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映画・演劇のレビュー

劇団 いちびり一家『鼠のね マダラシグナル』

2009-05-28 21:51:43 | 演劇
 独自のスタイルで不思議な感触の残る音楽劇を作る劇団いちびり一家の最新作。ハーメルンの笛吹き男をモチーフにした作品らしい。だが、見ていてあまりそんな風には思えなかった。そこに拘る必要はないだろう。作、演出の阪上洋光さんは自由な発想でこの迷宮のような芝居を作った。

 子供たちのいなくなった町で主婦たちが夕暮れの中、子供たちの姿を追い求める姿を描く。だが、見ていてなんだか切実感がない。彼女たちはまるで他人事みたいだ。自分の子供なのに、ずっと帰ってこないのに、まるで人事のように、おしゃべりに興ずる。「6時になりました、子供たちはおうちに帰りましょう」という放送とともに、ドボルザークの『新世界より〈家路〉』が流れる。それは夕暮れのどこにでも街角のとある風景だ。

 ストーリーは、なんだかいつまでも停滞したままで、流れていかない。同じところでいつまでも足踏み続けていく感じだ。見ていて、だんだん、ほんの少しずつだが、徐々にイライラしてくる。阪上さんはきっとわざとこんな作り方をしたのだ。お話によって引っ張っていくのではなくひとつの状況をいつまでも続けていくことで、そこから生じた不安と恐怖で、じわじわと観客の首を真綿で締め付けるようにする。ここに起きていることは事実ではなく、もしかしたら誰かの心の中にある不安が作り上げた妄想ではないか、とすら思えてくる。

 女(吉井希)は4年間家から一歩も出なかった。彼女は死んでしまった兄の幻に苦しめられている。母親は何とかして彼女を社会復帰させたいと願う。とりあえずわかりやすい図式はある。これに子供たちを失った先の4人の主婦たちの不毛な会話を重ね合わしていく。この2つの話からこの町で起きたとある状況が少しずつ見えてくる。池の底に沈んだ兄の遺体がまだあがらないこと。おぼれていく兄をボートの上から見ながらも何も出来なかった妹。

 本当のことがどこにあって妹の4年間と兄の20年間の間に何があったのか、それがこの町の現実とどうシンクロしてくるのか。本来ならクリアになっていくはずのものが曖昧なままにされ、さらには突き放されるようにして終わっていく。見終えても、もやもやが後に残る。どうしてこんなにもわかりにくい話を作ってしまったのだろうか、と思いつつも、何でもかんでもわかりやすければいいというものでもなかろう、とも思う。

 阪上さんが見せたかったのは、ひとつの状況であろう。状況はやがて明確な解決にむかうというのが、お話の定石である。しかし、現実にはそんなわかりやすい答えなんて出ないことも多い。ネズミたちの合唱シーンから始まりもう一度同じシーンを繰り返して終わっていく。ちょっとした民話風な語り口でこの町に起こった不思議な出来事をレポートしていく。あっという間の1時間45分だった。

 PS 

 実はこの芝居の解釈はけっこう簡単に出来る。この芝居を見たあとで、パンフレットを読めばわかった。だけれども、この文はそれを反故にして書いた。説明は芝居の中でしたらいい。それに説明はいらない。理解力がない人(僕です)はわからないままに書けばいい。というわけで、見た印象のまま感じたことを書いてしまった。まぁ、いつものことだが。だが、このわからなさがなんだか快感でもある。前作もそうだったが、やはりいちびり一家はいい意味でアングラだ。

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