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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

出会い ‐ オルセーの合間に(5)

2012年06月20日 | フランス

 王の門近くのビストロ(上段左/右)に腰を下ろし、エスプレッソとビールで暫し休憩。
 ビストロを出ると、驚いたことにそれまでの小雨(中‐上段左)が物凄い雨に変わっていた。
 海からの強い風が横殴りに吹きつけ、傘など「何の役にもたたない」という有様。

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 近くのラヴァンセ門(中‐上段右)僅か1m程の通用口の庇?に逃げ込み、勝手にその扉を閉めて湾から吹きつける風雨を凌いだが、同じように逃げ込んで来た同行の外人さんに、「グッド・アイデア」と褒めて貰えるほど激しい雨、堤防を歩いてきたらしいヒッチハイカーもずぶ濡れで散々な様子。

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 小止みになって外人さんグループ、近くのカフェへ「一緒に」と誘いを受けたのだが丁重にお断りをしてしまった。
 海外旅行を楽しむには言葉の壁はあっても、「ご一緒しなければ」「駄目なんだなあ」と少し後悔。
 
 ところでこのグループのひとり、好々爺然としたお爺さんと、後日オルセー美術館(中段左/中/右)で偶然にも出会った。勿論、その時は知る由もなかったが。

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 さらにその翌日、暮れなずむシャンゼリゼ通り(中‐下段左/中/右)、この世界で一番美しいと言われている通りのとある交差点で信号を待っていると、隣に何処か見覚えがある女性が同じように信号を待っていて、私たちの顔を見て同じように驚きながらも白い歯を見せて会釈をする。
 なんと彼女、<英語を担当したガイドさん。>、何時、何処で誰に出会うか「判らないものね」と実感。

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 話は戻って、目まぐるしく天候が変わる聖地と別れ再びバスの人に。
 夕食のためノルマンディー地方のカーンの平和記念館に寄ったが、雨足は一向に衰えない。
 早朝からの長いバスに倦んで、うとうととまどろんでいる間にバスは夜のパリの街に。ライトアップされたエッフェル塔(下段左)が美しい。

 夜も更けた22時頃、シティ・ラマ社に着いた。
 雨上がりの夜道をオペラ座(下段中)の方に向かっていると、可愛い同行者が同じ方向とかで追いついてきた。

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 気が許せるのかカタリナ に、「何日か前に二人でパリに入ったが、友達はお買い物ツアーに、このツアーには独りで参加した」由、翌日の便で帰国すると親しげに話している。
 オペラ座の前で彼女と別れ人影もまばらな地下鉄オペラ駅のホーム(下段右)で電車待つ間、バルセロナ郊外<モンセラート>でも、国は違ったが若い女性との小さな出会いがあったことを思い出していた。
 それにしても聖地モン・サン・ミッシェルへの遠足、長い一日が終わって、「ホッ」と溜息がでた。

 5回にわたって投稿した “ オルセーの合間に 聖地巡礼 ” 今回を以ってひとまず終える。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.480

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ラ・メルヴェイユ ‐ オルセーの合間に(4)

2012年06月08日 | フランス

 西のテラスから聖堂に歩を進めた。
 整然と組まれた石の壁、身廊(上段左/中)は、「この地方ノルマンディのロマネスク美術の代表的作品、その奥の内陣の天井と透かしの高窓(上段右)はゴシック様式」と話すガイド氏。

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 聖堂を離れ、隣接する修道院の最上階に足を運んだ。
こ こからがこの聖堂の真髄、《 ラ・メルヴェイユ = La Merveille 》。
 驚異と称される修道院の居住空間は、まさに、見る者を驚かさずにはおかないものだった。

 円錐形の岩山に建つため聖堂同様この修道院も三層からなっているという。
 その1階で一般巡礼者を迎え、2階では貴賓客や貴族をもてなし、3階には食堂と庭園、修道士の生活の場となっていたとか。

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 この構造は、“ 神に祈りを捧げる者は最上階に集い、戦う騎士は中層に、農民は最下層で施しを受けるという、中世聖職者の理想の世界観を具現したものであった ” と案内書は語る。

