習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

突劇金魚『ゆうれいを踏んだ』

2015-04-17 19:48:09 | 演劇

「ゆうれいを踏んだりしたらあかんやろ、」と突っ込み入れるところから始めたい。おろおろする片桐慎和子さんの泳いだ目が始まりだ。そこから話は始まる。頭の上に桜の木を付けた彼女が登場して、お話はさらに始まる。何かが始まった、そのきっかけは明らかだ。だが、果たしてそこが原因だろうか。だいたい幽霊(あえてここからは漢字に)なんか踏まない。というか、幽霊なんかいない。だが、彼女には見えてしまう。踏んだ報いからなのか、頭から木の芽は生えてきて、やがて、花が咲く。

最初は引きこもりだった。彼女の祖母は突然のひきこもりにおろおろするばかりで、何もできない。最近の家庭ではよくある風景である。だが、その原因があまりのことに唖然とするしかない。ここからがサリngの独壇場であろう。原因不明の引きこもりに戸惑う家族という図式なんか採用しない。原因は「ゆうれいを踏んだ」。その結果、頭から桜。単純は美徳だ。

ファンタジーではない。これは生々しいリアルだ。彼女の頭の桜の木は彼女の運命を変える。そこまで引かれて(敷かれて)いたレールを逸脱せざるを得ない。優しいはずの祖母は、実は彼女をかわいがっていたわけではなく、彼女が立派になり、鼻高々になることを望んでいただけ。成績優秀で、銀行員になり、素敵な人と結婚する。そんな価値観なんか昭和とともに終わっているはずなのに。

古い価値観を引きずる人たちと、その洗礼を受けながら新しい時代を生きなくてはならない人たちの戦いを描く、という意味では、これは昨年の『漏れて100年』と似ている。だが、広いアイホールで上演したあの作品とは違って、今回彼女は狭い空間(S-pace)を使う。ここを使うのは彼女の傑作『夜に埋める』以来だ。彼女の芝居にはこういう空間がとてもよく似合う。狭くて暗くて、でも、迷路のような場所。今回の作品は単純な舞台美術だが、それでも、この倉庫を改良して作った劇場の特質をよく生かしている。ある種の閉塞空間でも、堂々巡り。彼女は旅をしているのではない。彼女はずっと同じ場所にいる。これは引きこもり続けた彼女の内面のドラマである。

このお話は、実は広がることなく閉じていくのだ。表面的な展開とは別の次元へとドラマは進んでいる。そこが最近のサリng作品の特徴ではないか。ますます病んでいる。他者と出会い、彼らとの関係から、成長していくというよくある展開は見せない。彼女は確かに冒険に出た、はずだった。なのに、そこには冒険はない。やがて、祖母との日常へと帰っていく。冒頭のシーンを繰り返す。祖母の体を拭いている。丁寧に丁寧に。穏やかだった日々に戻る。だが、そこには決定的な差異がある。頭には桜の木があることだ。

殿村ゆたか演じる「ゆうれい」は、ずっと彼女に付きまとう。でも、基本的には何もしない。頭にジョウロで水をやるばかりだ。彼女がかかわる人たちとのドラマも最終的には彼女を変えない。『エレファントマン』を思い出させる。だが、ここにあるのはあの映画の見せた「異形のもの」の悲しみではない。ある種の不条理を受け入れて、そこからどこへと向かうのか。さらには、その運命を断ち切る先には何があるのか。桜を切り落とした後の、まるで河童の皿のようになった頭で、彼女はどこに行こうとするのか。

全員白塗りの顔で挑んだこの新作は、まるで彼女だけではなく、みんなが死んでいるような印象を与える。ゆうれいを踏んだことではなく、誰もがもう踏んでいる。その現実の向こうへとこのお話は飛翔していたのだ。そういう目で、もう一度この芝居を見たなら、また、別のものが見えてくるかもしれない。まだ、何も始まっていない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『イントゥ・ザ・ウッズ』 | トップ | 『ブエノスアイレス恋愛事情』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。