を見よ」(1989年)――オラトリオ その一部であるスターバト・マーテルがチェコで2014年10月世界初演、全体はプラハ響で初演予定
・In Memoriam=追悼(1990年)
・マッチ売りの少女(1991年)――子ども向けオペラ
・ネルーダ「愛のソネット」92番(1995、2006)――プラハ響で2015年10月、オーケストラヴァージョン世界初演

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〈2014年10月 スターバト・マーテル世界初演〉

2014年10月30日、ホセ・クーラが26歳の時に作曲した、スターバト・マーテル(13世紀のカトリック教会の聖歌の1つ)が世界初演されました。
作曲家としてのクーラに光があたった、きっかけとなった出来事です。場所はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェの教会、聖ニコライ大聖堂でした。
かつてクーラは、「作曲家ホセ・クーラを世界が必要としているわけではないことを知っている」と述べていましたが、友人で同郷の指揮者マリオ・ローズの提案で、作品の世界初演が実現したのだそうです。

このスターバト・マーテルは、オラトリオ「この人を見よ」を構成する1曲とのこと。作曲した当時、クーラはまだ母国アルゼンチン在住で、すでにシルヴィアさんと結婚して前年に長男のベンが誕生していました。クーラは、指揮や作曲を勉強しながら、生活のために、合唱団で歌ったり、スポーツクラブのインストラクターなど、複数の仕事をかけもちして働いていたようです。

この写真は、ちょうどその頃のようです。ゆりかごの中のベンをあやしながら、ピアノに向かって作曲しているようです。


クーラのフェイスブックに掲載されたコンサートの告知


――2014年10月インタビューより
●スターバト・マーテル作曲の思い
テキストは、十字架の下、愛する息子が死んだ母親についての物語。今でも、世界中で、紛争や、エボラ等の感染症、犯罪など、死んでしまった我が子を胸に抱く多くの母親たちがいる。私たちは、そういうすべての人々のために、この歌を歌う。

●歌、作曲、指揮など多面的な活動することについて
個性を開発しようとせず、非常に狭い範囲で物事を考えるのではなくて、他のものを試し、歌い、写真を撮ってみてほしい。
私は、愛すること、生きることは、他の人を助けるためにあると思う。人生は短すぎる。

初演時のニュース映像、インタビューと演奏の様子も少しある
JOSE CURA Stabat mater


Jihočeské divadlo - José Cura na premiéře své skladby v Českých Budějovicích



ポスター


――作曲についてのクーラ語録

●初めて15歳で指揮者デビュー、もともと作曲と指揮が専門だったが、27歳の時に歌手としてのキャリアを始めた。その時は、1999年まで、指揮台に復帰する計画はなかった。当時のアルゼンチンは、ちょうど軍事独裁政権の恐怖から回復し始めていて、若い民主主義の時代だった。その頃の困難な経済状況では、指揮者や作曲家としての仕事を見つけることはほぼ絶望的だった。作曲と指揮をわきに置いて、私は仕事をしなければならなかった。

●作曲と指揮は私のバックグラウンド。歌のキャリアはそれへのアプローチを豊かにした。数十年前夢見たフルタイムの指揮者としてキャリアを終わること以上に私にとって自然な事はない。

●作曲する者にとって、作品が初演される時というのは、常に偉大な瞬間だ。

●誰か他の作曲家の音楽を指揮する時には、大きな責任を持つ。作曲家自身が何を言いたかったのか、懸命に理解しようと試みなければならない。自分が作曲した音楽を指揮する場合には、この問題(解釈すること)は生じない。しかし別の問題がある。ここで小さな変更をしないようにすべきかどうか?ーーそれは無限のプロセスだ。そうするとマーラーのように働く必要がある。マーラーは彼の交響曲を指揮する時、多くの変更を行った。最終的に10バージョンになった。

●モーツァルト、プッチーニ、ベートーベンやシューベルトなどの作曲家も、生きていた時は、今日のポップスターのように扱われたことを忘れてはならない。今日では、彼らは不可侵であると考えられている。彼らは技術的な理由からオペラハウス用の音楽を書いた。当時はマイク、スクリーンなどは知らなかったからだ。彼らも今、生きていたら、野外コンサートに適した音楽を書くだろう。

        

会場となった美しい教会、ニコライ大聖堂




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2015/5 マーラーの交響曲第2番「復活」を指揮 Jose Cura / Mahler Symphony No.2 'Auferstehung'

2016-05-10 | 指揮者・作曲家として


2015年の5月9日、ちょうど1年前ですが、ホセ・クーラは、ポーランドのノヴィ・ソンチで、グスタフ・マーラーの交響曲第2番「復活」を指揮しました。
何度か投稿で紹介しましたが、クーラはもともと作曲家、指揮者志望で、大学でも作曲と指揮を専攻、さまざまなアクシデントと運命的な出会いにより、テノールとして国際的キャリアを築いてきました。そして近年また、指揮者として、また作曲家としての活動に、少しずつシフトしつつあります。
 → 詳しくは 「音楽への道」、または、「略歴」

今回は、ソプラノのアーダ・サーリの名を冠した国際声楽フェスティバルの開幕コンサートという位置づけでした。クーラはこの招待にたいし、「とても誇りに思う。特に文化と教育に影響を与える世界不況のもと、私に希望を与え、あきらめない努力のために、私たちの仕事がまだ価値あることを感じさせてくれる」と語っていました。