 最上階、そこは、二重の円柱列の回廊が囲む緑の庭園、空間(中‐上段)だった。
 “ 僅かにずれながら二重に配された細い円柱によって目の錯覚を起こさせ、実際よりもはるかに広く、しかも、開放感を与える空間で、また、この山でもっとも最上階に置かれたこの空間は、天に向かって意識を集中する修道士にとって至高の瞑想空間だった ” と結ぶ。

 E1 E2 E3

 回廊の西側からは、遥か遠くまで西海を望むことができる。
 人間界から西方に十万億の仏土を隔てた所にあるという極楽浄土。
 その西方極楽の教えがキリスト教にもあるのかどうか不勉強にして知らないが、数多の大聖堂や教会が東西を前後に建つことを思えばあながち無縁でもないのかも。

 F1 G3_3 G2

 上層階の修道士の食堂(中段左)から聖母の礼拝室(中段中)を通り、中層階の騎士の部屋(中段右)貴賓室と巡り、そして、荷物を運びあげる大車輪(中‐下段左)に驚き、低層階の土産物店に着いたところでガイド氏と一旦別れ、出発まで2時間ほど自由時間となった。

 H2_2 H3

 北の塔・ブクル塔(中‐下段中/右)と呼ばれる砦から城壁に沿った道(下段左)を辿り、自由塔からもとのラヴァンセ門付近(下段右)に戻った頃、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
 「いやはや」目まぐるしく「天気が変わるのね」と呆れながら、石敷の小道を急いだ。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.477

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大天使ミカエル ‐ オルセーの合間に(3)

2012年06月04日 | フランス

 ドームにしろ鐘楼にしろ、歩いて昇らなければならない所が苦手のカタリナ、何時もの「下で待ってる」を封印、修道院まで続く階段、喘ぎながらもガイドの背を追っている。
 長時間バスに揺られて来たのは何のためということだろうけど。

 衛兵室の前、修道院への最後の大階段(上段左)、これが九十段あるのだそうだが結構きつい。を、ようよう登り切ると急に視界が開けた。西のテラス(上段中/右)である。

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 秋の柔らかな陽光を浴びてサンマロ湾の干潟がきらきらと輝き、潮風が心地よい。
 干潮なのか所どころに岩礁が覘き、果てもなく泥濘が広がっている。

 この干潟、危険な流砂床で勝手に歩くのは禁止されているが、ガイドに引率されて歩くツアーもあるらしく、沖合の干潟に芥子粒みたくなその一行らしき人影(中段右)が望めた。

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 この地を語るには、“ 8世紀のはじめ、サンマロ湾の対岸の町アヴェランシュの時の司教オベールが夢で、神の御使い大天使ミカエル、フランス語でミッシェル = 神に似たる者という意。の、お告げを聞いた ” という逸話から始まる。

 話は、“ ミカエルがオベールの夢枕に現れて三度目、彼の額に触れさらに強く命じられる。夢から目覚めた司教は、額に残る感触からやっとそのお告げを信じ、小さな聖堂を建立したのだが、それまで陸続きだった山が一夜にして海に沈み孤島になった ” と続き、“ 以来この地は聖地になった ” と締められる。

 大天使ミカエルが司教オベールの額に触れ聖堂建立を命じるシーン、そのレリーフ(下段左)が今も聖堂に残る。

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 ちなみに、ミカエルのアトリビュート(属性)は、公正を表す剣と秤、ここ、モン・サン・ミッシェルの聖堂の頂にもその像(下段中/右)が輝く。

 余談だが、初期ネーデルランド期(ルネッサンスと同じ時期)、ネーデルランドの画家ウェイデンは、「最後の審判の祭壇画」(フランス・ボーヌ施療院蔵)で、天国に召される者(向かって左)と地獄へ落ちる者(同右)を裁くため、キリストの足下で秤を手にするミカエル(中央)を描いている。

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 話は戻って、最初にノルマンディとブルターニュに跨るシシイの森の中、標高80mのトンブ山と呼ばれる小高い地に礼拝堂が建てられ、やがて966年に、ノルマンディ公リシャール1世によってベネディクト派の修道院が建てられたのだそうだ。

 オルレアンの乙女、<ジャンヌ・ダルク>が活躍した百年戦争、彼女も大天使ミカエルに「フランスの敵と闘え」と告げられる。に、巻き込まれて一時は城塞に。
 また、フランス革命時には政治犯の牢獄として使用されるなど数奇の運命をくぐってきたこの聖地、1874年、フランスの歴史的記念建造物に指定されたという。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.476

