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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ジャンヌ・ダルク

2010年06月21日 | フランス

 ノルマンディーの古都ルーアン
 大聖堂(写真上/内陣)、木製の扉の彫刻が素晴らしいサン・マクルー教会、木組みの家が並ぶ旧市街(写真中)、美術館などに秋の一日を過ごした。

 この古都に、ジャンヌ・ダルクにまつわる遺産がある。
 それは、幽閉された塔であり、火刑された広場であり、祀る教会などである。

 Photo美術館で、カラヴァッジョやシスレー、そして、モネの作品を堪能し右岸駅に戻る途中、彼女が幽閉された塔に寄った。

 話は遡って、ロワール地方の古都オルレアン。
 古くから交通の要衝だったこの町は、ゲルマンやローマ帝国やノルマンに侵略された歴史を持つ。

 そのひとつ百年戦争の末期、イギリス軍に包囲され陥落寸前のオルレアンを救うべく、小さな村の羊飼いの少女が、“ 神の声 ” を聞いて彗星のように現れた。

 その少女、“ ジャンヌ・ダルク

 彼女が、Photo_2フランスを救えとの声、それは “ 聖ミカエルの声 ” であったり “ 聖カタリナの声 ” であったりしたらしい。を、聞いて3年、ようやく、ロワールのシノン城で、時のシャルル7世と会見、訊いた声のことを打ち明ける。

 王の許しを得て、白い甲冑に身を固めフランス軍の先頭にたった彼女は、武器の代わりに、 “ イエズス・マリア ” と書かれた旗を振り兵士を鼓舞したという。

 そして、オルレアンを解放、戴冠式がまだ済んでいなかったシャルル7世を正式に即位させるのである。

 Photo_3によって得た勝利の後、政治家の権力争いや当時の宗教者の思惑に翻弄され、やがて、捕虜となる。
 そして、敵国イギリスに身柄を渡され、宗教裁判により魔女の汚名のもと断罪、僅か19年の生涯を終えた。

 今、人々は彼女を、“ オルレアンの乙女 ” と敬い、カトリック教会は5月30日を “ 聖ジャンヌ・ダルク ” の日として祝う。

 話は戻って、石組みの何の飾り気もない、窓もなく明かり取りの開口が僅かにあるのみ。

 カタリナ は、塔を前に、「彼女は、この暗くて湿った塔の中で、何を神に祈ったのだろうか?と思う。

 かの、“ 神の声 ” が約束した、「勝利と救いの国」へと彼女が旅立ったのが、ここルーアン。
 秋の澄み切った空の下、無骨なまでに物悲しい姿で、幽閉の塔 ” (写真下)はあった。

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ルーアン

2010年06月17日 | フランス

 11時頃、ルーアン右岸駅に着いた。
 かつてノルマンディー公国の首府だったこの街、見所は、セーヌ川の北側、右岸にある。

 話はそれるが、地理の勉強を少し。
 ノルマンディー地方雨が多く、ワインの産地ボルドーやブルゴーニュ地方と違って、ワインに適した葡萄が育たないという。
 その代わりに、神がこの地に与え給うたもの? それは、雨に育まれた地での酪農と林檎作り。

 Photo良し悪しは分からぬもののペトロ の好きなカマンベール・チーズとか、葡萄はからっきしだが豊富に採れる林檎から醸造したシードルや火をつければ燃えるというカルヴァドスといった林檎酒がここで産まれるという。                                                           

 話は戻って、ルーアン右岸駅に降りた時、空は青く澄み秋の気配が濃く漂っていた。

 駅前の道をセーヌ川に向かって真っ直ぐに下ると旧市街。
 15世紀から16紀にかけて造られたファサードの装飾が素晴しい裁判所。

 Photo_3近くには、16世紀に作られたルネサンス様式の大時計(写真上)があって、今も正確に時を刻んでいるという。

 大時計を潜ると、正面に見えてくるのが、12世紀に始まり16世紀に完成したとされるノートル・ダム大聖堂(写真中)。

 案内書に、“ フランボワイヤン・ゴシック様式の装飾が美しい ” とあり、“ 火災や戦争で修復が絶え間なかった ” ともあった。

 モネが、フランスで一番高いとされる尖塔を持つこの大聖堂を飽かず描いたことは知られているが、その数、実に30点を超えるらしい。
 この後訪ねるルーアン美術館も、そのうちの一点、「ルーアン大聖堂 ‐ 曇天」を所蔵している。

