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映画・演劇のレビュー

『生きているものはいないのか』

2012-03-03 22:28:19 | 映画
 いくらなんでもこれはないわ、と思った。これじゃぁ、素人学生の自主映画ではないか。一人よがりで、安易に自分の大学のキャンパスを舞台にして、そのまま撮影に使い、さも、スケールの大きい映画のようなルックスに見せかけて、自分たちだけで盛り上がり、はしゃいで終わる。そんな学生映画を昔よく見た。なんだか、よく似ているのだ。

 自主映画のパイオニアとして、20分ほどの8ミリ映画『高校大パニック』でデビューして、それが日活(当時は「にっかつ」)で劇場用長編としてリメイクされ20歳前後の若さで劇場用商業映画(!)デビューを果たした時代の寵児、石井聰互が、12年ぶりに放つ新作である。前作『五条霊戦記』は、義経、弁慶を主人公にして浅野忠信、渡辺謙が主演したメジャー大作で、作品としてもとてもすばらしいものだった。だが、あの作品の後、新作はなく、10年以上の歳月が流れる。その間の事情はわからないが、今回名前も「岳龍」と改名し、満を持しての最新作だ。しかも、自らプロデューサーとして、製作にも関わる初心に戻ったインディペンデント映画である。

 ほぼ、素人ばかりの若い役者たちを16人集めて、それに2人の大人を加えて、18名。染谷将太以外のみんなは原因不明の「なんか」によって死んでいく、というあきれた内容で、もちろん前田司郎の原作、脚本なので、無意味スレスレの脱力系で、ギャグなのかなんなのか、わからないようないいかげんさのパフォーマンスで、ゆるゆる見せていく。だが、そこはそれで、これは石井作品なのだから、それが笑いにはならない。とはいえ、コメディーではないけど、ハードなアクションでもないし、よくわからない映画として、ただ、与えられるものを見つめるだけになる。見ていて本気で見ているのがバカバカしくなるくらいのいいかげんさで、描かれる出来事にはなんら科学的根拠もないし、ただわけもわからないまま、死んでいくのを、このキャンパス内に限定して見せていくばかりだ。でも、外の世界でも、同じようにどんどん人が死んでいるのは確かみたいで、普通ならこれは空前絶後の一大パニックになりそうなものなのに、なんか登場する人間はみんなノーテンキで、人が死んでいるのに、ぼんやりしているばかりだ。最初のJRに事故の話と、都市伝説研究会の話がおもしろい。導入部はなかなかなのだが、実際に死に始めてからが、説得力がない。

 このリアクションの薄さが、リアリティーのなさだと思ったが、じゃぁ、突然目の前で意味もなく人が死んだりしたら、僕らはどう受け止められるのか、と改めて考えると、実は想像できない。こうであるのではないか、という前提なんて単なる幻想にすぎなくて、実際それが起きたなら、この映画の人たちのように不条理な行動を取らないという保証はどこにもない。原作は前田司郎のよくある不条理演劇なのだろうけど、それを現実の世界を舞台にして映画化してしまうと、こんなにも空々しいものになってしまうのだ。そしてそれを石井岳龍監督は思いっきりさりげなく見せてしまうことで、嘘臭さを通り超えた「空々しいリアル」のようなものを提示することになった。

 結果的にこれは「へたうま」映画のようなものになり、良いのか、悪いのか、それすら、よくわからないものとして、目の前にある。なんだかわからないけど、みんな死んでしまって、自分もきっとそのうち死ぬんだろうなぁ、と思いつつ、フラフラ夕暮れの河原を歩いていく染谷将太の姿を見ながら、ほんの少し悲しくなった。遅かれ早かれ人はみんな死んでしまうんだ、という当たり前の事実が、こんなふうにユルユルといきなり見せられたとき、もうどうでもいいや、と思いつつも、やはりそれって切ないなぁ、と思う。

 見終えた時には、これは酷い、と思ったのに、今、こうして思いだしながら書いていると、なんだか、これはこれで凄いのかも、なんて気になってきた。なんとも不思議な映画だ。


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