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映画・演劇のレビュー

桃園会『ダイダラザウルス』

2011-02-03 23:33:37 | 演劇
 まさかのファンタジーである。終盤では定番の『銀河鉄道の夜』までもが引用される。これが深津篤史の新作なのか、と驚かされる。とてもじゃないがありえない構造である。しかし、ただなんとなく見ている分にはとてもこれがファンタジーだなんて見えないことも事実だ。ストーリーの結構もわかりにくいし、まるで、この作品世界が観客である僕の心に入り込まない。作品からどんどん取り残されていくような気分がして焦った。

 それは芝居から主人公である私(三田村啓示)が取り残されている姿と重なる。本来ならこの主人公は紀伊川淳が演じるはずだったが、彼の体調不良から、公演直前になって急遽代役が立てられたようだ。その辺の顛末について、詳細はわからない。だが、そんなことはこの芝居とはなんの関係もない。僕たちは提示された芝居だけから、この作品を見る。

 三田村はテキスト(台本)を持って、上手から一歩も動かない。しかも、台本からほとんど目を離さない。彼を見ていると、この降板がほんの数日前であることが想像できる。本来なら、この公演自体が中止か、延期になってもおかしくない事態であろう。しかし、演出スタイルの変更によって切り抜ける。本来のこの芝居のあり方とはまるで違ったスタイルでの公演になったことは想像に難くない。テキスト片手にただそれを舞台の片隅で読むだけの主人公に感情移入なんてできるはずもない。だが、このスタイルになったことで、深津ファンタジーは主人公がファンタジーの外側にいて、ただその世界を見守るだけのものとなる。この不本意で、思いもしない距離はこの芝居を根本から変えてしまったことだろう。僕が芝居に集中できなかったのは、そのせいだ、と言い切ってしまってもかまわないだろう。しかし、そんなことわかった上で、この形の中から見えてくるものを、深津さんは提示しようとしたことも事実だ。この不本意な距離感が思いがけない効果を生む。

 旅する男は列車の中にいて、その周囲の風景を窓から見る。額縁の中でドラマは起きる。いろんな出会いや、お話がそこにはあるはずだ。しかし、彼はただの傍観者でしかない。世界と彼との間には常に距離がある。そこで描かれるドラマに彼が登場し、彼の記憶から紡がれたものであったとしても、である。そこにはいない、ということが常に強調されることになった。本来なら彼がそこにいて一緒に話を展開させる場面でも、当然彼は舞台の隅から動かない。彼の旅は未来に向けてのものではなく、過去へ向かう。色褪せた古いアルバムの中にある人々と過ごした時間は懐かしい想い出であり、そこでは彼は傍観者なんかではなく、主人公のはずだ。なのに、彼はそこでも傍観者となる。世界に入り込むことができない。

 どこにいても彼は物語の外側にしかいない。それでも、彼はこの芝居の中に立ち続ける。三田村啓示はずっとテキストを読み続けるだけで、ほとんど顔をあげる余裕すらないし、頑なにそれを拒否しているようにも見える。階段の上で演じられるドラマと、その外で佇む彼という図式は一貫して変わらない。この頑なさがこの芝居を形作っていく。遊園地、ジェットコースター、サーカス、ピエロ。そういうファンタジーの装置を使いながら意識のフラッシュバックの中、ひとりの男の心の旅が綴られていく。この居心地の悪さ、世界との違和感。それがこの芝居を形作る。ダイダラザウルスに乗って、やがて再びもとの場所に戻ってくる。徒労ではない。そこには快感がある。

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