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聖地遠望 ‐ オルセーの合間に(2)

2012年05月21日 | フランス

 朝食を終えて再びバスに。
 この頃になって小雨が落ちてくる生憎の空模様、それに、10月の下旬にしては寒い。

 並木が僅かに色づく小さな村を過ぎたかと思えば、見晴るかす緑の丘陵に放牧された牛や羊が長閑に草を食む姿が遠くに望め、農業国フランスの面目を躍如する景色が続く道をバスは走る。

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 昼も過ぎた頃、ようやく遠く車窓に蜃気楼のように浮かぶ姿が(上段左)。
 幸いなことに雲も流れ、青空から薄日が差すまでに天気も回復、パリから300km、「遠いところまで来たもんだ」と改めて思う。
 草原の向こう、旅行案内などでお馴染みのその姿(上段右)は、聖堂、僧院、はたまた要塞と、どの表現が当てはまるのか判らない。

 陸と島を結ぶ堤防の傍らの駐車場にバスは停車。
 そこから直ぐ、石組みの壁がそそり立ち、島全体が城砦(中段左)、このように表現するのが一番相応しく思えたの。が、まさにそこに聳えて在った。

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 ここはヨーロッパ最大の干満の差があったという。
 かつて満潮になると島への道が消えてしまい、人が近づくことを拒むかのように波にのまれた巡礼者も数多くあったとか。
 そんな厳しい自然であればこそ、修道の地に相応しいとしたのだろうか。
 今は大型バスも通行可能な堤防によって結ばれ、潮の満ち引きに関係なく訪れることができるようになり、巡礼者や観光客で溢れる。

 しかし、皮肉なことに近年は、その堤防のせいで砂が堆積、島の周りを海水で囲まれる(中段右)ことは稀となってしまったとも聞く。
 馬が駆けてくるような速さで海が島に押し寄せる激しい光景は、残念ながら滅多に見られなくなってしまったとか。

 駐車場から石造りの階段を登り最初に潜るのが、この城砦化されてしまった島唯一の前哨門、ラヴァンセ門。

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 この先トイレがないらしくここで暫く休憩。
 待つ間にカメラをカタリナ に向けていると、あのひとり旅の可愛い女の子、「シャッターを押しましょうか?」と声をかけてくれた(下段左)。

 さらに、ラヴァンセ門を抜けると、道の両側に土産物店や名物のオムレツを食させるレストラン、それにホテルなどが軒を連ね(下段中)、その先に王の門(下段右)がある。

 そこを過ぎると修道院までの大通り、グランド・リュー。
 大通りといってもこの参道?小路ほどの道幅しかなく、しかも曲がりくねり、そしてかなりの坂になっている。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.470

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聖地巡礼 ‐ オルセーの合間に(1)

2012年05月18日 | フランス

 キリスト教にとっての三大聖地とは?
 一般的には、<ローマ>(上段左)、<サンチャゴ・ディ・コンポステーラ>(上段中)、そして<エルサレム>(上段右)だろう。

 が、それらには及ばずとも、多くの信徒が心の拠り所とする聖なる地も数多ある。
 オルセー美術館の途中だがここらで少し気分転換、そのひとつモン・サン・ミッシェルの巡礼に出かける。

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 朝まだき道を、バスツアーを催行するシティ・ラマ社へと急ぐ。
 ツアーの半数ほどが日本人でその殆どはカップルだが、独りで参加している若い女性もいる。
 カタリナ、このうちの一人の可愛い女の子と仲良くなり、親しく言葉を交わすことになるのだが、それはある程度時間が経ってからのこと。

 4時間ほどかけてノルマンディ地方はモン・サン・ミッシェル(中段)へ向かうこのバス、ガイドはフランス人二人。
 英語を担当する小柄な女性と日本語を受け持つ太った男性が交互に案内する。

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 パリから2時間ほど経っただろうか、小さな町に着き小さなホテル(下段左)の食堂で朝食。
 バスに戻ってガイド氏にこの町の名前を訊ねたら「エギュレブ」と聞こえたのだが、巻き舌のフランス語が聞き取れず、どうもレギュレ・L.Aigleという町だったらしい。「何だか頼りないこと」と笑われてしまった。