 Photo_5当時、モネが逗留したホテルが聖堂広場のまん前にあったらしいが、今は観光案内センタになっていた。

 ところで、この大聖堂、ランチ・タイム? があって、12時から2時間扉が閉まる。
 で、聖堂の横手、ブラッセリア・ポール(写真下)に入った。

 ほぼ満席のこの店、混む理由が分かった。
 ボーイさん、ランチのセット・メニューは、「ボリュウームがあるから」と、酒飲みのペトロには前菜とメイン、飲まないカタリナにはメインとデザートを、と実に丁寧なのだ。

 料理が美味しいこともあるが、アテンドの利いたサービスが嬉しい。
 
何事にもクールなカタリナ 横柄な応接には1セントたりとも余分に置かないのだが、あざとさのないものには結構弱い。
 で、この店ではチップをはずんでいた、単純な奴やなあ!

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サン・ラザール駅(2)

2010年06月15日 | フランス

 パリで最も古いとされるサン・ラザール駅
 個の駅から、かつてノルマンディー公国の首府として栄えたルーアンに向う。

 モネは、「睡蓮」や「ルーアン大聖堂」「積みわら」など、同じモチーフの絵を何枚も描いていて、1837年に建てられたサン・ラザール駅は8枚も描いたという。
 尤も、睡蓮など、本人自身が何枚描いたか分からないのでは? と思うほど描いている。

 Photo_4駅、それは、旅への誘い。
 浮き立つような喧噪と喜び、あるいは、別離と郷愁。
 昔も今も変わらずにそこにある風景だが、モネは、それらが醸し出す情景をキャンバスに切り取った。

 ちょうど長い旅を終えて、煙や水蒸気を吐きながらゆっくりと駅舎に近づく機関車。
 線路と機関車のガラスの屋根の伸びやかな空間。
 その向こうに広がる青空と建物が、この絵に動的な広がりを与えている。

 この絵、ターナーの「グレート・ウェスタン鉄道」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)と、しばしば対比されることは、<マルモッタンとテートブリテン>でも書いた。

 Photo_5サン・ラザール駅、今、駅舎改装の真っただ中。

 しかし、嬉しいことに、1877年制作のオルセー美術館所蔵の「サン・ラザール駅」(写真上)に、モネが描いたガラス屋根と同じ風景がそのままにある。

 勿論、ホームで待つ列車、蒸気も煙も吐いてないが。

 ところで、SFCN・フランス国鉄、ルーアン右岸駅行きの発車ホーム、何時ものことながらなかなか発表しない。

 お節介なまでの日本の鉄道会社に慣れた日本人、ペトロ ならずとも少し苛つかされるのでは?

 カタリナ が、ハンチングが小粋な車掌さんに確かめ、列車(写真下)のシートに腰を落ち着けたのは、この駅に着いてから小半時も経っていた。

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サン・ラザール駅

2010年06月12日 | フランス

 モネが一番多く描いたモチーフは 「睡蓮」、となれば次なるモネの旅は、その大作を展示するオランジュリー美術館。

 ちょっぴり?臍曲りらしいペトロ その前にフランス北部の古都ルーアンにエクスカージョン・遠足に出掛ける。
 尤も、北のルーアンも東のストラスブールやコルマールも、カタリナ のリクエストを容れたもの、我が家での立ち場、窺い知れようというもの。
 それはともかく、パリには七つの鉄道駅があること、<パリの駅>でも書いた。

 Photoそのひとつが、ルーアンやカンなど、イギリス海峡に面したノルマンディー地方やパリ北西部方面の列車が発着するサン・ラザール駅

 話は少しそれるが、ノルマンディー地方といえば、サンマロ湾の干潟に浮かぶモン・サン・ミッシェル(上)

