携帯メールの<絵文字>のことを書いた。
その前後、Oさんに近況を伝えるメールを送ったところ、日をおかずその絵文字付きの返信が届いた。
その中に、“ 最近、西国三十三箇所の巡礼に回っている ” とあり、“ 特に信仰心はないんやけど、何やかやと反省することも・・・” とも。
どんな風の吹き回し?と思って読み進めると、“ 健康管理も含めてね ” とあり、ペトロ のことも “ ついでに祈っておく ” とあって苦笑い。
笑い話に紛らわしてはいるが、子供さんが就学中に部位は違うが罹ったと言うOさん、“ 成人するまではと生きることに必死だった ” と続けていた。
勿論、その本心を窺い知ることはできないけれど、<再発>という言葉にナーバスになっているペトロ、この病がもたらすものの一端を改めて知らされた思い。
そのOさん、“ 役目を終えて張り詰めていたものが切れたみたい。余分の人生、肩の力を抜いて自分の事も考えなと思ったら凄く楽になれたように思う ” と括っていた。
そんな心境の変化が、三十三箇所巡りでもと思い立たせたのかな、と勝手読み。運動がてらの気分転換とさらっと受け止めればいい話なのだろけど・・・。
話は変わって、今回のことでいろんな方から励ましを頂いた。
霊場巡りの折に、ついで、拘るなあ。に、祈って下さる方もあれば、伊勢神宮でお守りをという方もあって、何れの方にも感謝の他ない。
R君とI君兄弟は、母方の実家近く、万葉集にも詠われ由緒あるという神社でお祓いを受けお札を授かって来てくれた。
敬虔なとまで言うには聊か面映いがキリスト者のペトロ。
だからと言って、他宗教だからとそのことを迷惑に思ったり、お札やお守りを断ったりすることはない。
祈願とは、自分のため、また、誰かのために信じる神や仏に祈ること、その心を嬉しく頂く。
そんなこんなで、ついでにしろ、西国三十三箇所の霊場で掌を合わせて貰える幸せを感謝している。
尤も、その折のOさん、ペトロのことを失念していないことを、それこそ祈る思い?
高槻のNaさんからの「紫蘭」と夙川公園の「黄菖蒲」、どちらも初夏の爽やかな薫りがする。
Peter & Catherine’s Travel Tour No.471