科学と宗教について、柳澤桂子という人がこんなことを言っている。
(1938生・生命科学者・サイエンスライター・歌人でもある)
『 科学と宗教はものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。
決して別モノではない。宗教も科学とおなじように、人間の脳の中の営みである。
いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう 』
(著書 『 いのちの日記 』より)
確かに脳の中の組織や営みが科学的に解明されつつある今日この頃ではあるが、すべてをあきらかに
なんて 科学者のおごりでは と 私なんぞは ちと 思ったりもする。
当ブログ仏教談話(3)クリックでも紹介した著書『 生きて死ぬ智慧(ちえ)』でベストセラーにもなった人です。
36年間もの難病闘病生活。一時「尊厳死」も考えたが、奇跡的に新薬で命を繋ぐことができたと振り返る。
そんな時、教会の日曜礼拝に行って牧師のお話を聞くような宗教ではなく、あるいは法事や年中行事で
仏壇やお墓にお経をあげていただければ気の済むようことでもない宗教に救いを求めた。
手近にある教団や教祖にすがりつくような宗教の形には満足できなく、考えた末、自分で勉強するしかない
という結論に達し、キリスト教や仏教を学んだという。
『 生きて死ぬ智慧 』は仏典・般若心経の現代版訳本ですが、なんとも言えない美しさを感じます。
『 いのちの日記 』 の副題に ≪ 神のまえに 神とともに 神なしに生きる ≫ とあった。
1906年生・ドイツの神学者・ボンヘッファーの獄中書簡集の中での言葉だ。
告白教会を組織し、反ナチス闘争を初め逮捕され絞首刑に処せられた神学者。
共に告白教会を組織したカールバルト(スイスの神学者)の「神なしの神学」の影響を受けたという。
この(神なしの神学)思想に通じる ≪神なしに生きる≫ という言葉に注目した。
揺るぎない信仰への言葉と、キリストをも滅する言葉。 これら相反するかの言葉でいう神とはいったい何?。
柳澤桂子さんは宗教は次のように進化するという仮説をたてた。
→ 全てに神が存在するアニミズム 時代を経て
→ 人格神(一神教)にひれ伏す時代に
→ そして 人格神を超越した神なき時代へと
『 宗教学ではこのような信仰・進化するという考えは否定されるようだが、生物学的、進化学的にみると、
この仮説は捨てがたいものだ。私自身は人格神や特定の宗派の教義にこだわらない信仰の形はありうる
と信じている 』 、、、というのだ。
『 人生のはかなさ、さだめの常ならんこの世、その移ろい転ぶ速さに対し、数限りなく命を生み出し
続ける途方もない時間と空間。この大きな宇宙の中にあって、それだけがまさに真実であり、
神と呼ばれるにふさわしい 』 、、、とも。
生命科学者らしい考えですね。
現在の科学では、宇宙はクオークという極微粒子で出来ているといわれる。
クオークが集まり原子となり、原子が集まり分子となる、そしてその分子の濃淡が私たち地球全ての物質だ。
『 そこに個別の私がいると思うのは、人間の幻想である。 これこそ≪空≫の考え方ではなかろうか 』
≪ 神なしで生きる ≫ とは、≪ 空の考え方 ≫ とは、 そんなことのように感じた。
そう 途方もない時間と空間 これこそが 神と呼ばれるにふさわしい と 私も思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/02/8bb633365e16f3d3d3ea3f56648a2f42.jpg)
(りんごの里・七飯町からの夕陽です)
我々の住む地球は毎秒30キロで周っており、太陽系も銀河の中心を毎秒220キロで周っているという。
ああ ! そろそろ目が回ってきました ! だらだらの 話もこれくらいにしときます。
(1938生・生命科学者・サイエンスライター・歌人でもある)
『 科学と宗教はものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。
決して別モノではない。宗教も科学とおなじように、人間の脳の中の営みである。
いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう 』
(著書 『 いのちの日記 』より)
確かに脳の中の組織や営みが科学的に解明されつつある今日この頃ではあるが、すべてをあきらかに
なんて 科学者のおごりでは と 私なんぞは ちと 思ったりもする。
当ブログ仏教談話(3)クリックでも紹介した著書『 生きて死ぬ智慧(ちえ)』でベストセラーにもなった人です。
36年間もの難病闘病生活。一時「尊厳死」も考えたが、奇跡的に新薬で命を繋ぐことができたと振り返る。
そんな時、教会の日曜礼拝に行って牧師のお話を聞くような宗教ではなく、あるいは法事や年中行事で
仏壇やお墓にお経をあげていただければ気の済むようことでもない宗教に救いを求めた。
手近にある教団や教祖にすがりつくような宗教の形には満足できなく、考えた末、自分で勉強するしかない
という結論に達し、キリスト教や仏教を学んだという。
『 生きて死ぬ智慧 』は仏典・般若心経の現代版訳本ですが、なんとも言えない美しさを感じます。
『 いのちの日記 』 の副題に ≪ 神のまえに 神とともに 神なしに生きる ≫ とあった。
1906年生・ドイツの神学者・ボンヘッファーの獄中書簡集の中での言葉だ。
告白教会を組織し、反ナチス闘争を初め逮捕され絞首刑に処せられた神学者。
共に告白教会を組織したカールバルト(スイスの神学者)の「神なしの神学」の影響を受けたという。
この(神なしの神学)思想に通じる ≪神なしに生きる≫ という言葉に注目した。
揺るぎない信仰への言葉と、キリストをも滅する言葉。 これら相反するかの言葉でいう神とはいったい何?。
柳澤桂子さんは宗教は次のように進化するという仮説をたてた。
→ 全てに神が存在するアニミズム 時代を経て
→ 人格神(一神教)にひれ伏す時代に
→ そして 人格神を超越した神なき時代へと
『 宗教学ではこのような信仰・進化するという考えは否定されるようだが、生物学的、進化学的にみると、
この仮説は捨てがたいものだ。私自身は人格神や特定の宗派の教義にこだわらない信仰の形はありうる
と信じている 』 、、、というのだ。
『 人生のはかなさ、さだめの常ならんこの世、その移ろい転ぶ速さに対し、数限りなく命を生み出し
続ける途方もない時間と空間。この大きな宇宙の中にあって、それだけがまさに真実であり、
神と呼ばれるにふさわしい 』 、、、とも。
生命科学者らしい考えですね。
現在の科学では、宇宙はクオークという極微粒子で出来ているといわれる。
クオークが集まり原子となり、原子が集まり分子となる、そしてその分子の濃淡が私たち地球全ての物質だ。
『 そこに個別の私がいると思うのは、人間の幻想である。 これこそ≪空≫の考え方ではなかろうか 』
≪ 神なしで生きる ≫ とは、≪ 空の考え方 ≫ とは、 そんなことのように感じた。
そう 途方もない時間と空間 これこそが 神と呼ばれるにふさわしい と 私も思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/02/8bb633365e16f3d3d3ea3f56648a2f42.jpg)
(りんごの里・七飯町からの夕陽です)
我々の住む地球は毎秒30キロで周っており、太陽系も銀河の中心を毎秒220キロで周っているという。
ああ ! そろそろ目が回ってきました ! だらだらの 話もこれくらいにしときます。
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