 ちなみに、ノルマンディ地方とはフランス北西部の英仏海峡、イギリスでドーバー海峡、フランスではカレー海峡に沿って開けた地方で、セーヌ川の下流域にあたる肥沃な土地(下段中)を指す。

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 ガイド氏は、「8世紀末に海を渡って侵入した北方のヴァイキングは、11世紀にかけてスカンディナビアやデンマークから海路ヨーロッパ各地に進出したノルマン人の別名で、略奪行為や征服だけでなく、植民、交易、建国など活動は多方面に及び、ノルマン人の一部ヴァイキングがこの地に移り住んでノルマンディ公国を建国したことにその歴史は始まる」と話す

 さらに、「ノルマンディ公は、フランス北部セーヌ川下流にある河港都市<ルーアン>(下段右)に首都を置き、13世紀にフランスに併合されるまでイギリスを征服するなど権力をほしいままにし、独自の文化を築いた」とも続けた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.469

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モンマルトル日記(五)

2010年07月10日 | フランス

 10××日(曇り時々晴れ間)「サクレ・クールでミサ

 目を見張るばかりの内陣(写真上)のサクレ・クール寺院。

 Photo_4祭壇では、何人かのシスターが聖歌を献じている。
 ほんの少し前に金曜日の礼拝聖祭が始まったようで、多くの信者が祈りを捧げている。

 この旅で初めてミサに与ることができた。
 ミサは進み、「教会に平和と一致がありますように」との司祭の呼びかけに、祈りとともに近くの人と握手で挨拶をする。

 カタリナ 横目で羨ましそうに見ているペトロ を気付かぬげに、可愛い女の子と笑顔で握手をしている。
 それはさておき、「キリストの体」の言葉とともに聖体を拝領、派遣の祝福を受けミサは終わった。

 ミサの後、「献金してきます」と祭壇へ、シスターの持つ献金箱にささやかな一灯を献じたようだ。

 雨は上がっていたが、寺院から見るパリ(写真中)、厚く灰色の雲に覆われていて、「こういうのをアンニュイ?」と言う誰かに、「こんなに、この言葉似合わない人も珍しい」と揶揄する。

 Photo_7サクレ・クール寺院から、麓?の街への、中央部の緑地帯や中間に設えられた噴水などがある大階段(写真下)を下ると、回転木馬があって子供たちが楽しんでいる。

 ところが、その陰からにゅっと手が差し出され、ぎょっとしてしまった。
 なんと、先ほどサン・ピエール教会で幾ばくかを施した同じジプシー、「聖ペテロのご意向?に「唖然!

 丘からロシュシュアール大通りへつながる道の両側、土産物屋やビストロがぎっしりと並び、差し詰め表参道か?

 Photo_8アンヴェール駅からM2号線でグラン・ブールヴァール駅へと戻った。

 駅の出口のところに、「美味しそうな匂い!を振りまいている店があって、カタリナちょっと気になっていたよう。
 促されて覗いてみると、パイ生地にイチゴやオレンジをのせたものやチョコレートがのっかったタルトが誰かの食欲を誘う。
 テイク・アウト、そうそう「テイク・ゴー言わなければ肩をすくめて「ノン!」の返事が返ってくる。を、したのは言うまでない。

 ペトロとカタリナの 「モンマルトル日記 ‐ 小雨降る秋の一日長々と回を重ねてきました。
 花の都はパリの北の端、小高い丘に漂う馥郁たるアートの香り、少しでも嗅いで頂けましたでしょうか?
 えっ、ちっとも匂わない、それに、退屈だったって?  Oh My God!

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モンマルトル日記(四)

2010年07月08日 | フランス

 10××日(曇り時々小雨)「サン・ピエール教会

 小雨の丘の街で、深まりゆく秋の余韻を楽しみながら、サン・ピエール教会(写真上左)に入った。
 正式には、サン・ピエール・ド・モンマルトルというこの教会、サクレ・クール寺院の傍らにある小さな教会だが、パリ最古の歴史を持つらしく着工が1134年、そして13年後に完成したと案内書にある。

 PhotoPhoto_2サン・ピエール、聖ペテロを祭祀するこの教会。
 妻マリー・アントワネットとともに断頭台の露と消えたルイ6世が創設、かつてベネディクト派の修道院に付属していたともある。                                                       

