
池田敏春監督の遺作。2008年作品。彼は2011年に代表作である『人魚伝説』のロケ現場で自殺した。素晴らしい映画監督だった。生涯自分の撮りたい映画を撮れないまま、悩み苦しんで、それでも誠実な作品を作り続けた。この文芸映画が彼のやりたかった作品だとは思えない。では、何を彼はしたかったのか。僕にはわからない。デビュー作から、この遺作までほぼすべての映画を見てきたけど、そこには彼の望むものが明確に刻印されたものは、ほとんどない。わずかに『天使のはらわた 赤い陰画』と『人魚伝説』の2本の池田監督の傑作は、彼の求めたものに近い気がする。80年代前半、あの時、ディレクターズ・カンパニーとともに、彼の未来は明るかった。だが、その後、彼は、(時代も)失速する。
不本意な仕事でもその仕事を引き受けた以上最大限の努力をする。だが、本当の自分の映画はこんなものではない、ということを一番よく知っているのが彼自身だったはずだ。同世代の根岸吉太郎が『遠雷』で時代の寵児となったとき、彼はどう思っただろうか。取り残される不安を感じたのか。それとも自分も負けないと思ったか。その後、根岸ですら自由に映画を撮れず、スランプに陥る中、池田は与えられた様々なジャンル映画をこなす。先の2本だけではなく、いくつもの努力賞に値する作品を残した。そうして、いつか、本当の自分を表現できる機会を窺う。だが、時代は彼のような器用だけど、突き抜けたものを作れない作家に容赦ない。Vシネマや、持ち込み企画のB級映画をこなす。やがて、忘れられる。
彼だけではない。たくさんの映画監督が消えている。にっかつロマンポルノ出身で、職人監督として重宝された監督は、21世紀になり、TV局が作る空虚な大作(TVディレクターが、TV版そのまま監督する)と、自主映画に毛が生えたような趣味の映画や、安易なジャンル映画がどこの馬の骨とも知れない監督に委ねられ横行する中、消えるしかない運命だった。
21世紀に入って池田が作った映画は2作品のみだった。前作『ハサミ男』もよく頑張った作品だった。そしてこの作品に至る。劇場公開時、どうしても見たい、という気持ちと、なぜこんな企画が通ったのか、という驚きがあった。結局見ないまま、時が過ぎた。
織田作之助原作の2つの短編を西岡琢也が自由脚色した。現代を舞台にしたのは予算の関係もあり仕方ないことだろうが、こういう企画自身が今という時代にまかり通る不思議に打たれた。これは、池田監督の執念の為せる業ではないか、とすら思った。
主人公の中学教師寺田を八嶋智人が演じる。背の低い八嶋はまるで池田監督その人に見える。彼があこがれる北新地のホステスを佐藤江梨子が演じる。背の高い彼女と八嶋の2ショットを基本イメージとして、ドラマは展開する。バカバカしい話だ。一途に彼女を想うから、嫉妬に苦しめられる。でも、そんなバカな男を彼女はやさしく包み込む。理想の女を佐藤が演じる。
だが、そんな愛おしいドラマが、どうしてこんなにもつまらないものになったのだろうか。池田監督が望んだ映画がきっとここに展開するはずだった。それは狂気に至る純愛だ。美しい妻をそのまま愛するために乳がんの手術を受けさせない。そんな不条理を納得させるだけのドラマをこの映画は用意させていない。これは安易な人情劇ではなく、頭のおかしいの男のドラマであるはずだった。それが狂気を通り越してとんでもないものになる。そんな映画になるはずだった。なのに、なぜこんなことになったのだろうか。これでは八島演じる男は、ただのつまらないバカ男にしか見えないではないか。きっと諸事情があったのかもしれない。だが、出来上がった映画がすべてだ。言い訳は必要ない。
池田が望んだ本当の映画が、ここに実現するはずだった。なのに、彼はどうしようもない駄作を作ってしまったのだ。彼は自分が作った自分の映画に失望したのではないか。20年以上待ってようやく巡ってきたチャンスをものにできなかった。自分の才能のなさに失望した。そんな妄想を抱かせるような映画だった。
