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映画・演劇のレビュー

劇団未来『はいせんやあらへんしゅうせんや・・・?』『西瓜と風鈴』

2011-06-22 22:55:50 | 演劇
この真摯な作品をしっかりと受け止めよう。今、学校の授業で、茨木のり子の詩、『わたしが一番きれいだったとき』を読んでいる。高校生の彼らとともに、空襲の日々、戦時下、戦後の時間を体験することで、10代の少女が、あの時代を生きることの痛みを自分たちのこととして、受け止めてもらうことが、目的だ。でも、それって僕だって、自分で体験したわけでもない時代の話だ。生半可な知識を受け売りしたくはないから、テキストであるこの詩だけを、丁寧に読み込むことから、見えてくるものを、彼らと想像する。詩の中で描かれる彼女の傷みを読み込む作業を通して、それを追体験する。わからないことは、わからなくてもいい。でも、わかることは、しっかりわかりたいと願う。それだけでいい。それが伝わればいいと思っている。今日のこの2作品を見ながら、授業をしながら感じたそんなこととまるで同じ事を思った。

『はいせんやあらへんしゅうせんや・・・?』は詩の朗読である。大阪大空襲により、何が起きたのか。それを見た、体験した人たちのそれぞれの思いが込められた詩を、劇団未来の役者たちが、自分の身体を通して伝える。その時いらぬ解説は不要だ。ただ、伝わるものだけが、伝わればいい。彼らは、自分の考えを押しつけてくるのではない。このテキストに書かれたものを、そのまま言葉として発する。そのとき、そこに余計な感傷や感想もいらない。今回取り上げられた詩自身も、そんな同じ姿勢だ。



戦後61年目の夏。今年も彼はやってくる。大阪大空襲で亡くなった女性のもとに畑で獲れた西瓜を携えて、毎年夏になると彼は広島から訪ねてくる。もう一本の作品である『西瓜と風鈴』の描く、このとても小さな小さな風景もまた、身に沁みる。

主人公である木下を演じる則清泰男さんがとてもいい。彼は自分の持つ雰囲気だけで、この芝居全体を支える。演技なんかではなく、彼の佇まいが芝居となる。本当の大人の役者の持つ魅力がそこにある。小手先の芝居なんかはいらないのだ。ただ、老人がそこにいる。それだけでいい。そんな彼と向き合う高校生まや(近江博子)。この2人のやりとりがこの芝居の中心を担う。それを2人の死者が見守る。とてもきめ細やかな作品になった。単純な図式で説明するのではなく、彼らがそこで感じたこと、見たことが素直に綴られていく。木下(実は青木)が、この61年間ずっと抱えてきたものを脱ぎ捨てる一瞬を描くのではない。彼を支え続けてきたものを伝えることがこの芝居の大切なポイントである。そして、その目的は達せられた。


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