 祭壇脇に、天国への鍵を持つ、「聖ペテロの像」(写真上右)があったが、彼の右足の脛は、聖人にあやかりたい信者にさすられて金色に光っていた。

 Photo教会から出ると、ジプシーが手を差し出す。
 この手のものは大方無視をするのだが、カタリナ が、ペトロ が「霊名を頂いた聖ペテロの教会だから」と、感謝の気持ちも込めて幾ばくかのコインを置いた。

 テルトル広場から、サクレ・クール寺院(写真左)へと向かった。
 寺院の前に広がるテラスからは、多くの観光客がパリの風景を楽しんでいる。

 モンマルトルとは、“ 殉教者の丘 ”。
 そしてサクレ・クールとは、“ キリストへの聖心(みこころ)” の意だとか。

 Photo_3聖なる心、サクレ・クール寺院は、1870年の普・仏戦争の敗北、そして翌年のパリ・コミューンと続いた暗い時代、カトリック教徒の疲弊、心を癒す目的で建設が計画されたそうだ。

 実際に建設が始まったのは7年後の77年、予想以上に時間と費用がかかり、完成したのは1914年、計画から完成までに実に40年の歳月を費やしたとされている。                                                                  

 ロマネスク・ビザンチン様式の切り妻屋根と丸天井を擁する白亜の聖堂は、今もってパリ市民の憩いの場として愛されている。                                         

 今から、そのサクレ・クール寺院下の写真のどこかにカタリナがいます。に入る。(まだ、続く)

 ※「モンマルトル日記(五)」へは、<コチラ>からも入れます。

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モンマルトル日記(三)

2010年07月04日 | フランス

 10××日(小雨)「モンマルトル美術館

 色づきはじめた葉が、小雨に洗われて鮮やかに見える。
 石造りの塀が続く石敷きの坂道の先に、小さな看板が遠慮勝ちに架かる館があった。

 21門扉越しに覗く小さな庭に、緑のアーチとベンチ。
 白い漆喰壁の洋館、モンマルトル美術館(写真上)は、訪れる人も稀で静かな佇まいにあった。

 17世紀に建てられたこの瀟洒な建物は、宮廷劇作家クロード・ドゥ・ラ・ローズの住居だったが、19世紀頃から画家のアトリエとして使われ始めた、と案内書にある。

 カタリナ は、ルノワールがここで、傑作「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場(写真左/オルセー美術館蔵)いたらしいのね」と言う。                                                                            

 訪ねたときPhoto_2は、ユトリロやロートレックの作品が壁にあったが、この美術館、絵よりも、当時の画家たちの日常を見せる場所のようだ。

 かつてアトリエだったサロンには、小振りのグランド・ピアノが置かれ、隣には小さなカウンターが設えられたバーがある。

 この手のものに無縁のペトロ でさえ、「煙草をくゆらしながらグラスを傾け、芸術談義に花を咲かせていたのだろうかと想像を巡らす。                                                                                                                  

 2_3Photoサロンからは、今のパリに残っていることだけでも驚いてしまう葡萄園が、この時期をもってしても緑を瑞々しく見せて広がる。

 モンマルトル美術館の静かな落ち着いた時間の後、芸術家村の面影を今でも残す一角、テルトル広場へ向かった。                                                                         

 風景画を売る自称?芸術家、達者な日本語で話しかけてくる似顔絵描き、それをひやかす観光客、小雨もものかは結構な賑わいだ。

 この頃には雨も小降りで、ようやくあがる気配だったが、敷石の道も白壁をつたう緑(写真下左)もしっとりと濡れていた。
 ユトリロや荻須高徳らが好んで描いた路地(写真下右)など楽しみながらサクレ・クール寺院へと歩いた。(またさらに、続く)

 ※「モンマルトル日記(四)」へは、<コチラ>からも入れます。

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モンマルトル日記(二)

2010年06月28日 | フランス

 10××日(小雨)「アトリエ・洗濯船

 今朝のパリの空、少し機嫌が悪い。
 アベス駅から、息せき切って地上に出たら、小雨が敷石の道を濡らしていたが、モンマルトルの丘に降る雨、石畳とマロニエに小憎いほど似合う?