見終えた後、悲しくなった。僕が大好きだった池田敏春監督の最期をこんなふうにして看取ることしかできない。悔しい。20年かけて彼は少しずつ才能を枯らしていった。人生にはそういうこともある。
不本意な仕事でもその仕事を引き受けた以上最大限の努力をする。だが、本当の自分の映画はこんなものではない、ということを一番よく知っているのが彼自身だったはずだ。同世代の根岸吉太郎が『遠雷』で時代の寵児となったとき、彼はどう思っただろうか。取り残される不安を感じたのか。それとも自分も負けないと思ったか。その後、根岸ですら自由に映画を撮れず、スランプに陥る中、池田は与えられた様々なジャンル映画をこなす。先の2本だけではなく、いくつもの努力賞に値する作品を残した。そうして、いつか、本当の自分を表現できる機会を窺う。だが、時代は彼のような器用だけど、突き抜けたものを作れない作家に容赦ない。Vシネマや、持ち込み企画のB級映画をこなす。やがて、忘れられる。
彼だけではない。たくさんの映画監督が消えている。にっかつロマンポルノ出身で、職人監督として重宝された監督は、21世紀になり、TV局が作る空虚な大作(TVディレクターが、TV版そのまま監督する)と、自主映画に毛が生えたような趣味の映画や、安易なジャンル映画がどこの馬の骨とも知れない監督に委ねられ横行する中、消えるしかない運命だった。
21世紀に入って池田が作った映画は2作品のみだった。前作『ハサミ男』もよく頑張った作品だった。そしてこの作品に至る。劇場公開時、どうしても見たい、という気持ちと、なぜこんな企画が通ったのか、という驚きがあった。結局見ないまま、時が過ぎた。
織田作之助原作の2つの短編を西岡琢也が自由脚色した。現代を舞台にしたのは予算の関係もあり仕方ないことだろうが、こういう企画自身が今という時代にまかり通る不思議に打たれた。これは、池田監督の執念の為せる業ではないか、とすら思った。
主人公の中学教師寺田を八嶋智人が演じる。背の低い八嶋はまるで池田監督その人に見える。彼があこがれる北新地のホステスを佐藤江梨子が演じる。背の高い彼女と八嶋の2ショットを基本イメージとして、ドラマは展開する。バカバカしい話だ。一途に彼女を想うから、嫉妬に苦しめられる。でも、そんなバカな男を彼女はやさしく包み込む。理想の女を佐藤が演じる。
だが、そんな愛おしいドラマが、どうしてこんなにもつまらないものになったのだろうか。池田監督が望んだ映画がきっとここに展開するはずだった。それは狂気に至る純愛だ。美しい妻をそのまま愛するために乳がんの手術を受けさせない。そんな不条理を納得させるだけのドラマをこの映画は用意させていない。これは安易な人情劇ではなく、頭のおかしいの男のドラマであるはずだった。それが狂気を通り越してとんでもないものになる。そんな映画になるはずだった。なのに、なぜこんなことになったのだろうか。これでは八島演じる男は、ただのつまらないバカ男にしか見えないではないか。きっと諸事情があったのかもしれない。だが、出来上がった映画がすべてだ。言い訳は必要ない。
池田が望んだ本当の映画が、ここに実現するはずだった。なのに、彼はどうしようもない駄作を作ってしまったのだ。彼は自分が作った自分の映画に失望したのではないか。20年以上待ってようやく巡ってきたチャンスをものにできなかった。自分の才能のなさに失望した。そんな妄想を抱かせるような映画だった。
見終えた後、悲しくなった。僕が大好きだった池田敏春監督の最期をこんなふうにして看取ることしかできない。悔しい。20年かけて彼は少しずつ才能を枯らしていった。人生にはそういうこともある。