 大天使ミカエルのお告げによって建てられた修道院の見所は、ラ・メルヴェイユ日本語で驚異と呼ばれる瞑想の回廊、そして、回廊から眺める西の海
 この聖地への遠足で出会った人たちなどのことは別の機会に。

  また、第二次大戦で連合軍が上陸したのがこの辺りだそうだが、その中心の街カンは、ふた月に及ぶ攻防戦で一面焼け野原になったという。
 モン・サン・ミッシェルからの帰り道、シティ・ラマ社のバス、この街の平和記念館寄ったが、そんな痕跡は昔日のごとく、街の何処にも残っていなかった。

 Photo_3あいも変わらずの脱線振り、で、話を戻す。
 15世紀の英仏百年戦争の最中、彗星のように現れ、そして、魔女として断罪された救国の少女ジャンヌ・ダルク

 ペトロとカタリナ、その少女ゆかりの街ルーアンに向うためサン・ザラール駅(下)にいる。                            

 その駅のホームの行き先表示盤、小さくて分かり辛いが上部に、“ Daparts lle - de - France ” とある。

 セーヌ川やオワーズ川流域の自然豊かな大地と森林をいい、島のような地形になっていることからイル=ド=フランス、フランスの島という村名になったとか。

 モネやピサロがしばしば描いたポントワーズやヴェルサイユ右岸へ行く列車の表示もあった。
 ちなみに、ゴッホが自裁するまでの最晩年、二カ月を過ごしたオーヴェル=シュル=オワーズも、このイル=ド=フランスの村のひとつである。 (続く)

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パリの駅

2010年05月28日 | フランス

 さて、モネを訪ねる旅、何処から始めれば?
 印象派というスタイル、美術分野の表現様式が生まれたのは、モネが出展した画題に拠ることは有名。

 ならば、その作品を展示するマルモッタン美術館を出発点とするのが相応しい。
 美術館を訪ねたのは、午後にパリ東駅(写真上)からストラスブールに移動する日の午前という慌ただしい時間。

 Photo_4ところで、駅名から想像すれば東駅、パリの東部にある駅と思ってしまうのだが、ユーロスターやタリスなどの国際列車が発着するパリ北駅(写真下)と並んでいるのが可笑しい。

 フランス南東部のスイス・イタリアに国境を接するローヌ・アルプ地方に、フランス第二の都市リヨンという街がある。そのリヨン駅という名前の駅がパリの東部にある。

 パリには七つの鉄道始発駅があるらしいが、なかに行く先を駅名にしているところがあって、差し詰め、天王寺駅を和歌山駅と呼ぶようなものか?

 東駅も、ドイツとの国境を接するアルザス地方、フランス東部への列車が発着する駅なのである。

 話がそれたが、ホテルから地下鉄で、随分と名前が長いビブリオテーク・フランソア・ミッテラン駅に出て、RER・高速郊外鉄道で、美術館の最寄り駅であるブーランヴィリエ駅に向った。

 Photo_5RER‐C号線、ヴェルサイユ宮殿や印象派の画家たちが名作を残したアルジャントゥイユ、ポントワーズ方面などへ向う電車で、利用された方も多いと思う。

 名前負けしたような余り早いとも思えない二階建ての高速鉄道、市街地はほぼセーヌ川の南岸に沿って地下を走る。

 途中、サン‐ミッシェル・ノートルダム駅やミュゼ・ドルセー駅、シャン・ド・マルス・トゥール・エッフェル駅など、地名に馴染みがあるものの、舌をかみそうなやたら長い名前の駅を過ぎ、セーヌ川を横切る辺り、エッフェル塔が間近に車窓を横切る。

 ブーランヴィリエ駅を出て西へ。
 
辺りには高級マンションが並び、ブローニュの森へと続く雑木林の公園が広がる。
 そのなかほど、青い幟が慎ましやかに架かる建物が見える、マルモッタン美術館である。

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