『リア王』は父の話なのに、この作品は主人公であるはずの父を不在にして、本当なら舞台には登場しないはずの母の話として作られてある。だが、不在の父は影として、登場し、その存在は彼女たちをしっかり覆っている。しかし、問題は母である。
彼女と娘たちは、不在の父を介してここで向き合う。その図式がちゃんとあるから、こういう観念的な作品であるにも関わらず、とてもわかりやすい。政治を扱いながら、家族劇の中で、それを見せていく。
岸田理生のテキスト(もちろんそれはシェイクスピアの原作を下敷きにしている)を使って、女たちのドラマが語られていく。笠井さんは柔軟な姿勢で、作品作りをする。今回、パタンナーとして招聘した樋口さんや制作の岡田さん、3人の役者たちといった女性陣の話をしっかり取り込んで、彼女たちとのミーティングを大切にしたらしい。そのへんが今回の作品を魅力的なものにしたのだろう。観念的な話なのに、感覚的に見れるのがいい。彼女たちの実感を下敷きにして話が構成されたのだろう。
終盤のテーマとなる玉座に誰が座るか、ということはここではあまり大きな問題ではない。そんなことより、家父長制が崩壊してしまった世界において、家(あるいは国家)というものが、いったいどこにむかって行こうとするのか。それを考えていく上で、この作品に於ける父の影をどう理解していくのかが大きなポイントとなる。旧世代と新世代のぶつかり合い、不在の父を巡り、母の位置、父の遺志を受け継ぐもの、姉と妹の確執。母と娘の関係。そんなさまざまな問題が随所にちりばめられている。だが、これはそれらに対する答えを出すための芝居ではない。それを考えるきっかけとなることが可能な作品であること、そこがこの芝居の魅力だ。ここには考えるためのヒントがいくつも刺激的にちりばめられてあるのだ。この象徴的なドラマが、ここではとても上手く機能している。
この宇宙の中の、私たちの世界の、私の国の、私の家族。それが世界と個人との関わりとして描かれる。娘は母を模倣したくない。父にあこがれ、社会と繋がっていくことを望む。社会が変わってくる。そんな図式の中で、3人の女たちはダイニングから世界を見る。
彼女と娘たちは、不在の父を介してここで向き合う。その図式がちゃんとあるから、こういう観念的な作品であるにも関わらず、とてもわかりやすい。政治を扱いながら、家族劇の中で、それを見せていく。
岸田理生のテキスト(もちろんそれはシェイクスピアの原作を下敷きにしている)を使って、女たちのドラマが語られていく。笠井さんは柔軟な姿勢で、作品作りをする。今回、パタンナーとして招聘した樋口さんや制作の岡田さん、3人の役者たちといった女性陣の話をしっかり取り込んで、彼女たちとのミーティングを大切にしたらしい。そのへんが今回の作品を魅力的なものにしたのだろう。観念的な話なのに、感覚的に見れるのがいい。彼女たちの実感を下敷きにして話が構成されたのだろう。
終盤のテーマとなる玉座に誰が座るか、ということはここではあまり大きな問題ではない。そんなことより、家父長制が崩壊してしまった世界において、家(あるいは国家)というものが、いったいどこにむかって行こうとするのか。それを考えていく上で、この作品に於ける父の影をどう理解していくのかが大きなポイントとなる。旧世代と新世代のぶつかり合い、不在の父を巡り、母の位置、父の遺志を受け継ぐもの、姉と妹の確執。母と娘の関係。そんなさまざまな問題が随所にちりばめられている。だが、これはそれらに対する答えを出すための芝居ではない。それを考えるきっかけとなることが可能な作品であること、そこがこの芝居の魅力だ。ここには考えるためのヒントがいくつも刺激的にちりばめられてあるのだ。この象徴的なドラマが、ここではとても上手く機能している。
この宇宙の中の、私たちの世界の、私の国の、私の家族。それが世界と個人との関わりとして描かれる。娘は母を模倣したくない。父にあこがれ、社会と繋がっていくことを望む。社会が変わってくる。そんな図式の中で、3人の女たちはダイニングから世界を見る。