会場は、ポーランドのノヴィ・ソンチにある聖十字架教会。正面には巨大な十字架に磔になったキリストの像があり、ステンドグラスと彫刻に囲まれた美しい教会のようです。





オケはベートーヴェン・アカデミー・オーケストラ。ポーランドラジオ合唱団とグレツキ室内合唱団、ソリストが加わり、参加したアーティストは、最終的に186人になったとのことです。そして観客は、子どもを含めて1000人以上が参加したと報道されていました。
Orkiestra Akademii Beethovenowskiej
Chór Polskiego Radia , Górecki Chamber Choir
Małgorzata Walewska , Urška Arlič Gololičič
José Cura


クーラが2016/11/26に、ウィーン国立歌劇場デビュー20周年を記念してシェアするとしてアップした、当日の録画。1時間半以上の全曲の演奏の様子がビデオに収められています。 → クーラの動画ページ(ホセ・クーラTV)




クーラは直前のインタビューで、「今日のコンサートは素晴らしい音楽的経験になるだろう。とりわけ私にとって、特別な人間的体験だ。私のような理想主義者にとっての夢だ。ルーティンではなく、目に輝きをもつ人々とともに働く機会を得た」と意気込みを語っていました。

現地の報道によると、クーラは指揮者としてはかなり型破りのようで、観客と直接コンタクトをとっていたそうです。指揮台に立ってすぐに、満席で座る席のない観客には「長い曲だから床に座って」と声をかけ、子どもたちには前の席に来るように手招きしたとのこと。
そして、終了後、観客から大きな喝さいを受けると、スコアを高くかかげ、作曲家マーラー自身と第2番「復活」の楽曲そのものへの敬意を示しました。

終了後、ベートーヴェン・アカデミー・オーケストラはFBで、「感情の震えは巨大だった。観客は熱心に我々を歓迎してくれた」と報告しています。




現地のレビューでは、「‥豊かな質感のメロディーと楽器のダイナミクス。あるべき全てのものがあった。巨大なフォルテからピアニッシモ、轟くドラマから軽快さと喜び。最後の審判の劇的ラストは楽観性の中にあった」など、好意的な報道がされました。

終了後、コンサートの様子とインタビューを収めた動画。クーラの指揮するマーラーの一部が4分頃から。
Wywiad z Jose Curą ? argentyńskim dyrygentem i tenorem.




〈インタビューや記者会見での、マーラーについてのクーラ語録〉

●マーラーの第2番を指揮することは、バッハのミサ曲やベートーベンの交響曲第9番の指揮に匹敵する、知的、精神的な経験だ。その後、我々はそれまでと同じではいられない。

●そのような名曲を指揮するときには、非常に重要な態度がある。それは「シンプルかつ控え目」 にすることだ。かつて、私の友人で偉大なイタリアの指揮者、ダニエレ·ガッティが語っていたように。

●私はマーラーを愛する。なぜなら彼は暴君ではないから。すべての人が、10の違う方法で、彼の交響曲を理解することができる。指揮者のパーソナリティだけでなく、その瞬間、瞬間に。

●私はオペラ、演劇、ドラマの人間。そしてマーラーは最もドラマティックなアーティストの一人だ。この作品への私のアプローチはとても演劇的になる。リスナーの感情に働きかける意味で。



●音楽を創ることは、愛し合うこと(メイキング・ラブ)と同じ。だからマーラー交響曲第2番の私の解釈がどうなるかはわからない。まだ恋人であるオーケストラと会っていないのだから。

●私ははじめてマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮した。その夜、それは文字通り、私の魂と心をハイジャックした。その状態は数日間続いた。

●今年一番嬉しかったことは初めてマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮したことだ。私は、もう一度、すぐにこのような「地球外の経験」をくり返すことが待ちきれない。

●誰か他の作曲家の音楽を指揮する時には、大きな責任を持つ。作曲家自身が何を言いたかったのか、懸命に理解しようと試みなければならない。自分が作曲した音楽を指揮する場合には、この問題(解釈すること)は生じない。しかし別の問題がある。ここで小さな変更をしないようにすべきかどうか?――それは無限のプロセスだ。
そうするとマーラーのように働く必要がある。マーラーは彼の交響曲を指揮する時、多くの変更を行った。最終的に10バージョンになった。

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初めてのマーラーの第2番は、クーラ自身にとっても忘れられない体験となったようです。少年時代から合唱の指揮を始め、指揮者をめざして勉強してきたクーラ。指揮台に立つ時、本当に嬉しそうで、オケや出演者と共に音楽をともにつくりあげることを真に楽しんでいる様子が伝わってきます。テノールとしてクーラの声を聴く機会が減りつつあるのはとても残念ではありますが、指揮者としての活動がさらに広がり、来日や録音などで聴けるようになるよう願っています。

リハーサルなどの様子の動画。主催者のFBに掲載されています。 →リンク


公演前の記者会見の様子。全体で1時間以上の動画。クーラは英語で話し、ポーランド語に通訳
Konferencja prasowa w Krakowie przed Festiwalem im. Ady Sari 2015


                            





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