唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

遺族

2014年03月11日 | 男はつらいよ・山田洋次
1961年に制作された幻の(?)テレビドラマ。友達が録画して持ってきてくれました。
戦争の記憶がまだ残されている時代の作品で、自分が考えている「戦後」のような過去の話でなく、この時代を生きているほとんどの人が戦争の時代を体験している中での話です。その戦争を体験しているという空気は今では絶対に表現できない。
ドラマ自体は、特攻で亡くなった人の日記を遺族にわたす約束を15年たって果たそうとするが、その家族は、その人を忘れずにずっと生きていて、日記を渡したことでまたその気持ちが強くなってしまったという・・・はたして日記を渡したのはよかったことなのかどうか・・・なんていう感じの話なんですが。

最初と最後にインタビューがあるのが面白いです。
若者や自衛隊員、自民党や社会党のひと、特攻隊員だった人、その遺族。いろんなインタビューがあって、それぞれがそれぞれの思いで今を生きています。
そのインタビューでも国のために命を懸けて死んでいった人たちがいたからこそ今の日本があるという感じの言葉が出てきますが、今それを言っている人たちとの言葉の意味とは違う気がしました。やっぱり戦争の記憶がまだ生々しい時代の人たちの体験から出されたその言葉には、戦争の傷の深さが感じられます。戦争を体験している人とそうでない人では「戦争」の意味が違うんですね。

日常を取り戻しているかに見える61年当時の日本。でも、その時にも深い傷を負った人が社会の中心だったことが良くわかります。
いま、危ない主張が横行しているのもそういう体験者が少なくなっていて歴史から学ぶことができなくなっていることもあるのでしょうね。
同時に反戦を訴える人たちも、正当化する人たちに対して歴史の真実をもっと学んで対抗していかなければならないのはもちろんですが、戦争は人が死ぬこと、人が死ぬことを数字的にとらえるとか、悲惨さをネタにするということではなくて、人間一人ひとりの「死」として、心の中に刻まなければいけないと思いました。
戦争があればおのずと深い傷が刻まれるわけだけど、平和の中でそれを感じるというのは、やっぱり意識的に学ぶということでしか補えないのだけれど。

前にネットが怖いという話をしましたが、そこで見てしまった殺人事件のようなことが一番行われているのが戦争ですもんね。一人一人に人生が強制的につぶされるのが戦争で、正しいとか正しくないとか、それ以前に、「自分の意思とは関係なく強制的に人が殺しあう行為」だということをもっと深く感じなければならない気がします。

薄っぺらな反戦論者のままではいたくないです。