 Photoアベス広場の前、赤煉瓦のカトリック教会に寄ってから、石畳の道をアトリエ「洗濯船」に向かった。
 途中、道に迷い遠回りをしてしまい、何度か道を尋ねた。
 皆さん親切で身振り手振りで教えてくれる。

 ペトロ の発音が素晴らしいのか、一度などは、Bateau Lavoir バトー・ラヴォワールを、Moulin Rouge ムーラン・ジュールと勘違いをされ、「キャバレー赤い風車」の近くまで連れられて行く始末。
 それでも、地図を頼りに急坂を登るとエミール・グードー広場近く、ようやく見つけた。

 雨脚がきつくなり、今や本降り。
 ペトロ、道を間違えたことなどとっくに忘れ、「秋色の巴里に雨、相応しいやないか」と、ひとり悦にいっているが、カタリナ は、呆れたのか、「・・・・」無言だ。

 2_2ピカソが恋人と住み始め1_2た安アパートを、詩人のマックス・ジャコブが、歩くとぎしぎし音がしてセーヌに浮かぶ洗濯船を思わせたので、「洗濯船」と名づけたと案内書にある。                                      

 この頃の彼、親友の自殺にショックを受け、暗青色を基調とした絵を多く描いている。
 
“ 青の時代 ” と呼ばれるこの頃の代表作、「自画像」や「男の肖像」(写真:パリ・ピカソ美術館HPから)など、深く沈んだ魂の青は、彼の苦悩と孤独の色として、見る者の心を惹きつけてやまない。

 マネ、ユトリロ、モジリア-ニなど、印象派を始め象徴主義などの画家たちが共同生活をしながら作品を発表したそうだ。

 当時の木造アパート、今はなく、別の建物となっているらしいが、ウィンドウに写真などが掲示されていた。
 勿論、フランス語で判ろう筈もなく、差し詰め、がっかり名所?のようだと言えば過ぎるか。(さらに、続く)

 ※「モンマルトル日記(三)」へは、<コチラ>からも入れます。

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モンマルトル日記

2010年06月25日 | フランス

 セーヌが街をほぼ二分するパリ。
 旅の案内書に、北を Rive Droite ・ 右岸、南を Rive Gauche ・ 左岸と呼ぶとある。
 セーヌ川畔のコンコルド広場から周りを見渡せば、まず目に入るのが左岸の
エッフェル塔、そして、右岸では小高い丘の白亜の建物。

 Photoその白亜のサクレ・クール寺院が聳える丘(写真/デジタルズームで粗いが、凱旋から眺めた夕陽のモンマルトルの丘)を中心としたモンマルトル界隈。
 名前を聞くだけで、芸術の都パリの香りが漂ってくるような気がするから不思議。                                       

 モネの旅の合間に、「モンマルトル日記 ‐ 小雨降る秋の一日」を紐解く。

 10××曇り)「パリの地下鉄

 オペラ・ガルニエの近くのホテルから一筋ばかり北、ノートルダム・ド・ロレット駅からM12号線でモンマルトルに向った。

 アベス駅で下車、出口を通った乗客の多くが、エレベータの前に並んで動こうとしない。
 お年寄りならいざ知らず、若い男性までもがポケットに手を突っ込み、所在なさげに待っている図は、「えっ、なんで?」「おかしくない?と首を傾げさせる。

 Photo_3よく分からないまま列に並んだが、なかなかエレベータがこない。
 気長に待つということが不得手?なペトロ 渋るカタリナを促し、「いい若いもんが何だ。心がけが悪い」と、八つ当たり気味に階段を歩き始めたのだが、若者までが我慢強くエレベータの前を動こうとしなかった訳が直ぐに分かった。

 この駅、モンマルトルの丘の直下、すごく深い所にあるのだ。
 延々? と続く螺旋階段、壁にペンキ絵? が描いてあるのだが、とても楽しむ余裕もなく、「恐れ入りました!と手を上げてもまだ続く。

 カタリナ 肩で激しく息を継いでいて可哀想なのだが、その一回り先が地上かも知れないと思うともう元には引き返せない。
 途切れそうな声で、「少しは我慢することも覚えなきゃ」と、誰かの声がしたような。

 ところで、ガラスの天蓋がユニークな入口(写真)の意匠、作者は、エクトル・ギマールという建築家で、看板も彼の手によるとか、幾らモダンでも」「こうも深こうてはなあ!」。 .続く)

 ※ 「モンマルトル日記(二)」へは、<コチラ>からも入れます。

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