楽しい話じゃないが、この歳にもなれば末っ子ということもあって身内を先に送ることになる。
先日も、長兄の連れ合いの回忌法要の案内を受けたが、多用もあり欠礼することにした。
その義姉がいなくなって、あれほどの大家族が暮らした生家が空き家になってしまった。
小1時間程のところに住む姪が、たまに風を入れたり草を毟ったりしているらしい。
話は変わって、NHKの朝のドラマ「ゲゲゲの女房」に続く「てっぱん」、阪堺電車の沿線と思しき下宿屋を舞台に、大阪弁の騒がしくも賑やかな中にも、ほんわかとしたやり取りを楽しんでいる。
余談だがペトロ、独身時代に、阪堺電車沿線の我孫子道(あびこみち)辺りの安アパートに暮らしていたこともあって、ドラマの風景も懐かしく見ている。
先週は、お盆になって主人公が帰省、登場人物の台詞を借りれば、「暑苦しい家族」の、こてこての関係をこれでもかと見せられた。
遠い昔、どの部屋にいても誰かの頭か足が見える生家で、家族がひしめき合ってお節介に暮していた頃のことを懐かしく思い出した。
大阪に戻った主人公、僅か半年ばかり離れただけなのに、早くも、「誰かが待っていてくれる故郷があるのはうれしい」と述懐するのが可笑しいが、それほど故郷というものは優しく、言うなれば母の匂いがするからだろうと思う。
翻ってカタリナ、大阪生まれの大阪育ちだが、親元で暮らした歳月よりもはるかに長くペトロの故郷との付き合いを重ねてきたので、「田舎で暮らすとは、このようなもの?」程度のことは理解できるようになったと言う。
それとても、自分を田舎暮らしの中に置くなんてことは、想像すらできないようだ。
詰まるところ故郷とは、山も川も里も懐かしいけれど、やはり、温かく迎えてくれる人がいればこそ、そのように思うのだが、どうだろう?
その意味では、寂しいけれど、もう帰るところはないのかも知れない。
仲間内で「勝手に呼んでいる」と言う「千日紅小坊主」?(写真上)、茶花として使ったという。
その母親?の「千日紅」(写真下)、散歩の途中に撮ったが、よくみると花の中に別の花があるかに見えて、いかにも可愛い。