佐藤純彌監督入魂の一作である。75年の大傑作『新幹線大爆破』に匹敵するという評判だ。そんな噂を聞くと居ても立っても居られなくなり、さっそく劇場に行く。その構成にまず驚く。クライマックスであるはずの桜田門外の変が、冒頭40分くらいの時間に起きる。事件をクライマックスに持ってくるのが、この手のドラマの王道なのに、この映画はそこを最初に持ってきた。もちろんラストにもっと大きな見せ場があるのではない。ここが最大の見せ場だ。この空前絶後のテロ事件を空前のスケールで描く。制作費の半分以上を投入してこの桜田門の壮大なセットを作ったらしい。見事だ。
しかし、映画はこのテロに成功した後の思いもかけない迷走が、なんと1時間半にわたって描かれていくのだ。思いもしない大胆な構成である。その結果、映画としてのカタルシスはない。娯楽映画としてこれは致命的な失敗だろう。これだけの大作を、こんなにも地味な映画にしてしまった。
だが、佐藤監督は立ち回りだけの派手な時代劇を作りたかったわけではない。あの時代を真剣に生きた人々の時代に殉じた死に様こそを描きたかったのだ。それを丁寧に描くことで、歴史の中に埋もれていった人々の無念をきちんと掬い取って、見せることに成功した。とても志の高い映画だと思う。へんに感動的に彼らを描くのではない。冷静に彼らを見つめていく。ヒロイズムではなく、時代の闇に葬られた名もなき志士たちの想いがしっかり描かれてある。こんなにもきちんと分け隔てなくひとりひとりが死んでいく姿を描いた映画は少ないだろう。一応の主人公である鉄之介(大沢たかお)の死がラストに持ってこられてあるが、どこで彼が死んでいてもおかしくない作り方をしている。彼を中心してあるが、彼が中心なのではないのだ。大体、桜田門での彼はヒーローのような活躍をしない。みんなが闘うのを見守るばかりだ。
この映画は桜田門での井伊直弼暗殺というテロを通して、この国を守ろうとした人たちのそれぞれの思いが散っていく姿こそが描かれる。華々しいドラマではない。誰が正しくて、誰が間違っているのか、という善悪の見極めは難しい。だから、一概に井伊直弼を絶対の悪玉としては描かない。アヘン戦争で清国が列強の支配下に置かれた事実を背景にして、日本が中国と同じ路をたどらないために何が必要なのかを、それぞれが模索し、時代が大きく動いていく渦中が描かれる。2010年の今、この国がどこに動いていこうとしているのか、それすら視野に入れて、この150年前のテロを見据えていく。だから、単純な映画ではない。
しかし、映画はこのテロに成功した後の思いもかけない迷走が、なんと1時間半にわたって描かれていくのだ。思いもしない大胆な構成である。その結果、映画としてのカタルシスはない。娯楽映画としてこれは致命的な失敗だろう。これだけの大作を、こんなにも地味な映画にしてしまった。
だが、佐藤監督は立ち回りだけの派手な時代劇を作りたかったわけではない。あの時代を真剣に生きた人々の時代に殉じた死に様こそを描きたかったのだ。それを丁寧に描くことで、歴史の中に埋もれていった人々の無念をきちんと掬い取って、見せることに成功した。とても志の高い映画だと思う。へんに感動的に彼らを描くのではない。冷静に彼らを見つめていく。ヒロイズムではなく、時代の闇に葬られた名もなき志士たちの想いがしっかり描かれてある。こんなにもきちんと分け隔てなくひとりひとりが死んでいく姿を描いた映画は少ないだろう。一応の主人公である鉄之介(大沢たかお)の死がラストに持ってこられてあるが、どこで彼が死んでいてもおかしくない作り方をしている。彼を中心してあるが、彼が中心なのではないのだ。大体、桜田門での彼はヒーローのような活躍をしない。みんなが闘うのを見守るばかりだ。
この映画は桜田門での井伊直弼暗殺というテロを通して、この国を守ろうとした人たちのそれぞれの思いが散っていく姿こそが描かれる。華々しいドラマではない。誰が正しくて、誰が間違っているのか、という善悪の見極めは難しい。だから、一概に井伊直弼を絶対の悪玉としては描かない。アヘン戦争で清国が列強の支配下に置かれた事実を背景にして、日本が中国と同じ路をたどらないために何が必要なのかを、それぞれが模索し、時代が大きく動いていく渦中が描かれる。2010年の今、この国がどこに動いていこうとしているのか、それすら視野に入れて、この150年前のテロを見据えていく。だから、単純な映画ではない。